|真宗史|仏教入門講座
本願寺一揆から東西分派まで2
 ― 戦国時代の本願寺教団 - 
- 2014年11月1日

1、長享一揆



1)長享一揆の実情

 本願寺門徒の協力を得て、加賀守護職であった弟の幸千代を破った富樫政親は、長享元年(1487)に九代将軍足利義尚(よしひさ)の要請を受けて、近江守護職の六角高頼征伐に加わりました。この頃すでに応仁の乱は終わっていましたが、室町幕府の権威は大きく失墜していました。将軍は、公家や寺社などの所領を勝手に押領していた六角高頼を討伐することによって、将軍の力を誇示しようとしたのです(長享・延徳の乱)。その軍勢は守護大名や奉公衆など約二万にも及びましたが、一族以外の守護大名は富樫政親だけでした。これは幕府に加賀一国の守護職を認めてもらうためであったともいわれます。ちなみに六角氏はこの遠征を撥ね退け、戦国時代には南近江一帯を支配します。しかし、戦国大名の浅井との戦いに敗れてからは徐々に勢力を失い、江戸時代には加賀前田家の家臣(佐々木)となり、幕末時には二千百石を受ける加賀藩の重鎮となっています。
 この近江遠征費用を確保するために、富樫政親は臨時の課税を行いました。しかし、長く続いた応仁の乱のために疲弊していた国人たちは、この不必要と思われる戦のための課税に強く反発します。さらに以前から軋轢を生じていた本願寺門徒が、この国人の不満に呼応する動きをみせたため、政親は年末には急遽帰国して事態の鎮圧に努めます。しかし、翌年の長享二年五月に大規模な一揆が起きます。これが一般に加賀の一向一揆と呼ばれる長享一揆です。これによって、富樫政親は高尾(たこう)城で自害し、政親の大叔父で、かつて加賀南半国守護であった富樫泰高が富樫氏を継承します。この一揆に参加した総人数は二十万人とも伝えられていますが、一揆方の要求したのは 

1、 固定的な年貢・公事以外に新たな課税をすることを拒否する。
2、 守護方が荘園代官請負をすることに反対する。
3、 仏法を護持すること。

の三つです。1は近江への出兵にともなう課税に反対するものです。2はそれまで国人が行っていた荘園からの徴収権を富樫政親が奪うことに反対したものです。そして3はひろく「仏法」とすることで、本願寺門徒方が他の信徒や教団にも一揆への参加を呼びかけたようです。いずれにしても、本願寺門徒が富樫を滅ぼして加賀を奪ったと思われがちな長享一揆ですが、実際は様々な勢力が寄り合わさって起こされたものでした。


2)長享一揆と蓮如

 蓮如をはじめ、加賀の一門寺院さえもこの一揆に関わっていなかったようです。吉藤専光寺や木越光徳寺は能登や越中の門徒を動員したと思われますが、これは本願寺の意向とは関係ありません。しかし、将軍足利義尚は本願寺門徒によって自分を支援してくれた政親が討たれたと思ったようで、蓮如に対して加賀の一揆に参加した門徒を破門するように求めています。これに反対して間を取り持ってくれたのが、将軍をも凌ぐ権力を持ち「半将軍」とも呼ばれていた管領細川政元でした。このことが後に本願寺を政権争いに巻き込むことになるのですが、とりあえずこの件の責任を取る形で、延徳元年(1489)蓮如は山科本願寺の南殿に隠居し、延徳二年には三度目(実如には二度目)となる譲状を実如に書いています。さらに、明応五年(1496)に、蓮如は最後の妻となる蓮能尼とその子供達のために、大坂御坊を建てます。これはそれまでの堺御坊にかわって建てたものですが、なぜ堺の地を離れたのかは分かっていません。他に出口御坊や三栖御坊、富田御坊がありますが、それぞれに母親の違う子供達に与えられていました。この大坂御坊建設費は、すべて六字名号の冥加金で賄われたといいます。当時の大阪は「尾坂」・「小坂」と記され「おさか」・「をさか」と呼ばれていたようで、天王寺から突き出していた台地の北端にある小さな坂のことだったようです。「虎狼のすみか」で「家の一もなく畠ばかり」の地であったと蓮如の十男実悟が書いています。最晩年をこの地で過ごした蓮如は、本人の希望により最後を山科本願寺で迎え、明応八年に八十五歳の生涯を終えます。


