|真宗史|仏教入門講座
本願寺一揆から東西分派まで3
― 織田信長の入洛と室町幕府の滅亡 -
- 2015年5月2日

1、 本願寺の権力拡大


1)顕如と如春尼

 大永五年(1525年)に、祖父である本願寺第九世実如の死去により、わずか十歳で本願寺を継承した証如は、天文元年(1532年)年から始まった十二代将軍足利義晴や堺の細川晴元、近江守護六角定頼、山城の法華一揆などとの戦いによって、一時は本願寺消滅の危機にまで陥りました。天文五年(1536)にようやく和議を成立させると、敵対していた勢力との関係修復に動きます。
 天文十二年(1543)に長男の顕如(実名は光佐)が生まれます。顕如が二歳の時、かつて敵対関係にあった細川晴元からの申し出によって、清華家の一つで、後に左大臣となる三条公頼(きんより)の三女(当時一歳)と許婚となります。この三女が後に東西分派のきっかけをつくる如春尼です。三条公頼は天文二十年(1551)に周防の大内義隆を頼り下向した際、大内家臣の陶晴賢(すえ はるかた)の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害されてしまいます。三条公頼には男子がいなかったため、三条家は一旦絶えてしまいました。弘治三年(1557)、顕如が十五歳の時に二人は結婚しますが、父を失っていた如春尼は細川晴元と六角定頼の子である六角義賢(よしたか)の猶子として入嫁します。如春尼の上の姉は細川晴元の正室、下の姉は 武田信玄の継室(後妻)となっています。この血縁によって本願寺は戦国時代において強力な親戚関係をもつことになります。
 そして結婚の翌年、永禄元年(1558)には後に東本願寺住職となる教如が誕生しています。顕如が十六歳、如春尼が十五歳での子供ということになります。永禄七年(1564)には次男の顕尊(興正寺に養子)が生まれますが、西本願寺を継承することになる三男の准如が生まれるのは、それから十年以上後の天正五年(1577)です。教如とは二十歳近く離れた兄弟ということです。

2)本願寺の門跡勅許

 証如が天文二十三年(1554 )に三十九歳で死去すると、顕如は十二歳で本願寺を継承します。しばらくは証如の遺言により、円如の妻で顕如の祖母にあたる融誓尼が後見人となって朝倉氏との和睦や朝廷との交渉などを行います。永禄二年(1559)には、本願寺は正親町(おおぎまち)天皇から門跡の勅許を受けます。門跡とは、出家した皇族(宮門跡)や摂家(摂家門跡)が住職を務める寺に与えられる称号です。証如が摂家である九条家の猶子となっていたために認められたようですが、血縁関係にない寺院を門跡とすることに疑問視する声もあったようです。
 この勅許によって、門跡寺院に求められた二つの役職が本願寺に誕生します。一つは家政事務をつかさどる坊官で、大名の家老に相当する役職です。門跡授与の当日には、下間法橋道嘉、下間法橋頼充、下間法眼頼総の三名が坊官に任じられています。これによって、長く本願寺に仕えてきた下間一族は公的な地位を得ることになります。もう一つが法務を補佐する院家です。勅許の翌年から順次十ヶ寺が院家の勅許を得ますが、この中に蓮惇の息子実恵の伊勢長島願証寺系の寺院が多く含まれることになります。これには融誓尼が蓮惇の娘であったことが影響しています。ただし、この時点では宗派としての勅許はまだ下りていません。この融誓尼も元亀元年(1570)に死去しますが、代わって融誓尼の弟である伊勢長島願証寺実恵が大きな力を持つことになります。

3)本願寺特権の拡大

 全国で諸勢力が戦いを起こして行く中、本願寺寺院や門徒衆の助力を得るために、本願寺と同等の免税などの特権を各地の寺院に認める大名が出てきました。畠山高政は河内富田林寺内に、三好康長は自分の高屋城に詰めていた門徒衆に、それぞれ本願寺同様に諸税を免除しています。また、駿河・遠江の今川義元は三河の西円寺に対して寺内や屋敷など関係施設を「不入之地」として保証しています。これらは、地方の大名と本願寺系寺院が各々で結んだ約束事で、互いの利に叶うものとして交わしたものであり、武力によって奪い取った権利ではありませんでした。

