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平安仏教1 平安仏教の特色-

- 2020年12月9日

1、 平城京から長岡京への遷都 - 南都大寺の抑制策 -


 称徳天皇(718-770)の死去により元正(げんしょう)天皇(680-748)以来55年続いた天武天皇系の後継者が途絶え、天智天皇系の光(こう)仁(にん)天皇(709-782)が62歳で即位した。これは聖武天皇(701–756)の娘で称徳天皇の姉妹である井上内親王(717-775)と光仁天皇の子である他(おさ)戸(べ)親王(761?-775)が成人するまでの橋渡し的な即位であったと考えられている。しかし、天皇を呪詛した罪により井上内親王と他戸王は廃位となり、さらに光仁天皇の姉である難波(なにわ)内親王(生年不詳-773)を呪殺した罪で幽閉され、二人は同じ日に死去した。これにより、天武天皇系の天皇によって優遇されてきた仏教を取り巻く環境は大きく変化することになる。
 光仁天皇は、道鏡によって起きた政治的な混乱を繰り返さないため、宝亀3年(772)に宮中の仏事は10人の僧尼(十禅師、後の内供奉(ないぐぶ)十禅師 )によって行うことを決める。さらに宮中での僧尼の影響力を弱めるために、仏教法要を整理縮小させたが、飢饉や疫病が続いたことで批判を受けてしまう。この不満を抑えるため宝亀5年(774)に、すべての国民が『般若波羅蜜経』を読誦するようにとの詔を出している。特に役人は公務の間も常に念誦することが義務付けられた。僧尼に対しては呪術的利益より学問的な成果を求めた。宝亀7年(776)に出された「東大寺六宗未決義」は、南都六宗の僧尼たちが経典上の不明確な部分を列挙し、それを東大寺大修多羅衆が統括し上申したもので、これらの疑問点は遣唐使によって「唐決」が仰がれている。唐の仏教界では玄奘以降学説を重視する傾向が強くなっていたが、日本の学僧たちもこの影響を受けることになった。宝亀10年(779)には僧尼の本籍と諸寺の名帳を照合して、僧尼であることを偽っていた者を罰し、また国分寺僧尼であるにもかかわらず京に住んでいた者を本国に送還することで、僧尼の乱れを正している。光仁天皇は、寺院建立や僧尼に対する出費でひっ迫していた財政の再建に取り組んだが、宝亀11年(780)に陸奥で蝦夷の反乱が起こると、翌年皇位を山部親王に譲り間もなく死去した。
 光仁天皇の後に即位した桓武天皇(737–806)は、母の高野(たかのの)新笠(にいがさ)(生年不詳-790)が百済系渡来人氏族である和(やまと)氏(うじ)の出身であることから 、長男ではあったが親王にはなれず臣下として官僚(大学頭(だいがくのかみ)や侍従)となっていた。同母弟も東大寺の僧侶となり親王禅師と呼ばれていた。父の即位後に貴族に任じられたものの、やはり親王にはなれなかったが、他戸王の廃位によって皇太子(山部親王)となり45歳で天皇を継ぐことになる。親王禅師も還俗し早良(さわら)親王(750?-785)となり皇太弟に就く。桓武天皇誕生に尽力した藤原百川(ももかわ) (732-779)の兄藤原良継(716-777)の娘藤原乙牟漏(おとむろ)(760–790)が皇后となり安(あ)殿(て)親王(774-824。後の平城(へいぜい)天皇)と神野(かみの)親王(786-842。後の嵯峨天皇)が生まれている。また、百川の娘で良継の外孫でもある藤原旅子(759-788)との間には大伴親王(786- 840。後の淳和(じゅんな)天皇)が生まれた。他戸親王の実姉(桓武天皇の異母妹にあたる)である酒人内親王(754-829)との間に生まれた朝原内親王(779–817)は安殿親王の妃となっている 。