2、教団としての本願寺確立


1)実如

 蓮如の長男順如が文明十五年(1483)に、蓮如に先立って亡くなってしまいます。そこで蓮如の後を継いだのが五男の実如です。実如は十七歳の時、日野氏の当主であった裏松勝光の猶子(養子とは違ます)となっています。当時、日野氏は足利将軍家と盛んに姻戚関係を結んでいます。裏松勝光の娘も九代将軍足利義尚の妻となっています。実如の同母妹の妙宗尼は日野富子の猶子となり、八代将軍足利義政(母は日野重子)に近侍しています。実如の妻は半家の家格を持つ堂上家である高倉永継の娘、如祐尼です。これらの人脈によって、実如は法主を継ぐ前から旧仏教系寺院や幕府との交渉に当たっていたようです。さらに本願寺を継承してからは、現存するだけで千点を超える絵像本尊を残しています。名号本尊は一般門徒向けに書かれていましたが、絵像本尊は門徒が集まる場所に掛けられていたようです。ですから、これは本願寺系の道場や寺院が急増していたことを意味しています。蓮如というカリスマを失った本願寺は、蓮如五男実如と加賀波佐谷松岡寺の蓮如三男蓮綱、加賀山田光教寺の蓮如四男蓮誓、近江大津顕証寺の蓮如六男蓮淳、加賀若松本泉寺の蓮如七男蓮悟という「賢息五人の五兄弟」(この内、波佐谷松岡寺・山田光教寺・若松本泉寺は「賀州三ヶ寺(加賀三山)」といわれます)によって運営され、現在も続いている「お文(御文章)」の授与を始めます。これは蓮如亡き後も蓮如の偉光によって本願寺の権威を維持しようとしたとも受け取れます。現存している最古の「お文」は蓮如没後半年後のもので、実如のものだけで八百点以上残っています。ただし、初期のものは書式や引用する内容も定まっておらず、かなり急いで作られたことがうかがわれます。全国に配られていた「お文」を集めて書き写すだけでもかなりの作業であったはずです。それだけ「お文」の発行は本願寺にとって重要なことであったと言えます。


2) 明応の政変

 九代将軍足利義尚は六角討伐を果たせないまま、長享三年(1489)近江で病死します。次の将軍に八代将軍足利義政や管領細川政元は足利義尚の従兄にあたる足利義澄を押しますが、足利義政の妻で足利義尚の母である日野富子が妹の子である足利義材(よしき、後の義稙(よしたね))を押して対立します。足利義材の父足利義視(よしみ)は、応仁の乱で東軍の細川と対峙した西軍の盟主であったために、細川政元が受け入れなかったようです。しかし、翌延徳二年(1490)に足利義政が死去したことにともない、足利義視の出家などを条件としてようやく足利義材の十代将軍就任が決定します。しかし細川政元と足利義視父子との対立は解消されませんでした。そこで日野富子は将軍職に就けなかった足利義澄に九第将軍義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めます。とこらが、将軍の象徴である邸宅に足利義澄が住むことをこころよく思わなかった足利義視は小川殿を破却してしまいます。これにより、足利義視父子と日野富子の間も険悪なものとなってしまいます。
 十代将軍足利義材は前将軍足利義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など畿内の国一揆に対して強硬姿勢をとり、延徳三年に細川政元が反対したにもかかわらず六角高頼討伐を再開します。さらに明応二年(1493)、元管領畠山政長の要請で畠山基家討伐のために、ふたたび細川政元の反対を押し切り派兵します。これに対して、細川政元は日野富子や赤松政則、伊勢貞宗らと足利義澄を十一代将軍に擁立して政権を奪います。これが明応の政変です。足利義材は抵抗しましたが及ばず、足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて投降します。一旦は京都龍安寺に幽閉されますが、側近らの手引きによって越中守護代神保長誠を頼って射水郡放生津へ逃亡しました。この時、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら七十人余りも越中に同行しています。
 この政変によって細川政元は幕政を掌握しますが、全国に広がっていた奉公衆などの軍事的基盤が崩壊した幕府の権力は弱体化し、その権限はほぼ畿内に限定されたものになります。これによって、応仁の乱以降全国に飛び火していた抗争が、中央の統制が取れない状態で繰り広げられることになります。つまり、明応の政変は中央政権の政権交代というだけではなく、全国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となったのです。これが戦国時代の始まりとされます。