2、 本願寺と戦国大名との争い



1)三河一揆

 今川義元が永禄三年(1560)に桶狭間の戦いで織田信長に敗れた後、三河は徳川家康の所領となりました。三河は蓮如の時に本願寺に帰参した東海屈指の有力寺院である三河三か寺(勝鬘寺・上宮寺・本證寺)や実如の次男である実円が入寺して一門寺院となっている本宗寺などがあり『信長公記』に「門徒繁昌候て、既に国中過半門家」と書かれているほど、本願寺が勢力を持っている国でした。徳川家康も本願寺系寺院に対して「不入」を保証していましたが、永禄五年(1562、もしくは永禄六年)に事件が起こります。本證寺寺内で金銀米銭の商売をしていた門徒の蔵に、家康の家中が押し入り強奪していったのです。
 三河三か寺と本宗寺には家康家臣の石川・渡辺・本多などの本願寺門徒が味方として駆けつけ、家康勢との戦いとなります。結果は本願寺勢の敗北に終わり、本願寺に加担した家臣は徳川家の宗旨である浄土宗への改宗を条件に赦されました。ただ、本多正信・正純父子ら一部の者はこれを拒み追放されます。本多父子はその後、改宗することを免じられ、本願寺門徒のままで徳川家に戻ります。
 この時敗れた本宗寺の住職は実円の孫である証専でしたが、証専は播磨本徳寺の住職を兼任しており、三河にはいませんでした。この播磨本徳寺は最初に院家となった寺院の一つであり、これによって本宗寺は院家と同格となっていました。本願寺が門跡寺院となり社会的権威を獲得した矢先に、一地方大名によって院家と寺内特権が一度に軽んじられたのです。これに本願寺が有効な手立てを打てなかったことを隣国の織田信長は見逃しませんでした。

