|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史3

‐仏教以前2 六師外道2‐

- 2018年8月17日
1.アジタ・ケーサカンバリン 唯物論者


 布施したものとか、祭祀したものとか、献供したものとか、〔宗教的な功徳をもったものはなにも〕存在しない。〔あるものはただ物体だけである。〕善行や悪行の結果とか報いというものは存在しない。さらにこの世も存在しないし、あの世も存在しない。母も存在しないし、父も存在しない。また死後に生まれかわった者も存在しない。〈道の人〉・バラモンであって、最高の境地に到達し、この世とあの世とをみずから体験し、みずからまのあたり証得したことを他人に宣べ伝える人々も、世間に存在しない。
 この人間は、〔地・水・火・風という〕四種の元素から構成されているにすぎない。人が死ぬときは、〔身体を構成している〕〈地〉〔の元素〕は〔外界の〕地の元素の集まりに没入する。〔身体を構成している〕〈水〉〔の元素〕は〔外界の〕水の元素の集まりに没入する。〔身体を構成している〕〈火〉〔の元素〕は〔外界の〕火の元素の集まりに没入する。〔身体を構成している〕〈風〉〔の元素〕は〔外界の〕風の元素の集まりに没入する。そうしてもろもろの感覚器官は虚空に合一する。〔四人の〕人間が、そして第五番目のものとして棺おけの台が、死者をその上にのせて運び、火葬場にいたるまで〔死者に対する讃嘆の〕ことばを人々は唱えて告げるけれども、しかし〔屍体が焼かれてしまえば、〕後には鳩色の骨が現われて〔残り〕、その供物は灰になってしまう。布施なるものは、愚者が考えだしたものである。いかなる人々が〔四元素以外に目に見えぬ精神的なものが〕存在すると説こうとも、それは空虚な虚言にすぎない。愚者も賢者も身体の破壊したあとでは、破壊し消滅する。死後にはなにものも存在しない。(アジャータシャトル王との対話より)

 ケーサカンバリンとは「毛髪の衣を着る者」という意味。集積論者のパクダが唱えた七要素説を合理化し、精神的な要素を全て排除した。このようにすべての因果関係を否定する考え方を、仏教では「断滅論」という。解脱という発想が存在しないため、快楽至上主義的になる傾向がある。善を求め、人としての道を求めた釈迦とは対照的な立場をとる。このような思想は主流とはならないが、時代を超えて繰り返し説かれたため「順世派」として括られている。それは次の様な論である。
 かれらの説においては、地などの四元素が実在原理である。身体のかたちに変化した四つの元素からのみ、精神が生ずるのである。それは酵母から酔わせる力(アルコール)が生ずるようなものである。〔身体を構成する〕これらの四元素が破壊されたときに、精神はおのずから滅びる。それゆえに、いう、「識のみなる〔アートマン〕はこれらの元素から生起して、それらが滅びるのに従って滅びる。死後には意識は存在しない」と。アートマン(霊魂)とは、その精神によって制限された身体にほかならない。なんとなれば、身体を離れたアートマンの存在することに関しては、いかなる証明方法も存在しないから。すなわち唯物論者たちは、感覚が唯一の知識根拠であるという議論を主張しているから、推論などを承認しないので、したがって、推論などには知識根拠としての意義が存在しないからである。
 このような思想を「身体即我の論」ともいう。それは次のように表される。
身体即我の論においては、「わたしは肥っている」「わたしは痩せている」「わたしは黒い」などという表現が共通の拠りどころをもつことが可能である。「私の身体」という表現は、」たとえば「ラーフ(頭だけしかない阿修羅)の頭」などという場合と同様に、比喩的な表現にすぎない。
 この論は、苦しみを消滅させ快楽だけの人生を送ることを自由であると認識した。アートマン(我)を否定している点では仏教と共通していることから、ジャイナ教は仏教を「仮面をかぶった唯物論者」であると非難している。後にこの四元素論は仏教に取り入れられ、四元素に空を加えて五大とした。真言密教ではこの五大を五輪と呼び、五輪塔はこれを表したものある。