3) 河内国騒乱

 永正三年(1506)、明応の政変で幕府を掌握した細川政元は実如に対して、明応の政変以降敵対関係にあった河内の守護畠山を攻撃するように求めてきました。これは細川と畠山の権力闘争ですが、細川政元は長享一揆の時に、加賀門徒破門の件を取り成してくれていたため、実如はこの要請を受け入れます。しかし、摂津と河内の坊主衆・門徒衆は実如からの畠山攻撃命令を拒否します。この時大坂御坊にいたのは蓮如最後の妻蓮能尼ですが、彼女は畠山氏の出身です。この大坂御坊を護持していたのが摂津と河内の坊主衆・門徒衆でした。しかたなく、実如は加賀から千人ほどを動員して畠山攻撃に当たらせました。蓮如の十男実悟はこれを「当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたる事にて候」と記しています。本願寺の命令によって行われた初めての戦闘でした。


4)北陸一揆

  同じ年の永正三年、北陸でも大名と本願寺門徒が衝突します。三月に若松本泉寺蓮悟は「仏法をたやし候」働きを続けているとして、能登守護畠山義元と越後長尾能景を討つように檄を飛ばします。この両者は共に反細川政元勢力ですから、実如から一門寺院に指示があったとも考えられます。これを受けて北陸全体に緊張が走ります。
六月には越前の坊主衆・門徒衆が蜂起します。これに加賀勢や甲斐の牢人勢らも加わり、反細川政元勢力の朝倉と九頭竜川一体で衝突します。この時先頭に立ったのは一門寺院の波佐谷松岡寺蓮綱でした。これに呼応して、山科本願寺からも近江顕証寺や近江北部の一揆衆、天王寺勢などが敦賀口から攻め込みますが、大敗北を喫します。この敗北により、越前では本願寺は禁止され、吉崎御坊は破却、超勝寺や本覚寺など本願寺系の寺院はすべて破壊され、各寺院は加賀・越中・能登に逃れて行きます。
 一方、越中では八月に越中衆に加賀・能登衆が加わり、畠山・長尾勢と衝突します。こちらを指揮したのは若松本泉寺蓮悟でした。この戦いで長尾能景が討ち死にし、越中の大部分は本願寺門徒の勢力下に入ります。東寺の資料には、この永正三年に一向宗が起こした一揆は大和・河内・丹後・能登・美濃・越前・加賀・越中・越後・三河に及び、数千万人もの戦死者が出たとあります。この誇張された戦死者の数からは、東寺の本願寺に対する警戒心が見てとれます。
 これらの戦いは長享一揆とは違い、いずれも実如の指示により本願寺一門寺院が中心となって起こしています。この中央の政権争いと連動する組織だった一揆は、関東の扇谷上杉が本願寺禁止令を出すなど各地の守護大名にとって脅威となります。当然越後でも本願寺は禁止となりました。


5)大坂一乱(河内国錯乱)

 摂津・河内の坊主衆・門徒衆の一部は、実如からの畠山攻撃要請に反発し、大坂御坊にいた蓮能尼の子で蓮如の九男実賢を法主にしようとします。この動きに対して実如は下間頼慶を派遣して蓮能尼・実賢・実順(十一男)・実従(十三男)を大坂御坊から追放し、加賀でも若松本泉寺蓮悟の養子となっていた実悟(十男)が事実上廃嫡さます。ところが、翌永正四年、細川政元が九条家からの養子である細川澄之の支持者によって四十二歳で暗殺され(永正の錯乱)、細川一門からの養子である細川澄元との間に相続戦いが開始されると事態は一変します。細川政元に近かった実如は難を避けるため、翌日には御真影とともに山科本願寺から近江堅田本福寺明宗のもとへ逃れます。その後も混乱は続き、まずは細川澄之が、続いて細川澄元が敗れて、最終的に政権を奪ったのは本願寺に対して一番の強硬派であった、もう一人の野洲家からの養子細川高国でした。永正五年、西国最大の大名・大内義興や細川高国・畠山に擁された前将軍足利義材(義稙)が上洛し、十一代将軍足利義澄は将軍職を解かれ近江六角氏のもとへ逃れます。これによって、畠山と親戚にあたる実賢と蓮能尼の追放は反故になり、永正六年には実如とともに山科本願寺に住むことになります。将軍となった足利義材(義稙)は加賀・越前の本願寺一揆を破った朝倉に対して賞を贈りましたが、一方加賀一門衆・門徒衆に対して咎めはありませんでした。