 桓武天皇の即位後も氷(ひ)上(がみ)川継が乱をおこすなど政権は不安定な状態が続いた。権力基盤強化のために、藤原浜成(724-790)や大伴家持(718-785)などの有力者が次々と左遷されている。天応2年(782)には宮殿や寺院の造営を禁止し貨幣の鋳造も控えて倹約に勤めるようにという「冗官整理の詔」を出している。これにより法華寺の造営と補修に当たっていた役所は廃止され、東大寺などの有力寺院の経済基盤も縮小された。東大寺写経所での一切経写経事業や宮中での「読一切経所」も停止となった。延暦2年(783)には国分寺僧尼の欠員補充に規制を設けられ、寺院の田宅園地施入売買や高利貸しが禁止され、翌延暦3年(784)には山林の所有も禁じられた。
 さらに延暦3年(784)には大寺院や豪族の影響力を一気に排除するために、藤原種継に命じて山背国長岡への遷都が行われた。これには反発も大きく、延暦4年(785)に皇女が伊勢神宮の斎(いつきの)皇女(ひめみこ)となるのを見送るために桓武天皇が長岡京を離れた時に、藤原種継が暗殺されてしまう。これに激怒した桓武天皇は、大伴継人など数十人を死罪や流罪とした。また、かつて僧侶であったことから南都諸宗と懇意であった皇太弟の早良親王もこの暗殺に加担した疑いにより廃位となり乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。早良親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死してしまう。早良親王に代わって皇太子となった桓武天皇の皇子安殿親王の発病に始まり、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子、女官坂上又子(生年不詳-790。坂上田村麻呂の兄弟)、母高野新笠が相次いで病死するなど、京畿に住む30歳以下の男女がことごと罹患したといわれるほど痘瘡が大流行した。さらに建設途中の長岡京が洪水に襲われため陰陽師に占わせたところ、早良親王の御(ご)霊(りょう)の祟りであると告げられる。これ以降、幾度となく鎮魂の儀式が執り行われることになる。
 延暦8年(789)には、蝦夷の反乱を抑えるために大軍を送ったが惨敗に終わる 。そこで、農民の負担を軽減するために、班田農民で組織していた律令軍団制にかえて、地方豪族や有力農民によって組織された健(こん)児(でい)制 を採用している。
長岡京への遷都後に起こったこれらすべての原因が、自分に徳や資格がないためであると民衆に判断されるのを恐れた桓武天皇は、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言を受けて、延暦12年(793)に長岡京の工事を中止し建物を解体すると、四神相応の土地相より長岡京から艮(うしとら)方位(東北)に当たる場所へ運び、再び遷都することを決めた。

