|日本仏教史|?????

平安仏教2 日本天台宗‐

- 2020年12月9日

1、 最澄


 最澄(766-822)は近江国滋賀郡(滋賀県大津市坂本の一帯)を勢力範囲としていた帰化人三(み)津(つ)氏 の出身である。宝亀11年(780)に14歳で得度し沙弥となり、延暦4年(785)に19歳で東大寺の戒壇院で具足戒を受けて比丘となった。最澄はその年から12年間、一族ゆかりの日枝神社のある日(ひ)枝(えの)山(やま)(比叡山)に自刻の薬師如来を本尊とする一乗止観院(後の根本中堂)を建て山岳修行を行っている。この時の「願文」がこれである。

 悠々(ゆうゆう)たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きこと無く、擾々(じょうじょう)たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以(しかのみなら)ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝(さら)し、土室闇く狭しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻(あおぎ)、己を省みるに此の理必定せり。
 仙丸未だ服さざれば遊魂留め難く、命通未だ得ざれば死辰何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きは其れ人身なり。発し難くして忘れ易きは斯れ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩(ゆ)況(きょう)し、古賢禹王 は、一寸の陰・半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐるを歎(たん)勧(かん)せり。因無くして果を得る、是処(ここ)有ること無く、善無くして苦を免るる、是処有ること無し。
 伏して己が行迹(ぎょうせき)を尋ね思うに、無戒にして窃(ひそ)かに四事の労を受け、愚痴にして亦四生の怨と成る。是の故に、『未曽有因縁経』に云く、「施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入る」と。提韋女人の四事の供は末利夫人の福と表れ、貪著利養の五衆の果は、石女担輿の罪と顕る。明らかなる哉、善悪の因果、誰か有慙の人にして、此の典を信ぜざらん。然れば則ち、苦因を知りて而も苦果を畏れざるを釈尊は闡提と遮(しゃ)したまい、人身を得て徒に善業を作さざるを聖教に空手と嘖めたまう。
 是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵(じん)禿(とく) の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕(か)く。
 謹みて迷狂の心に随い三二の願を発こす。無所得を以て方便と為し、無上第一義の為に金剛不壊不退の心願を発こす。
 我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還(このかた)出仮せじ。其の一。
 未だ理を照らすの心を得ざるより以還才芸あらじ。其の二。
 未だ浄戒を具足することを得ざるより以還檀主の法会に預からじ。其の三。
 未だ般若の心を得ざるより以還世間の人事の縁務に著(つ)かじ。相似の位を除く。其の四。
 三際の中間に修する所の功徳は独り己が身に受けず、普く有識に回施して悉く皆無上菩提を得せしめん。其の五。
 伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り法界の衆生と同じく妙味も服せん。
 若し此の願力に依りて六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願くば、必ず今生無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界を旋り、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さん。