6) 本願寺の権力確立

 永正十一年、実如は尊鎮親王が青蓮院で得度した際に二千疋(二十貫文)進上したことで、法印の位に相当する香袈裟(大納言以下、参議以上の法体)を許可されます。さらに永正十五年には尊鎮親王受戒時に一万疋を進上し紫袈裟(天皇の勅許が必要)を免許されています。後柏原天皇の第三王子で後奈良天皇の弟である尊鎮親王の母は高倉永継の娘で、実如の妻も高倉永継の娘ですから本願寺と天皇家は親戚関係になります。
 実如は加賀を中心とする北陸の本願寺配下の坊主衆・門徒衆との間に「三箇条掟」を結びます。これまで、加賀の本願寺勢力は、直接山科本願寺の指揮下にあったのではなく、門徒組織の組、地元の豪族によって組織された郡一揆、地方大寺院、一門寺院にわかれていました。ところが永正十年に鶴来に清沢願得寺が一門寺院として創建され、蓮如の十男である実悟が住職になると、石川郡内の五つの組がその護持にあたることに決まりました(賀州三ヶ寺に清沢願得寺を加えて、これ以降賀州四ヶ寺と言われるようになります)。このことは一門寺院の配下に組が取り込まれることを意味するため、郡一揆や地方大寺院が反発しました。これを収めるために、郡一揆や大寺院に対して本願寺が認める戦以外は行わない代わりに自治権を委ねることにします。これが「三箇条掟」です。さらに、越前での一揆以来封鎖されていた北陸道や海上航路を再開することも、この掟で合意しました。越前が通れなくなって以来、加賀・能登・越中から近畿に行くには、越中五箇山から飛騨・奥美濃を経由しなければなりませんでした。このため、北陸から京都の公家や大寺院へ送られる荘園年貢などが滞ります。年貢が届かなければ公家たちは生活することができませんから、将軍家から朝倉氏・本願寺両者に協力を求めてきたのです。領主でも守護でもない本願寺が、この交渉をまとめたことによって、本願寺は加賀に関する対外交渉権を京都にいながら獲得したことになりました。つまりこの掟によって、本願寺は加賀の外交権を門徒と幕府両方に認めさせることになります。
 また、余りにも多くなった本願寺一族に差異を付けるために一門一家制という法令を出し、一門寺院と一家寺院に分けます。一門寺院とは、法主の子供や兄弟(連枝)とその嫡男の寺院、一家寺院とは連枝の次男以下もしくは蓮如以前に分かれた一族の寺院です。これによって実如の後継予定者であった円如を中心とした血縁に権力を集中させました。さらに一門一家衆の次男以下の者による寺院の建立を禁止する新坊建立停止令も出します。これらの政策は実如・円如親子と山田光教寺蓮誓、大津顕証寺蓮淳によって進められています。
 さらに本願寺内の行事・組織も確立されていきます。現在本願寺で行われている年中行事が定められ、僧侶の役職も定められます。教義を担当し本願寺一族と同じ装束を許された御堂衆、諸国直参の代表として本願寺に常駐し法要行事に参列する常住衆、事務職を担当し本願寺以外でも一門寺院には必ず派遣された寺侍の下間一族などです。下間氏はそれまで、教義から法要補助まで広く本願寺の業務を行ってきましたが、このころから実務を専門とするようになります。
 蓮如の後を継ぎ、本願寺の地位と組織を確立した実如は大永五年(1525)六十八歳で生涯を終えます。葬儀には諸国から数十万人が参列したとされ、二十人ほどの殉死者まで出たと伝えられています。

