|真宗史|仏教入門講座
本願寺一揆から東西分派まで4
 ― 本願寺と織田信長の戦い - 
- 2015年12月9日

1、 浅井・朝倉氏の滅亡と長島一揆の抵抗


1)朝倉氏の滅亡


 織田信長(四十歳)は、元亀四年(1573)足利義昭を京都から追放すると、元号を天正に改めさせます。その天正元年(1573)八月八日、浅井方家臣寝返りの知らせを受けて北近江に向かうと、十日には小谷城の北にある山田山に陣を布き、朝倉と浅井を分断します。浅井長政からの援軍要請により朝倉義景は二万の軍勢を率いて北近江に向けて出陣しますが、この時、重臣筆頭で従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら)や有力家臣の魚住景固(かげかた)らは同行を断ります。朝倉義景が到着して以降も浅井方から織田方への離反は止まらず、朝倉方の兵までもが次々と脱走しはじめます。そして十三日深夜、朝倉義景が撤退を始めます。これを織田信長は自ら追撃し、この戦いで朝倉氏のもとに逃れていた斎藤龍興(たつおき)が討ち死にします。織田信長の追撃に、朝倉義景は本拠地の一乗谷から山田庄六坊賢正寺(大野市)に退去します。しかし、平泉寺(勝山市、現在の平泉寺白山神社)が織田信長に与したため、前後を挟まれる形になりました。助けを求めた朝倉景鏡までもが織田方に寝返ったため、二十日、朝倉義景は自決します。四十一歳でした。この時、朝倉義景の母と嫡男阿君丸は殺されましたが、娘はこの二年前に教如と婚約していたため、本願寺門徒の手によりこの難を逃れ、教如のもとに嫁ぐことになります。


2)浅井氏の滅亡


 八月二十六日、朝倉氏を滅ぼした織田信長は、浅井長政のいる小谷城攻撃を命じます。二十七日、羽柴秀吉が浅井長政のいる本丸と父である浅井久政のいる小丸の間にある京極丸を攻め落とすと、二十八日、浅井久政は自決します。四十八歳でした。織田信長は妹のお市の婿でもある浅井長政に降伏を進めますが浅井長政はこれに応じず、お市と三人の娘(茶々、初、江)を織田方に引き渡し、十歳の嫡男万福丸を城から脱出させると、自らは九月一日に自決します。二十九歳でした。万福丸も数日後には、越前に潜んでいたところを発見され関ヶ原で磔の刑にされます。これにより浅井氏は滅亡しましたが、長女の茶々(淀君)は豊臣秀吉に嫁ぎ秀頼を産み、次女の初は京極高次に嫁ぎ、三女の江は徳川家康の三男徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍家光を産むことになります。


3)長島一揆との再戦


 同じ九月、浅井・朝倉氏を滅ぼした織田信長は、先の合戦で弟の織田信興を喪っている長島一揆との戦いに向かいます。長島一帯は木曾・長良・揖斐(いび)川が海に流れ込む河口にあり、大小二十ほどの島のような中州から成り立っていました。『信長公記』によると、周りから隔絶していた土地であったため、各地から犯罪者などが集まって来たようで、これを本願寺がかくまっていたようです。一応は本願寺門徒となってはいたものの、念仏もしないで朝から晩まで遊び暮らしていたと書いています。これは織田信長が長島を攻めるための口実でもありますが、ある意味本願寺らしいともいえます。実際、斎藤龍興は織田信長に美濃を追われた後、一時この長島に逃れています。このような土地であるため、長島攻めには船が必要でした。そこで織田信長は北畠氏の養子になっていた次男の北畠具豊(後の信雄)に命じて、伊勢の水軍に協力を要請しましたがこれに失敗します。 それでも織田信長は長島攻めを強行します。この攻撃により北伊勢はほぼ平定されましたが、最後まで水軍の協力を得ることはできませんでした。仕方なく織田信長は長島攻めを諦めて岐阜へ撤退しますが、ここを一揆勢と伊賀・甲賀に襲われ、殿軍を務めた林通政(はやし みちまさ)が討ち死にしてしまいます。


4)本願寺と織田信長の和睦


 長島攻めに失敗した織田信長は、十一月に京都に入ります。これは、堺で織田信長と足利義昭の和解交渉が行われたためです。結局、この交渉は決裂し足利義昭は毛利氏へ庇護を求めますが断られ、紀伊へ向かいます。 交渉決裂を受けて、織田信長は三好義継の若江城に攻撃を命じます。三好方の家老の寝返りにより三好義継は一族を殺害した後に自決します。二十五歳でした。これにより、本願寺は織田信長と直接対峙しますが、ここで織田信長は本願寺に和睦を申し入れ受理されます。