2)北陸の本願寺勢と上杉・朝倉との戦い

 この時本願寺が三河に力を向けなかった理由は関東にありました。永禄三年(1530)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に攻め込みます。これに対して後北条(室町幕府の御家人北条早雲を祖としますが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、「後」を付けて「後北条」とも「小田原北条氏」ともいいます。最大時には関八州で二百四十万石を誇りました)と甲斐の武田が同盟を結び対抗します。この頃越中では、本願寺と友好関係にあった砺波・射水の神保勢と上杉方の新川椎名勢が対立を続けていました。そこで、甲斐から本願寺に協力要請が来ていたのです。景虎は後北条・武田勢を破って永禄四年に鎌倉入りし、鶴岡八幡宮で関東管領に就くと上杉を名乗ります。後北条はこれまで領内で本願寺を禁止していましたが、この後本願寺と共闘して上杉に対抗していくことになります。
 これに対して上杉は、越前の朝倉と盟約を結び、加賀・越中の本願寺を挟撃しようとします。永禄七年(1564)この盟約によって朝倉勢が加賀に侵攻して来ます。後北条の牽制によって、上杉は動きませんでしたが、朝倉勢は加賀の南半分を攻め落とします。これまで一揆に参加して来なかった坊主衆や門徒衆までもがこの戦いに参加し、全国の寺院・門徒にも協力要請が出される総力戦となります。戦いは小松口・本折口・鵜谷口・湊川・寺井口などで激戦が続きます。そして永禄八年(1565)、本願寺は武田と盟約を結びます。これは本願寺が大名と結んだ初めての同盟になります。
 本願寺は加賀における劣勢を打開するため、翌九年正月に京都吉田社に依頼して桔梗の紋をあしらった家旗・先惣旗を新調し、二月に筆頭坊官の下間頼総がそれを持って金沢へ入ります。奮起した本願寺勢は戦線を加越国境まで戻します。更に翌十年三月には坂井郡の有力武将堀江景忠が朝倉氏に背いたため、本願寺勢は国境を越えて金津上野まで攻め込みます。十一月には、敦賀に逃れていた足利義昭が本願寺と朝倉の和議を仲介します。これによって、坊官杉浦玄任の子の又五郎が人質として朝倉氏のもとへ越し、本願寺主戦派の「石川・河北之面衆」が「悉成敗」されます。ところが翌十一年三月に敦賀の朝倉景恒勢が攻勢をかけ、堀江勢は加賀へ退却します。ようやく、十二年四月に朝倉と本願寺は和議を締結します。元亀二年(1571)には朝倉義景の娘が将来顕如の長男教如へ嫁する約束も交わされています。この和議によって、朝倉は本願寺禁止令を六十年ぶりに解除し、加賀に逃れていた有力寺院は続々と越前各地へ帰っていきました。ちなみに、朝倉義景が信長に敗れ自害した後、娘は逃れて大阪本願寺に入り教如と約束通りに結婚しています。二人の女児を儲けますが、大阪本願寺が信長軍に包囲されたときに離別しました。
 永禄十一年(1568)、越中で本願寺と友好関係にあった神保勢の中の増山の神保勢が上杉方についたため、それまで上杉方であった新川の椎名が武田・本願寺方に鞍替えします。これを挟み撃ちにするため、永禄十二年三月に上杉謙信自らが越中攻めに乗り出すと、十月には新川を攻め落とし、さらに神通川を越えて婦負(ねい)まで攻め込みます。これに呼応し、増山の神保勢も西条の神保勢に攻めました。この謙信の攻勢は一門寺院の勝興寺等によってなんとか押し留めました。しかし、元亀三年(1572)謙信は二度目の越中攻めを行います。今度は加賀の本願寺勢が越中に入り、一時は富山城を落城させて神通川以西も制圧しますが、謙信がこれを巻き返し富山城は奪回されます。この翌年、四月に武田信玄が死去し、八月には浅井・朝倉が相次いで織田信長によって滅ぼされます。これと期を同じくして、信長と結んでいた謙信は三度目の越中攻めを行い、ついに越中は上杉の勢力下に入ります。

3、 織田信長



1)織田信長の入洛

 永禄十年(1567)、織田信長は美濃の斉藤龍興を破り居城を尾張から岐阜城に移します。この時、楽市令を発し、加納円徳寺(戦国時代は浄泉坊)寺内を初めての楽市場とします。この本願寺系寺院は、信長の父である織田信秀が斎藤道三との戦いで戦死した五千人もの家臣を弔うための塚を築いた、織田家縁の寺です。楽市令とは本願寺が得ていた特権とほぼ同じ内容です。これ以降、それまで特権を認められていた本願寺系寺院でも、楽市令が適用されなかったところは特権が破棄され重税が課せられるようになります。例えば、信長と道三が初めて会見した尾張の富田聖徳寺は寺内に七百軒も抱える寺で、両大名から税の免除と不入の権利を得ていましたが、元喜二年(1571)には寺内が解体されています。「濃州所々の寺内破却され、南方(尾張・伊勢)にもその類あまたきこふ」(『異本反故裏書』)とありますから、多くの寺院は楽市令を適用されなかったようです。しかし、信長の動きは他の大名には広がらず、逆にこれ以降も本願寺特権を本願寺系寺院に適用する大名が各地で増えていきます。本願寺の助力を得たいという大名の方が多かったようです。
 永禄十一年(1568)織田信長は近江六角勢を破って京に入り、足利義昭を将軍に擁立します。この動きを本願寺は静観しますが、六角と本願寺は協力関係にあったため、近江の本願寺坊主衆・門徒衆は織田勢と戦っています。この様な緊張状態の中、信長は本願寺に5千貫、堺に二万貫の矢銭(軍事費)供出を求めてきました。本願寺はこれを拒否し寺内の要塞化を進め、近江各地で一揆が起こります。

