|『正信偈』学習会|仏教入門講座
仏言広大勝解者 是人名分陀利華 平成29年7月18日(火)
- 2017年9月16日
 この文は、前回のところで、阿弥陀如来の弘誓願を聞き信ずる心が獲られた人を、お釈迦様が褒め称えているところです。「広大勝解者」とは、親鸞聖人が『教行信証』信巻で「真仏弟子」とは何かということを釈しているところに『無量寿如来会』という『仏説無量寿経』の異訳の経典から引用している言葉です。「分陀利華」も同じく「真仏弟子」釈のところに『仏説観無量寿経』からの引用として書かれています。つまりこの二つは親鸞聖人にとって「真仏弟子」とはどのような存在なのかを示す言葉です。
 親鸞聖人が信巻の「真仏弟子」釈で最初に引用しているのは『仏説無量寿経』の「触光柔軟之願」(もしくは「摂取不捨之願」)と呼ばれる本願文です。これは、阿弥陀如来の智慧に触れた者は、いかなる人や天よりも身も心も柔らかくなるというものです。この本願文には「摂取不捨」という言葉はありません。「摂取不捨」とは『仏説観無量寿経』に書かれている言葉で「阿弥陀仏の智慧は遍く十方世界を照らし、すべての念仏する衆生を摂取して、決して見捨てたりはしない」という意味です。親鸞聖人はこの本願文に、阿弥陀の智慧に触れた者が獲ることができる功徳をご覧になったのでしょう。
 次に「聞名得忍之願」が引かれています。これは、阿弥陀如来の名を聞いた者が、菩薩の境地である「一切のものは生まれることも滅することもない」という万物に通じる人間の知識を超えた智慧を得るということです。この智慧を得ることで身も心も柔らかくなるのでしょう。
 続いて『無量寿如来会』にある「触光柔軟之願」を引用しています。この経典では、いかなる人や天よりも身も心も安楽になる、となっています。わざわざ、異訳から引用したのは、こちらの訳にある「安楽になる」の方が「柔らかくなる」より、親鸞聖人にはしっくり来たからでしょう。これが「真仏弟子」である証拠になります。この「真仏弟子」の姿をさらに五つ続けます。
 まずは『仏説無量寿経』からの引用で「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が親友なり」です。「真仏弟子」は聞いた法を忘れることなく、阿弥陀仏に出会い、敬い、慶びに満ちているからこそ、私の親友とよべるのです」とお釈迦様に告げられるというものです。これは、お釈迦様が私たちに求めている姿なのでしょう。その願いに答えるからこそ親友であり「真仏弟子」なのです。
 次は同じく『仏説無量寿経』からの引用で「それ至心ありて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝を得べし」です。心から阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うだけで、如来の智慧に達して、何事にも勝る功徳を得る、ということです。念仏は現実逃避ではなく、逆に現実を明らかに知ることなのです。
 その次が『無量寿如来会』から引用の「広大勝解者」です。「広大」は「甚深広大」の略です。深いの反対は浅いです。「浅知恵」と言いますが「浅い」とは底が見えているということですから、耳を傾けるに値しない内容であるということです。逆に「深い」とは、聞いたところに何かしらの感動が生まれるような内容であるということです。言われてみれば、確かにそうだというということは、気がつかなかった道理がそこにあるということです。「広大」とは広いと大きいということですが、広いという事は誰にでも通用する事です。自分だけの経験から得た知恵は狭いのです。私だけにしか理解できない、私以外には当てはまらないということです。学ぶとは多くの人から知恵を借りるということです。ですから「広大勝解者」とは、自分の経験でものを語らず、先人たちからの智慧をよく理解している者、ということになります。念仏の教えは、お釈迦様以来の無数の仏弟子たちの真剣な歩みの結晶です。それは、自分が煩悩成就の凡夫であると知らされ、そこにしか本当に自分の人生を喜んで引き受ける道がないと頷くということです。お蔭様という言葉が自然と口から出る生き方です。
 次は同じく『無量寿如来会』から引用で「かくのごとき等の類、大威徳の者、よく広大仏法異門に生まる」です。ここの部分を親鸞聖人は信巻の最初の方にも引用していますから、大切にしていらしたのでしょう。ここにある「異門」という言葉が目を引きます。「門」とは仏教を歩む道の入り口です。「異門」があるということは「正門」があるということです。大乗仏教の「正門」と言えば、菩薩が歩む「聖道門」です。それに対して、念仏者が歩む道は「浄土門」と言われます。この経典には「浄土門」という言葉はありませんが、親鸞聖人は「異門」の中にそれを感じ取られたのでしょう。門が違っても行きつくところは同じです。しかし、長い間、念仏は仏教の中で傍流であり、補助的な歩みであり、仏教を歩むことができないもののための慰めでした。しかし、念仏も間違えなく正当な仏教であるということを、親鸞聖人はここで示したかったのです。
 最後が『仏説観無量寿経』からの引用で「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」です。「分陀利華」とは白い蓮華のことで、青・黄・赤・白の四色ある蓮華の中で最も高貴な色とされています。蓮華は仏教で最も大切にされている花です。ですから、仏像は必ず蓮華の上に立っています。高原に咲く花も清らかだけれども、清らかな場所に咲いているから当たり前です。蓮華と言うのは泥の中に咲きながら美しい花を咲かせるから清らさが違うのです。その中でも最も高貴な白い蓮華は、白蓮華とも妙法蓮華とも言いわれる、最も希少な華です。念仏者は、まさにこの白蓮華のように希少で高貴な存在だというのです。この『観無量寿経』で、念仏を勧められているのは下品の者だけです。自分が下品の者であると気づかされた者こそが「分陀利華」です。『仏説観無量寿経』によって浄土教を明らかにした善導は、上品も中品も下品も、その人の素養ではなく、単に縁によって分かれただけであると頷きました。自分の至らなさに気づくことができるのは、下品の縁にあった者です。親鸞聖人も法然上人も、この縁に遇えたお蔭で念仏に帰すことができたのです。






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