|『正信偈』学習会|仏教入門講座
惑染凡夫信心發 證知生死即涅槃 令和元年5月20日(火)
- 2019年10月16日
 「惑染」とありますが、仏教で「惑」は「煩悩」を意味しています。「染」は「染まる」ということですから「煩悩に染まる」ということです。「煩悩」を表現する時に「煩悩を具足する」もしくは「煩悩に染まる」という言い方をします。「具足」というのは「常に備えている」という意味です。ですから「煩悩具足の凡夫」という言い方は「常に煩悩を備えている凡夫」ということです。「煩悩」を「欲望」と理解している方もいますが、そうではありません。「欲望」はその時々に合わせて起こるものですが「煩悩」は常に離れることがないものです。「憎しみ」や「妬み」といったものも「煩悩」とされることがありますが、その様な感情をおこす原因として、常に私を惑わし続けているものこそが「煩悩」の本質です。曇鸞大士は『浄土論註』で「煩悩成就」と言いますが、これは私の中で煩悩が完成しており、私そのものになっているということです。「染」は「布を染める」というように、本来とは違う色になってしまっているという事です。ですから「煩悩に染まっている」とい事は、本質がどうであれ、煩悩と一体化しているという事です。これを凡夫といいます。
 例えば、曇った眼鏡をかけていては、どれだけ目を凝らしても前が良く見えないことと同じです。仏教では今の時代を末代や末法といいますが、これはどれほど能力があろうが、真剣に取り組もうが、周りが見えない状況での中では目的にまっすぐ向かって歩むことが出来ない時代であるということです。失敗や過ちを犯すのは、その人の能力や努力に問題があるのではなく、私を含めすべての人が明確な目標を維持することが出来ないからです。そのために、誰もが小さな過ち、小さな嘘、小さなごまかしを繰り返すことになり、それがいつの間にか大きな問題になってしまうのです。欲望とは抑えることが出来るものですが、煩悩は自分の意志で消すことが出来ないものなのです。消すことが出来れば「染」とは言いません。その人の今の環境が「煩悩」の影響を強く受けるのか受けないのかの違いです。「良いことをする人」と「悪いことをする人」はいますが「善い人」や「悪い人」はいないのです。いるのは「凡夫」だけなのです。このような人間理解があったからこそ、親鸞聖人も法然上人も上から人を見ることなく、誰の横にでも立つことが出来たのです。
 信心と信仰とは全く意味が違います。信仰とは仰ぎ信じるのですから、自分を超えた存在を疑うことなく受け入れるということで、原始仏教のころから仏教が否定していたありかたです。これに対して信心とは「自分の内にある心を信じる」のです。ですから「信知」ともいいます。和讃には次のようにあります。

 本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ

「本願」は浄土教の阿弥陀仏の本願です。「円頓」は欠けることなく速やかである「一乗」はすべての人が等しく救われるということです。このような教えである浄土教は、最も救われることのない存在である「逆悪」さえも救うということを「信知」したというのです。これは、私も「惑染凡夫」の一人であるということを知ったということです。すると「煩悩」を持った私が、今のままで「さとり」(菩提)を得たことと同じ状態になっていることに気が付いた、という和讃です。これを知らしめたのが「仏心」である阿弥陀如来です。この「仏心」を信じることが「信心」となります。「信心を得る」とは、この「信知」を得るということです。
 
 このことが、次の「證知生死即涅槃」となります。親鸞聖人は『入出二門偈頌』に「煩悩成就せる凡夫人、煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり」とおっしゃっています。「生死」とは「生きざま」の事です。産まれてから死ぬまで常に「煩悩」と共に生きるということに頷いた者が「凡夫」です。「煩悩」を抱えたまま「涅槃」を得るということです。なぜならば「凡夫」であるという頷きの中に「安楽」が見出されたからです。これを「自然の徳」とおっしゃっています。これは理屈ではなくこの身に起こった事実です。信知は教えによって知らされたということですが、これはこの身に証明されたことであるため「證知」といいます。理想郷としての浄土ではなく、凡夫が作っている娑婆としての浄土です。この一見矛盾していることが、この身に起こっていることを「不可思議」といまが、これも阿弥陀如来の別名である「不可思議光如来」となっています。






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