|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史4

‐釈迦伝説1 誕生から出家まで‐

- 2018年12月13日
1. シャカ族


 シャカ族の人種に関しては諸説あるが、文化的にはアーリア系であった形跡が残っている。現在ネパール領内であるルンビニー県で使われている言語はアバディ語であるが、これはサンスクリット語で「最果ての地」を意味しており、この地がアーリア系文化圏であることを示している。また、原始仏典にある釈迦とアンバッタというバラモンの青年との対話も、このことを現している。

 「アンバッタよ。おんみはいかなる氏姓の者なのですか?」「きみゴータマよ。わたしはカンハーヤナという氏姓の者なのです。」「アンバッタよ。あなたの母方および父方の昔からの名および氏姓を憶いおこしてみますと、シャカ族は主人の子孫であり、おんみはシャカ族の家僕女の子孫である。シャカ族はオッカーカ王を祖先とみなしています。昔オッカーカ王は寵愛した妃の王子に王位を譲ろうと欲して、年長の王子たち、すなわちオッカームカ、カランドゥ、ハッティニーヤ、シーニプラの四人を国外に放逐した。かれらは国外に放逐されて、雪山(ヒマーラヤ)の麓にある湖水の畔に、サーカ樹の大きな森のあるところに住居を定めた。かれらは血統の乱れることを恐れて、自分たちの妹たちを配偶とした。そこでオッカーカ王は随順している大臣たちにたずねた、「いま王子たちはいったいどこに住んでいるのか?」「王さまよ。かれらは雪山の麓にある湖水の畔にサーカ樹の大きな森のあるところにいま住んでおられます。かれらは血統の乱れることを恐れて、自分らの妹たちを配偶としました。」そこでオッカーカ王は喜びのことばを発した。「王子たちはじつに能力がある(シャキャ)。王子たちは最上の能力がある」と。 それ以来、かれらはシャカ族として名が知られている。かれらこそがシャカ族の先祖である。

 ここにあるオッカーカ王(イクシュヴァーク王、甘蔗王)とは『リグ・ヴェーダ』にも登場する英雄王で、話しをするとその口からたいまつの光のような光線が射したとされている。シャカ族が従属していたコーサラ国もこの王の末裔を自称している。釈迦とアンバッタとの対話には、次のようなシャカ族の特徴が書かれている。

 「ゴータマよ。シャカ族の生まれの人々は粗暴である。シャカ族の生まれの人々は粗野である。シャカ族の生まれの人々は軽はずみである。シャカ族の人々は狂暴である。隷属してる者でありながら、バラモン達たちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばない。これらのシャカ族が、隷属してる者でありながら、バラモン達たちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばないということは、適当でなく、ふさわしくない」と。青年バラモン・アンバッタはこのように最初に、シャカ族に対して貶(けな)したことばをなげかけた。

 四人の王子が教えを請うたカピラ・ゴータマ仙人の名にちなんで、ゴータマを姓とし、町の名をカピラヴァストゥとしたとも伝えられているが、これは後世になってから作られたようである。シャカ族の都であったカピラヴァストゥには公会堂があったことから、シャカ族は王政ではなくサンガと呼ばれる共和制であったとされている。経典に「繁栄と大いなる快楽とに恵まれた種族」や「シャカ族の自尊」とも書かれていることから、シャカ族は勢力こそ小さかったものの、進歩的改革的な部族であり、高い生活レベルと自尊心を持っていたと思われる。シャカ族の領地は東西八十キロ、南北六十キロほどで、石川県の面積に相当する。

