|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史5

‐釈迦伝説2 求道からさとりまで‐

- 2018年12月13日

1. ビンビサーラ王との対話

 出家して沙門となった釈迦が最初に向かったのは、シャカ族が従属していたコーサラ国をも超える勢力を誇っていた、インド最大の強国マカダ国であった。この国の都ラージャガハ(王舎城、現在はラージギール)は、周囲を五つの山に囲まれた天然の要塞で、当時インド最大の都市でもあった。釈迦は七日でこの都に着いたといわれるが、直線距離でも三百キロ以上離れており、托鉢しながら移動したのであれば、これはかなりの強行日程となる。マカダ国の王はビンビサーラ(ビンバシャラ、頻婆娑羅)王といい、後に釈迦教団最大の後援者となる人物である。
 『スッタニパータ』によると、家臣から城の近くに常人とは思えない雰囲気を纏った修行者が来ていることを伝えられたビンビサーラ王は、自ら城を出るとその修行者(=釈迦)に次のように語りかけたとされている。

 「あなたは若くして青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生まれ貴いクシャトリヤのようだ。象の群れを先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受しなさい。私はあなたの生まれを問う。これを告げなさい。」
 「王さま。あちらの雪山の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気をそなえています。姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈サーキャ族〉といいます。王さま。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。もろもろの欲望には患いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです」と。

 ここに「つとめはげむために進みましょう。」とあるが、これは「出家」の原語である「パバージャ」の字義である「前におもむく」と同義である。この物語が後の「ジャータカ序」では次のようになる。

 王臣たちは、その様子を見てから帰り、王に報告した。王は、使者のことばを聞くと、急いで都から出て、ボーディサッタのところへ行き、その立居ふるまいに喜び信ずるこころをおこしてボーディサッタに一切の主権を譲り渡そうとした。ボーディサッタは、「大王よ、わたしには事物にたいする欲望も汚れたこころの欲望も意味はありません。わたしは最高のさとりを求めて世俗から離れた者となったのです」といわれた。王は、いろいろな仕方で懇請したけれども、これの心を捕らえることができなかったので、「きっと、あなたは仏となられるのでしょう。あなたが仏となられたならば、まずわたしの領国にお出でくださいますように」といった。

2. アーラーラ仙人とウッダカ仙人を訪ねる


 ラージャガハを訪れるのと前後して、釈迦は二人の仙人に教えを受けている。一人はアーラーラ・カーラーマという禅定に練達していた仙人で「無所有処」を説いていたとされる。これはジャイナ教が説いている「何も所有しない」という「無所有」とは異なり「あらゆるものには、認識されているような本質的なものなど無い」という認識である。この認識に対して釈迦は次のように述べたとされる。

 そのときわたくしはこのように思った、 ― 「この教えは厭離におもむかず、離欲におもむかず、止滅におもむかず、平安におもむかず、英智におもむかず、正覚におもむかず、安らぎにおもむかない。ただ無所有処を獲得し得るのみ」と。そこでわたくしはこの教えを尊重せず、この教えにあきたらず、出て去った。

 後世の仏教では迷いの世界を欲界・色界・無色界の三界に分けている。無色界は更に四段階に分けられており、この内二番目にさとりに近い第三天を、この「無所有処」としている。
 次に教えを受けたのがウッダカ・ラーマプッタという仙人で「非想非非想処」を説いていたとされる。「無所有処」が対象の自性を否定するという認識であるのに対して、これは意識作用そのものを否定するという認識である。釈迦はこの認識もさとりとはせず「無所有処」と全く同じ言い方で否定したとされている。この認識は無色界の最もさとりに近い第四天「非想非非想処」とされているが『スッタニパータ』には、次のような釈迦の言葉が残されている。
ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ― このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいておこるからである。
 中村元氏は、この認識が「非想非非想処」であるとして「無所有処」とともに、元々は仏教のさとりに対する認識であると指摘している。初期の仏教では「無所有処」をさとりとしていたが、仏教が思想的に進化をすると「非想非非想処」がさとりとなり、更に進化したアショーカ王以降には「非想非非想処」も迷いの境地とされていったため、それぞれを釈迦の師であった外道の仙人の境地として仏教の中に残したとい考え方である。中村元氏は無色界の残り二つの内、第二天「識無辺処」と第三天「無所有処」の関係を表しているという最古層の経典を引用している。