2、本願寺・武田同盟の攻勢


1)本願寺の越前統治


 朝倉義景が織田信長によって滅ぼされた後、越前は朝倉氏に仕えていた前波吉継(織田信長の家臣となって桂田長俊と改名)が守護代を務めていました。また朝倉氏でも織田信長の家臣となった者は領地を安堵されています。この時、朝倉景鏡は土橋信鏡と改名し、朝倉景健(かげたけ、姉川の戦いの朝倉方総大将)・景盛・景泰らは安居(あご)に氏を改めています。
 天正二年一月、越前府中城の富田長繁は、越前各地の土一揆勢と協力して一乗谷にいた桂田長俊を攻め自決に追い込みます。さらに北ノ庄にいた明智光秀や織田方についた朝倉氏にも攻め込み、明智光秀を越前から撤退させます。この前年の天正元年十一月、本願寺は越前の織田方に備えて、寺侍の七里頼周(しちり よりちか)を加賀に派遣していました。本願寺一揆勢が土一揆の主導権を握るようになると加賀の七里頼周を越前に迎え入れます。二月中旬、越前本願寺一揆衆は加賀本願寺一揆衆と合流し富田長繁を攻撃し殺害します。この内紛の中、土橋信鏡は平泉寺と共に本願寺一揆勢と戦います。本願寺は混乱状態に陥った越前を収集するために、越中の本願寺総大将であった杉浦玄任を越前の本願寺総大将に任じます。これは、上杉謙信からの攻撃を大量の鉄砲による一斉射撃によって撃退した実績をかわれてのものでした。加賀、越前合わせて二万に膨れ上がった本願寺勢は、残っていた織田家臣を一掃すると平泉寺に攻め込み、四月、土橋信鏡を打ち取り平泉寺も滅ぼしてしまいました。これにより本願寺は加賀に加えて越前も勢力下におくことになります。杉浦玄任は大野の亥山城に居を構え、下間和泉が足羽(あすわ)、七里頼周が府中以西を統括します。織田信長はこれに対して羽柴秀吉や丹羽長秀らを越前敦賀に派遣しますが本格的な戦いにはなりませんでした。武田勝頼が動き出したのです。


2)武田勝頼の参戦


 一月二十七日、本願寺と同盟を結んでいた武田勝頼が岐阜の明智城を包囲します。二月一日、織田信長は尾張・美濃の軍勢に武田攻めを命じると、五日には自身も織田信忠と共に出陣しますが、織田方の武将が武田に寝返り明智城は落城してしまいます。この後、織田信長は京都に入り、正倉院から蘭奢待(らんじゃたい)を天皇より賜ります。織田信長は、この蘭奢待を家臣らに分け与えたといいます。
 連戦連敗の織田信長が奈良を訪れると、紀伊に逃れていた足利義昭が本願寺・武田・上杉・北条らに対して、織田氏討伐を促す書状を送ります。四月三日、本願寺は織田信長との和睦を破り摂津中嶋城を攻め落とします。さらに河内高屋城の三好康長と遊佐信教が織田信長から離反します。 これに対して、織田信長は住吉や天王寺一帯を焼き払い高屋城の遊佐信教を討ち取りますが岐阜に帰城します。
 六月に武田勝頼が徳川家康領の遠江高天神城を包囲します。織田信長は織田信忠を従えて援軍に向かいますが間に合わず、高天神城は落城します。織田信長はこの救援失敗の詫びとして、徳川家康に黄金袋を二つ(一袋を二人がかりで持ち上げた)と馬を贈ったといいます。


