|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史12

‐仏教の変遷4  部派仏教時代‐

- 2019年11月27日
1. 世界宗教としての仏教

 ペルシャ帝国を建国したキュロス王(BC558-529、アカイメネース朝)はインドに遠征し、インダス河の西部地方(現在のパキスタン西部)を支配下に収め、さらに第三代王ダレイオスはラージプーターナ砂漠(現在のインドラージャスターン州)以西まで支配を拡大した。ペルシャ帝国の支配下にあった自治州の中で、このインド西部の支配地域は最も人口が多く、また豊かであったという。この地域の呼称である「インダス」が現在の「インド」という呼称の由来となっている。この後、マケドニア(現ギリシャ)のアレキサンドロス大王がBC327に西北インドに侵入し、インド西部はペルシャからギリシャ人の支配下に移った。
 BC317、当時インド国内で最大勢力を誇っていたマカダ国ナンダ王朝を、チャンドラグプタが倒してマカダ国マウリア朝を創始する。チャンドラグプタ王は、西北インドからギリシャ人の軍事勢力を一掃した。さらに侵入してきたシリア王セレウコス・ニカトール(アレクサンドロス大王の元部下)の軍隊を撃退すると、セレウコスの王女を妃として迎え、西インドからアフガーニスターン、東部イランまで支配地域を拡大した。チャンドラグプタ王はジャイナ教の信徒であり、退位後ジャイナ教の修行者となったといわれている。チャンドラグプタの後を継いだ子ビンドゥサーラはシリアとの友好関係を保ちながら、国内の反乱を収めるなど勢力維持に努めた。その子であるアショーカ(在位BC268-232)は、王位を継承した当初ブッダガヤーの菩提樹を刈り倒すなど仏教を敵対視していたが、国内の反対勢力を鎮定した後、仏教の在家信者となっている。この後、アショーカ王は南インドのカリンガ国を征服し、歴史上初のインド統一国家を形成した。この際、数十万人ともいわれるカリンガ人を殺害している。
 アショーカ王はこのことに深い悔恨を覚え、これを期に熱心な仏教徒となり、仏教を国教として平和的な国家運営を行うようになったとされている。マウリア朝はアーリヤ系民族を根幹としながらも、多くの民族を包える世界的な帝国となっていた。アショーカ王が仏教を国教として取り上げたのは、民族や文化を超えた思想と求心力を必要としたためであると思われる。仏教は、このアショーカ王からの期待に応えるために、多文化に対応する教義へと再編が行うことになった。アショーカ王は仏教の下に国内を統一するため、仏舎利を収めた八つのストゥーパの内、ラーマ村のストゥーパを除いた七つを開いて仏舎利を取り出し、インド各地に八万四千のストゥーパを建立て分納したと伝承されている。しかし、実際には仏舎利を取り出した痕跡は認められていない。
 マウリア朝は、仏教以外にもバラモン教とアージーヴィカ教とジャイナ教が公的な宗教として認めていた。バラモン教の修行者はバラモン、それ以外の3つの修行者はシャモン(沙門)と呼ばれた。ただし、当時は宗教という概念が無かったため、バラモンとシャモンは「哲人」とされ、七つの身分階級の中で王をも上回る最上位に位置付けられていた。「哲人」は一切の労働を免じられているだけではなく、誰かに支配されることも支配することもなかった。「哲人」とはいっても、単なる哲学者ではなく、神々に最も近い存在として、死後の世界や祭事の仕方など宗教的な知識を熟知した者でもあった。このため「哲人」は、天災や疫病の予言や回避なども求められた。もし、これに三回失敗すると一切の権威を失い、一生沈黙を守らなければならなかったという。特にアショーカ王は、公的な宗教の指導者を任命する権力を持つなど「哲人」に対して支配的・指導的立場を持っていた。この「哲人」に次ぐ階級は「医術者」である。主な仕事は多くの子供を産ませることであり、男女の産み分けを薬法によって行っていた。しかし、バラモンからは異端視され遍歴者(乞食者)や托鉢修行者とも呼ばれていた。いずれにせよ、仏教は国からの庇護を受けると同時に、管理をも受けることになったのである。