3、戦国大名化する本願寺



1)証如と蓮淳

 永正十八年(1521)に次期法主とされていた円如が死去し、四年後の大永五年(1525)には実如も死去してしまいます。この時新たに法主となった円如の嫡子証如はわずか十歳でした。幼くして本願寺を継承する孫を危惧した実如は、近江大津顕証寺の蓮如六男蓮淳・加賀若松本泉寺の蓮如七男蓮悟・三河本宗寺の実如四男実円・加賀波佐谷松岡寺の蓮如三男蓮綱の嫡子蓮慶・加賀山田光教寺の蓮如四男蓮誓の嫡子顕誓の五人に証如への忠誠と教団維持へ協力を託しました。特にこの五人の中で、唯一畿内寺院にいる蓮淳に後見と養護を委ねます。蓮淳は実如とは同母兄弟であり、証如の母融誓尼の父でもあります。蓮淳は孫の証如を補佐して「法主を頂点とした権力機構の確立」を目指します。
 その最初の標的となったのは堅田本福寺でした。同寺は一門寺院ではないものの、幾度も本願寺の危機を救っており、当時水運の中心地でもあった琵琶湖畔の堅田を拠点として多くの門徒を抱え、本願寺にも劣らない経済力も持っていました。一方で大津にあった蓮淳の顕証寺とは門徒の取り合いとなっていたようです。実如の在世中には、蓮淳が捏造した証文によって本福寺を一度破門にさせていますが、事実が発覚したためこの破門はすぐに取り消されています。しかし、実如が亡くなると、再びいいがかりをつけて破門にします。本福寺は本願寺のために称徳寺を建立していたのですが、その称徳寺が本福寺の門徒を引き抜こうとしたため、本福寺はこれを阻止します。これを本福寺の本願寺に対する反逆であると咎めたものです。この破門を許す代償として、本福寺は寺宝や門徒をすべて失うことになります。さらに、山科本願寺が焼き討ちにされた際、蓮淳が真っ先に逃亡したにもかかわらず、本福寺が救援に来なかったとして三度目の破門にします。この結果、本福寺住職の明宗が七十二歳で餓死すると、蓮淳は称徳寺の末寺となることを条件に破門を許します。本願寺に多大な功績があった本福寺に対するこの騒動は全国の末寺を震え上がらせることになります。