3、織田・上杉同盟の反撃


1)長嶋一揆の敗北


 上杉謙信は、武田信玄対策として織田信長と同盟を結んでいましたが、武田信玄の死去により同盟の意味が薄れていました。同盟を維持したい織田信長は『洛中洛外図屏風』や『南蛮のビロードのマント』などを上杉謙信に贈ります。結果、この同盟は維持され、織田・上杉による本願寺反撃が行われます。
天正二年七月十三日、織田信長は三万の軍勢を率いて三度目となる長島攻撃を行います。先の二回の失敗から、今回はまず陸上から長島を完全に包囲します。そして十五日には、海上から九鬼水軍と伊勢水軍に、大型船によって新たに組織された織田信長の次男・北畠信雄と三男・神戸信孝の水軍によって制海権も奪いました。船の総数は安宅船(あたけぶね)を中心に数百隻にも及びました。安宅船とは、この時代に作られた巨大な軍船で、その大きさは大きいもので長さ五十メートル以上、幅十メートル以上あり、数十人の漕ぎ手により、数十人から百数十人を乗船させたといいます。
  織田軍の包囲網に逃げ場を失った一揆勢は、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の五つの島に立て籠ります。八月二日夜、大雨の中、大鳥居に籠城していた一揆勢が脱出を試みますが発見され、男女千人近くが皆殺しにされます。十二日、今度は篠橋で籠城していた一揆勢が「長島に潜り込んで織田方のために働く」と提案し織田信長に許しを乞います。織田信長はこの策を受け入れ長島への退去を認めます。これにより長島には二万以上が集まりました。この状態で、織田信長は兵糧攻めを行います。九月二十九日、餓死者が続出した長島は城主の自害を条件に降伏を申し出ます。織田信長がこの申し出を受け入れたため、生き残っていた一万を超える一揆衆は船で長島を退去します。これを織田信長勢は三千丁の鉄砲で攻撃しました。この攻撃に対して七、八百人ほどの一揆衆が織田信長本陣に切り込みます。これによって織田信長の兄織田信広や弟織田秀成、叔父の織田信次など十名を超える一族が討ち死にします。 激怒した織田信長は、残る屋長島と中江に火を放ち、老若男女二万人が焼き殺されました。


2)本願寺の劣勢


 同じ七月、上杉謙信は越中を一気に平定すると加賀に侵攻します。
さらに越前では、本願寺の侍衆とその統治下におかれた越前の坊主衆・門徒衆との間がうまくいかず、七月から立て続けに武力衝突が起こります。このため、織田勢からの攻撃に対する備えは手薄なものとなってしまいました。
 天正三年四月六日、織田信長は十万ともいわれる軍勢を率いて本願寺に向かいます。この大軍を前に三好康長は高屋城に籠城せざるを得ませんでした。これを見た織田信長は、誉田八幡(羽曳野市)・道明寺河原(藤井寺市)・住吉(大坂市住吉区)などの村や田畑をすべて焼き払い、本願寺の兵糧を潰してしまいます。三好康長が降伏すると河内の城は全て破却してしまいます。これにより本願寺は孤立しますが、二十一日、織田信長は京都に帰ってしまいました。三河の長篠城に武田勝頼が迫っていたため、徳川家康から援軍の要請があったのです。


3)織田の武田撃破


 四月十二日、武田勝頼は、一万八千の兵を率いて長篠城に向かい出陣し、五月一日には五百人が守る長篠城を包囲します。十五日、織田織田信長・信忠は三万近い軍を率いて岡崎城で徳川家康と合流します。二十一日、反撃に出た織田勢に武田勢は総崩れとなり武田勝頼は退却します。この敗戦で、武田方は多くの重臣と数千の兵を失います。さらに美濃から武田勢を駆逐するため、織田信長は織田信忠に岩村城の攻略を命じます。しかし、日本で一番高いところにある山城(標高七百二十一メートル)を落としきれず長期戦となってしまいます。


4)織田の越前奪還


 八月十二日、織田信長は越前に水軍を含め十万の兵力で出撃します。十五日に総攻撃が始まると、内部分裂で士気の下がっていた一揆勢から寝返る者が続出します。この織田信長の攻撃には高田派の寺院門徒も参加しました。織田信長は、この前年天正二年七月に、高田派に対して所領を安堵する見返りに越前攻めの協力を取り付けていたのです。下間頼照は高田派黒目称名寺の門徒によって殺害されたという史料もあります。さらに、天正三年六月には日蓮宗や三門徒派とも協定を結んでいます。この一連の戦いで、三万以上の一揆勢が打ち取られました。総大将の杉浦玄任は敗死したとも加賀帰国後に処断されたとも言われます。この時、織田信長勢は「数のしるしに鼻を削」いで持ち帰ったと大乗院門跡が残した『越前国相越記』にあります。この後、南加賀に攻め込んだ織田勢は能美郡と江沼郡の二郡を平定しました。この時、主だった僧侶や寺侍は処刑されていますが、一般門徒は高田派に転派すれば許されました。これによって加賀と本願寺は分断されてしまいます。