2、 平安京への遷都 - 最澄の台頭 -


 延暦13年(794)に大伴弟(おと)麻呂(まろ)(731-809。記録上最初の征夷大将軍)が蝦夷討伐で勝利を収めると、この勢いを受けて、桓武天皇は延暦13年(794年)に山背国を山城国と改め平安京への遷都を行っている。平安京には左京と右京に東寺と西寺を配置し、それ以外の寺は洛内には認めないこととし、奈良の寺院は移転させなかった。遷都して間もない延暦16年(797年)には六(りっ)国史(こくし) の一つに数えられている勅撰史書『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』が菅野(すがの)真(ま)道(みち)(741-814)らによって完成している。
 順調に思われた平安遷都であったが、早良親王の祟りに対する恐れを払拭することは出来なかった。延暦16年(797)に最澄(768-822)が内供奉十禅師に加えられられたのも怨霊を鎮めるためであると考えられる。延暦19年(800年)には早良親王は崇道天皇と追称され、廟所である淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣して陳謝し墓守がおかれた。さらに、延暦24年(805)には遺骸を大和国に移葬(奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている)している
 延暦17年(798)には、年分度者の基準を抜本的に改正している。得度の年齢を35歳以上とし、読経だけでは不十分であるとして「大義十条」とされた10項目の仏教教義問題のうち5つ、授さらに受戒には8つ以上の合格が求められた。さらにこの年、藤原園人を南都に派遣して直接僧尼の濫行を検察させた。これによって多くの僧尼が還俗を余儀なくされている。また、法性宗は解体され唯識だけを扱う法相宗となり、法性宗が担っていた天台教学と密教教学は、新宗として承認された最澄の天台宗が担当することになった。最も求められていた密教を天台宗が担当することになったことで、実質的に南都諸宗よりも上位に立つことになった。
 延暦20年(801年)に前回の遠征で補佐役として活躍した坂上田村麻呂(758-811)を征夷大将軍に抜擢して3回目の蝦夷討伐軍を送り、延暦21年(802年)に田村麻呂が阿弖流爲ら500人の蝦夷を捕らえ京に護送し、延暦22年(803年)に志波(しわ)城(現在の岩手県盛岡市)を築いたことで蝦夷の反乱は一旦収束する。延暦24年(805年)には、平安京の造作と度重なる蝦夷への遠征により民が苦しんでいるとの藤原緒(お)嗣(つぐ)(774-843。百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断を決意している(徳政相論)。
 延暦25年(806年)に桓武天皇が死去すると平城天皇が即位し、弟の神野親王が皇太弟となった。しかし大同2年(807年)に平城天皇の異母弟である伊予親王(783?-807)が謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど宮廷内部での権力闘争は続いた。大同4年(809年)に、平城天皇は自身の発病が早良親王や伊予親王の祟りによるものと考え譲位し、神野親王が即位し嵯峨天皇となる。皇太子には平城天皇の三男である高岳(たかおか)親王(799-865?。後に出家し空海の弟子となった)が立てられた。最澄はこの年に桓武天皇の追善と早良親王などの怨霊の鎮魂のために『法華経』の長講を「未来際」にわたって実施することを宣言している。

3、 平安京遷都後の南都諸宗


 平安時代初頭、南都諸宗の中では法相宗が最盛期を迎えていた。延暦17年(798)の太政官符には「此来所有の仏子、偏に法相に務め、三論に至っては多くその業を廃す」と法相宗が三論宗を圧倒していることを記している。善珠(723-797)は唯識学の権威でありながら清潔高雅の人として桓武天皇から篤い尊信をうけていた。玄(げん)賓(ぴん)(737-818)は超脱の清僧として知られ、桓武天皇からの律師、嵯峨天皇からの大僧都への任をいずれも固辞し、備中の山中に隠遁して余生を送った。修円(749-834)は空海(774-835)から最澄にあてた書簡に「私とあなたと修円の三人で仏教の発展を協議したい」とあるほどの碩学であった。最澄と「三一権実の論争」 を行った徳一(とくいつ)(生年不詳-843)は修円の弟子である。法相系の自然智宗では護命(750-834)は大僧正として最澄との大戒論争を行っている。
 延暦25年(806)には年分度者の定員を毎年12人とし、宗ごとの試験の実施と各宗の人数配分、各宗の分度者が習得すべき基礎経典の設定、竪義複講や諸国講師の任命に際しては、本業十条と戒律二条に通暁すべきことを課している。この中で『成実論』は三論宗の修学に『俱舎論』は法相宗の修学に付随するものと規定されていることから、成実宗と倶舎宗は実質的に三論宗と法相宗に吸収されていることが分かる。また、年分度者2人を配分された律宗は、基礎経典を『梵網経』または『瑜伽声聞地』とされたが、これらはいずれも法性宗の基礎経典であった。これは、小乗系の律経典を担当していた律宗が、大乗系の律経典も含むように再編されたことを意味する。さらに、南都六宗以外に天台宗にも2人の定員が割り当てられている。これは、六宗すべてを学ぶことが前提であった僧尼の学問の在り方が、各宗それぞれに学問を分担する宗派僧尼の形へ移行していったことを表している。
 天台・真言の北京二宗と対抗した南都六宗も9世紀中頃になると衰退の色を濃くしていく。国からの援助が細る中、経済援助を貴族に求めて貴族の子弟を門跡や別当といった私房に迎え入れるようになった。教義的には、三論宗がいち早く空海に接近していった。勤(きん)操(ぞう)(758-827)は少僧都兼東寺別当にも任じられている三論を代表する学僧であったが、一説には空海の出家の師であるともされており、後に高尾山寺に入壇し空海から両部灌頂を受けている。空海は他の南都諸宗にも接近し、貴族化する各寺はこれを受け入れ、法相宗までもが密教化することになる。

