|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史6

‐釈迦伝説3 釈迦と弟子たち‐

- 2018年12月13日
1. さとりを開いてからの瞑想



 釈迦はさとりを開いてから、七日間、そのまま菩提樹の下で瞑想を続けた。『律蔵』によると、釈迦はこの後、アジャパーラ榕樹の下で再び七日間瞑想するが、ここを訪れたバラモンと「バラモンとは何であるのか」という問答をしたとされる。さとりを開いた者の在り方を思索したのであろう。次にムチャリンダ樹の下で七日間瞑想をし、ここでムチャリンダ竜王が釈迦に帰依している。この時釈迦を襲った雨風から釈迦を守るために、ムチャリンダは釈迦を七重のとぐろで巻き囲い、頭上を大きなアギトで覆ったという。さとりの内容が自然界における普遍性を持っているのかを確かめたと思われる。更に、ラージャーヤタナ樹の下で七日間瞑想し、ここで通りかかった二人の商人が麦菓子と蜜団子を釈迦に施し在俗信者となる。さとりを開いた釈迦が世間で尊敬するにふさわしい者であるのかを確かめたものであるが、この時、釈迦と二人の間に会話は無い。今でも、スリランカ系仏教僧が托鉢で施しを受ける時は無言である。『五分律』では、この後にスジャーターが施しをし、最初の女性在家信者となっている。ここでもスジャータ―と釈迦の間に会話は無い。教えによってではなく、その人の姿を見て信者となるのである。後の仏教は、この時期、釈迦がさとりの境地を一人で楽しんでいたと解釈している(自受用三昧)が、さとりが真実であるのかを確認していたと考えられる。

2. ブラフマー(梵天)の勧め


 『律蔵』によると、釈迦は再びアジャパーラ榕樹の下で瞑想し、次のように考えたという。

 苦労してわたくしがさとりを得たことを、いま説く必要があろうか。貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ。

 この釈迦の心を読み取ったブラフマーは危機感を覚え次のように釈迦を説得した。

 汚れある者どもの考えた不浄な教えが、かつてマカダ国に出現しました。願わくばこの不死の門を開け、無垢なる者のさとった法を聞け。たとえば、山の頂にある岩の上に立っている人が、あまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼ある方は、真理の高閣(たかどの)に登って、〔みずからは〕憂いを超えていながら〈生まれと老いとに襲われ、憂いに悩まされている人々〉を見そなわせたまえ。

 このブラフマーの懇請を受け、釈迦は世の中の人々を見渡したという。そして、この世の中には「汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しいすがたの者ども、醜いすがたの者ども、教え易い者ども、教えにくい者ども」がいることを知り、次のようにブラフマーに呼び掛けた。

 耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。

 ここで釈迦は世の中のすべての人々を教え導くという困難な歩みを選択した。これよりさらに古い経典では、梵天と釈迦ではなく、悪魔と釈迦の対話になっている。これは、悪魔が釈迦に対して教えを説くことを思い止まらせようとしたが、釈迦は強い意志をもって伝道に踏み切るというものである。いずれも、釈迦が教えを説くことに躊躇したことを伝えようとしたものであると考えられる。

3. 最初の説法(初転法輪)


 古い経典によると、釈迦は最初に教えを説く相手として、かつて教えを受けたアーラーラ・カーラーマと、ウッダカ・ラーマプッタという二人の師を考えたという。しかし、二人ともこの時すでに亡くなっていた。そこで、共に修行をしたシャカ族の五人、アンニャー・コンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジがいたベナレス郊外のサールナートへと向かった。
 この途中、釈迦はアージーヴィカ教徒のウパカと出会っている。ウパカから「あなたの師はだれですか」と問われた釈迦は「われには師は存在しない」と答える。するとウパカは「あなたは無限の勝者たるべきですか」とさらに問い、釈迦は「煩悩を消滅するにいたった人々は、わたくしにひとしい勝者である」と答えている。これは、釈迦が当時の上下関係を伴う師弟関係を否定し、さとりを得た者は平等であることを述べているものである。ウパカは「そうかもしれない」と言って、去っていったという。
 釈迦がいたブッダガヤーからサールナートまでは直線距離で二百キロメートル離れている。五人はサールナートにある〈鹿の園〉(鹿野園)と呼ばれる、多くの修行者たちが集う場所にいた。釈迦が近づいてくることを知った五人は、修行を放棄した釈迦に対して、座る場所は開けるが、一切無視しようと話し合ったという。しかし、釈迦のただならぬ雰囲気を感じた五人は、釈迦の衣鉢を受け取り、洗足の水を用意すると、釈迦に何があったのかを問いかけた。すると釈迦は次のように答えたという。