 師(釈迦)は答えた、「ポーサーラよ。すべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来)は、これの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。無所有の成立するものを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、それから〔出て〕それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンには、この〈ありのままに知る智〉が存する」と。

 また、無色界の第一天である「空無辺処」を表すと思われる思想も原始仏典にある。

 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることができない。
 ここにある「空」は大乗仏教の「空」と同一ではなく「自我に固執する見解」を持つことなくありのままに認識することである。このように、後世の仏教がさとりに対する認識が進化していった過程を「無色界」として定型化していったと考えられる。


3. 苦行


 釈迦は、二人の師のもとを離れてからウルヴェーラーという場所で苦行に入ったとされる。この時、釈迦の父であるスッドダーナ王の指示により、シャカ族の五人が釈迦の身の回りの世話をしながら共に修行をした。この五人とは、アンニャータ・コンダンニャ(阿若・憍陳如)、パッディヤ(婆提梨迦)、ヴァッパ(婆敷)、マハーナーマ(摩訶摩男)、アッサジ(阿説示)であり、後に五比丘と呼ばれるバラモンである。六年とも七年とも伝えられる苦行によってもさとりを得ることができなかった釈迦は、最後に極めて厳しい断食を行っている。最初は一日に一粒のゴマや米で過ごし、最後は食を断ち、骨と皮だけになったという。この時の釈迦の様子を表した彫刻が、後にガンダーラでいくつも作られることとなる。
 この苦行の結果、釈迦は「それはまるで空中に結び目を作ろうとするような〔徒労の〕歳月であった。かれは、「この難行はさとりにいたる道ではない」と考え、通常の食物をとるために、村や町で托鉢して食物を得られた。」とされる。これを見たシャカ族の五人は釈迦を見限り、釈迦のもとを離れイシパタナ(鹿野苑)に行ってしまう。これ以降、釈迦は苦行を否定したといわれるが、釈迦の教団の中で孤独行や止息行、断食行が全く行われなかったわけではない。ただし、ジャイナ教などのように修行の一つとして義務化されたものではなく、個々の修行者の自由意志で行うことまでも止めなかったという程度である。
 「ジャータカ序」では、このときスジャーターという村娘からミルクがゆを釈迦が供養されたとされているが、仏伝によって娘の名前や物語が違っているため、創作された部分が多いと思われる。ただし、女性の手から供養を受けたということまで否定することはできない。体力を取り戻した釈迦は、バラモン教の習慣に従い、ネーランジャラー河の岸辺にあったスッパティッタという名の沐浴場に入り、サーラ林で休息をとった後、菩提樹の方に歩んでいった。

4. 悪魔の攻撃


 菩提樹に向かって釈迦が歩んでいった時の様子を「ジャータカ序」は「竜や夜叉や金翅鳥などが天上の香や花などをもって供養し、天上の合唱がわきおこり、一万の世界が一つの香、一つの花輪、一つの歓呼の声に埋まった。」と伝えている。菩提樹の東側に吉祥草を敷き座った釈迦は「むしろ皮や筋や骨は干からびるがよい。身体の肉や血は干上がるがよい。けれども、正しいさとりを得なければ、この組み合わせた両足を解くまい」という誓願をしている。この時、釈迦がさとりを開くのを阻止するために、魔天子が大軍を率いて攻めてきたと「ジャータカ序」は伝えている。釈迦を守るために神々や竜王が立ちはだかったが、あまりの魔王軍の勢いに、皆逃げ帰ってしまう。魔天子は旋風を起こし多くの町を粉々にしたが、釈迦のところには微風さえも届かなかった。大雨を降らせ大洪水をおこしたが、釈迦の衣を濡らすこともできなかった。噴火した火山を雨のように降らせたが、釈迦の手元に来るとすべて天上の花束になってしまった。刀を煙や焔を噴き上げさせながら雨のように降らせたが、釈迦の手元に来るとすべて天上の花になってしまった。真っ赤に燃えている炭火の雨も、釈迦の手元に来ると天上の花となって散らばった。灼熱の灰を降らせたが、釈迦の手元に来ると栴檀の粉となった。非常に細かな砂の雨も天上の花となり、泥の雨は天上の塗油となって落下した。そこで魔天子は暗闇で釈迦を覆いつくそうとしたが、まるで太陽の光に征服されたかのように暗闇は消え失せてしまった。最後に魔天子自ら武器である円盤を投げつけたが釈迦の花環の天蓋となってしまい、大きな岩山を投げつけても花束になってしまったという。完全に神話化された話ではあるが、この物語の中でも、釈迦は「偉大な人」もしくは「偉大な人間」と書かれており、あくまでも「人」として扱われている。
 「ジャータカ序」では、このように悪魔が釈迦を攻撃しているが、これより古い経典である『スッタニパータ」では断食中の釈迦に対して悪魔は次のように語りかけている。