2. 釈迦の両親と受胎


 釈迦の姓もしくは氏姓は「ゴータマ(ガウタマ)」である。これは『リグ・ヴェーダ』に登場する詩人の名であると同時に、仙人の末裔を意味し、バラモン姓の一つである。このことは、仏典で釈迦がクシャトリヤ出身であるとされていることと矛盾している。「ゴータマ」の語源的な意味は「最上の牛」であることかあら、バラモン姓とは関係なく、牛が神聖視されていたインドでは一般的な名前であったとの説もあるが、定説はない。父の名前はスッドーダナといい「白米の御飯」という意味であることから「浄飯王」と訳されている。母はシャカ族の縁族で東隣にあるコーリヤの出身であるマーヤーとされている。出産のために里帰りする途中、ルンビニーという村の花園で休憩をとっていた時に産気づき、ここで釈迦を生んだ。釈迦が実在の人物であることが疑われた時期もあったが、一八六八年にイギリスの考古学者フェラーがネパール南部のバダリア(ルンビニー)で「アショーカ王(紀元前3世紀)が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれた遺跡を発見したことにより、釈迦の実在が歴史的に証明された。釈迦の名は「シッダッタ(シッダールタ)」と伝えられており、意味は「目的を達成した人」である。
 釈迦誕生の伝説は、極めて古い経典や詩句の頃から伝えられている。まずは、誕生前の釈迦がトゥシタ天(兜率天、仏教の世界観である六道のなかの天界の一つ。天界は欲界・色界・無色界に分けられ、欲界は更に下から四天王・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天に分けられている。兜率天には内院と外院があり、内院は将来仏となる菩薩である弥勒菩薩が説法しているとされ、外院には諸天が住んでいる。このため、弥勒信仰では兜率天を浄土として考え兜率往生という思想になっている。ここに住む天の身長は二里(一里は中国では五百メートル、日本では三千九百メートル)、寿命は人の四百年を一日として四千歳である)にいたとされ、釈迦はこのトゥシタ天から六牙の象に乗り(または自身が象となり)右脇からマーヤーの胎内に入ったとされる。この時の様子を「ジャータカ序」の「遠くない因縁譚」には次の様に伝えている。

 さて、ボーディサッタが母胎に宿られた刹那に、突如として一万の世界全体が震え、揺れ、動き、三十二の前兆が現われた。一万の大世界全体に無限の光明が満ちわたり、そのためその輝きを見ようとするかのように、目が見えない者は視力を回復した。耳が聞こえない者は音を聞き、口がきけない者は話をし、背がまがっている者はまっすぐになり、足が悪くて歩けない者は歩くことができた。縛られていたすべての生ける者たちは、鎖や枷などから解き放たれた。すべての生ける者たちの病いは消滅し、すべての生ける者どもは愛らしい言葉づかいをした。優しげに馬がいななき、象が吠えた。すべての楽器は触れられていないのにそれぞれの調べを奏で、人々の手などにつけた飾りが鳴った。すべての方角が澄みわたり、生ける者たちに安らぎを与えようと穏やかな涼しい風が吹いた。ときならぬ雲が出て雨が降り、大地からも水がわきあがって流れ出た。鳥は空中を飛ぶのをやめ、河川は流れずに止まり、大海の水は甘くなった。どこもかしこも平地は五色の蓮華で覆われ、陸生や水生などの花がすべて咲き、樹木の幹には幹の蓮華、枝には枝の蓮華、つる草にはつる草の蓮華が咲いた。地面では岩面をつき破って上へ上へと七つずつのびた杖状の蓮華が現われ、空中ではたれさがった蓮華が生じた。いたるところに花の雨が降り、空中では天上の楽器が奏でられた。一万の世界全体が、まわして投げあげた花束のように、押しつけて結んだ花束のように、飾りととのえた花環の座席のようになり、一面に花環をつけ、払子(ほっす)がゆれ、花の好香があまねく薫るこのうえなく美しいものとなった。

 この様な釈迦の神話化は、初期仏教の頃から一部の僧侶によって疑問視されていたが、当時のインドでは偉大な人物を語る上で不可欠のものであったようである。


3. 釈迦の誕生


 釈迦誕生については、マーヤーがルンビニーの湖畔を散策中、真っ赤に咲いたアショーカの花を採ろうと手を伸ばしたときに、右脇から生まれ落ちたという話が有名である。しかし、「ジャータカ序」では次のように書かれている。