2)本願寺との戦いと信長の撤退

 元亀元年(1570)、三好三人衆(長逸(ながやす)・政康・石成友道)は京の信長を討つために挙兵し、摂津中島に陣を置きます。これに対して、信長は将軍足利義昭を立てて天王寺に陣を取りました。
 この時、鉄砲傭兵集団として知られる雑賀衆と根来衆が信長勢に同行しています。根来衆は根来寺を中心とした新義真言宗(念仏系の真言宗)の僧徒の集団で、その寺領は五十万石とも七十万石とも言われています。僧徒とは言っても僧侶ではなく僧兵であったようです。これに対して雑賀衆は実如の頃から本願寺と交流があり、本願寺門徒であったようです。この戦いの時、雑賀衆の鈴木孫一らは三好三人衆方に組みしており、同じ雑賀衆同士が敵味方に分かれて戦っていたようです。このことから、この戦いに本願寺が中立の立場を見せていたことをうかがわせます。
 元亀元年(1570)九月十二日夜半、三好三人衆と交戦中の織田信長勢に対して本願寺は突如攻撃を仕掛けます。この奇襲に織田方は動揺したようです。本願寺が信長への攻撃を決めたのは、顕如が送った九月二日付の美濃郡上門徒宛の消息に「信長が本願寺に無理難題ばかり押し付けてくるので、懸命に交渉してみましたが、その甲斐なく大阪本願寺を破却すると告げてきました。もうこれ以上どうしようもありません。ですから、親鸞聖人の教えを伝えてきた私たちとしては、この教えが途絶えることのないように、あなた方に身命を顧みず忠節を通していただきたい。もしこれに応えられない者は門徒から破門されることになります。そうならないように努力していただきますように」(文責・杉谷淨)とありますから、少なくともこの十日前です。この年、教如は十三歳で得度を受けたばかりでした。もっとも、信長が本願寺を破却すると伝えてきた資料は残っていません。
 本願寺の信長攻撃に合わせて、浅井・朝倉両軍も南近江に侵攻し信長軍を挟み撃ちにします。信長は兵を返して下坂本に陣を張ります。これに対して朝倉は比叡山に陣を張り対峙します。比叡山は反信長方についたのです。信長に追われていた六角も湖南の三雲菩提寺城に進出します。尾張・美濃からは木下秀吉や丹羽長秀が援軍に向かい、途中本願寺一揆軍を破りながら瀬田に到着し信長に合流します。三好軍は四国からの援軍を得て山城にまで進軍し、伊勢長島では願証寺を中心とした一揆軍が尾張を攻め信長の弟信興(のぶおき)を自害に追い込みました。完全に包囲された信長は和議に動きます。まず、三好三人衆と六角との和睦が成立します。しかし、浅井・朝倉勢は和睦に応じませんでした。そこで信長は朝廷に調停を依頼します。正親町天皇の勅旨として、将軍足利義昭と関白二条晴良が浅井・朝倉を説得し、ようやく和議が成立します。
 何故ここまで信長勢が包囲網を敷かれたのかを知る手がかりが、信長と浅井長政が結んだ和睦の内容から伺えます。この取り決めは五カ条からなっています。
 一、両者の間に問題が生じた際は、本音を打ち明けあって相談すること。
 一、長政の北近江と信長の美濃の国境に防御ラインを設けないこと。
 一、朝廷に忠節を尽くすこと。
 一、将軍の政治に問題があった時には、浅井・織田が協力して対処する。
 一、公家や門跡に関わることについては、すべて浅井が取り仕切る。
ということです。これらを見る限り、信長に対してそれほど大きな義務は課していません。従来の権威を軽んじることを自重し、相談して物事を決めることで、出来ることならば仲良くやっていきたい、と受け止められるものです。