2.サンジャヤ・ベーラッティプッタ 不可知論者


 もしあなたが〈あの世は存在するのか?〉とたずねた場合に、もしわたしが〈あの世は存在する〉と考えるのであるならば、わたしはあなたに〈あの世は存在する〉と答えるであろう。しかし〔実際には〕わたしはそのようにはしない。〈そのとおりだ〉とわたしは考えないし、〈それとは異なっているのだ〉ともわたしは考えない。わたしは、〈そうではない〉とも考えないし、またわたしは〈そうではないのではない〉とも考えない。もしあなたが〈あの世は存在しないのか?〉とたずねた場合に、…〔同様である。〕もしあなたが〈あの世は存在しかつ存在しないのか?〉とたずねた場合に、…〔同様である。〕もしあなたが〈あの世は存在するものでもなく、存在しないものでもないのか?〉とたずねた場合にも、…〔同様である。〕
 〈生まれかわった生きものどもは存在するのか?〉〈生まれかわった生きものどもは存在しないのか?〉〈生まれかわった生きものどもは存在し、かつ存在しないのか?〉〈生まれかわった生きものどもは、存在するのでもなく、存在しないのでもないのか?〉とたずねた場合にも、…〔同様である。〕
 〈善行・悪行には報いとしての結果が存在するのか?〉〈善行・悪行には報いとしての結果が存在しないのか?〉〈善行・悪行には報いとしての結果が存在し、かつ存在しないのか?〉〈善行・悪行には報いとしての結果が存在するのでもなく、存在しないのでもないのか?〉とたずねた場合にも、…〔同様である。〕
 〈人格完成者(如来)は死後にも存在するのか?〉〈人格完成者は死後には存在しないのか?〉〈人格完成者は死後に存在し、かつ存在しないのか?〉〈人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないのか?〉と、もしあなたがわたしにたずねた場合にも、もしわたしが、〈人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもない〉と考えるのであれば、わたしはあなたにそのように答えるであろう。しかし〔実際には〕わたしはそのようにはしない。〈そのとおりだ〉とわたしは考えないし、〈それとは異なっているのだ〉ともわたしは考えない。わたしは、〈そうではない〉とも考えないし、またわたしは〈そうではないのではない〉とも考えない。(アジャータシャトル王との対話より)

 このような思想は「鰻のようにぬらぬらとして捕えがたい議論」と呼ばれるが、同じような思想は西洋にも見受けられる。サンジャヤの思想は、一見道徳否定論に似ているようにも思われるが、善行をなすことを勧めているのでこれとは異なる(ジャイナ教聖典に残っているサンジャヤの思想は、善の実践が強調されたものである)。サンジャヤがこのように曖昧とも受け取られる思想の意味をシュラーダー教授は次のように説明している。
 もろもろの哲学者がたがいに異なった意見を対立させているように、学問とは、自惚と討論欲とをおこさせることによって、精神の汚染と意志の偏執とを生ずるものである。それゆえに人々はその道から離れて、人はなにも知らないし、またなにも知ることはできないということを、みずから承認しなければならない。この完全な、意見の中止によって、業からの離脱がおこり、ニルヴァーナが得られるべきである。
 実際、あらゆる思想との哲学論争を避けることによって、サンジャヤの教団は、苦行を伴った禅定を行じていたようである。サンジャヤ以外にもこのような主張をする者はいたようで、釈迦の一番弟子といわれるシャーリプトラ(舎利弗)の叔父もその一人とされている。釈迦は彼の主張に対して次のように反問したといわれている。
 もし汝がそのような見解を承認しないのであるならば、〈自分があらゆることがらを承認しない〉ということをどうして主張し得るのか?汝が〈なにものをも承認しない〉と主張していることを、だれが承認するのであろうか?
 しかし、仏教とジャイナ教はこの不可知論を発展させたものである。サンジャヤは マカダ国の都ラージャグリハ(王舎城)で二百五十人のバラモンを率いていたが、釈迦が最初に弟子にしたとされる五人の比丘のうちの一人であるアッサジ(阿説示)の教化によって、サンジャヤの弟子シャーリプトラ(舎利弗)とマウドゥガリヤーヤナ(目連)は二百五十人のバラモンを引き連れて釈迦の弟子になったという。これによって釈迦の教団が出来上がったのであるから、サンジャヤの思想が大きな影響を与えたことは間違いのないところである。