2. 西洋との思想交流

 当時の世界思想を代表していたギリシャ哲学とインド思想の交流は、アレキサンドロス大王のインド侵攻によって直接行われることになった。インドではアレキサンドロス大王は軍神スカンダとして扱われるようになり、日本にも韋駄天として伝えられている。マケドニアが撤退した後も、インド北西部にはギリシャ人が統治する国が次々と興り、約四十人ものギリシャ人諸王の名前が歴史に残っている。これらギリシャ人の国では、インドの身分階級は重要視されなかった。
 インド地域を支配した王として最も有名なのは、BC2世紀後半にアフガーニスターンから中部インドまでを統治していたメナンドロス王である。仏典ではミリンダ王と呼ばれており『ミリンダ王の問い』という経典は、今も広く読まれている。この経典は、メナンドロス王と仏教僧ナーガセーナとの対談となっており、ギリシャの神々を信奉していたメナンドロス王がこの対談を通して仏教徒となっていくという内容である。この経典は、東西の思想の違いを見て取ることができる貴重な資料となっている。このギリシャ系王国も、インド諸王国やパルティア族、サカ族(ともにイラン系遊牧民)によってインド地域から消えていくことになる。
 しかしこの間、多くのギリシャ思想がインドに流入した。インド天文学はギリシャから強い影響を受けており、仏教もギリシャに限らず、サカ人・パルティア人・シナ人・ドラヴィダ人・マーラヴァ人・カシュガル人・トカラ人・ボッカラ人など様々な文化を持った人種との交流によって、多くの影響を受けることになる。特に説一切有部とプラトーンの思想には、多くの類似点があると指摘されている。
 このことは西洋にとっても同様であった。仏教僧となったギリシャ人の記録も残っている。ギリシャ神話の中にはインド神話に由来するものも見て取ることができる。またヘレニズム時代のキリスト教や新プラトーン派哲学などが仏教の影響を受けていることが近年の研究によって明らかにされている。実際多くのギリシャ哲学者がインド哲学への憧れを抱きインドを訪れている。キリスト教以前のユダヤ教の一派であるエッセネ派は簡素な生活をしていたことで知られているが、そこに仏教の影響がみられる。同じくテラペウテス派も瞑想と独身主義、菜食主義で知られているが、これも仏教の影響であるとされている。当然、この後に興ったキリスト教においては、その伝説や儀式に仏教が与えた影響は少なくない。それどころか、キリスト教が広まる以前に、仏教がイギリスに広まっていたという学説まである。ケルト民族の神ケンヌンノスの像が広目天に酷似しているほか、坐して右手に数珠、左手に蛇を持ったシヴァ神のような像もある。実際、ケルト民族のドゥルイド僧は輪廻を説いており、ガンダーラ美術の遺品まで発見されている。また、ノルウェーやスウェーデンの遺跡からも仏像が発見されている。これらは5世紀から8世紀と新しいものであるが、蓮華の台座の上で結跏趺坐し、通肩の衣をまとい右手は与願印を示し、額には白毫相がある。

3. 仏教教団の巨大化と二大分裂(根本分裂)