2)享禄の錯乱(大小一揆

 大永七年(1527)反本願寺派の細川高国に対して三好元長が擁立する細川晴元(澄元の子)が挙兵します。この動きに、蓮淳は側近の下間頼秀・頼盛兄弟を晴元側に派遣します。この争いで、細川高国は十二代将軍足利義晴(細川高国によって放逐された足利義稙にかわって近江から呼び戻された十一代将軍足利義澄の子)とともに近江に逃れます。畿内を制圧した細川晴元は足利義維(よしつな、足利義晴の年上の弟)を擁立して堺に幕府を開きます。細川晴元は北陸にある細川高国派の荘園を占拠するように本願寺に求めてきました。そこで蓮淳は自分の婿である超勝寺実顕と下間頼秀をこの任にあたらせます。超勝寺は本覚寺とともに朝倉との戦いに敗れ、越前から加賀に拠点を移していましたが、蓮如が子供たちを加賀に送り込むまでは北陸における本願寺の中心寺院で、その門徒は北陸全域に及び「北の超勝寺・南の本覚寺」と呼ばれていました。実顕は証如名義で出された蓮淳の命令を、賀州四ヶ寺に相談せずに行い、荘園代官を自坊の門徒に交代させました。これに対して、賀州四ヶ寺の蓮悟、蓮綱・蓮慶父子、顕誓、実悟は本願寺に抗議し超勝寺と敵対します。そして、享禄四年(1531)賀州四ヶ寺は超勝寺を攻撃します。これに対して、超勝寺実顕は本覚寺蓮恵の救援を受け、一旦は白山麓に籠りますが、北陸各地にいる両寺の門徒を蜂起させ、波佐谷松岡寺を襲い蓮綱・蓮慶父子を拘束します。更に清沢願得寺と若松本泉寺を焼亡させました。下間頼秀の報告を受けた蓮淳は、賀州四ヶ寺の行為は本願寺への反逆であるとして、全国の門徒に対して賀州四ヶ寺の討伐命令を発します。これを受けて、東海・畿内の門徒は、実如の子である実円と下間頼盛に率いられて、飛騨山中から加賀に侵入します。この動きに対して、本願寺と敵対関係にあった越前の朝倉孝景が、賀州四ヶ寺の支援のために加賀へ出兵します。続いて能登畠山氏の一族で蓮能尼の実兄・畠山家俊も、甥である実悟救援を理由に主君畠山義総の許しを得て加賀へ出兵しました。さらに、名目上の加賀守護で富樫泰高の孫の富樫稙泰・泰俊父子も賀州四ヶ寺側に参戦します。手取川での戦いで朝倉教景(宗滴)・賀州四ヶ寺連合軍が本願寺軍を一旦は破りますが、津幡の戦いでは逆に本願寺側の反撃によって畠山家俊らが討ち死にし、賀州四ヶ寺最後の光教寺も陥落し、本泉寺勢は能登へ、光教寺勢は越前に退却しました。この戦いで蓮綱は幽閉されて間もなく死去、蓮慶は処刑され、蓮悟・顕誓・実悟は加賀を脱出しますが、全国の末寺・門徒に対して追討命令が下されます。そして富樫稙泰も加賀守護の地位を追われました。天文九年(1540)には能登畠山氏と、同十年には朝倉氏との間に休戦・和議が成立しますが、この交渉はすべて本願寺によって行われ、加賀の一揆衆はそれに従うだけでした。
 主だった一門寺院を粛清したことにより、本願寺法主を頂点とする支配体制が完成します。これは本願寺勢力内での一揆ですが、超勝寺・本覚寺側を「大一揆」、賀州四ヶ寺側を「小一揆」と呼ぶ事からこれを「大小一揆」と呼ばれます。これによって加賀を初めとする北陸地方の門徒は、本願寺の直接支配下に置かれることになりました。天文十五年(1546)にはその象徴として金沢に金沢御坊が建立されます。ただし、この一揆で顕誓の兄である越中の安養寺御坊(勝興寺)実玄は大一揆に与したため、越中は本願寺の直接統治とはなりませんでした。

3)畿内天文の乱(天文の錯乱)

 近江に逃れていた細川高国は、備前守護代の浦上村宗と手を組み享禄三年(1530)に播磨を統一すると、細川晴元を破るべく進撃し、享禄四年には摂津を手に入れ、翌年には京都を奪還します。この後、細川晴元・三好元長が擁立する足利義維の堺幕府との間で一進一退が続きますが、細川高国側であった播磨守護の赤松政祐が裏切り、細川晴元・三好元長の連合軍と挟み撃ちにします。これによって膠着状態だった戦局は一変し、細川高国・浦上村宗連合軍は壊滅、細川高国は自害に追い込まれます。「大物崩れ(だいもつくずれ)」と呼ばれこの戦いで、本願寺と友好関係にある細川晴元側が勝利したことで、畿内は落ち着いたかのように思えましたが、河内守護畠山義堯の家臣木沢長政が、主家から離反して晴元への転属を画策し、蓮淳に内応の仲介を依頼します。これを知った畠山義堯は、三好元長の加勢を受けて木沢長政討伐に乗り出します。そこで晴元は、仲介役であった蓮淳に義堯と元長の討伐を依頼し、蓮淳はこれを承諾します。承諾した理由の一つとして、これまで和泉や山城で本願寺門徒と法華宗徒が衝突する度に、熱心な法華宗徒であった三好元長によって、本願寺側は弾圧を加えられていたことが挙げられます。蓮淳は、十七歳になった証如自らを出陣させ、畿内における「浄土真宗と法華宗の最終決戦」と位置づけ全畿内の門徒を結集させます。十万とも二十万とも言われた本願寺門徒の参戦により、畠山義堯と三好元長は自害に追い込まれます。さらに、堺の足利義維を四国に追放し堺幕府までも消滅させてしまいます。
 ところが、三好元長との戦いが終わっても本願寺軍の蜂起は収まらず、その手は法華宗以外の他宗派仏教寺院にも及びます。これには証如や蓮淳は静止命令を出しましたが止めることは出来ませんでした。本願寺軍は大和守護の興福寺と戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻撃し、興福寺の全ての塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉や春日大社の鹿までも食い尽くしたと言われます。この一揆は筒井氏・越智氏・十市遠治らによって鎮圧されてしまいますが、門徒衆を統制することが出来なかった本願寺は、大和での本願寺永代禁制を受け入れざるを得なくなりました。

