|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣 11 天・六道を通しての姿(『往生要集』より) 平成29年2月21日(火) 
- 2017年3月9日
1、天

 天は欲界、色界、無色界の三つの世界に分かれて存在しています(ちなみに、いままでの地獄界から人間界は、すべて欲界に属しています。色界、無色界は天だけの世界です)。天は非常に広大で多くの天に分かれているので、すべてをここで説明することはできません。そこで、一例として、欲界にある六欲天の下から二番目の天、忉利天(帝釈天が治める天。帝釈天配下の三十二天の国もこの中にあるため三十三天とも言います)について説明しています。
 この忉利天は、この上なく快適な世界ですが、この天に住む神々(身長は七千メートル、衣の重さは三.六グラム、寿命は千歳。ただし、この世界の一日は人間界の百年なので、三億六千五百万年になります)が命終に近づくと、五つの衰えが現れてしまいます。一つには、髪飾りの花が枯れてしまいます。二つには、衣が塵や垢に汚れてしまいます。三には、脇の下から汗が出てきます。四には、両目がしばしば瞬きをするようになります。五には、今いる環境が楽しめなくなるのです。
 このような様子が見え始めると、侍女や家来たちは、まるで手に持っていた草を捨てるかのように、皆、何のためらいもなく、天の元を離れて行ってしまうのです。一人になった天は、林の中に倒れ伏して泣きながら嘆くのです。「私はいつの時も、多くの侍女たちを可愛がってあげていたのに、皆一斉に私のことを、まるで草のように見捨てて行ってしまった。今の私は、帰るべきところも頼ることのできる者もいない。このような私を誰が助けてくれるのだろう。帝釈天の城下からもうすぐ消えなければならない。帝釈天に謁見することもできなくなってしまう。城にある美しい宮殿の中を見ることもできなくなり、帝釈天の宝象に乗せていただくことももうないでしょう。城内にある衆車苑を見ることも、麁渋苑で甲冑を着ることも、雑林苑で宴会をすることも、歓喜苑を散策することももうないのです。劫波という大木の下にある白くて柔らかな石に座ることもなく、曼陀枳尼という池の素晴らしく清らかな水で沐浴することもないのです。天に住む者だけが口にできる、四種の甘露の水も二度と飲むことができませんし、五つの音で奏でられる素晴らしい音楽も聞くことはできません。なんと悲しいことでしょう。自分一人でこの苦しみを抱えなければなりません。もしかなうならば、このような私を哀れに思って、僅か数日でもこの命を長らえさせてもらえるのであれば、どれほど嬉しいでしょう。どうか、馬頭山や沃焦海などがある人間界には堕とさないでください」このようにどれだけ嘆き悲しもうとも、誰も救ってはくれないのです(『六波羅蜜経』からの引用です)。
 このような苦しみは、地獄の苦しみよりはるかに辛いものなのです。ですから『正法念経』には「天界から下界に堕ちる時抱く苦しみに比べれば、地獄の苦しみなど一六分の一にも満たないのです」という偈文があるのです。
また、大きな徳を備えた天が現れると、他の天に仕えていた眷属は今までの天を捨てて、その天に仕えるようになります。また権威と徳を備えた天の心にそぐわない者は、宮殿から追い出され、天界から追放されてしまうこともあるのです(『瑜伽論』からの引用です)。
 忉利天以外の五欲天も同じくこの苦の中にあります。色界、無色界はこのようなことはありませんが、いずれは堕ちなければならないという苦はあります。(中略)天界の最高位である非想非非想処の天でさえも、阿鼻地獄に堕ちることさえあるのです。天上界でさえも、生まれたいと願うような世界ではないと知るべきです。