 ここで自らを「極愚」「極狂」と述べているが、この意味を最澄は『天台小止観』に「ひとえに禅定福徳を修して智慧を学せざるは、これを名づけて愚といい、ひとえに知慧を学して禅定福徳を修せざるは、これを名づけて狂という」と記している。
 最澄は、日枝山での修行を終えた延暦16年(797)に内供奉十禅師に任ぜられている。天台宗とは隋代の智顗(538-597)によって大成された宗で、龍樹系中観思想を『法華経』からの視座で捕らえた極めて実践的なものである。最澄は一切衆生の救済を説く天台宗に仏教の本質を見たのである。日枝山での12年の間、最澄は貴族や南都諸宗の僧に奈良仏教の問題点を指摘し続けていたと考えられる。内供奉十禅師に任じられたのはその成果であろう。翌延暦17年(798)からは毎年一乗止観院で「法華十講」を開いている。これは『妙法蓮華経』8巻に『無量義経』と『観普賢菩薩行法経』を合せた10巻を、10人がひとり一巻ずつ受け持って連講するというものである。延暦20年(801)には、南都の高僧10人を招聘してこの講を行っている。延暦21年(802)には和気清麻呂が宇佐八幡の神託によって創建した高尾山寺(現在の神護寺)で、南都諸宗の高僧と最澄により天台智顗の教えを尋ねる法会が開かれ、これに桓武天皇と安殿親王が賛辞を送っている。これは最澄が天台宗の重要性を認識させた成果である。この成果を受けて、最澄は伝えられている天台宗の経論に誤字や行脱が多く、また直接教えを受けなければ解らないこともあるとして、留学生(るがくしょう)と還(げん)学生(がくしょう) を一人ずつ唐に送ることを天皇に求めたのである。これにより、円基と妙澄の二人が留学生に、最澄が還学生に、義真が訳語僧に任命された。
 最澄が肥前から唐に向かったのは延暦23年(804)7月6日であった。9月に明州に着くと、10月には天台山 に到着している。智顗の後、唐代に玄奘が新訳の経典を持ち込んだことで、天台宗は古い仏教と見なされ衰退していたが、この時期、湛(たん)然(ぜん)(711-782)の活躍で江南地方を中心に復興し始めていた。天台山で多くの経論を受け取ると、11月には山を降り天台宗第七祖ともいわれている龍興寺の道邃(どうすい)のもとで天台教学を学んだ。翌年3月に道邃から大乗菩薩戒を受けると、同月には帰国のため明州に戻っている。ここで風待ちをしている間に、越州に赴き竜興寺で密教を学び230部460巻の教論と共に6月には8か月半の旅を終えて帰国している。帰国した最澄を待っていたのは病に侵された桓武天皇であった。病気の天皇にとって必要なのは天台ではなく密教であった。直ちに「最澄闍梨」に対して「諸寺の智行兼備の者」に「灌頂 三昧」を受けさせるよう勅が発せられ、9月には高尾山寺で灌頂が行われている。しかし、最澄は密教が専門ではなかったため、大同元年(806)に空海が密教を学んで帰国すると密教関連の経論を借り受けにいくことになる。
 弘仁3年(812)に最澄は自分の亡き後の比叡山寺(この頃は薬師堂・文殊堂・経蔵の3堂が建てられていた)の事務を統括する総別当を泰(たい)範(はん)に、住職にあたる伝法師を円澄に託すという遺言状を書いている。ところがこの1か月半後に、泰範はこれを断り空海に弟子入りしてしまう。この時すでに最澄は朝廷の後ろ盾を失っており、代わって空海が絶大な影響力を持つようになっていたのである。更に弘仁4年(813)に最澄が『理趣経』 の注釈書である『理趣釈経』 を借りたいと空海に申し入れたところ「秘蔵の奥旨は文を得るに貴しとせず、ただ心をもって心に伝うるにあり。文はこれ糟粕(そうはく)、文はこれ瓦礫なり」として拒否したため、二人の関係は途絶えてしまう。この影響で最澄の弟子たちも空海から密教の教義を学ぶことが出来なくなった。このことで最澄と一部の弟子たちとの関係が悪化したのか、この年、最澄は通訳僧として唐に同行し信頼を寄せていた義真に、後継者とする付法印書を授けている。弘仁9年(818)には具足戒を破棄し『山(さん)家(げ)学(がく)生(しょう)式(しき)』 を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となること、12年間山中で修行することなどを義務づけた。大乗戒の授戒によって正規の僧になるという大乗大僧戒や、このための専用の戒壇というのは最澄が独自で考え出したもので、南都諸宗には受け入れ難いものであった。 
 南都諸宗や真言宗との対立により、最澄は最期まで僧網(そうごう)に任じられることなく弘仁13年(822)に没した。最澄の後、比叡山寺を継承したのは円澄ではなく義真であった。弘仁14年(823)には比叡山寺に延暦寺の寺号を送られ、初の大乗菩薩戒授戒会が行われている。しかし、比叡山の凋落は激しく、天長8年(831)には円澄と25人の兄弟弟子の連名で、空海に密教の教えを乞う懇願書が出されている。天長10年(833)に義真は弟子の円修を後継者に指名して没したが、円澄を推す者たちがこれを認めなかったため、8か月に渡り延暦寺は伝法師がいない状態となった。結果、円修は室生寺へ移され、承和元年(834)に円澄が伝法師を継承することになるが、これ以降、円澄と義真の二つの派閥が生まれることになる。