3)比叡山焼き討ち

 一旦岐阜に戻った信長ですが、翌年の元亀二年にはすぐに動き出します。正月には越前から大阪への商人の往来を将軍の名のもとに禁止します。これは、北陸と本願寺の連絡を遮断することが目的です。二月には浅野家臣の磯野を寝返らせ佐和山城を手に入れます。これに激怒した長政は湖北の本願坊主衆・門徒衆と共に織田方に攻め入ります。この攻撃は秀吉によって織田方が撃退していますが、織田が六角から奪っていた南近江では、六角と同盟を結んだ本願寺門徒による大規模な一揆が各地で起こっています。また、五月に信長は弟を自害に追いやった長島願証寺を討つために尾張津島に出陣します。しかし、本願寺軍の抵抗により大きな被害を出して撤退します。
 そこで、八月には湖北に向けて進軍し、浅井を牽制しつつ南近江の一揆を鎮圧します。そして九月十二日、比叡山にあった延暦寺根本中堂や日吉(ひえ(日枝)、ひよし)大社をことごとく焼き払います。この焼き討ちによって、延暦寺の僧侶、日吉大社の神官のみならず、戦禍を逃れて避難していた坂本の町人も皆殺しにされました。一方で、元亀三年(1572)正月に六角と本願門徒が立てこもっていた金森城は、七月に落城後、九月には楽市・楽座令が施行されています。金森は蓮如以来本願寺門徒の多い町でしたが、信長の勢力下にある間、本願寺は禁止されています。信長の意に副う者に対しては寛大な処置がなされています。このことは、近江顕証寺が一門寺院であるにもかかわらず、一揆に加わらないことを条件に寺内を安著されていることからもわかります。

4)足利義昭と信長の争い

 元亀三年になると、将軍足利義昭と信長の関係が悪化していきます。義昭は、武田信玄と上杉謙信の和睦成立を信長に命じます。七月に信長は謙信と交渉しようとしますが、実現性の乏しいこの勧告は決裂し、武田と織田の関係は悪化し、逆に織田と上杉が同盟します。八月に義昭は、今度は信玄に織田と本願寺の講和を命じます。これを信長が受け入れるはずもなく、武田と織田の関係は決定的なものとなります。九月には、今度は信長が義昭に次のような十七条の異見書を送りつけます。そのおおよその内容は次のようなものです。
 一、宮中への参内を怠らないように申し上げたのに将軍はこれを守らない。
 一、諸国に馬などの献上を求める時は、私(信長)が添え状を付ける約束をしたのに内密で行っている。
 一、幕府へ忠節を尽くしている者に相応の恩賞を与えず、新参者で身分の低い者を厚遇している。
 一、ただでさえ将軍と私の不和が噂される中で宝物を地方に避難させたのは、取り成している私の苦労が無駄になる。
 一、賀茂神社の所領の一部を没収し岩成友通(三好三人衆の一人)に与えたのはどういうことか。
 一、私に友好的な者に対しては、不当な扱いをするとはどういうことか。
 一、何の落ち度もないのに扶持の加給がないと私に訴えてきた者たちを将軍に取り次いだのにこれを聞き入れないのでは、私の面目が立たない。
 一、若狭の安賀庄の行跡についての申し立てを私が了承しているのに、いまだ決裁されていない。
 一、喧嘩で死んだ者が遊女屋に預けていた刀や脇差などを、将軍が没収したのはいかがなものか。
 一、元亀という年号は不吉なので改元した方が良いと申しあげているのに、改元のわずかな費用も献上せず引き伸ばしているのは良くない。
 一、烏丸光康の懲戒の件で、密かに光康から金銭を受け取って許すようなやり方は良くない。
 一、諸国から献上されている金銀を内密で蓄えているのは何のためか。
 一、明智光秀が京の町で徴収した地子銭を差し押さえたのは不当である。
 一、昨年夏、幕府に蓄えていた米を金銀に代えたようだが、蔵に米を蓄えている方が世間に安心を与えるのに何を考えているのか。
 一、寝所に呼んだ若衆を厚遇していては、世間から批判されても仕方がない。
 一、武将達が金銀を蓄える事に専念しているのは、将軍がそのような行動をしているから京都を出奔するのかと推察しているためである。上に立つものは自らの行動を慎むべきではないか。
 一、将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。なぜこのように陰口を言われるか、今こそ良くお考えになってはいかがか。
というものです。この写しは全国の大名に配られました。