4)山科本願寺焼討と大坂御坊での戦い

 大和での一揆をみた近江の十二代将軍足利義晴や堺の細川晴元は、一揆を本願寺の起こした謀叛として断罪します。これに対抗して本願寺も細川晴元攻撃を命じます。本願寺勢は、細川晴元の命令に呼応した木沢長政や近江守護六角定頼、山城の法華一揆などと摂津・河内・大和で戦となりましたが、この時、山科本願寺勢や東海勢は賀州四ヶ寺との戦いのため北陸にいました。大和の一揆勢は敗れて吉野に逃れ、京都に集結した法華一揆によって大谷本願寺跡にあった一向堂などの本願寺系寺院が焼き払われます。近江では坂本に進攻してきた近江守護六角定頼軍によって蓮淳の大津顕証寺が焼かれ、さらに証如のいた山科本願寺も三万の大軍に包囲され炎上してしまいます。この時、蓮淳は息子実恵の伊勢長島願証寺へと逃走していましたが、孤立した証如は山科本願寺に退避していた蓮如の末子・実従と共に日没にまぎれて、辛うじて醍醐寺報恩院へと逃れたといいます。この寺の院主であった源雅は蓮如の七女で蓮淳の同母姉である祐心院の子でした。
 大坂御坊に逃れた証如は下間頼秀に防戦を命じますが、ここも細川・六角・法華一揆連合軍に包囲されてしまいます。本願寺側にも紀国衆などが応援に駆けつけ、翌天文二年(1533)には細川晴元がいた堺を陥落させ、細川晴元は淡路へ逃れます。さらに細川高国の弟・晴国や三好元長派であった波多野稙通ら反細川晴元勢力とも連携して包囲を解くことに成功します。このことが細川晴元に擁護されていた十二代将軍足利義晴の逆鱗に触れ、本願寺討伐令が出されます。四国から細川晴元も摂津に戻り、戦況は一進一退を続けますが、三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者としてようやく休戦が成立します。この一ヶ月後、北陸から下間頼盛が帰り、この年の報恩講は大戦の余韻からか、大群衆が集まったといわれます。この頃、美濃・尾張・伊勢の三カ国が伊勢長島願証寺の配下に入っています。
 和睦に反対していた下間頼盛は、翌天文三年証如を人質に取り再戦を要求します。このため証如は和睦を破棄して再戦に踏み切ります。当初は三好勢が味方していましたが、先に細川晴元と和睦してしまいます。翌天文四年には主戦派の下間頼盛が大坂御坊から退去し、代わって伊勢長島から顕証寺蓮淳が大坂御坊に入ります。細川軍の総攻撃が始まると戦闘は本願寺の劣勢となり、大坂御坊周辺がことごとく焼き払われて行きます。当時の後奈良天皇の日記に「本願寺滅亡」と記されているほどです。京都では、本願寺門徒であるというだけで、捕えられる者や殺される者までいました。本願寺に協力した郷に対しては莫大な賠償金が課せられています(淀川にあった榎並郷には千貫文)。
 これを機に証如も和議を図ります。天文四年暮には細川晴元・木沢長政と、翌五年には将軍足利義晴・六角定頼との間で、下間頼秀・頼盛兄弟を今回の一揆の扇動者とし大坂御坊を退去させ、近江など畿内門徒の総破門を行うことを条件に和議が成立します。一方で証如・蓮淳の責任は不問となりました。和睦とはいっても実質的には敗戦であったため、それぞれに対して莫大な賠償金が必要であったようです。このために、本願寺は臨時の懇志を全国の寺院・門徒に依頼しています。この和議によって、一門・一家寺の所領は返されましたが、それ以外の寺院や門徒衆の土地は返されなかったところもありました。
 和議終了後も、蓮淳は証如の求めに応じて大坂御坊に留り、成人した証如の補佐役として、天文十九年(1550)に没するまで本願寺の事実上の最高指導者としての地位を保持し続けました。
5)大坂本願寺と金沢御坊