5)本願寺の和睦申し出と長曾我部の織田接近


 十月二十一日、本願寺は織田信長方の三好康長と松井友閑を通して、中国宗代の絵三軸を和睦の証として献上し織田信長に和議を申し入れます。同時に、紀伊にいた足利義昭を通じて毛利氏に救援を要請します。さらに紀州熊野の門徒には鉄砲衆を含めた百名を本願寺に送るよう求めています。毛利はこの時点で織田との関係を決めかねますが、翌年二月、足利義昭が毛利領の鞆(とも)に移り住んだことから織田との対決を決断し本願寺と手を結びます。
 この年土佐を平定した長宗我部元親は、四国平定のために織田信長に接近します。長曾我部元親は明智光秀の重臣である斎藤利三の異父妹を正室に迎えており、この縁を頼りに明智光秀を介して織田信長との交渉にあたります。これにより、長曾我部元親の嫡男である長曾我部弥三郎は長曾我部信親と改名し、さらに「四国勝手切り放題」の許しも得ます。


6)安土城の建設


 十月十日、織田信忠がようやく岩村城を落したため、十一月二十八日、織田信長は家督を織田信忠に譲ります。尾張・美濃の二ヶ国とともに「星切りの太刀」を含めた多くの家宝を譲り、自らは茶の湯の道具のみを持って佐久間信盛の屋敷に移りました。この時、織田信長は四十二歳、信忠は十九歳でした。ただ、譲ったのは織田家の家督であり、織田信長としての地位はそのままです。
 岐阜城を譲った織田信長は新たな城を築くことになります。それが安土城です。天正四年一月中旬、近江の安土山に城を築き始めます。織田信長は京都の二条城を解体して建材に利用します。さらに石垣の構築のために石仏や墓石、古墳時代の石棺までも利用しました。特に『蛇石』といわれる巨石を引き上げるために、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益らが一万人を指揮し三日かかったといいます。ルイス=フロイスの『日本史』には、途中この石が滑り落ちて百五十人が下敷きになり死亡したとあります。ただし、この石は今も発見されていません。この安土城が完成したのは三年後の天正七年です。しかし、完成からわずか三年の天正十年六月に、何者かの手によって放火され安土城は焼失してしまいます。

4、本願寺籠城戦


1)織田信長の本願寺包囲


 天正四年四月十四日、織田信長は本願寺攻めを命じます。これに対して本願寺は数千丁の鉄砲隊で応戦し、逆に織田方の天王寺砦に一万五千の兵力で攻め込みます。京都にいた織田信長は三千の手勢で援護に駆けつけ、足に銃弾を受けながらも本願寺勢を退却させます。この時、本願寺総大将の一人である雑賀孫市が打ち取られ、その首が京都にさらされたとあります。ところが同一人物と思われる鈴木孫一重秀は織田信長に怪我をさせた褒美として親鸞聖人御影を本願寺から受け取り、この後の戦いにも参加しています。
 織田信長は本願寺の周囲に十ヶ所の砦を築き封じ込めます。これ以降、天正八年八月に本願寺と織田信長が講和するまで、四年間の籠城戦が続くことになります。この時、本願寺には北町・南町・西町・北町屋・清水町・新屋敷の「六町」と檜物屋町・青屋町・造作町・横町などの「新町」があり、そこに坊主・門徒衆など四万人が住んでいたといいます。当然、食料や武器はすぐに底をついてしまうことになります。


2)本願寺の包囲網対策


 天正五年二月、本願寺に与していた鉄砲隊の一部(雑賀の三緘(みからみ)衆と根来寺の杉之坊)が織田信長に付きます。そこで織田信長は十万の大軍で雑賀を攻撃します。しかし、わずかに二千の雑賀を落としきれませんでした。三月十五日、やむなく織田信長は雑賀の指導者らに対し和睦に近い降伏勧告をします。降伏するならば命は助けるというこの内容に、雑賀衆も本願寺攻めに協力することを誓い合意します。しかし、雑賀衆はこの後再び本願寺に協力することになります。
 天正五年三月七日付けの本願寺からの添状に、初めて「善知識」という言葉が現れ、これ以降頻繁に使用されることになります。「如来聖人」や「聖人・善知識」という言い方で、阿弥陀如来と親鸞聖人、顕如を同格に扱うようになりました。ルイス・フロイスは『日本史』の中で、顕如が阿弥陀如来の化身であると信じられていると述べています。門徒の本願寺に対する忠誠心をより強固なものにする狙いがあったともとれます。
 天正四年五月、本願寺は長年対立していた上杉謙信と和睦します。織田信長の南加賀二郡支配により、上杉謙信の当面の敵が本願寺から織田信長に変わったのです。これ以降、上杉方からの食糧支援も本願寺に届きます。
天正五年七月十五日、大量の食糧を積んだ毛利水軍の大船八百隻が本願寺に到着します。これを阻止するために織田方は三百隻の水軍で攻撃しますが、焙烙火矢(ほうろくひや)を用いる毛利水軍の前に殲滅します。これによって、長期的な籠城戦が可能となりました。