 修行者らよ。如来に呼びかけるのに名をいい、また「きみよ」という呼びかけをもって如来に話しかけてはならぬ。如来は尊敬されるべき人、正覚者である。修行者どもよ、耳を傾けよ。不死が得られた。わたくしは教えるであろう。わたくしは法を説くであろう。汝らは教えられたとおりに行うならば、久しからずして、良家の子らが正しく家から出て出家行者となった目的である無上の清浄行の究極を、この世においてみずから知り、証し、体現するにいたるであろう。

 そして、釈迦の教えを受けた五人は次の様な境地に至る

 みずから老いるもの・病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたものであるのに、老いるもの・病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたものに患いを見出して、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・安らぎを得た。そうしてかれらにはこの知と見とが生じた、―「われらの解脱は不動である。これは最後の生である。もはやふたたび生存することはない。

 これは、釈迦と同じ境地であることから、この時、釈迦を含めて「六阿羅漢」が誕生したとされている。この五人は五比丘と呼ばれるようになるが、この後、仏教教団で中心的な存在になることはなかった。
 釈迦が五比丘に説いた教えの内容を、具体的に伝えている古い経典はない。説法というよりは、五比丘との対論であったと思われるが、極めて初期の仏教では教義自体を否定していたためである。後に仏教が教義化していく中で作られた経典では、この時の説法は「中道」と「八正道」とされ、、さらに「四諦」や「十二因縁」なども加えられていく。また、古い経典では〈鹿の園〉において悪魔からの誘惑を受けたとされているが、後の経典ではこの記述は無くなる。

4. ヤサと富商の子たち


 五人を悟りに導いた釈迦は、次に長者の子供であるヤサを出家させている。先の五比丘はもともと出家したバラモンであったが、ヤサは在家であり商人階級である。『律蔵』によると、富豪の家で何不自由ない生活を送っていたヤサは、侍女たちの寝姿に幻滅し「実に、ああ、悩ましい。ああ、煩わしい」と嘆くと門を出て〈鹿の園〉におもむいた。ここで釈迦から教えを受けてさとりを得たヤサは「尊い方よ。わたしは尊師のもとで出家し、受戒したいのです」と申し入れている。『律蔵』では、弟子入りした段階で、五比丘にヤサを加えて「そのとき世間に七阿羅漢あり」と書かれている。この頃は、弟子になるための規定はなく、また、弟子となった時点で釈迦と同等であったことが分かる。
 ヤサの家族を教化して在家信者とした釈迦は、ヤサの友人であるヴィマラ、スバーフ、プンナジ、ガヴァンパティをも出家させる。ガヴァンパティ(憍梵波提、牛王)は後に解律第一と呼ばれる弟子である。しかし、食事の時に反芻し足の爪が牛のようだったために、過去世に牛であったといわれ、牛相比丘と呼ばれ蔑まれた。このことを苦にして人前に出ることを嫌っことから、釈迦の入滅を知ることができなかったガヴァンパティは、自らの体を焼いて釈迦の後を追ったという。この四人を加えて、阿羅漢は十一人となった。さらにその友人たち五十人も同様に出家させ、阿羅漢は六十一人となる。また、釈迦が悟ったことを聞きつけてサールナートまで訪れてきて弟子入りしたのが、後に説法第一と呼ばれたプルナ(富楼那)である。彼はシャカ族のバラモン階級で、父は釈迦の父の師であり、母は五比丘の一人コンダンニャの妹とされている。また、釈迦と生年月が同じで、後に九万九千人もの人々を教化したと伝えられる。
 『律蔵』は、六十人を超えた阿羅漢たちに対して、釈迦が次のように語ったと伝えている。