 ところで、この二つの都のあいだに、両方の都の住民のためのルンビニー園という名のめでたいサーラ樹の森があった。そのとき、根もとから枝の先端まで、すべて、一面満開の花であった。枝のあいだや花のあいだにも、五色の蜜蜂の群れと、いろいろな種類の鳥の群れが、美妙な声でさえずりながら飛びまわっていた。ルンビニー園全体がチッタラター園のようであり、大威力ある王の、よくととのえられた酒宴の場のようであった。それを見て王妃はサーラ樹の森で遊びたいという思いにかられた。廷臣たちは王妃を案内してサーラ樹の森へ入った。かの女は吉祥なサーラ樹の根もとへ行き、サーラ樹の枝をとらえようと思った。サーラ樹の枝は、よく蒸気で熱した藤の先のようにたれさがり、王妃の手のとどくところにあった。かの女は手をのばして枝をとらえると、まさにそのときに、陣痛が起こった。そこで、かの女のために天幕を囲い、大勢の人々は退いた。かの女はサーラ樹の枝をとらえて、立ったまま胎児を出産した。まさにその瞬間、心の清浄な大梵天なる四神が黄金の網をもってやってきて、その黄金の網でボーディサッタを受け取って、母の前におき、「王妃よ、お喜びください。あなたに、大威力のあるご子息がお生まれになりました」と言った。

 この段階で、十分に神話的な表現にはなっているものの、アショーカ花ではなく、釈迦入滅の時と同じサーラ樹であり、立ったままではあるものの、右脇から生まれたとはなっていない。このような伝説に変遷したのは、インドでは出産そのものを不浄なものと考えていたためである。これは、次の「ジャータカ」からも読み解ける。

 ところで、他の生ける者どもが母胎から出生するときは、不快な不浄物にまみれて出てくるのであるが、ボーディサッタはそうではなかった。ボーディサッタは、ちょうど法座からおりてくる説法者のように、また、階段からおりてくる人のように、両手両足をのばして立ち、母胎から生ずるいかなる不浄物にもまみれることなく、清浄で純白なカーシー産の布のうえにおかれた宝珠のように、光り輝きながら母胎から出てこられた。それでもなお、ボーディサッタとボーディサッタの母とに敬意の意を示すために、空中から二すじの水が流れ出て、ボーディサッタとその母の身体を〔洗って〕爽快にした。

 ここにある「二すじの水」が、時代と共に象やナーガ(龍)によって注がれることになり、更には「甘露の水」となる。また、生まれた釈迦が、東に向かって七歩ゆっくりと歩き、右手を上げて天を指差し、左手を下ろして地を指差して「天上天下、唯我独尊」と宣言したという話は「ジャータカ」の中にはみられるものの、紀元前3世紀ごろに成立したと思われる最も古い経典の一つである『スッタニパータ』には書かれていない。いずれにせよ、釈迦の神話化は、初期仏教のころからすでに始まっており、大乗仏教に至るとさらに誇張されていった。ただし、マーヤーが出産後に産褥熱で死亡したこと伝えられていることは事実と思われる。このことを正当化するかのような「ジャータカ」が残されている。

 ところで、ボーディサッタが宿った母胎は、霊廟の奥殿のようなもので、他のものが宿ったり用いたるすることができないから、ボーディサッタの母は、ボーディサッタが誕生して七日後に死んで、トゥシタ天の都に生まれたのである。