2、 円仁


 円仁(794-864)は下野国の生まれで、9歳から大慈寺で修行を始めたとされる。大慈寺の広智は鑑真の直弟子である道忠の弟子であるが、道忠が最澄の理解者であったことから、15歳の時に広智に連れられ比叡山寺に上り最澄に師事することになる。最澄が『摩訶止観』 を学ばせた弟子10人のうち、代講を任せられたのは円仁ひとりであった。最澄の東国巡遊では案内役として同行している。最澄が死去した後、承和(じょうわ)2年(836年)と翌承和3年(837年)に唐への渡航を試みたが失敗した。承和5年(838年)に最後の遣唐使となる3回目の渡航で、船は全壊したもののようやく唐に上陸することができた。しかし、還学生であったことから天台山への入山許可が下りず、そのまま帰国せねばならない事態に陥る。そこで円仁は遣唐使一行から離れて不法滞在者として唐に留まり、新羅僧の助けで天台山の代わりに五台山に向かう。約1270㎞を歩き、840年にようやく五台山を巡礼している。ここで法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得たほか、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻の書写もしている。さらに法照 の流れを汲む行儀をも学んだ。ここから、さらに長安まで約1100㎞を徒歩旅行している。その際、大興善寺の元政から灌頂を受け、金剛界大法を授かり、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地(そしつじ)大法を授かっている。また、延暦寺が所蔵していなかった金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせている。これらを持って帰国しようとしたが、今度は帰国願が拒否されてしまう。帰国できない状態の中、円仁はサンスクリット語を学び、多数の仏典を書写している。会昌2年(842)に「会昌の廃仏」 が始まると、会昌5年(845)には外国人僧放還令が出され、承和14年(847)に559巻の経典と21種の図像法具と共にようやく帰国している 。結果的に、円仁は天台ではなく密教と念仏を学ぶことになったが、このことがかえって歓迎され、嘉(か)祥(しょう)元年(848)には内供奉十禅師に任じられている。天台宗の教えに密教を融合させ、すべての仏教の教えは一つだとする円仁の「一大円教論」は、長安で学んだ仏教を応用した円仁独自の見解である。また中国天台の四種三昧という4種の常行三昧に五台山の念仏を組み入れたものを考案し、これが弟子の相応によって「山の念仏」 として日本浄土教の基礎となった。引声(いんせい) や梵(ぼん)唄(ばい) の基礎をつくったのも円仁である。
 斉衡(さいこう)元年(854)に円澄の後継者として伝法師となると、座主という称号を始めて用いた。僧尼だけではなく、淳和太后に菩薩戒を授けた他、多くの皇室や公家にも灌頂を行うことで、延暦寺の社会的地位を向上させた。僧網や僧正に任命されないまま弟子の安慧(あんえ)(794-868)に座主を譲ったが、死後に僧正と同位の「法印大和尚位」という新しい僧位を追贈されている。
 円仁が開山もしくは再興したと伝わる寺は関東に瀧泉寺(目黒不動)や浅草の浅草寺など209寺、東北に山形の立石寺や松島の瑞巌寺、平泉中尊寺など331寺余ある。



3、 円珍


 円珍(814 -891)は讃岐国の生まれで空海の甥(もしくは姪の息子)とされている。15歳で比叡山寺に上り義真に師事し、12年間の籠山行を行っている。承和12年(845)に役行者を慕って大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼するなど修験道の発展にも寄与した。承和13年(846)には延暦寺の学頭となる。仁(にん)寿(じゅ)3年(853)に新羅商人の船で入唐を試みるが、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。福州に着くと開元寺でサンスクリット文字や印相 、真言 、四分律疏などを授かり、温州で道教の書、台州で維摩経や因明 の注釈書を得た後、天台山を巡礼している。さらに洛陽から長安の青龍寺に向かい密教を学んだ。天安2年(858)唐商人の船で帰国している。「円密一致」を宗旨とし、真言密教の立場から『法華経』を解釈した。帰朝の翌年、天智天皇の時代に大友皇子が創建したと伝えられる三井の園城寺(三井寺)を修築すると、持ち帰った経論を収めて天台別院とした。貞観10年(868)安慧の死去に伴い延暦寺第5代座主となると、円仁を「師兄」と敬称し円仁(円澄)門流との融和を図った。宮中でも講師や祈祷を幾度となく行なうなど、皇室や公家とも良好な関係を築いた。元慶3年(879)に桓武天皇の孫である遍照が天台僧として初の僧網に就任すると 、元慶7年(883)に円珍も延暦寺座主として初めての僧網に任ぜられている。円珍以降、6世から13世までは円珍(義真)門流が園城寺長吏と座主を兼帯することが多かったが、14世からは円仁門流が座主を占めるようになり、円珍門流の不満が溜まっていった。