3)上杉謙信の参戦


 天正五年閏七月、上杉謙信が能登七尾城攻略のため出陣します。この時七尾城は織田方の長氏と上杉方の遊佐氏が争っていました。八月、長氏からの援軍要請に織田信長は、柴田勝家や羽柴秀吉等に命じて三万の大軍を送ります。織田勢は南加賀の本願寺勢を打ち破り、手取川を超えたところで陣を張りますが、ここで羽柴秀吉が勝手に撤退してしまいます。七尾城攻略に手間取っていた上杉謙信ですが、九月十五日、七尾城内で遊佐氏が長氏一族を皆殺しにしたことで七尾城は落ちます。七尾城を攻略した上杉謙信は同盟を結んでいた本願寺領の北加賀を抜けて一気に手取川まで南下します。二十三日、両軍は手取川付近で激突します。織田勢は大敗し、後に「上杉に逢(お)うては織田も名取川(手取川)、はねる謙信逃(にぐ)るとぶ長(織田信長)」とまで歌われました。しかし、上杉謙信はその後越前に攻め込むことなく越後に引き上げます。


4)松永久秀・別所長治の裏切りと難航する丹波攻め


 八月十七日、本願寺包囲網の一角であった松永久秀・久通父子が織田信長を裏切り、所領の大和信貴山城に立て籠もります。織田信長が織田信忠を総大将とした軍で松永勢に攻め込んだのは、謙信が越後に退却するのを確認してからの十月一日でした。十月十日、松永を追い詰めた織田信長勢は、久秀が所有している名物「平蜘蛛釜」を差し出せば命は助けるという条件を出します。これを拒否した久秀は「平蜘蛛釜」に火薬を詰め、それに火を放ち爆死します。
 この後、織田信長は本願寺との戦いを一時中断し、羽柴秀吉を播磨、明智光秀を丹波に攻略させます。一旦、播磨を制圧した羽柴秀吉でしたが、別所長治が謀反したため逆に孤立してしまいました。明智光秀も赤井氏や波多野氏の抵抗にあい、丹波制圧は進みませんでした。


5)上杉謙信の死と毛利の参戦


 天正六年三月九日、関東に攻め込もうとしていた上杉謙信が厠で倒れ、十三日に意識不明のまま逝去します。四十九歳でした。この急死によって「御館の乱(おたてのらん)」と呼ばれる家督相続争いが起こります。生涯独身であった謙信には三人の養子がいました。上杉謙信の義兄長尾政景の子である上杉景勝、北条氏康の七男で長尾景勝の妹と結婚していた上杉景虎。そして、やはり長尾景勝の妹と結婚した能登畠山氏出身の上杉政繁です。ただし上杉政繁は上条上杉氏を継いでいたため、景勝と景虎の二派の争いとなり、北条氏や武田氏も巻き込んで泥沼化します。この乱は景虎の自害により上杉景勝が家督を継ぐことで決着しますが、二年間にわたり上杉は内政に振り回されることになります。
 四月四日、上杉謙信の死去を知った織田信長は本願寺攻めを命じます。しかし、この時は本願寺領の麦畑を荒らしただけで退却しました。四月中旬、織田方の尼子勝久・山中鹿介幸盛らがいる播磨の上月城(こうづきじょう)を毛利勢が包囲したのです。二十九日には五万の軍勢を毛利に向かわせますが、織田信長は上月城を見捨て織田から寝返った別所長治のいる三木城を攻略するように命じます。これによって上月城は落城し、尼子勝久は切腹、山中鹿介は投降しますが殺害されてしまいます。