 〔悪魔〕ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、いった、「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそもろもろの善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行ないをし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。〔苦行に〕身をやつれさせたところで、なんになろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人の側に立っていた。

 ここに出てくるナムチはヴェーダや叙事詩によく出てくる悪魔であるが、ここではマーラ(殺す者)と呼ばれている。この悪魔が後に「悪しき者(波旬)」となる。この物語の中でナムチが勧めているのは、バラモンとしての生き方である。これは、釈迦の歩みがバラモンの教えに反していたことを表している。この悪魔のことを釈迦は次のように言っている。

 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと、強情と、〔第九の軍隊として〕誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉、また〔第十の軍隊として〕自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。ナムチよ。これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。〔勇者は〕うち勝って楽しみを得る。このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか?この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。ある修行者たち・バラモンどもは、この〔汝の軍隊の〕うちに埋没してしまって、すがたが見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

 これは釈迦に対する悪魔の誘惑を述べた最古の文章である。悪魔はこの後七年間釈迦に付きまとったが、ついに諦めたという。後世には、悪魔との戦いはさとりを開く間際だけになるが、最初期の仏教は悟りを開いた後にも悪魔との戦いが続いているということになる。これは、後世の仏教ではさとりを開いたものは惑わされ無いということになるのだが、初期仏教では、誘惑との戦い自体が仏の歩みであると考えらえていたためである。
 悪魔との対話には、後の仏教で人々を導く存在としての仏という性格を決定づけるものもある。

 〔悪魔はいった、〕「もしそなたが、安穏にして不死にいたる道をさとったのであれば、去れよ。そなたは独りで行け。そなたは、なぜ他人を教え諭さとすのか?」
 〔尊師はいった、〕「彼岸にいたろうとする人々は、不死の境地をたずねる。かれらに問われて、すべての休止した生存の素因のない境地を、われは説く。」

 また、悪魔が女性の姿になって釈迦を惑わそうとする「娘たち」という対話もある。

 さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちが、悪魔・悪しき者に近づいた。近づいてから、悪魔・悪しき者に詩をもって語りかけた。「お父さま!なぜ、あなたは憂えておられるのですか?いかなる人のことを悲しんでおられるのですか?わたしたちは、その人を愛欲の綱で縛って連れてきて、あなたの支配のもとに置きましょう。 ― 森の象を縛って連れてくるように」と。〔悪魔はいった〕「世に尊敬される人・幸せな人を、愛欲で誘うのは容易ではない。彼は悪魔の領域を脱している。だから、わたしは大いに憂えているのだ。」そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のようにいった、 ― 「修行者さま。わたくしたちは、あなたさまの御足に仕えましょう」と。ところが、尊師は、無上の〈生存の素因の破壊〉のうちにあって解脱されていたから、気にもとめられなかった。さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは傍らに退いて、このように熟考した、 ― 「人人の好むところは、いろいろ異なる。さあわれらはそれぞれ百人ずつ少女のすがたを作りだそう」と。そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちはそれぞれ百人ずつ少女のすがたを作りだして、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のようにいった、 ― 「修行者さま。わたしたちは、あなたさまの御足に仕えましょう」と。ところが、尊師は、無上の〈生存の素因の破壊〉のうちにあって解脱されていたから、気にもとめられなかった。