解説
 今までの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人はすべて欲界に属しています。今回の天は欲界・界・無色界の三つの世界にまたがっている世界です。この三つの世界はすべて迷いの世界であって、この中を私たちは流転しているというのが仏教の世界観です。欲界は字の通り欲のある世界です。色界の色は「いろ」ではなく「色即是空」の「しき」で「形があるもの」という意味です。ですから、色界とは欲はないけれども形がある世界、無色界は欲も形もない世界です。このことは、天が非常に広い意味を持っていることを表しています。インド神話の天は人間より強い力を持っていますが欲がありますから色界です。色界の天はそのような欲を持たない天ですし、無色界の天となると、形さえ持たない天です。この天は、法そのものと言っても良いでしょう。ただし、迷いの中にある法です。無色界の最上位にあるという「非想非非想処」は、舎利弗や目連の師であり、釈迦も師事したともいわれている六師外道の一人サンジャヤ・ベーラッティプッタの教えそのものです。このことから、六道の世界とは、単に仏教を求めさせるための方便というだけではなく、人間の様々な心の置き所や有様という意味を持っていることが分かります。ですから六道のことを六趣とも言います。
 『往生要集』では、天の中でも理解しやすい欲界の上から二番目にあるという忉利天だけを引用しています。ここはバラモン教の最高神である帝釈天が治めているという天です。この世界の天は身長が七千メートル、衣の重さが三.六グラム、寿命が三億六千五百万年であるといいます。これほどの長寿でもいずれは尽きる時が来ます。死が近づいて来ると五つの衰えが出てくるとあります。一つには、髪飾りの花が枯れてしまいます。二つには、衣が塵や垢に汚れてしまいます。この二つは、高齢になると身だしなみに気を使わなくなるということでしょう。三つには、脇の下から汗が出てきます。これは高齢になると、落ち着くどころか、物忘れがひどくなったりするせいで、かえって気が動転することが多くなるということです。そして四には、両目がしばしば瞬きをするようになります。これは肉体的な老化現象ですね。最後は、今いる環境が楽しめなくなるのです。これは天についての衰えですが、私たちについても同じことが言えます。これらのことは、どれほどの財力や才能、権力を持ち合わせていても変わることがありません。
 このような様子が見え始めると、侍女や家来たちは、まるで手に持っていた草を何のためらいもなく捨てるかのように、立ち去ってしまうといいます。ここから天の嘆きが始まります。恵まれた環境にあった者ほど、それを失うときの苦しみは大きいのです。ここで天が願うのが、今まで何億年も生きてきたにも拘らず、僅か数日の延命なのです。明日で夏休みが終わるという日の子供のようなものです。『正法念経』にはこの時の苦しみに比べれば、地獄の苦しみなど十六分の一にも満たないというのです。ある意味では、この天は人間の欲望をすべて叶えている世界であると言えます。手に入った欲望の量が多ければ多いほど、それを失った時の苦しみは大きいということです。
 また、大きな徳を備えた天が現れると、眷属は今まで仕えていた天を捨てて、大きな徳を備えた天のもとで仕えるようになるとあります。どれほど高い評価を得ている者であっても、自分以上の者が現れればただの人になってしまうのです。それほどに、周りからの評価によって得られている自信というものは、簡単に壊れてしまうものなのです。これも天に限った話ではありません。
 非想非非想処ほどの法を悟った者でさえも、明日には地獄の心境に堕ちるかもしれません。それほどに、だれも明日の自分を知ることなどできないのです。まして欲界の天など求めても、さらに大きな苦を招くだけであるということを述べているのです。