3.マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ) ジャイナ教


 ヴァルダマーナは本名。ナータ族の出身でニガンタという宗教教団に所属したことからニガンタ・ナータプッタとも呼ばれる。現在も続いているジャイナ教の祖であることから、一般には「偉大な英雄」という意味の「マハーヴィーラ」と呼ばれことが多い。ジャイナ教とは「ジナ(勝利者)の教え」という意味で、インドを中心に四百万人程の信徒がいると言われている。
 マハーヴィーラはヴァイシャーリーの北にあるクンダ村の王族の子として生まれ、父はカーシャパ・シッダールタ、母はヴァイシャーリー王の妹トリシャーラーである。三十歳で出家しニガンタ派に入り、その二年後ゴーサーラと出会い六年修行をともにするも分かれ、その四年後にジナとなる。その後、三十年間の教化の後、七十二歳で生涯を終えている。
 ジャイナ教は仏教と、時代・場所(東北インド)・創始者の階級(地方王族)・支持階級(新興勢力)・教団の形態が類似しているというだけではなく、教理や用語(ブッダ(仏陀)・ジナ(勝者)・マハーヴィーラ・タターガタ(如来)・アルハット(阿羅漢)・バガバット(世尊)など)も共通しているところが多い。相違点は、仏教が観念的な傾向が強いのに対して、ジャイナ教は実在論的なところである。

 ニガンタ(束縛を離れた人)はここに、四種の制戒(殺生・盗み・虚言・所有)による制御をもってまもられている。ニガンタはいかにして四種の制戒による制御をもってまもられているのであるか?ニガンタは、ここにすべての〔冷〕水を用いることを禁じ、またすべての水を離れ、またすべての水を除去し、またすべての水にみたされている。じつにこのようにニガンタは四種の制戒による制御をもってまもられている。じつにこのようにニガンタは四種の制戒による制御をもってまもられているのであるから、この人は〈ニガンタ〉、〈自己が〔究極に〕達した人〉、〈自己を制した人〉、〈自己の安住した人〉とよばれるのである。(アジャータシャトル王との対話より)