 この後、三人の娘たちは「人人の好むところは、いろいろ異なる。」として少女ではなく「いまだ子を生んだことのない女」、「一たび子を生んだことのある女」、「二たび子を生んだことのある女」、「中年の女」、「熟年の女」となって同じように釈迦を誘惑するが、同じように相手にされなかった。釈迦を惑わすことをあきらめた娘たちは次のように釈迦に問いかける。

 傍らに立った悪魔の娘・〈愛執〉は、尊師に詩をもって話しかけた。「あなたは悲しみに沈んで、森のなかで瞑想しているのですか?それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?なにゆえに人々とつき合わないのですか?あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。〔尊師はいった、〕「愛しく快いすがたの軍勢にうち勝って、目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで思っているのです。それゆえにわたしは人々とつき合わないのです。わたしは、だれとも友にならない。」そのとき悪魔の娘・〈不快〉は、尊師に詩をもって語りかけた。「修行僧はこの世で、どのように身を処すこと多くして、五つの激流を渡り、ここに第六の激流をも渡ったのですか?どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。〔尊師はいった、〕「身は軽やかで、心がよく解脱し、迷いの生存を作りだすことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執着することなく、真理を熟知して、思考することなく瞑想し、怒りもせず、〔悪を〕憶いだすこともなく、ものういこともない。このように身を処することの多い修行僧は、この世で五つの激流を渡り、ここに第六の激流までも渡った。このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない。」

 女性が釈迦を誘惑する話は『四分律』にも出てくるが、四人の娘が釈迦に心惹かれ、もし釈迦が出家するならば弟子となり、出家しなければ妻妾となろうと言ったというものであり、この段階ではまだ悪魔という設定にはなっていない。

5. さとりを開く


 釈迦がさとりを開いたとされるウルヴェーラ-は現在ブッダガヤーと呼ばれている。日本語で菩提樹とされている樹は「アシヴァッタ樹」といい、イチジク属の二十メートル以上にもなる常緑高木である。この樹はバラモン教でも神々の住居(根には宇宙の創造を司る神・ブラフマー、枝には維持・繁栄を受け持つ神・ヴィシュヌ、幹には宇宙の破壊を司る神・シヴァが住むとも、この木自体がヴィシュヌの化身であり、その妃である女神・ラクシュミーが宿るともいう)とされる霊樹であり、不死を観察する場所とされている。釈迦がこの木の下でさとりを開いたことから「正しい悟りの智の木」を意味するボーディ・ドルマ(菩提樹)と呼ばれるようになった。この樹の日本名は印度菩提樹(覚樹、道場樹)といい、日本の寺院にある菩提樹(栄西が宋から持ち帰った中国原産のシナノキ属)とは全くの別種である。菩提樹と呼ばれるものには、他にハーブとして使われているシナノキ属のフユボダイジュ(コバノシナノキ)や、数珠に用いられているホルトノキ科のジュズボダイジュなどがある。アショーカ王時代からそう遠くない頃には、菩提樹の周りに金剛宝座と蓮池が整備されていたことが古い彫刻から見て取れる。
 釈迦のさとりの内容として一般に言われているのが「十二因縁の理」である。

 すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。

 しかし、この十二因縁はさとりを開いてからしばらく後に観じたともされており、さとりとの間に本質的な連関はない。十二因縁自体が原始仏教でもかなり遅い時期に成立していることも分かっている。釈迦のさとりは言語化し得ないものであったようで「わたくしは・・〔眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能の生起と消滅と耽溺と患いと出離とを如実に〕証知したがゆえに〈さとりを開いた〉と称した。」という言葉によるしかない。または「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏」に至ったという事実だけである。中村元氏も「仏教そのものには特定の教義というものがない」と示唆している。これは「対機説法」といい、釈迦が相手に応じて異なった説法をしていることからも分かる。これは思想がないということではない。「如実にありのままの世界を証知して、無上の安穏に至る」ことがさとりであり、そのために「実践的存在としての人間の理法」を体得するする必要がある。ただそのための方法(教義)は、その人に応じたものであればよいということである。この考え方は、釈迦入滅後に大きな混乱をもたらす要因にもなるが、仏教発展の基本的な考え方ともなり、仏教には人の種類な数だけ教えがあるという「八万四千法門」という発想の根拠ともなっている。






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