 母の死後、釈迦は母の妹であるマハープラージャーパティが後妻に入り、釈迦を育てている。彼女には釈迦の義弟となるナンダが生まれており、彼女ともども釈迦の弟子となっている。
 釈迦の誕生年代に関しては様々な説があり、いまだ定説はない。紀元前五百六十三年とするのが最も一般的であるが、中村元氏は紀元前四百六十三年としている。誕生日は日本では四月八日、スリランカではインド歴の第二の月(ヴァイシャーカ月)の満月の日(旧暦四月十五日)とされているが、これらはいずれも後世になってから定められたものである。
 釈迦の誕生をアシタ仙人が祝福したという話は『スッタニパータ』の中にすでに書かれている。この中で、帝釈天をはじめとする神々が釈迦の誕生を讃嘆し、将来「生きとし生きるものの最上者」となることを告げている。また、アシタ仙人は、釈迦が悟りを開くまで寿命が持たないことを嘆き悲しんだとされている。後世ではこれが、大宗教家か転輪聖王のいずれかになるという予言に変わるが、この時代には転輪聖王という概念がまだなかった。

4. 若き日の釈迦


 古い仏伝には出家前の釈迦に関する記述はほとんどない。従って、現在伝わっている若き日の釈迦の物語は、後世に作られたものであると考えられる。シャカ族が王国というほど大きな勢力ではなかったことや、共和制であったことを考えると、多くの侍女が仕えていたという話や、いくつもの宮殿があったという話はかなり誇張されたものであると思われる。その様な中で、農耕種族であったシャカ族の「種まき祭」についての話は、当時の時代状況を反映していると考えられる。

 さて、ある日のこと、王は種まき祭というものを催した。その日、都全体を〔人々は〕神々の宮殿のように飾りつけた。下僕・庸人など全員が新しい衣服を着け、香や花環などで着飾って、王家に参集した。王の耕作地では、一千梃の鋤が〔曳き牛に〕つながれてあった。その日、百七梃が曳き牛や手綱や紐ともども、銀で飾られたあったが、王が手にする鋤はきらめく黄金の装飾がほどこされてあり、曳き牛の角や手綱や鞭も黄金で飾られていた。王は大勢の従者とともに出立し、息子(=釈迦)も連れて行った。耕作地に一本のジャンブ樹があり、葉を茂らせ濃い影をおとしていた。そのしたに王子の臥床を設け、うえには黄金の星型をちりばめた覆いをつけ、幕をめぐらせ、見張りを置いてから、王はすっかり飾りをつけて廷臣たちを従え、鍬入れの場所へとおもむいた。そこで、王は黄金の鍬を取り、廷臣たちは百七梃の銀の鍬を、農夫たちはそれ以外の鍬を手にした。一同はそれらを手にして、ここかしこと耕した。王は手前から向こうへ、向こうから手前へと行きつ戻りつしていたが、その場所で大きな幸せを感じていた。

 この話が後に不殺生戒と結びつき、鋤に掘り起こされた土から出た虫を小鳥が咥えて飛び立ち、更にこの小鳥を大きな鳥が捕まえて行ってしまったのを見た釈迦が「あわれ、生き物は互いに食み合う」と告げ、近くにあったニグローダの樹の下で生まれて初めての禅定に入ったという話に変わる。
 釈迦がどのようにして学問を学んだのかという話も、初期の経典(『修行本起経』など)では、五百人の家臣と共に学校に行きヴィシヴァ―ミトラという師から学んだとされているが、後の経典(『過去現在因果経』など)では、釈迦のために学問堂を建ててバラモンを招聘して学ばせたとなる。釈迦が学校で学んでいる様子を表した彫刻がいくつも残されているが、そこには膝の上に板を載せて授業を受けている釈迦の様子が描かれている。バラモンの学びは暗唱であるから、これは文字を学んでいたことになる。また、クシャトリヤの生まれであるから、様々な武術も学んでいた。弓術やレスリングをしている姿が文献や美術作品にも残されている。
 若き日の釈迦は病弱であり、一人でいることを好み、将来に対する不安を懐いていたことは、初期の仏典からも伺える。

 わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった。 ― 愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している ― 自分のことを看過して。じつにわれもまた老いゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、 ― このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたくしがこのように考察したとき、青年時における青年の意気はまったく消え失せてしまった。
 愚かな凡夫は、自分が病むものであって、また、病いを免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している ― 自分のことを看過して。じつにわれもまた病むものであって、病いを免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、 ― このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたくしがこのように考察したとき、健康時における健康の意気はまったく消え失せてしまった。
 愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また、死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している ― 自分のことを看過して。じつにわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、 ― このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたくしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消え失せてしまった。

 これを初期仏教では三つの驕り(「若さの驕り」「健康の驕り」「いのちの驕り」)という。この驕りの原因を欲望であるとした釈迦は「欲望は楽しみの少ないものであり、苦しみ多く、悩み多く、そこには禍がはなはだしい」ものであると考えたという。
 これより少し後の経典では、これらの欲望が整理され、更に求めるべきものが説かれ始める。

 わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタであったとき、みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、みずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、みずからは病むものでありながら、、病むことを求め、みずからは死ぬものでありながら、死ぬことを求め、みずからは憂えるものでありながら、憂えることを求め、みずからは汚れたものでありながら、汚れたことを求めていた。
 そのときわたくしはこのように思った、 ― なにがゆえにわたくしは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、みずから老いるもの、病むもの、死ぬもの、憂うるもの、汚れたものでありながら、老いることがら、病むことがら、死ぬことがら、憂うることがら、汚れたことがらを求めるのであるか? さあ、わたくしはみずから生まれたものではあるけれども、生まれることがらのうちに患い(わずらい)のあることを知り、不生・無上なる安穏であるニルヴァーナを求めよう。わたくしはみずから老い、病み、死に、憂い、汚れたものではあるけれども、それらのことがらのうちに患いのあることを知り、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・ニルヴァーナを求めよう。

 この話が後世に図式化されて四門出遊となる。これは釈迦が城の東南西北の門から出遊して、老人・病人・死者・修行者に会い、これがきっかけとなって出家を思い立つという話である。このように時計回りに回るというのは、古くからバラモンで行われた作法であり、現在も仏教で行われている。

5. 結婚


 釈迦が結婚したのは十六歳か十七歳とされるが、南伝仏教には妻の名前はほとんど出てこない。また、妻が一人であったのかも分かっていない。戒律を重んじる初期仏教は、釈迦の結婚や妻に触れること自体を忌み嫌ったためである。子供の名前はラーフラである。このことから、子供を産んだ妃は「ラーフラの母」と呼ばれている。釈迦は子供が生まれたことを喜ばず「ラーフラが生まれた。束縛が生じた」と言ったとされるようになるのも、初期仏教が戒律を重んじていたためである。「ラーフ」という名が古代インド神話の悪鬼の名であることからも連想されたようであるが、インドでは古代から現代にいたるまで、名前は祖父がつけることになっているため、この話が事実であるとは考えにくい。同様の理由で、釈迦が女性を嫌っていたという話も仏伝に書かれている。

 ボーディサッタは、また大いなる栄光をになって自分の宮殿に登り、〔国王用の〕輝かしき臥床に横たわった。すると、たちまち、飾り物をすっかり身につけ、踊りや歌などに習熟した天女のような美貌の女たちが、さまざまな楽器をたずさえて取り囲み、かれを楽しませようと踊りや歌や演奏をはじめた。ボーディサッタは、その心が煩悩から離れていたので、踊りなどを楽しむこともなく、しばしの眠りにつかれた。その女たちも「このかたのために、わたしたちは踊りなどをしているのに、このかたは眠ってしまわれた。いまやっても骨折り損よ」と、それぞれ手にしていた楽器を放りだして寝てしまった。油燈がよい香りを放ってともっていた。ボーディサッタは目が覚めたので、臥床のうえに両足を組み合わせてすわり、彼女たちが楽器を放りだして眠りこけているのを眺められた。ある者どもはよだれをたらして身体を唾液で濡らし、ある者どもは歯ぎしりをし、ある者どもはいびきをかき、ある者どもは寝言をいい、ある者どもは口を開け、ある者どもは着物もはだけてぞっとするほど秘所を露わにしていた。かれは彼女たちのその変わった姿を見て、ますます欲情がなくなってしまった。かれには、飾り整えられたサッカ(インドラ、帝釈天)の宮殿のようなその高楼も、突き刺されたいろいろな死骸が一面にころがっている新しい墓場のように見え、三つの生存の世界がまるで燃えさかる家のように思われた。「ああ、なんという哀れ、ああ、なんという悲惨なことか」と慨嘆のことばが出て、ひたすら出家することに心が傾いていった。