5)室町幕府の滅亡

 十月、ついに武田信玄は将軍の要請を受けて織田・徳川軍に向って進撃します。このことは九月には本願寺に知らされており、この進軍に合わせて、朝倉は浅井支援のために小谷城に入っています。信玄は遠江の家康軍を破ると三河に軍を進めます。浅井・朝倉軍と対峙している信長軍は武田軍に背後を取られることになりました。ことろが、何故か朝倉軍が越前に帰ってしまいます。さらに信玄が病に倒れ、武田軍も信濃に撤退します。
 翌年、元亀四年正月、顕如は朝倉義景に対して、本願寺勢が武田の引いた後も遠江・三河・尾張で戦っていること、越中では上杉謙信と戦っていること、浅井も本願寺の門徒によってようやく支えられていることを訴える書状を送っています。この時点では、まだ織田包囲網の方が優勢であったため、信長は西近江の一揆勢を攻略しつつ将軍に和睦を求めますがこれを拒否されます。
 そこで信長は、三月に自ら京へと兵を向けます。しかし、この時京では「武田信玄は三、四万を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば二万を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と本願寺勢の計一万五千が京に向かっている」などの風説が流れており、本当に信長が京に来られるとは思っていませんでした。ところが「信長はすでに近江に来ており、近いうちに京にやってくる」との報が伝わると、京の町は大混乱となります。義昭はすぐに兵をまとめると二条城に引き籠ります。京に入った信長は、一万五千程の軍を率いて知恩院に布陣します。ここで信長は、光秀と藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪と人質を差し出すことを条件にして和睦を求めますが、義昭はこれを拒絶します。そこで信長は上京と下京への焼き討ちを命じます。驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀千五百枚、下京は銀八百枚を信長に差し出します。信長は下京からは銀を受け取らず、焼き討ちも中止しましたが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許しませんでした。まず四月二日に洛外に放火させると、四日には二条城を包囲し、上京に放火しました。この時の光景を宣教師のフロイスは次のように記しています。
 「恐るべき戦慄的な情景が展開され、全上京は深更から翌日まで、同地にあったすべての寺院、神社、家屋はすべて焼失し、確認されたところでは、京周辺の平地二、三里にわたって五十ヵ村ほどが焼け、最後の審判の日さながらであったという。兵士や盗賊たちは寺院を襲い、僧侶らは僧衣を俗服に着替え、袖や懐に金銀や茶の湯の器を隠し持ちましたが、結局追剥の手中に陥り、所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって、彼らが隠匿していたものを白状させられてしまった。兵士や盗賊らが、出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るため加えていた残虐行為を見ることは、きわめて嘆かわしいことでした」(文責・杉谷淨)。
 七日に正親町天皇から和睦の勅命が出されると義昭は受諾します。この五日後に信玄が病死しています。
 信長はこの後も義昭が再び挙兵することを考え、琵琶湖から大軍を輸送するために、佐和山で大船の建造を開始します。全長三十間×幅七間(約54m×約12m)、艪が百挺、船首と船尾に櫓を備えるもので、信長が大工の岡部又右衛門を棟梁に任命し、自身も佐和山に滞在しこれを見とどけます。実際、この後すぐに義昭は再度挙兵し、信長はこの大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り義昭は降伏しました。これによって室町幕府は実質的に滅亡しました。ただし、義昭はまだ征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階も保っています。この後義昭は堺、次いで紀伊に亡命し、最後に毛利輝元を頼って備後鞆に落ち延びることとなりますが、再び京に入ることはありませんでした。
 






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