 歩みを行なえ、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、世人に対する同情のために、神々と人間との利益安楽のために。〔多くの人々に教えを説き示すために〕二人してひとつの道を行くことなかれ。始めよく、中ごろよく、終わりもよく、理と文とそなわった教えを説け。

 当時、修行者が積極的に教えを伝えるということはなかった。釈迦はこの常識を破ったのであるが、釈迦自身にも,このことに対する葛藤があったことが、この段階においても悪魔が伝道を思いとどまらせようとした、と『律蔵』に書かれていることから窺われる。

5. 三カッサパとその弟子たち


 この後釈迦はさとりを開いたウルヴェーラーに向かう。この途中、自分たちの持ち物を盗んだ遊女を探していた三十人の男たちを、ヤサと同じ説法で出家させている。この段階で、既に釈迦の弟子は九十人を超えているが、その多くは宗教的な知識の無い在家の男性である。
 ウルヴェーラで、釈迦はウルヴェーラ・カッサパ(優楼頻螺迦葉)とナディー・カッサパ(那提迦葉)とガヤー・カッサパ(伽耶迦葉)という三人の在家宗教指導者を帰服させている。この三人の名前は、それぞれ「ウルヴェーラに住むカッサパ」「ネーランジャラー河のほとりに住むカッサパ」「ガヤー市に住むカッサパ」という意味であり、三人とも火を祀る儀式を行っていたことから、兄弟であったとも言われている。火神アグニはバラモン教の主要な神であり、アグニを祀る儀式では生贄を捧げる聖火がもちいられていた。この三人がバラモン教の流れをくむ在家指導者であったのか、バラモン教とは別の拝火教指導者であったのかはわかっていない。いずれにしても、釈迦は自分とは異なる思想を持った宗教指導者に対して教化を試みたのである。『律蔵』によると、この教化は簡単にはいかなかったようである。まず、最も多くの弟子を抱えていたウルヴェーラ・カッサパの元に行った釈迦は、様々な神通力を示したが、ウルヴェーラ・カッサパは容易には釈迦を阿羅漢であるとは認めなかった。六日にも及ぶ釈迦の教化によって、釈迦の下での出家を決意したウルヴェーラ・カッサパは次のように語ったという。

 名声あるゴータマの驚異的なはたらきを見て、わたしは嫉妬と傲慢に欺かれて、最初のうちは、かれにひれ伏すことをしなかった。わたしの意向を知って、人間たちの御者(釈迦)は、わたしを促した。そこで、わたしには、不思議な、身の毛もよだつ感激がおこった。以前にはわたしは結髪行者であったが、そのときのわたしの神通力はわずかのものであった。〔釈迦に会った〕そのときに、わたしはそれを捨て去って、勝利者(釈迦)の教えにおいて出家した。以前には、祭祀を行うことに満足し、欲望の領域に心が乱されていたが、のちには、欲情と嫌悪と迷妄とを根こそぎにした。わたしは前世を知っている。わたしのすぐれた眼(天限通)は清められた。神通力をそなえ、他人の心を知るものであり(他心通)、すぐれた聴力(天耳通)を獲得した。わたしが在家の生活から脱して出家したその目的である〈あらゆる束縛の消滅〉を、ついにわたしは達成した。