 後世にはこのテーマが重要視され、仏教の女性蔑視が顕著になっていくが、古い経典にはこのような記述はない。
6. 出家


 釈迦が出家したのは二十九歳とされる。その時の様子は次のように述べられている。

 ビクらよ、わたくしはじつに〔道を求める心をおこして〕のちに、まだ若い青年であって漆黒の髪があり、楽しい青春にみちていたけれども、人生の春に、父母が欲せず顔に涙を浮かべて泣いていたのに、髪と鬚を剃り下して、袈裟衣をつけて、家を出て出家者となった。
 
 この両親や妻子を捨てるという行為は、無責任なようにも思われるが、当時、出家が許されたのは妻子に経済的な不安を与えない者に限られていた。もっとも、釈迦の教団が大きくなって後にはこのような制約は無くなっている。釈迦が捨てたのは家族というよりは王位を含めた社会的な価値観であった。
 釈迦の時代、社会構造が変化することにより、従来の価値観が通用しなくなっていた。このような時代状況の中でさまざまな思想が現われたが、その中にはプラーナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように社会通念を否定する中で、あらゆる道徳観までも否定するものも少なくなかった。これらの思想は、現状に不満を持つ層の人たちの間で支持を広めていた。これに対して、釈迦は従来の価値観は否定しながらも、善と人として歩むべき道を求めて出家したのである。
 古い経典である『五分律』に書かれている出家の様子は、奴僕であるチャンナに引かせた白馬に乗って夜中に城を出た釈迦は、途中、宝衣を脱ぎチャンナに持たせて城に帰らせ、自身は猟師が着ていた袈裟衣と自分の衣を替えてもらい、剃頭師に剃髪してもらった後に、王舎城に行きビンバシャラ王に見出されたとある。これが後の時代に書かれた「ジャータカ」では次の様な話となっている。