 大坂御坊は当初から、蓮如の妻子のための住居としてだけではなく、山科本願寺のように住民も居住することを目的として建立されたようです。これは蓮如の「お文」(四帖目二八通)に「大坂女講中」とあることからうかがえます。更に実如が亡くなる前年の大永四年に書かれた『高野山参詣日記』(三条西実隆)に、大坂御坊を「心ことばもをよばざる荘厳美麗のさま」とあることから、贅をつくしたものであったようです。天文十一年には阿弥陀堂・御影堂が完成し本願寺として整備されます。場所は現在の大坂城二の丸付近です。当初は五町四方(一町は約109m)ほどでしたが、徐々に周辺にあった町を取り込んでいきました。
 大坂本願寺が巨大化した理由の一つとして考えられるのが、税の免除です。天文五年に細川晴元は、摂津欠郡(かけのこうり、淀川以南で中島を除いた摂津四郡の呼称)に半済(得分の半分を税として守護に納めるというもの)を課しました。大坂本願寺のある東成郡もその中に含まれます。本願寺は細川晴元と交渉し、寺内だけではなく、寺内の外にある欠郡内の「寺領又寄進」・「当坊領又寺内の面々の領」・「寺内出作分」に対する半済が免除されます。つまり、寺の塀の外にある土地に関しても非課税となったのです。この特権は次第に拡大解釈され、あらゆる税の免除となり、さらに全国の本願寺勢力地にも適用されます。これによって、各地で本願寺への土地の寄進が相次ぎ寺内町が次々と誕生します。例えば和泉貝塚寺は南北六町東西四町、河内招提寺は南北二一町東西三十町という広大なものでした。
 朝廷との関係も密なものになっていきます。天文七年には阿弥陀堂本尊の左右に、後奈良天皇の寿牌と先の後柏原天皇の位牌が置かれます。天文九年には後柏原天皇宸筆の「古今集」と金襴袈裟と紫衣(青蓮院門跡と同じ装束)が授与され、紫衣は永代着用も許されます。天問十八年には歴代法主として初めて権僧正が勅許されます。この頃、現在西本願寺が所有している『栄花物語』(重文)、『三十六人家集』(国宝)など多くのものが朝廷から贈られました。公家たちも大坂本願寺を訪れ、和歌や能・狂言、茶湯など、本願寺は公家文化に染まっていきます。
 金沢御坊が建てられた場所は、小立野台地の南端の沢で、田上郷山崎村と大桑庄に挟まれた、特に地名のない場所であったようです。加州四ヶ寺を排除した後に加賀を統括する目的で建立されますが、享禄の錯乱の勝者である超勝寺が力を持っていたため、その影響力は限定的でした。ところが、天文二十四年(1555)、朝倉勢が加賀に侵攻し超勝寺率いる本願寺勢と戦になります。この年には前年から体調を崩していた証如が三十九歳の若さで亡くなっています。翌弘治二年(1556)幕府が両者に和議を提唱します。大坂本願寺はこれを了承し、まだ十三歳で本願寺を継承したばかりの顕如にかわって、証如の母である融誓尼(蓮淳の娘)が交渉にあたり、加賀に下間頼言を派遣します。ところが、超勝寺はこの下間頼言を毒殺してしまいました。超勝寺は朝倉氏に越前を追われて加賀に逃れてきているのですから、この調停を受け入れることができなかったようです。このことが大坂本願寺の怒りをかったようで、これ以降超勝寺の名前が歴史に登場することは無くなります。かわって、金沢御坊が北陸一帯の本願寺衆を統括することになります。とはいっても、金沢御坊は本願寺法主が住職を務める直轄寺ですから、自治権までは手がまわりません。そのため、自治に関しては郡一揆と組が、外交権・軍事権を大坂本願寺が持つことになります。このことから、加賀は「百姓の持たる国」(『天正三年記』安芸法眼)と呼ばれるようになります。
 そして、本願寺は信長や秀吉などの戦国武将たちと対峙することになります。







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