 マウリア朝時代に世界宗教となった仏教教団は、急速にその組織を発展拡大していった。巨大な組織を運営するためには、多くの戒が必要となってきた。スリランカ系仏教のパーリ聖典には、ビクには二百二十七戒、ビクニーには三百十一もの戒か制定されている(大乗仏教の律宗ではビクは二百五十戒、ビクニーは五百戒)。多くの経典も編纂され、これに伴い経典の読誦も日常的に行われるようになる。
 アショーカ王の時代、巨大化した仏教教団は上座部と大衆部の二つに分裂する。この理由は次のように伝えられている。商業従事者が多く民主主義的であったヴァッジ族の僧が戒律の細かなところを無視したため、長老たちがこれを非難する決議を行った。この長老たちがヴァイシャーリーに七百人の指導的立場の僧侶を集めて聖典の再編をするための結集を行った。この決議に承服しなかった改革派のビクたち一万人が別の結集を行い、長老たちからの独立を宣言したという。長老たちのグループが上座部であり、改革派のグループが大衆部である。
 組織の拡大は、教理にも多くの変化をもたらした。中でも最も大きな変化は、ブッダになることも、その境地とされたニルヴァーナに至ることもほぼ不可能とされたことである。ニルヴァーナは、生きている間に到達できる不完全なニルヴァーナ(有余依涅槃)と死後得られる煩悩を尽くしたニルヴァーナ(無余依涅槃)に分けられた。不完全なニルヴァーナに至ることも困難を極め、次の三十七を完成させることが求められた(三十七道品、三十七菩提分法)。

① 四念処・・不浄観・一切皆苦・諸行無常・諸法無我の四つを観ずる
② 四正勤・・已生の悪を除く・未生の悪を防ぐ・未生の善を発生させる・已生の善を増すの四つを勤める
③ 四如意足・・優れた瞑想を願い努力し心を整え観察することで神通力を得る
④ 五根・・信・精進・念・定・慧
⑤ 五力・・五根が増長すること
⑥ 七覚支・・択法・精進・喜・軽安・捨・定・念
⑦ 八正道

4. 部派仏教

 二派に分裂して後、百年の間に大衆部が細かく分裂し、さらにその後の百年の間に上座部も細かく分裂した。大衆部の分派は、一説部・説出世部・雞胤部・多聞部・説仮部・制多山部・西山住部・北山住部、上座部は、雪山部・説一切有部・犢子部・法上部・賢冑部・正量部・密林山部・化地部・法蔵部・飲光部・経量部である。これらを「小乗二十部」という。分派の原因は、特殊な教理(説出世部・説一切有部・経量部など)経典の解釈の相違(法上部・賢冑部・正量部・密林山部など)指導者の対立(犢子部など)地理的な理由(制多山部・西山住部・北山住部・雪山部など)など様々である。仏教の相手に合わせて教えを説くという「対機説法」という特徴を考えれば、仏教が広範囲に広がれば各地の文化習慣の違いに合わせて多くの部派に別れることには必然性があったといえる。現在上座部を名乗っているスリランカ系仏教は分別説部の流れであるが、この部派は上座部系であるにもかかわらず上座部の教えを拒絶したため各部派から異端視され、この「小乗二十部」には含まれていない。
 上座部系統は保守的伝統的であったことから社会の上層部の支持を得ていた。一方、大衆部系統は時勢に即応する進歩的改革的傾向を持っていたことから一般民衆の支持を得ていた。勢力的には大衆部の方がやや優勢であったが、一つの部派としては説一切有部が最大勢力であり、中央アジアから東南アジアまで広がっていた。七世紀に義浄が東南アジアのシリーヴィジャヤ王国に滞在した際、千人以上いた僧侶の大半が説一切有部であったという。
 分裂した各派は、それぞれ自派の教説こそが釈迦の正統説であることを主張するために、経蔵や律蔵を編集していった。つまり、自派に都合の悪い教えを削除し、都合の良い教えを付加していったのである。このため、同じ名前の経蔵や律蔵であっても内容が異なるものが伝わっている。各部派は、自派の教説を主張するために多くの論文もつくっていった。この論文を「アビダルマ」(阿毘達磨、阿毘曇)といい「論蔵」と訳する。「経蔵」と「律蔵」と「論蔵」の総称が「三蔵」であり「三蔵」に通じた僧侶を「三蔵法師」という。各部派はそれぞれ「三蔵」を所有していたが、現在はそのほとんどが失われ部派仏教の「三蔵」すべてが残っているのは、説一切有部とスリランカ系仏教の「三蔵」だけである。他の部派がどのような教えであったのかは、説一切有部とスリランカ系仏教大乗仏教の「三蔵」から推察するしかない。
5. 説一切有部