 このようにして、ウルヴェーラ・カッサパは五百人の弟子と共に釈迦に帰依したのである。
 続いてナディー・カッサパも次のような言葉で釈迦に帰依している。

 わたしのために、ブッダはネーランジャラー河に来られた。わたしは、かれの教えを聞いて、誤った見解を除き去った。〔以前には〕わたしは種々の祭祀を行なっていた。わたしは、火の献供をも実行していた。― 「これは清浄なことである」考えながら。わたしは盲目の凡夫であった。誤った見解の密林に踏み迷い、誤った偏執に味(くら)まされて、盲目であり無知であったわたしは、不浄を清浄である、と考えこんでいた。わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたしは、いま〔真に〕布施に値する火の祭りを行う。われは、修行完成者に敬礼する。わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執をうち破り、生まれをくり返す迷いの生存は滅びてしまった。いまや迷いの生存をふたたびくり返すことはない。

 このようにして、ナディー・カッサパは三百人の弟子と共に釈迦に帰依したのである。
 最後にガヤー・カッサパも次のような言葉で釈迦に帰依している。

 早朝と、日中と、夕方と、日に三度、わたしは、ガヤーの春の祭りに、ガヤーで、水の流れに入って、水浴した。「わたしが以前に他の諸生涯においてつくった罪悪を、いまや、ここで、洗い流してしまおう」、わたしは以前には、そのような見解をもっていた。〔釈迦の〕よく説かれたことば、法と利をともなう語句を聞いて、あるがままの、真実に即した道理を、正しく観察し反省した。わたしは、いまや、あらゆる罪悪を洗い去り、汚れなく、身心をととのえ、清らかであり、清浄なる人の清浄なる後嗣であり、ブッダの実子である。八つの部分よりなる流れのうちに跳びこんで、わたしはあらゆる罪悪を流し去った。わたしは三つの明知を体得した。ブッダの教えはなしとげられた。

 このようにして、ガヤー・カッサパは二百人の弟子と共に釈迦に帰依したのである。この三人とその弟子であった千人を帰依させた釈迦は、ガヤー市に程近いガヤーシーサ山(象頭山)という古くからの霊場に移動すると、火を祀っていた彼らの為に「燃える火の教え」と言われる教えを説いている。これは、我々の中で貪欲の火と嫌悪の火と迷いの火が燃えているために、誕生・老衰・死・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えという苦に悩まされる、という彼らの考え方に添った教えである。このように、相手に合わせて説法を変えることを対機説法といい、仏教の特色となっている。

6. サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)


 釈迦はこの後、千人を超える弟子を伴って、ラージャガハに移動している。ここで、六師外道の一人サンジャヤの高弟であるサーリプッタとモッガラーナが釈迦の弟子となる。ラージャガハを托鉢のために訪れた五比丘の一人アッサジと出会ったサーリプッタは、その美しい所作に心を打たれて「だれを師としているのか?だれの法を楽しんでいるのか?」と尋ねた。この時代を代表する思想家の下で研鑽を積んだサーリプッタには、アッサジの姿が際立って見えたのである。この問いに対して、アッサジは「もろもろの事がらは原因から生じる。真理の体現者はその原因を説きたまう。またそれらの止滅も説かれる。大いなる修行者はこのように説きたまう。」と答えたという。これは縁起の初期的な解釈である。ついでモッガラーナも同じ様にアッサジに教えられ、共に修行していたサンジャヤの弟子二百五十人と共に釈迦の弟子となった。これを聞いたサンジャヤは「口から熱血を吐いた」という。しかし『四分律』によると、モッガラーナが「自分たちは釈迦の弟子となろう」と言うと、サーリプッタは「そのことをまず弟子たちに知らせて、同意を得なければならない」と答えたとされている。つまり、二百五十人はこの二人の弟子であったことになる。『五分律』ではこの時すでにサンジャヤは死亡したとされていることから「口から熱血を吐いた」というのは後の創作であると思われる。サーリプッタは智慧第一、モッガラーナは神通第一と呼ばれ、釈迦の多くの弟子の中でも筆頭格とされている。人数的には三カッサパとその弟子たちより少ないが、思想的に教団を主導したのはこの二人と弟子たちであった。特にサーリプッタはジャイナ教徒たちから仏教教団の指導者と見られていた。この二人は同郷の幼馴染であり仲が良かったことでも知られており、サーンチーの同じストゥーパの中から二人の遺骨が一緒に見つかっている。
 この頃、衣食住に執着しないという頭陀行に優れていたために頭陀第一(行法第一)と呼ばれたマハーカッサパ(摩訶迦葉)も釈迦の弟子となったとされている。釈迦入滅後、釈迦の教団を率いたため仏教第二祖とも言わる弟子である。