 かれは、「いまこそ、わたしは世俗からの大いなる離脱をしなければならぬ」と思って、臥床から起きあがって門口に行き、「そこにいるのはだれか」と問われた。敷居に頭をのせて寝ていたチャンナが、「若君よ、わたしはチャンナでございます」と答えた。「わたしはいま世俗からの大いなる離脱をしようと思い立った。わたしに馬を一頭用意しておくれ」。かれは、「ご主人さま、承知いたしました」といって、馬具をもって厩舎へ行き、油燈がよい香を放ってともっているなかで、スマナの花模様のある布の覆いのしたで、快適な地面に立っている馬の王カンタカに目をとめ、「わたしは、今日、これに馬具をつけることにしよう」と、カンタカに馬具をつけた。そ〔の馬〕は馬具をつけられているうちに気づいた。「この馬具のつけぐあいはとてもしっかりしている。他日、遊園地に行ったときの馬具のつけ方と同じではない。わが若者は、いま世俗から大いなる離脱をされようとしているに違いない」と思い、それから満足気に高らかにいなないた。その声は都全体に広がっていったのであろうが、神々がその音を静めて、だれにも聞かせなかった。
 一方、ボーディサッタは、チャンナを送りだしてから、「息子を一目見てこよう」と思って、すわっていた床座から立ちあがって〈ラーフラの母〉の住んでいるところへ行き奥の部屋の扉を開けられた。その瞬間、奥の部屋のなかで油燈がよい香を放ってともった。〈ラーフラの母〉は、スマナやマッカリーなどの花が一アンマナの量ほどもまき散らされた寝床で、息子の頭に手をあてたまま眠っていた。ボーディサッタは敷居に足をのせて立ったまま眺め、「もし、わたしが王妃の手をよけてわたしの息子を抱けば、王妃は目を覚ますであろう。そうすれば、わたしが出立する邪魔だてとなるだろう。仏となってから、戻ってきて会うことにしよう」と考えて、高楼の露台からおりられた。
 こうしてボーディサッタは高楼の露台からおりられると、馬の側へ行ってつぎのようにいわれた。「これ、カンタカよ、おまえは今日一晩、わたしを連れて行っておくれ。わたしはおまえの力をかりるならば、仏となって神々も含めたこの世の人々を救うであろう」といって、そこでひと飛び、カンタカの背に乗られた。カンタカは、頸からの長さが十八ハッタあり、それに似合った高さをそなえ、力は強く、走るのは速く、白一色で、ちょうどきれいに洗った法螺貝のようであった。この馬が、もし、いなないたり蹄の音をたてれば、その音は都全体に広がったであろう。だから、神々がみずからの威力をはたらかせて、それをだれも聞くことがないようにと、いななきの声を静め、歩みを進めるごとに、手のひらを〔蹄のしたに〕あてがうのだった。ボーディサッタは、駿馬の見事な背の中央にまたがり、チャンナには馬の尻尾を握らせて、真夜中に大門の側にやってきた。
 ところが、そのとき、王は、「このようにしておけば、ボーディサッタが、どんな時刻であっても、都の門を開けて出て行くことはできないだろう」と、二つある門扉のそれぞれを、千人の男でなければ開けられぬようにしておいた。ボーディサッタは強い体力があり、象で計算すれば百億頭分の力、人間で計算すれば千億人分の力をもっておられた。かれは、「もし門が開けられないのなら、いまカンタカの背に乗ったまま、尻尾を握っているチャンナともども、カンタカを両腿にはさんで、十八ハッタの高さの城壁を跳びこえて行くことにしよう」と考えられた。チャンナも、「もし門が開けられないのなら、わたしは若君を肩に乗せ、カンタカの腹を右手で抱えこんで、城壁を跳びこえて行くことにしよう」と考えた。カンタカもまた、「もし門が開けられないのなら、自分はご主人さまが背に乗っておいでになるまま、尻尾を握っているチャンナともども、もちあげて、城壁を跳び越えて行くことにしよう」と考えた。もし門が開けられなかったならば、三者のうちのだれかが、考えたとおりにしたであろう。ところが、門に住んでいる神が門を開けてしまった。
 その瞬間に、悪魔が、「ボーディサッタをひき戻らせよう」と思ってやってきて、空中に立ったままいった。「きみ、出てはならぬ。きみは、いまから七日目に輪宝が現われるはずだ。きみは、二千の属島に囲まれた四つの大きな国土(四大洲)を統治することになるのだ。きみ、戻りたまえ」「おまえはだれか」「おれは全能者だ」「悪魔よ、わたしは輪宝がわたしに現われることを知っている。だが、わたしは王権を求める者ではない。わたしは一万の世界を鳴り響かせて仏となるであろう」と〔ボーディサッタは〕いわれた。悪魔は、「では、これからは、きみが愛欲のこころ、怒りのこころ、害意のこころを抱いたときには、あばいてやるつもりだ」と〔ボーディサッタの〕あらさがしをするために、影のように離れずについてきた。