4、 安然


 円仁と円珍によって作られた台密(天台密教)を大成させたのが安然(841-902頃)である。本来全く異なる天台と密教を調和させることは容易なことではなかった。最澄は「法華一乗と真言一乗、何ぞ優劣あらん」と同等に見ていたが、円仁は理においては同等であるが事(修法)では密教が勝るとして「理同事勝」とし、円珍は理も事も密教が勝るとして「理事俱勝」と説いている。これに対して安然は中国天台の「四教教判 」を改め、天台教学の上に真言密教を位置づける「五教教判」を打ち立て「真言宗」を称するに至った。この思想が天台本覚思想となる。この思想は空海の東密にも大きな影響を与え、特に覚鑁の真義真言に強くその傾向が認められる。また後の鎌倉新仏教にも間接的な影響を洗えることになる。

5、 良源


 良源(912 -985)は、近江国浅井郡虎姫(滋賀県長浜市)の豪族である木津(こづ)氏の出身で、12歳(15歳ともいう)で比叡山に上った。良源は、円仁門流の傍流であり、身分も高くはなかったが、論客として頭角を現すと、村上天皇の中宮で右大臣藤原師(もろ)輔(すけ)(909-960)の長女である藤原安子(927-964) の安産祈願を行い摂関家と関係を結ぶことに成功し、康保3年(966)には天台座主になっている。延暦寺は承平5年(935)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔をすでに失っていたが、さらに良源が天台座主に就任した年にも火災にあっている。良源は藤原師輔の後援を得て最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂とするなど諸堂を再建した他、円仁が開いた横川 も復興させるなど、現在の延暦寺伽藍の基礎を造った。天禄元年(970)には「二十六ヶ条起請」 を公布し、社会問題化していた僧兵や世俗化していた寺内僧侶の規律を正している。教理でも密教化していた天台教学の立て直しを図っており、これら数々の功績から延暦寺中興の祖とされている。
 良源が弟子たちを優遇し脱密教化を図ったことにより、密教を重視していた円珍門流との対立が深まることになる。良源の後座主に就いた藤原師輔の子である尋禅(943-990)が座主を辞し、円珍門流の余慶が座主となると両派の対立は過激化し、正暦4年(993)年に円珍門流の成算が円仁門流の赤山禅院を襲撃すると、報復として円仁門流が比叡山の円珍門流の坊舎を破壊することになる。この襲撃により比叡山にいた円珍門流千余人は園城寺に避難すると延暦寺から独立し寺門派となり、延暦寺を本山とする円仁門流の山門派から分裂した。
 また良源は、中世以降今日に至るまで「厄除け大師」 として独特の信仰対象となっている。全国の社寺に見られる「おみくじ」の創始者も良源とされている。
 良源は多くの優れた弟子を育てたことでも知られ、座主を継承した尋禅以外にも、蔵(ぞう)賀(が)(増賀または僧賀、917-1003)、源信(942 -1017)、覚運 (953-1007)、覚超 (960-1034)などが知られている。