 四種の制戒の内、最初の三つは仏教の四戒と共通しているが、殺生に対する認識は異なっている。ジャイナ教は生命が宿る主体として、地・水・火・風・植物・動物の六種を立てている。文中に水が取り上げられているが、ジャイナ教にとって水は生きものであるという認識があったためである。「一切〔の生きもの〕にとって生命は愛おしい」「自分〔の場合に思い比べてみて〕他のものを観察せよ。そうすれば、汝は生きものを殺すこともないであろう。傷つけることもないであろう」ということがジャイナ教の利他的な倫理思想となっている。これは仏教にも共通するところもあるが、仏教とは違ってジャイナ教は、アートマンがすべての物体に偏在すると考えている。「みずから世界を傷つけてはならぬ。アートマンを傷つけてはならぬ。世界を傷つける者はアートマンを傷つける。アートマンを傷つける者は世界を傷つける」という見解を持っているために、不殺生戒によってあらゆる行動が制限される。ただしジャイナ教のアートマンは、バラモン教のような唯一常住偏在のものではなく、多数の実態的な個我のみを認める多我説であり、これは日本人が持っている感性に近い。ただし、日本人よりははるかに殺生に対する意識は高く、空気中の小さな生物も吸い込んで殺さないように白い小さな布きれで口を覆い、座る前には虫を踏まないように箒でその場を払ってから座る。火を使うことも極力避けるのも虫などが巻き込まれることを避けるためである。食べるものも、ジャイナ教の生物の分類学上できる限り下等なものを摂取することになっている。例えば、上等な部類に入る球根類は口にはしないが、下等な部類の葉は採っても枯れない位程度なら構わない。何も食べないことが理想なので、断食によって死にいたることは、修行を終えたジャイナ出家者・信者のみに許された最高の死に方とされている。自衛のための殺生も禁止されており、動物に襲われても、戦争に巻き込まれても決して相手を傷つけることは許されない。
 思想的な対立を嫌ったサンジャヤの思想は、その性格上、実際にはどのように考えればよいのかということを明確にすることが出来なかった。マハーヴィーラはこの問題に対して「もろもろの事物のあらゆる状態を一切の認識方法と一切の観察法の規定とによって認識した人は、詳細な知識を楽しむ者と呼ばれる」と答えている。このように、一つの事象をあらゆる視点からとらえることを目的とすることで、一つの答えに固執しないという考え方を不定主義(相対主義)という。「これである」「これではない」とは言わず「ある点からすると」などというように、常に状況に合わせた形で答えるということである。例えば、世界が永久に存在するのかしないのかという議論に対して、マハーヴィーラは両者をともに承認しながら、このような議論は現実社会の一つの状況を異なった関心から把握したために矛盾しているかのように見えているにすぎないものであると説明する。初期仏教ではこの議論を、両者ともに固執が生み出した極端な説であるとして否定している。
 マハーヴィーラは、自らの教えを普遍的なものとし理解していたため、過去にもこの法に気づいた者がいるとされた。これによって、ジャイナ教は過去にさかのぼって二十四人の祖師を想定するようになり、マハーヴィーラは二十四祖となっている。仏教も同じ立場をとり、初期には過去七仏、後には過去二十四仏を説くようになった。
 建前としては、生きるものすべて(衆生)を教えの対象としてはいるものの、実際には人間のために道を説いているところも仏教と同じであるが、ジャイナ教で悟りを得ることができる人間はアーリア人だけであり、ギリシャ人やサカ人、シナ人など、アーリア人以外の蛮民には不可能であるとしている。また、他の思想に対しては仏教とは比較にならないほど厳しく非難し、ジャイナ教以外の修行者に対する布施を禁じているが、他の修行者を嘲笑することは許していない。
 生きること自体を苦であるという認識も仏教と共通しており「始まりのない〔永遠の昔からの〕一切の苦しみおよびその根源からの解放」を理想としていた。また、無常観や苦しみの原因を煩悩ととらえているところも仏教と共通している。そして、煩悩を知り尽くすことによってすべての苦を克服できると考えたため、縁起的思考にもつながっていった。

 あたかも鶴が卵から生じ、また卵が鶴から生じるように、妄執が迷いのもとであり、また迷いが妄執のもとであると、人々は説く。貪愛と嫌悪とは業を種子としておこったものであり、また業は迷いからおこったものであると、人々は説く。業は生死の根であり、生死は苦しみであると、人々は説く。迷いのなくなった人には苦しみは消滅している。妄執のなくなった人には迷いは消滅している。貪りのなくなった人には、妄執が消滅している。なにものも所有しない人には、貪りが消滅している。

 仏教では主な煩悩を貪欲・瞋恚・愚痴とするが、ジャイナ教では怒り・慢り・虚偽・貪りとしている。これらの煩悩の根本原因を無知(無明)であるとしているところも、仏教に共通している。縁起的思考に関しては、初期仏教が個々の縁起に限定しているのに対して、ジャイナ教では万物の相互関連も主張している。仏教では邪淫を禁止しているが、ジャイナ教では性欲そのものを断つことを求めている(不淫)。触れることは勿論、女性を見ることも禁止されていた。
 感覚の対象(外の事物)なるものは、〔最悪のおこる〕根の場所である。根の場所なるものは、感官の対象である。それゆえに感官の対象を求める放逸なる人は、大なる苦悩をもって住するであろう。
 苦しみの原因を執着とすることから、あらゆることに関心を持つことを否定し、極力所有物を持たないことを理想としている。仏教も所有による迷いを指摘しているが、仏教が智慧によって克服することを説いているのに対して、ジャイナ教では所有することそのものから離れるように説いている。元々、ウパニシャッドにあった、アートマンを悟った真のバラモンは、子孫・財宝・世間に対する欲望を捨てて行乞する者であるという考え方は、ジャイナ教に限らず、当時の修行者に共通するものであった。ジャイナ教はこれを徹底しており、マハーヴィーラは衣服さえも所有することを良しとしなかったため、裸形であった。霊魂が肉体を纏っているのであるから、更に何かを纏うことは束縛を増やすだけであるという考え方である。後に、白衣のみを纏うことを許す白衣派が現われ、従来の裸形派から分かれる。イスラム教がインドに広がってからは裸形が禁じられたが、今でも裸形派の中には裸形によって修行している者が稀にいる。身体に対する執着もないため、マハーヴィーラは怪我をしても治療を受けることが無かった。あらゆる欲望から離れることを求めたため、占いや呪術をも嫌った。欲望に打ち勝つために、断食や禅定などの苦行を修めることを勧めた。また、髭髪を抜き取る修行は今日でも行われている。