6)鉄甲船の登場と織田の上杉攻め


 六月二十六日、熊野灘から大坂・堺港に向かっていた織田水軍に本願寺方の雑賀水軍が攻撃を仕掛けます。これまで、水軍では毛利水軍の援護を受けて本願寺方が圧倒的に有利でしたが、この戦いでは織田水軍に完敗します。この時の織田水軍の陣容は、九鬼嘉隆率いる大船六隻と滝川一益率いる白船一隻でした。この九鬼嘉隆の大船がいわゆる「鉄甲船」です。奈良興福寺多聞院の『多聞院日記』によると、この船は長さ二十三メートル・幅十三メートルの鉄の船で五千人が乗れたとあります。また大砲と銃身の長い鉄砲も据え付けられていたようです。また、宣教師オルガンチーノはこの船を華麗にして本国の船のようだと報告しています。白船とは中国式の船のようです。これ以降、この水軍は本願寺に物資を運び入れようとする毛利水軍の妨害を行うようになります。
 九月には、相続争いで混乱している上杉領の越中攻略にかかります。これを指揮したのは斎藤道三の子である斎藤新五郎です。上杉方の寝返りと新五郎の策略で十月には越中の大半が織田の手に移ります。


7)荒木村重の謀反と武田勝頼の攻勢


 十月、織田方に向きかけた風が変わります。本願寺を包囲していた荒木村重が謀反を起こします。これに、尼ヶ崎城主の嫡男荒木村安(明智光秀の娘婿)、茨木城主で従兄弟の中川清秀、高槻城主の高山右近も同調します。この頃、荒木方の城には、織田信長の小姓衆や馬廻衆が派遣されていましたが、村重はこれを解放し、荒木村安の妻となっていた光秀の娘も離縁され送り返しています。
 武田勝頼は荒木村重の謀反に合わせて遠江に侵攻します。徳川方とにらみ合いの末、互いに兵を引きますが、これが牽制となって徳川は織田信長に援軍を送ることができなくなります。


8)毛利水軍の敗北


 苦境に立った織田信長は、本願寺・毛利と和議を結ぼうと正親町(おおぎまち)天皇に仲裁を依頼します。しかし、本願寺は荒木村重・村次父子と誓紙を交わして、村重が本願寺に人質を送ることが決まっていたため返事を渋ります。毛利も有利な状況を捨てるはずもありませんでした。これに対して織田信長は、十一月四日、織田と毛利の講和を命令する綸旨を朝廷から取り付けます。
この勅使が毛利に向かう直前、大坂湾に毛利水軍の大船六百隻が到着しました。この大船団と鉄甲船六隻を含む織田水軍が戦います。鉄甲船には護衛のための小型船も配備してありました。この戦いは織田水軍の勝利に終わり、本願寺への兵糧や武器の供給は途絶えてしまいました。
 十一月九日、織田信長は織田水軍の勝利が決まると、有岡城の荒木村重攻めを命じます。さらに、キリシタンである高槻城の高山右近に、宣教師オルガンティーノを派遣し説得します。この時織田信長が出した条件は、もし投降すれば教会を自由に建設してもよいが、しなければキリスト教を禁教とし弾圧するというものでした。これによって右近は降伏します。さらに茨木城の中川清秀も織田方に投降します。徐々に荒木村重を追い込んでいった織田信長は、十二月、本願寺との間に進めていた和睦を撤回し毛利氏に送る予定だった勅使の派遣も中止します。


9)安土宗論


 天正七年五月中旬、安土城下で浄土宗の僧侶・玉念霊誉に、法華宗の信者二人が論争を挑みました。しかし、霊誉は師僧となら論争に応じると、その場での論争には答えませんでした。これを聞いた、頂妙寺の日珖・常光院・九音院、妙顕寺の大蔵坊、妙国寺の不伝という法華宗の僧が論争に名乗りを上げます。織田信長はこれを止めますが、法華宗側は従いませんでした。五月二十七日、安土城下にあった浄土宗の浄厳院に、浄土宗の霊誉・貞安らと信者、法華宗の僧達が集まります。判定者として京都・南禅寺の景秀鉄叟と、偶然居合わせたという渡来僧・因果居士が立ち会いました。六回の応酬の後、七回目の浄土宗側の問いに対して法華宗側が返答に詰まったために浄土宗側の勝利となります。織田信長は敗れた法華宗から、今後法華宗が他宗に対して論争を挑むことをしないという折伏禁止の証文と、罰金二万六千両を徴収しました。

5、本願寺撤退


1)織田信長の優位


 天正七年八月、明智光秀は四年がかりでの丹波平定を成し遂げます。九月二日夜には、十ケ月籠城の末、荒木村重は、五,六人の家臣と茶道具『葉茶釜』と愛妾とともに有岡城を脱出し、荒木村次が守る尼崎城へ向かいます。有岡城は、その後約二ヶ月に落城しました。荒木村重はこの後毛利領に逃れます。
九月五日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。武田勝頼はこの同盟に対抗して、十月に妹を上杉景勝に嫁がせ関係を強めますが、武田は北条と徳川に挟まれる形になってしまいました。さらに十月、織田信長と北条氏政は同盟を結びます。越中も織田の勢力下になっていますから、武田勝頼は上杉氏以外すべてを敵に囲まれることになります。
 天正八年一月には、羽柴秀吉によって、二年にわたる戦いの末、ようやく別所氏の三木城が落城します。これによって、本願寺は完全に孤立してしまいます。