4、 空海による真言宗への宗教・宗派の「包摂」


 平城天皇は嵯峨天皇に譲位した年の12月に平城京へ移ると、嵯峨天皇と対立するようになる(二所朝廷)。翌年、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出すと、嵯峨天皇はこれを拒否し、平城天皇の側近たちを次々と左遷する。これに激怒した平城上皇は自ら東国に赴き挙兵することを決断した。この動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。上皇の側近であった藤原仲成(764-810)は射殺され、藤原薬子(生年不詳-810)は服毒自殺し、上皇と高岳(たかおか)親王は共に廃位となり出家することになった(平城(へいぜい)太上(だいじょう)天皇(てんのう)の変または薬子(くすこ)の変)。これにより、平城天皇と即位前から懇意にしていた最澄は政治的な後ろ盾を失うことになる。更に『梵網経』にもとづく大乗戒壇を設立することを求めていたことから南都諸宗と対立していたため、畿内での基盤を失い東国への布教活動に乗り出す。ここで築いた東国の地盤が後に天台宗復活の礎となる。
 嵯峨天皇の後を継いだ淳和天皇は、天長7年(830)に天武天皇が天智系の持統皇后のために建立した寺であるという理由から、毎年薬師寺で『最勝王経』の講説法会を実施することが決めている。これによって薬師寺は、天智・天武両系を包含した王家の氏寺となった。
 同じく天長7年(830)に天皇が諸宗に対して各々の宗義の提出を求めた勅に応じて『天長六本宗書』が出されている。提出したのは華厳・法相・三論・倶舎・天台・真言の六宗である。これは各宗の専門化を促すことを目的としたものであったが、一方で各宗の対立をも招くことになりかねなかった。これを防ぐために用いられたのが嵯峨天皇と懇意にしていた空海であった。
 唐で密教を学び帰国した空海は、伊予親王と繋がりが深ったことから平城天皇から敬遠されていた。しかし、嵯峨天皇を筆頭とした宮廷の文人貴族らと、詩文の交換などで幅広く交流を持っていたため、最澄に代わって宮中で重用されるようになる。弘仁14年(823)には、それまで宗派が無かった東寺に真言僧50人を配置することが決まった(『類衆三代格』)。天長4年(827)には大僧都となり、承和元年(834)には宮中に真言院の設立が認められた。最澄は密教を担当したものの専門ではなかったために宮中の要望に十分に応えることができなかった。しかし、空海は法性宗が担当していた密教系経典に、自らが唐から将来した新訳系経典群を合せることで、これに応えてみせたのである。
 空海は多くの著書を残しているが『秘密曼荼羅十住心論』では、宗教的な信心を10の等級に分けて 、膨大な経典類を用いてあらゆる宗教・宗派を真言宗に「包摂」している。これは真言宗の優位性を主張しものであるが、空海は南都諸宗と対立することなく友好的な関係を築くことに成功している。特に東大寺とは親密な関係を保ち、東大寺境内に東大寺真言院を建立し南都の拠点とした。また、天長元年(824)には高尾山に八幡神を祀る神護国祚(そ)真言寺が作られ、真言宗の神仏習合策の中心となった。このような融和策は単なる方便ではなく、空海のあらゆる存在の本質は大日如来と一つであるという密教的な如来蔵思想に基づいたものである。空海が高野山に金剛峯寺を建立した折に、十方諸仏・諸天・天神地祇・地水火風空の諸鬼に祈願しているのもこのためである。南都諸宗や諸神祇とも良好な関係を保つ空海の在り方を宮中は歓迎し、真言宗を中心とした八宗の僧尼による宮中法会が盛んに行われるようになる。これらの法会は固定化され年中行事となり、政治体制に組み込まれていく。