7. 釈迦族の弟子たち


 この後、釈迦は故郷のカピラヴァットゥに帰っている。ここでシャカ族の五百人が帰依したとされる。釈迦の異母弟であるナンダ(難陀)は、新婚生活を送っていたところを釈迦の勧めによってこの時出家した。釈迦の実子のラーフラ(羅睺羅、密行第一、戒行第一)もこの時、九歳で出家している。多聞第一と呼ばれるアーナンダ(阿難)は、釈迦がさとりを開いたころはまだ五歳であったため、出家したのは十五年後の二十歳になってからである。釈迦より三十歳年下であったアーナンダは、出家してから釈迦が入滅するまでの二十五年間、常に釈迦のそばを離れなかったために、最も多く釈迦の教えを聞いていたとされたことから、釈迦入滅後に編纂された経典は、百二十歳まで生きたというアーナンダが記憶をたどるという形式で書かれている。中国の寺院ではマハーカッサパと共に釈迦三尊として安置されていることが多い。他に、天眼第一といわれるアヌルッダ(阿那律)や、後に釈迦と対立するデーヴァダッタ(提婆達多)、理髪師で奴隷階級出身の持律第一と呼ばれたウパーリ(優波離)、釈迦の幼馴染であり窃盗癖があったカールダーイー(迦留陀夷)などが弟子となっている。現在資料に名前が残っているシャカ族出身の仏弟子は修行僧四十一人、修行二十人と決して多くは無いが、人材的にはサーリプッタの率いるサンジャヤ系集団に匹敵するものであった。

8. その他の弟子たち



 この他の有力な弟子としては、釈迦の後援者であったスダッタ(須達多、須達、善施)長者の甥で解空第一(無諍第一、被供養第一)と呼ばれたスブーティ(須菩提)がいる。空に対する理解が優れていたとされ、大乗仏教経典に名前が記されている程後世に大きな影響を与えており『西遊記』では孫悟空の師匠としても登場しいる。釈迦入滅後に活躍した論議第一と呼ばれるマハーカッチャーナ(摩訶迦旃延)も有力な弟子であった。彼は西インドの王の命により出家したとも、アシタ仙人の弟子で師の遺命により仏弟子となったとも伝えられているが、部派仏教の説一切有部の基礎となる「阿毘達磨発智論」二十巻の編者ともされている。
 釈迦の弟子には、バラモンやクシャトリヤ、裕福な商人などの上流階級出身者も多くいたが、社会的に軽蔑されていた下層階級出身者や犯罪歴のあるものも少なくない。スニータ長老は「わたしは賤しい家に生まれ、貧しくて食物が乏しかったのです。わたしは家業が卑しくて萎んだ花を掃除するものでした。人々には忌み嫌われ、軽蔑され、罵られました。わたしは心を低くして多くの人々を敬礼しました。」と述べている。盗賊であり多くの人を殺めていたアングリマーラ(切った指でつくった輪をかけている者)なども異色の弟子であった。
 また、釈迦の義母マハーパジャーパティーが最初の尼僧となると、これに続いて多くの女性出家者が誕生した。この中には、捨てられた孤独の女、子を失った母、遊女などもいた。インドを代表する遊女であるアンバパーリーは有名であるが、他にもヴィマラーやアッダカーシーなど幾人もの遊女が釈迦の弟子となっている。女性出家者は釈迦入滅後にもしばらくは存在していた。紀元前三百年ごろにインドを訪れたギリシャ人が「インドには婦人の哲学者たちがいる」と、驚きの念をもって語っている。しかし、インド社会の一般的な女性理解に飲み込まれ、次第に女性出家者はインド仏教から姿を消していく。






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