2)本願寺明け渡し交渉


 三月一日、織田信長は朝廷を通して本願寺に和睦を持ち掛けます。同時に、河内にあった本願寺方の寺内町を焼き払い圧力をかけますが、本願寺の顕如は返事を渋ります。三月十七日、織田信長は本願寺に対して和睦条件を起請文にして朝廷を介して送ります。それは次の様なものでした。
・惣赦免(籠城衆の命の保証と賠償支払いを求めない)
・退去時の安全を保障するために人質を大坂に送る
・末寺との行き来を保証する
・現在織田が占領している南加賀二郡を大坂退去後に本願寺に返す
・七月の盆前に本願寺は大坂を退去する
・現在本願寺が抑えている花熊、尼崎は大坂退去時に明け渡す
本願寺内部では、この和睦条件の受け入れをめぐり、顕如や如春尼ら和睦派と、顕如の長男・教如や雑賀衆ら交戦派に分かれ対立します。この前年十二月、本願寺は正親町天皇より織田信長との和睦を命じられていました。この時、顕如は本願寺を毛利領内に移す計画を立てますが毛利方から断られたため、これ以降本願寺の移転先を探していましたが、まだ見つかっていなかったのです。交戦派は、今まで何度も織田信長に騙されていることを主張していたため、織田信長は再び本願寺に対して誓紙に偽りがないことを伝えました。これを受けて、閏三月五日、顕如は血判起請文を織田方に提出しました。これには教如の同意も示されています。この起請文には五か条の和睦条件が記されていますが、ここには南加賀二郡の返還は書かれていませんでした。これにより、本願寺と織田信長の和睦は成立しました。


3)柴田勝家の北加賀攻めと顕如・教如の対立


 ところが、閏三月九日、柴田勝家が北加賀に攻め込みます。勝家は手取川を越え宮ノ越(金沢市)に本陣を構えます。本願寺勢は野々市砦に立て籠もり抵抗しますが勝家に敗れ、越中の国境まで追撃されます。さらに柴田勝家は安養寺越え(石川県・鶴来町)付近を焼き払い、木越(金沢市)の寺内町にも攻め入りました。また、能登でも織田方の長連龍が飯山(羽咋市)で上杉方の温井景隆を打ち破ります。閏三月十一日、ようやく織田信長は各地で本願寺勢力と戦闘を続けている諸将に『矢留』といわれる停戦命令を発布しましたが、加賀の平野部はすでに織田方の手に落ちてしまっていました。
 これを見た教如や雑賀衆は、毛利や武田、上杉との戦いを続けている織田信長が本願寺との和睦を守るとは考えられないとし、本願寺に籠って織田信長に抵抗を続けるように主張しました。そして閏三月下旬、全国の門徒に決起を呼びかけます。これにより、すでに織田信長との和睦していた顕如とは異なる指示が、同じ本願寺から出たことになりました。


4)本願寺明け渡し


 顕如と教如の対立が続く中、鈴木孫一らの仲介で、四月九日、顕如は本願寺を教如に残して妻の如春尼や下間頼総らと大坂から船で紀州へ退去しました。この時顕如は朝廷に対して、七月までには教如を大坂から退去させることを約束しています。
 しかし、本願寺に残った教如は、四月中旬ごろから顕如から本願寺を相続したと主張し、五月には法名や本尊、宗祖や歴代本願寺住職の御影も授与しはじめます。教如からの呼びかけに応じて、六月には加賀の山内衆が柴田勝家勢を破り、上杉景勝に対して支援を求めています。
 七月十七日、このような教如の行動にしびれをきらせた織田信長は、八月十日までに大坂を退去したならば、坊主・門徒の赦免と加賀を返還するとの条件を再び提示します。さらに教如の地位も保証します。これを受けて、八月二日、教如も大坂を退去します。この翌日八月三日に、本願寺は原因不明の失火により三日三晩燃え続け消失してしまいました。