5、 摂関政治と貴族仏教の誕生


 最澄と空海が逝去した後、王権は天皇から藤原良房(804-872)・基経(836-891)による前期摂関政治へと移行する。天安元年(857)に藤原良房が太政大臣に任ぜられた翌年、文(もん)徳(とく)天皇(827-858)の崩御に伴い9歳の清和天皇(850-881)が即位した 。藤原良房は幼帝の代わりに摂行し、貞観8年(866)には正式に摂政となる。藤原基経 は陽(よう)成(ぜい)天皇 (869-949)の摂政、宇多天皇(867-931)の関白となり、天皇幼少の間は摂政、元服後は関白として天皇の代わりに政治の実権を握る慣例が出来た。藤原基経の死後、宇多天皇の下で勢力を拡大させていた菅原道真(845-903)が延喜元年(901)に太宰府に左遷され、藤原氏の対抗勢力であった源高明(914-983)らが太宰権(ごんの)帥(そち)とされた(安和の変)ことにより、藤原摂関家に対抗する者はいなくなった。
 奈良時代には王家と有力氏族が律令的な身分制度によって権力を分割してきたが、摂関政治では摂関家との個人的なつながりが権力を持つために最も重要な要素になった。これにより従来の有力氏族は次々と没落し、摂関家とつながりを持ちたい地方豪族から、膨大な荘園が摂関家に寄進されることになる。荘園が増加したことで、政府直属の公領が減少したため、律令制が維持できなくなった。これにより中・下層貴族が経済的な困窮に陥いり、国からの資金で運営していた南都諸宗などの寺院(定(じょう)額(がく)寺(じ))も衰退することになった。代わって摂関家をはじめとする有力貴族から寄進された荘園を経済基盤とする寺(御願寺)が主流となっていった。この頃、一旦衰退していた天台宗は、円仁・円珍が相次いで入唐し、持ち帰った密教や念仏によって摂関家と強力な関係を作ることに成功した。これ以降、天台宗は摂関家の子弟を受け入れることで主導権を握ることになる。天台宗は法隆寺・四天王寺などの南都の大寺を影響下に取り入れると、さらに全国の寺院・神宮寺の人事権までも掌握していく。教学的には、基本を天台宗に置きながらも、滅罪と鎮魂のための念仏と、空海の真言宗を批判しながら独自の体系を形成した天台密教(台密)により、様々な要望に応える宗派へと変貌していった。特に台密は、空海の如来蔵思想に代わって、すべての宗教を「包摂」する教学で「国土草木」までも仏性を有しており成仏することが出来るという教義である。この思想は、やがて日本独自の「天台本覚門」思想として結実する。これは、あらゆるものは、そのあるがままで仏であるという究極的な現状肯定・翼賛思想であり、ここから本地垂迹説や中世神国思想などが生まれることになる。
 10世紀後半、良源(912-985)が第十八代天台座主となったころ、延暦寺は三千もの僧を抱え絶頂期をむかえることになる。良源は学僧としも一流であったが、経営的な手腕の方が際立っていた。摂関家の藤原師(もろ)輔(すけ)(909-960)から莫大な寄進を受け、代わりに師輔の子である尋(じん)禅(ぜん)(943-990)を横川妙香院の住房として迎えている。妙香院には摂関家から多くの荘園が施入され、良源の死後、尋禅は多くの先輩僧侶を超えて天台座主となった。これ以降、有力貴族の子弟を多く迎え入れ優遇する代わりに要職は特権階級出身者が独占するという寺院の貴族化が始まることになる。






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