6、 蔵賀


 良源の弟子の中でも、特に異才の僧侶として多くの伝説と共に伝えられている。応和3年(963)に如覚(藤原高光) の勧めで多武(とうの)峰(みね)(奈良県桜井市)に草庵一乗房を結び、ここで『摩訶止観』や『法華経』の講義を行い多くの弟子を育てている。名誉や利権を嫌ったことで知られているが、多武峰に籠居した理由としては、次のような逸話が伝えられている。
 正月に天皇の御前で行われる「内論議(うちろんぎ)」という高僧達が論議する催しの際、供養のために貴人達が食べ物の残りを庭に投げ捨て、乞食達がこれを争い合って食べるのを眺める習慣があった。高僧の一人として参加していた蔵賀は、僧侶の列から走り出ると乞食と共にそれを食らったという。これを見た貴人や僧侶たちが「この禅師は物に狂ったのか」と大声で騒ぐのを聞いて、蔵賀は「わしは物に狂っておらぬ。そう言われるお手前方こそ、物に狂っておられるのではないか」と言ったきり家の中に立てこもってしまい、その後、多武峰に籠居し人との交わりを極力避けて『法華経』読誦と念仏の日々をおくったという。
 権力を求める僧侶が目に付く中で、蔵賀が聖僧として広く支持を受けていたことは『今昔物語集』や『発心集』など様々な物語から知ることが出来る。多くの逸話の中でも、特に奇人ぶりを伝えるものとしては『撰集抄(せんじゅうしょう)』にある、名利を捨てるために全裸で物乞いをしながら伊勢神宮か比叡山まで4日間旅をしたという話の他に、次の『宇治拾遺物語』にある話が知られている。
 三条大后(藤原詮子 )は出家して尼になろうと思い立ち、蔵賀に授戒を依頼した。弟子たちは権力を毛嫌いしていた蔵賀は断ると思っていたが、快く引き受けたので驚いたという。蔵賀が宮に来てくれることを大后は喜び、多くの貴人や僧侶もその場に集まってきた。蔵賀上人は出家の作法通り大后の長く美しい髪を切り儀式を終えると大声で次のように言い放った。「この蔵賀をあえてお呼びになったのはいかなる訳でござろうの。ちと合点がいきませんぞ。ひょっとして私の逸物が大きいとお聞きになりましたか。確かに他の者に比べれば大きゅうござるが、若いうちはともかく、今では練り絹のようにくたくたでござるぞ」。これを聞いた女房や公卿・殿上人・僧たちは、あまりの言葉に目や口が開いたきりふさがらなかった。この時の様子を『今昔物語集』には「歯ヨリ汗出テ」我にもあらぬ心地であったと書いている。さらに蔵賀は退出の際に、わざと恐縮の体で袖をかき合わせると「いやいや年を取りました。ひどい風邪をひき、腹までこわしておりましてな、本来は参上できるような体でもないのじゃが、ぜひにということで参上つかまつった。もう腹が限界じゃ、そうそうに退出させていただこう」と言ったかと思うと、縁側にしゃがみ込んで尻をからげ、薬缶(やかん)から水をぶちまけるように下痢便をひり散らした。その音は大后の御前まで響き渡った。若い貴族たちは大声で笑い罵り、僧たちは「何という気違いをお召しになったことか。」と文句を言ったという。
 蔵賀は師である良源が権威を求めることを面白く思っていなかったようで、良源が天皇に謁見する際、先駆に加わって乾(から)鮭(ざけ)を太刀のように腰に下げ、やせこけた雌牛に乗って牛の向きを再三変えて乗り回して先導したという話もある。
 鴨長明は蔵賀の奇行の本意を「この人の振る舞いは、後世の人達は物狂いというかも知れないが、汚れた世の中から離れんがための思惑があっただけ」であるとしている。

7、 源信


 源信は親鸞聖人が念仏の教えを大成させた七高僧の一人に数えていることでも知られている。7歳の時に父と死別すると、信仰心の篤い母の影響により9歳で良源の下に入門した。天暦10年(956)にわずか15歳で『称讃浄土経』を講ずると、村上天皇により法華八講 の講師の一人に選ばれた。源信はこの時下賜された布帛(ふはく) などをすべて故郷で暮らす母に贈った。すると母は、蔵賀を見習って名利など求めず、ひたすら人々を救うために仏教を学んでほしいと源信を諌めて品物を送り返したという。この言葉に気づかされた源信は、これ以降、横川にある恵心院に隠棲して念仏三昧の道を歩むことになる。永観2年(984)に師である良源が病におかされると、これを機に『往生要集』の撰述に入り、永観3年(985)に良源が死去した直後にこれを書き上げている。この翌年、毎月25日に『法華経』を講じた後、夜に不断念仏と光明真言 を修し、来世の浄土往生を願う「二十五三昧会」を結成した。この会の結束は強く、結衆の中に病人が出れば交代で看病し、臨終には一同こぞって念仏を助け、死去すれば共同の墓地に葬り、念仏と光明真言により冥福を祈った。これは出家在家を問わない念仏実践結社であり『往生要集』はこの指南書であった。師の良源も『極楽浄土九品往生義』を書いているが、これは教義書であって実践書ではない。念仏の実践書である『往生要集』は中国仏教にも影響を与えている。国内でも名声は広がり藤原道長により権少僧都 に任命されたが、名利を嫌って僅か1年で辞退し横川の華(け)台院(だいいん)に隠棲してしまう。『往生要集』の念仏は心の中に極楽浄土を思い描くという観想念仏であるが、華台院で書いた『阿弥陀経略記』は称名念仏の色合いを濃くしており、これが鎌倉仏教の浄土思想に大きな影響を与えることになる。
 なお、紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされる。






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