 この部派に伝わる最大の教義書は『阿毘達磨大毘婆沙論』である。現在、玄奘訳の二百巻と浮陀跋摩訳の六十巻が残されている。ヴァスバンドゥ(世親、天親)の『阿毘達磨俱舎論』(『俱舎論』)は、説一切有部の入門書として広く知られているが、説一切有部の中からこれを批判する書も出されているため、ヴァスバンドゥは説一切有部ではなく経量部の僧侶ではないかともいわれている。日本では、653年に唐に渡った道昭が『俱舎論』を持ち帰り、興福寺・元興寺を中心に研究されことから、倶舎宗として南都六宗の一つに数えられるようになった。『俱舎論』は鎌倉時代以降にも延暦寺・三井寺・東大寺で重要視され続け、江戸時代に入ってからも真言宗・浄土宗・浄土真宗の重要な基礎テキストとされた。
 この部派の教えは、名前の通り「一切が有である」というものである。ただし、ここでいう「一切」とは「法」のことであり「男・女・瓶・衣・車・軍隊・林・舎」などの人為的存在ではなく、長短や此彼のような相対的なものでもなく「亀の毛・兎の角」のように自然界に存在しない名前だけのものでもなく、個人的存在のように他者によって成り立っているものでもない。
 ここでいう「法」とは、互いに他に依存せず、意識の中には現れたり現れなかったりするものの、過去現在未来に渡って自己同一を保っている(三世実有)ものであるという。具体的には「五蘊(色(形あるもの)・受(肉体的な感覚)・想(概念的な認識)・行(意志作用)・識(識別的な認識))、六境(色・声・香・味・触・法)、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)のことであるが、これらはさらに五位七十五法(有為法(七十二、色法(十一)、心法(一)、心所有法(四十六)、心不相応行法(一四))、無為法(三、虚空無為、択滅無為、非択滅無為)にまとめられた。
 未来世の法は現在にあらわれると、一瞬の間我々に認識され、すぐに過去に去っていくために、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬である。このように瞬間ごとに異なった法を経験することが「諸行無常」であるとしている。この理解が「無我」に反するとして他の部派から非難された。一方で、その細かな認識分析は大乗仏教の唯識派に継承されることになる。
 世界を、生命主体である有情世間と、物理的自然界である器世間とに分けて認識している。有情世間は過去の業の報い(正報)であり、器世間は過去の業の報いとして与えられた外的環境(依報)である。器世間は成・住・壊・空を無限に繰り返しており、有情は生有・本有・死有・中有の形態を十二支縁起の次第によって欲界・色界・無色界という三界の中で輪廻を繰り返すとしている。
 業そのものを実有とし、これを生み出すのが煩悩であり、業によって苦が生まれる(業感縁起)とする。苦の根源的な原因である煩悩を滅するために細かく分類した結果、百八にまでなった。煩悩を滅した究極の修行者を「阿羅漢」と呼ぶが、これだけ多くの煩悩を滅するためには多くの階梯が必要となり、これらを達成するために何度も人生を繰り返すことが条件となった。また、煩悩を断つことが主な目的となったことから、心の静寂を保つために社会との関係を避けることも求められた。社会の上層階級からの支持を受けていた説一切有部は、衣食住に不自由しなかったことから、僧院にこもって教理研究と修行に専念するようになったのである。このような生活は利己的独善的な傾向を生むこととなり、利他的な「慈悲」を否定するために「慈悲」は衆生のためのものではないと理解されるようになる。これは衆生の存在を認めること自体が「無我」に反することであるから「慈悲」とは衆生に向けるものではなく、自身を敵から守るものである、もしくは功徳を得る手段であるというものである。ただし、仏の「慈悲」は特別なものとして「大悲」としてその偉大さが高揚されていった。これによって利他的な活動がほとんど行われなくなり、説一切有部は後の大乗仏教運動から小乗仏教として非難されることになる。
 「我」に関しては、部派分裂前の「アートマンは存在しない」という思想は引き継いでいるものの、輪廻を肯定しているため、アートマンを「人我」として否定し、五蘊などの諸法の自性を実有とすることで「法我」を長時間的に自己同一させる主体として想定している。つまり、魂としての「我」は存在しないが、諸法の集合体としての「我」は存在するということである。ただしこれはあくまでも集合体であるから「無我」であり「非我」であるという非常に難解なものになってしまった。