2、六道を通しての姿

 ここで、六道を通して厭離すべきである理由を述べます。
 この身をいきることは、ただ、苦であることしかないのです。欲にふけっていたり、荒んでいたりしている場合ではありません。老・病・死・無常という大きな人生の山が迫って来て、どこにも逃れることができないのです。それにもかかわらず、多くの衆生は、貪欲や愛欲で心を覆い隠して、眼・耳・鼻・舌・身の五つを喜ばせる欲に深く執着してしまっているのです。続くはずもないことを永遠のものだと思い、楽しくもないことを楽しいことだと思い込んでいます。そのような楽しみは、腫物の膿を洗い流すことや、眼に入ったまつげを取るようなもので、苦しみから一瞬の間、眼をそらしているにすぎません。それどころか、刃に覆われた山や、火のように煮えたぎった熱湯が待つ地獄にさえ堕ちようとしているのです。智慧のある者ならば、この身を宝のように大切にすることなどあろうはずもありません。ですから『正法念経』には、次の様な偈文があるのです。
 智慧のある者が常に憂いを懐いている姿は、まるで牢獄に捕らわれている囚人のようです。愚者が常にこの世を喜び楽しんでいる姿は、光音天(色界にある天で、大きな火災がある時、この天に下界の衆生がすべて集まるといいます。災害が収まると、この天の徳が少ない者から地獄に堕ちていきます)の天のようです。
『宝積経』には次の様な偈文があります。
 様々な悪業によって財産を蓄えようとし、妻子を養育して楽しく暮らしていたとしても、臨終を迎えようという時、どれだけ苦しもうとも、妻子でさえもその苦しみから救うことはできません。三途(地獄・餓鬼・畜生)の世界で受ける恐怖の中では、妻子や知人を識別することはできませんし、この世で蓄えた車や馬や財宝などは、死んでしまえばすべて他人の物になってしまっています。そうなってしまえば、誰も一緒に苦しみを分かち合ってくれるものなどいようはずがありません。父母も兄弟も妻子も友人も使用人も財産も、死んでしまえば一つとして、一緒についてきてくれるものはないのです。ただ、生きてきた中で行った悪業の報いだけがいつまでも常について回るのです。(中略)閻羅人が常に地獄に堕ちた罪人に告げるのです。「私があなたの為した悪業をほんの僅かにも水増しすることなどあり得ません。すべて、おまえが自分でなした悪業の報いとしてここに来たのである。悪業の報いは自分から招いたものであるから、誰も代わって受けることなどできない。父母や妻子であっても無理である。お前にできることは、この苦しみの世界から離れ出るために必要な因を、ひたすら真面目に修することだけである。であるから、この苦しみの世界につなぎとめようとひている悪業を捨てて、厭離すべきものを知り本当に安楽な世界を求めなければならないのである」と。
 また『大集経』には次の様な偈文があります。
 妻子も貴重な宝も王位も、命終の時にはどれも持っていくことはできません。ただ、戒律を守り布施を行い欲に流されない生活をするということだけは、この世だけではなく来世においても常に伴う徳となるのです」と。
 このように因果は巡り、悪業の報いで苦を受け、ただいたずらに生と死を際限なく繰り返してしまうのです。ですから、経の中に次の様な偈文があるのです。
一人の人間が一劫(二垓七千九百三十九京三千七十五兆二千億年)の間に生まれ変わる骨が、もし腐ることなく積み上げたとするならば、その高さは毘布羅山(中インドの王舎城の東北にある山)ほどにもなります。一劫でもこれほどですから、これが無量劫となると想像すらできません。私たちは今まで仏道を修めること無く、いたずらに無量劫の時を過ごしてきました。今思い立って仏道を歩むことを始めなければ、未来永劫同じことを繰り返すだけです。生死を繰り返す中で、人間として生まれることは非常に難しいことです。たとえ人間として生まれても、五体満足であることは当たり前のことではありません。もし五体満足で生まれても仏教と出会うことができるというのは難しいことです。仏教と出会えたとしても信心を得ることはさらに難しいのです。ですから『大般涅槃経』に「人として生まれることは爪の上にある土のような僅かな可能性でしかありません。それに対して、三途に堕ちる者は十方にある土のように、避けようがないほどの可能性なのです」と説かれています。
 『法華経』には次の様な偈文があります。
 無量無数劫を生きる間にも、仏教を聞くことは難しいことです。さらにこの教えを聴くという人は稀なことでしかありません。
 そうであるにも関わらず、私たちは偶然にも仏教を聞くご縁をいただきました。この苦しい世界を離れて浄土に往生できるのは、今を置いて他にはありえないことを知るべきです。ところが、私たちは年老いて髪が白くなっても、心は欲の塵に染まったままです。一生を終わろうというときでさえ、叶うことのない欲望が尽きることはありません。
 とうとう、火に照らされた世界から、独り暗闇の世界に堕ちることになってしまえば、数百由旬(一由旬は七キロメートル)にも及ぶ猛火の大穴の中で、どれだけ天に向かって叫ぼうが大地を叩こうが何の役にも立ちません。叶うことならば、すべての仏教に縁を結ぶことができた者が、今すぐにでもこの世を厭う心を起こして、この苦の世界を出離する教えに従いなさい。せっかく宝の山に入ったのですから、空手で帰ることが無いことを願っています。

解説
 ここで源信僧都は、六道を通して伝えかったことを述べています。それは、この身を生きることが苦であることに気が付き、一刻も早く仏教に生きる道を尋ねる気持ちを起こして欲しいということです。元々、仏教は耳に心地よい教えではありません。知らないからといって生活が成り立たないものでもありません。ですから、日々の享楽に心を奪われていると、いつの間にか歳を重ねてしまうことになります。しかし、どのような楽しみも永遠に続くものではありません。多少の不安は一時の快楽でごまかすことができます。このようなやり方を「腫物の膿を洗い流す」「眼に入ったまつげを取る」ようなものだと言っています。不安の原因を解決しないまま、その場限りの快楽で気を紛らわさせていたのでは、いずれ行き詰ってしまいことになります。さらに、悪業を重ねていては地獄に堕ちるということになれば、真剣に仏教を学ばないわけにはいかないはずだということです。これは、方便としての脅しです。ここまで驚かせない限り、仏教を学ぼうという気にならない者が多いということでしょう。
 親族も財宝も地位も死に際しては持っていくことができないという一方、閻羅人の言葉を借りて、悪業の報いだけは死後も無くなるものんではないことを説いています。実際、一人の人間が行った悪業は、その人だけではなく、その人が死んだ後も孫子の代まで言われ続けます。逆に『大集経』からの引用を用いて、その人が積んだ徳も、その人だけではなく孫子の代まで称えられることになることを説いています。自分の行為は自己完結することなく、後世にまで影響を与えるのです。それだけに、自らの行為には気を付けなければばらないのです。
 最後には、どれほど多くの人生を繰り返そうとも、仏教に出会えることなど極めて稀なことであるのだから、出会った者は、決して先送りすることなく、今すぐにでも教えに身をゆだねることを勧めています。『法華経』の火宅の例えにもありますように、相手の関心に合わせて、結果として仏教に目を向かせるための教えがこの六道の譬喩なのでしょう。






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