 苦行せよ。苦行せよ。苦行せよ。以前の関係を捨てて、寂静に入り、勇者は注意深くあれ。心に念じて、正しく〔知識などを〕ともない、つねに自己を制してあれ。
 自己にうち克ち痩せて、血肉を減らし、よく誓戒をまもり、ニルヴァーナに達した苦行者、かれをわれらはバラモンと呼ぶ。
 瞑想に耽り、修行に撓まず、賢くて徳の深い〔出家たち〕は、〔さらに〕苦行に身を呈し、断食に身を委ね、苦行によって痩身となる。苦行を修する出家たちは、頬の肉が落ち、眉と口がすっかり歪み、眼は窪んでいるが、ダルマ〔をまもる〕美しさで満ちている。 
 ビクは村または森に場所を観察して〔選び〕、生類がいないのを知ったならば、藁を敷き拡げよ。そこに飲食しないで宿り、苦難誘惑があっても堪え忍べ。そうして人間に関することがらに触れることがあっても、あまり長いあいだ交わってはならない。匍匐する生きものあるいは上下を動く生きものが、血肉を喰らうとも、これを殺さず、また〔傷口を〕摩してはならない。鳥獣が身を傷つけても、座から去ってはならない。雑多の威虐に苦しめられても、それを喜んで、堪え忍べ。

 修行を行う出家者が在家信者より優れた者とされたが、生活は在家信者の布施によって成り立っていた。このために、ジャイナ教は在家信者向けの倫理を説くようになる。このような在家向けの指導書が四十種以上残されている(仏教にはこのような書はない)。そこで、ジャイナ教では在家信者を「教えを聞く人」と呼ぶようになる。この教えによって生活すれば、死後神々の世界に達すると教えられていた。厳しい戒律を守る為、ジャイナ教信者の多くは商人となり、インド経済を掌握するほどの勢力となっていた。
 ジャイナ教信者の守るべき戒律は以下のとおりである。

1.生きものを殺さない。
2.虚言を語らない。
3.盗みをしない。
4.妻以外の女とは交わらない。
5.一定の制限以上の金を所有しない。
6.一定の制限以上の家畜を所有しない。
7.一定の制限以上の土地を所有しない。
8.一定の制限以上の車を所有しない。
9.運搬のための四隻と手もとで使用する四隻以上の船を所有しない。
10.一本の芳香あるタオル以上のタオルを使用しない。
11.一本の緑色で味のある楊枝以上には楊枝を使用しない。
12.一定の軟膏以上の軟膏を使用しない。
13.芳香ある麦粉以外の粉を使用しない。
14.一定量以上の洗い水を用いない。
15.一対の綿布以上の布を用いない。
16.芦薈、サフラン、栴檀等以外の香料を用いない。
17.一本の蓮または一つの花輪いがいの花を用いない。
18.滑らかに磨かれた耳飾りと名の刻まれた指輪以外の装飾品を用いない。
19.香料を制限する。
20.飲食物を制限する。
21.菓子を制限する。
22.米飯を制限する。
23.汁を制限する。
24.チーズを制限する。
25.野菜よりなるカレーを制限する。
26.酒を制限する。
27.揚げ物を制限する。
28.水を制限する。雨水以外には用いない。
29.口の香料を制限する。四種の無益な罪ある活動をしない。すなわち、悪意ある行ない、怠惰な行ない、傷つける手段を用いること、悪い行為を命ずること、を捨て去る。






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