6. 経量部

 説一切有部の分派である。説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典のみを典拠とするべきであると主張した。四大(地・水・火・風)と心は実有であるが、心所有法・心不相応行法・無為は実有ではないと否認した。また、現在のみが実在であり、過去と未来は存在しないとも説いた。ただし輪廻を肯定していたため、生まれ変わっても存続する主体を設定しなければならなかった。そこで、五蘊の根本に一味蘊というものを想定して、これを永遠の昔から続き同一の本質を持っている微細な意識とした。五蘊はこの一味蘊の辺に成立していることから根辺蘊といった。この他に「勝義のプドガラ」という「微細であり、具体的に表示しがたい実我」というものも想定していた。この部派の論師であったクマーララータは「仮にたてられているアートマン」(俗我)を承認しているが、これは「非即非離蘊我」とも異なるものである。この説は、この経量部に所属していたともいわれているヴァスバンドゥ(天親、世親)にも次のように採用されている。

 アートマン(我、霊魂)は存在しない。ただ個体の構成要素だけが存在する。それらの構成要素は、煩悩と行為(業)によってつくり出されたものである。人間の死後には、生まれかわるまでの中間的存在(中有)が連続して存在していることによって、母胎に入って再生するのである。それはたとえていうと、燈火の焔は〔刹那ごとに生じてはまた滅びるものであって、実体としては存在しないが、焔の連続として存在している〕ようなものである。

7. 犢子部

 輪廻の主体として、五蘊と同一でも別異でもない「非即非離蘊の我」である「プドガラ」という「我」を想定した。これは五蘊・十二処・十八界が和合した仮の存在であり実体はないので「無我」である。この「無我である我」は死後も無くなることはなく来世に継承されるとした。この見解は、法上部・賢冑部・正量部・密林山部にも及んでいる。このような想定が、大乗仏教の唯識でアーラヤ識を生み出すことになる。

8. 大衆部

 上座部が教義を細分化する一方で、大衆部は民衆に理解しやすいように釈迦の超人性、絶対性を強調していった。釈迦とその教えは絶対であることを説き、さとりを開く前の釈迦(菩薩)をも超人的なものとした。また、菩薩は業によって仏となる(業生)のではなく、願によって仏となる(願生)と説いている。また我々の本性は清浄であるが、煩悩によって不浄となっているとも説いている。説一切有部の三世観も否定し、現在だけが実有であり、過去と未来は実体がないとも主張している。大衆部の一派である説仮部が説いた「真俗二諦」説は大乗仏教に継承されているとされ、大乗仏教の祖ともされる龍樹菩薩にも影響を与えたと言われている。また、多聞部も大乗仏教の源流の一つと考えられており、この部派の『成実論』から生まれた成実宗は 唐代仏教十派の一つに数えられ、日本でも南都六宗の一つとなっている。説出世部の『マハーヴァストゥ』は、仏の生涯に対する記述や、菩薩から仏にいたる展開、無数の浄土の存在などから、浄土教の根本聖典である『仏説無量寿経』の原典とされている。この他、大衆部では、空や仏性など大乗仏教の中心課題となる説も論じられ、次世界の仏である弥勒菩薩も登場してきている。上座部への批判から始まった大衆部は、大乗仏教に至る過渡的な思想形態となっていった。






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