4、顕如と教如の対立と和睦


1)本願寺分裂の兆し


 本願寺を退去した教如は顕如のもとへ行こうとしますがこれを拒否されます。これは、顕如が本願寺を撤去した段階で引退しており、教如が本願寺を継承したと主張していたためです。また、教如はこの後も織田信長との対決姿勢を崩してはいませんでした。これに対して、顕如派は顕如がいる紀州雑賀が本山であり顕如に忠誠を誓うように全国の門徒に求めています。
 顕如と会えなかった教如はしばらく和歌浦に蟄居しますが、天正八年からは各地を転々とします。これは各地の本願寺寺院や門徒を周り、支持を取り付けようとしたものと思われます。この結果、これ以降も本願寺の指示として全く逆の内容のものが全国に出続けることになります。
 例えば、顕如は加賀四郡の門徒に、織田信長が加賀を本願寺に返してくれると約束しているので、柴田勝家と戦わないように、また教如が派遣した二人の使者を成敗するように指示しています。天正九年には、後に本願寺を継承する三男の准如が越前本行寺の住職になっています。この時、越前と加賀からその与力となるための四十数ヶ寺が選ばれていますが、その中に木越光徳寺・宮保聖興寺・宮永極楽寺・松任本誓寺・押野上宮寺・須恵光専寺・安宅正楽寺・英田弘済寺・宮丸喜予の九ヶ寺が加賀から選ばれています。これは柴田勝家の統治下で、本願寺寺院が活動出来していたことを表しています。
 一方で教如の指示のもと、鳥越に立て籠った加賀山内惣中は、この後も抵抗を続けました。天正九年三月に白山麓の二曲(ふとうげ)で一揆が、天正十年初めには山内で一揆が起こっています。この時、吉野村から尾添(おぞう)村までの七か村の三百人が磔になったといいます。越中でも天正九年九月に川上辺で、十月には五箇山で戦いがありました。これが北陸での本願寺一揆最後の記録になります。


2)高野山攻め


 天正九年一月、根来寺と高野聖が高野大衆一揆を結成して織田信長と敵対します。これに対して、織田信長は、高野聖千三百八十三名を伊勢や京都七条河原で処刑します。十月には根来寺と高野山に攻め込み、翌天正十年までに多数の僧侶や信徒を殺害しました。後に織田信長の嫡孫織田秀信が関ヶ原合戦で西軍に付いたため改易され高野山に送られ出家しますが、この時のことが原因なのか、高野山を追放され二十六歳の若さでこの世を去っています。


3)武田氏の滅亡


 武田勝頼は長篠合戦の敗退後、人質の織田勝長を返還することで織田信長との和睦を模索しましたが話は進みませんでした。天正十年二月一日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返ると、三日、織田信長は武田攻めを命じます。徳川家康や北条氏直らも加わった十万にも及ぶ軍勢が攻め込むと、武田勢は次々と降伏します。そして、三月十一日、滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り武田氏は滅亡しました。


4)本能寺の変


 長宗我部元親は織田信長から「四国勝手切り放題」の許しを得ていましたが、四国統一が現実味を帯びてくると、織田信長は土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫ります。しかし、長曾我部元親は織田信長の要求を拒絶します。天正十年五月、織田信長の三男神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されます。長曾我部元親は妻の兄であり、明智光秀の重臣でもある斎藤利三に書状を送り、織田信長の要求をすべて受け入れることを伝えます。明智光秀はこのことを織田信長に伝えますが、織田信長はこれ受け入れず、六月二日に四国を総攻撃するよう命じます。
 その六月二日、中国遠征の出兵準備のため、本能寺に逗留していた織田信長を、羽柴秀吉の援軍に向かっていたはずの明智光秀が襲撃します。百人ほどの手勢しか率いていなかった織田信長は、自ら火を放ち自害します。四十八歳でした。本能寺に多くの火薬が備蓄されていたため大規模な爆発が起き、明智光秀の娘婿・明智秀満が織田信長の遺体を探したが見つからなかったといいます。織田信長の死によって長曾我部元親は攻撃を受けることはありませんでした。
 織田信長の死亡を顕如は「信長滅亡により、国々静謐に罷りなり候」(光厳寺文書)、「如来聖人へ信長弓を曳き申し候仏罰によって、京都本能寺にて滅亡す」(明楽寺文書)と書いています。この時教如は越中の善徳寺から上杉のいる越後に向かっていたようですが、急きょ顕如のいる鷺森に向かいます。これを機に、顕如と教如の和解に尽力していた興正寺顕尊(顕如の次男)は朝廷に仲立ちを願い出ます。そして、六月二十七日二人は和解します(父子入眼)。この後、本願寺は再建へと向かいます。      






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