 ボーディサッタは手中に帰する転輪聖王の位を、唾のかたまりのように惜し気もなくふり捨て、多大な尊敬を受けつつ都から出て行かれた。アーサーラ月の満月がウッタラーサーラ星宿に宿るとき、出て行かれたのであるが、もう一度都を見たいという気持ちをもたれた。ところが、かれにこのような思いが浮かんだだけで、「〈偉大な人〉よ、あなたはふり返ってごらんになってはなりません」とでもいうかのように、大地が裂けて、ろくろのように回転した。ボーディサッタは都に向かってたたずみ、都を眺めてから、その土地に〈カンタカふり返りの霊廟〉を建てるべき場所を指定し、カンタカを進むべき道の方に向けて、多大な尊敬を受け、広大な栄光をになって出発された。
 このような栄光をになって前進し、ボーディサッタは、たった一晩のうち三つの王国を通り過ぎ、三十ヨージャナ隔たったアノーマーという川の岸辺に到着した。ところで、馬がそれ以上前進できなかったのかといえば、決してそうではない。というのは、この馬は、一大世界のなかを、ちょうど轂(こしき)に取りつけた車輪の外縁でも踏むように、端々をまわって朝飯前にひき返し、自分のために調えられた飼い葉を食むこともできるからである。ところが、そのときは、神々や竜や金翅鳥などが空中から投げおろした香りのよい花環などで、腿のところまで覆われてしまい、身体を引き抜いては、からみついた香りのよい花環を切って〔進んで〕いたので、たいへん遅れてしまった。だから、三十ヨージャナしか進まなかったのである。さて、ボーディサッタは岸辺に立ってチャンナにたずねられた。「この川は何というのか」「王子さま、アノーマーと申します」「わが出家もまた至高のもの(アノーマ)になるであろう」といって、踵でたたいて馬に合図をされた。馬は跳躍して八ウサバの幅がある川の対岸に立った。ボーディサッタは馬の背からおり、銀片のような砂の河原に立ってチャンナに告げられた。「これ、チャンナよ、おまえはわたしの装身具とカンタカを連れて戻りなさい。わたしは出家したいのだ」「王子さま、わたしも出家したいのです」ボーディサッタは、「おまえが出家することは認められぬ。おまえは戻りなさい」と三度拒まれた。
 装身具とカンタカとを受け取らせてから、「わたしのこの髪は修行者にはふさわしくない」と考えられたが、他にボーディサッタの髪を切るのに適した者はいなかった。そこで、「刀でみずから切ろう」と思って、右手に剣をとり、左手に冠ともとどりをつかんでいっしょに断ち切られた。ボーディサッタは冠ともとどりとをいっしょにつかんで、「もしわたしが仏となれるならば、空中にとどまれ。もしそうでないなら、地上に落ちよ」といって、空中に投げられた。すると、宝珠のついたもとどりと頭冠は一ヨージャナの高さのところに行って空中にとどまった。神々の王サッカが天眼で眺めていて、一ヨージャナの大きさの宝石の箱のなかに受け取って納め、三十三天の住処に、〈宝珠のもとどりの霊廟〉という名で安置した。さらにボーディサッタは、「このカーシー産のわたしの衣服は修行者にふさわしくない」とかんがえられた。すると、カッサパ仏のときの、むかしのかれの友人であったガーティカーラ大梵天が、もう一人つぎに仏が現われるまでのあいだの、朽ちることのない友情をもって考えた。「今日、わたしの友人は、世俗からの大いなる離脱に向かって出てきた。かれのために、修行者に必要な用具(三枚の衣、鉢、剃刀、針、帯、水濾し袋)をもって行ってやろう」
 ボーディサッタは〈聖者の標章〉を身に着け、最上の出家の衣服を受け取ると、「チャンナよ、両親にわたしの無事なことを伝えておくれ」といって、送りだされた。チャンナはボーディサッタを礼拝し、右まわりにまわって去った。しかし、カンタカはチャンナと話を交わしているボーディサッタのことばを聞きながら立っていたので、「もう自分のご主人さまにふたたびお目にかかることはないのだ」と思い、〔ボーディサッタの姿が〕視界から消えると、悲しみに堪えかね、胸が張り裂けて死んでしまい、三十三天の住処にカンタカという天子になって再生した。チャンナは、初めは〔王子に別れたという〕ただ一つの悲しみであったが、カンタカが死んだために、第二の悲しみにうちひしがれて、泣き叫びながら都に向かって行った。






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