|『正信偈』学習会|仏教入門講座
已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 平成27年8月17日(月)
- 2015年9月28日
すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。


 親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中で、この部分を次のように解説をされています。

 信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながき夜、すでにあかつきになりぬとしるべし。「已能雖破無明闇」というは、このこころなり。信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」というは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえて、つねに信心の天におおえるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、日月のくもきりにおおわるれども、やみはれて、くもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおおわるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしとなり。

 ここで親鸞聖人は「無明のやみはれ、生死のながき夜、すでにあかつきになりぬとしるべし」とおっしゃっています。ここにある「無明」という言葉は、仏教では特別な意味を持っています。大乗仏教では「縁起」という言葉に多くの概念を持たせましたが、初期の仏教では「縁起」といえば、お釈迦様が煩悩の起こる原因を分析したとされる「十二支縁起」を意味しました。この中で、煩悩の根本、すなわちあらゆる苦しみの本となっているものとして「無明」があげられているのです。さらに、初期仏教から大乗仏教を通じて、人間の諸悪・苦しみの根源として、三毒といわれる三つの煩悩が説かれています。むさぼり執着する心である貪、思いが通らないことで起こる怒りや憎しみの心である瞋とならび、この三毒にあげられているのが真理に対する無知の心、すなわち無明を意味する癡です。ですから、仏教は無明を破る、つまり真理を知ることによって苦しみから解放されることを目的とした教えであると言えます。そのために仏教を学び様々な修行に耐えるのです。
 ところが親鸞聖人は、ここで「無明」の闇がすでにはれたと言っています。「すでにあかつき」になったとは、真理を知ることによって世界が理解できてきたということです。このことは、「信巻」に引用している曇鸞大師の『浄土論註』の次の言葉を根拠にしています。

 かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう。

 それまでの仏教では、自分の知恵で世界を理解しなければならなかったのに対して、ここでは「無碍光如来の名号」によって「無明を破す」とおっしゃっています。これを親鸞聖人は「無碍光仏の心光」と表現しているのです。「無碍光仏の心光」によって示された世界をうなずくだけで良いのです。しかし、自分の力で理解できているのではありません。眼の不自由な方が、手をとって下さる方を全面的に信頼した時、まるで眼が見えているかのように動くことが出来ることに似ているかもしれません。これを親鸞聖人は「信心をうればあかつきになるがごとし」とおっしゃるのです。「あかつき」とは闇ではないものの、はっきりと周りが見えているわけではない状態です。ですから「無明」が破れても、悟ることができたということではありません。これが「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」です。
 「貪愛・瞋憎」は先ほどの三毒の残り二つです。三毒の一つ「貪」は、一般には「貪欲」といわれます。「むさぼり」とは無限の欲望です。欲を満たされたことによって得られる幸福感はしばらくすると更なる欲に繋がります。もう十分であるという満ち足りた状態「満足」にはならないのです。ところが親鸞聖人はここで「貪愛」という言い方をします。これも「貪」の内容ではあるのですが、ここには「欲」ではなく「愛」が用いられています。今の感覚では「愛」は良い意味で使われることが多いと思います。これはキリスト教の説く無償の愛のイメージが一般的になった為ですが、仏教では煩悩として扱われることの方が多いのです。『大毘婆沙論』には「愛に二種あり。一に汚染はいわく貪なり。二に不汚染はいわく信なり。」とあります。「汚染」とは「煩悩に染まり汚れた心」という意味です。「愛着」や「執着」ということです。「むさぼる欲」というと、更に求めるというイメージですが、「愛着」というと、手放すことが出来ないというイメージです。どちらも「貪」なのです。この「貪」は物に対してだけではありません。名誉や愛情などに対してもこの煩悩は尽きることがありません。「不汚染」として「信」があげられていますが「信」のすべてが煩悩では無いというわけではありません。「汚染」の「信」と「不汚染」の「信」があります。私たちが日常生活で感じている「信」は「汚染」の「信」です。「誰かを信じている」「何かを信じている」と、一見自分の外のものを信頼しているように思っていますが、実際には自分の都合の良いように思い込んでいるだけです。「欲に目がくらむ」「愛情に流される」ということです。「妄信」といわれるこのような「信」は、煩悩に染まっています。ですから、「不汚染」の純粋な「信」である「愛」は、仏・菩薩しか持ち得ないものなのでしょう。
 「瞋」も一般的には「瞋恚」といわれます。これを親鸞聖人は「瞋憎」という言い方をします。「瞋」・「瞋恚」とは「いかり」ですが、「憎しみ」というと少しニュアンスが違ってきます。「いかり」はどちらかと言えば瞬間的な感情ですが、「憎しみ」は時間をかけて蓄積される感情です。ですから、「いかり」は抑えることができますが、「憎しみ」は完全に消し去ることが難しいのです。どちらも自分の思いが通らないことから起こる煩悩です。自分が正しくて、相手が間違えているにもかかわらず、相手の主張が通るからいかりや憎しみの感情が湧いてくるのです。つまり、正しいのは自分なのです。相手は個人であることも社会であることもあります。正しいはずである自分が不当に扱われているから、復讐やテロ行為に向かうのです。自分が正義ですから、そこには罪悪感が希薄になります。正しさを身にまとった煩悩といえるかもしれません。
この二つの煩悩が「雲霧」のように「真実信心」の「天」を「覆」っているのです。「真実信心」とは「無明」を破る、経典に書かれている「仏語」です。教えは仏の言葉ですから純粋です。ところが、その教えが私に届いた時には、雲霧のような二つの煩悩を通って来るために歪んでしまうのです。自分の努力にみあうような見返りを求める心や、正しいはずの自分の意見が通らないことに対して苛立ちの心が湧いてくるのです。いずれも本来の目的とは違うところに自分の心がずれてしまっています。「無明」は破れているのですから、分かってはいるのです。見返りを求めるために努力したのではない、ここで怒ってはいけないと分かってはいても、自然と心の中を覆ってしまうのです。このような気持ちは、雲や霧のようにいつの間にか湧き出てきて、消えることはありません。この表現は、親鸞聖人の実感なのでしょう。たとえ真実の教えを聞いても、それを真実として受け取る能力が自分にはないのです。これではどんなに素晴らしい教えの言葉も無意味のように思えます。では本当に無意味なのかというと、そうではないと親鸞聖人はおっしゃるのです。
 「雲霧、常に真実信心の天に覆えり」の後に「たとえば」と続けて「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」とあります。「たとえば」とあれば、その一例をあげるのかというとそうではなく「日光の雲霧に覆わるれども」と逆接の接続助詞をつなげています。これは、内容の矛盾する事柄を対比的に結びつけるはたらきを表しています。「雲霧に覆われているけれども、その上に真実信心の天があるから、まわりはよく見えるし、無明の闇はすでにない」というのです。分かってはいるけれども抑えきれない。しかし分かっているから大丈夫。ということです。ここで分かっているという中には、抑えることができないということも含まれています。自分の知恵では知ることができないことを経典から教えていただくのです。同時にその経典には、その智慧を受け止めきれない自分の姿も説かれています。これを「機の深信」といいます。しかし、そのことを知ることで、自分の思いに惑わされず、教えだけを拠り所として歩むことができます。これを「法の深信」といいます。自分の正義や思いを拠り所としていると、無理な自己正当化を繰り返し、最後には挫折してしまうことになります。拠り所としているものが、貪や瞋によって簡単に揺れ動いてしまうからです。経典に説かれている智慧は、一人二人が考えたものではありません。無数の先人たちがその生涯を尽くして作り上げた、人智の結晶なのです。これを個人の判断で推し量ることはできないのです。
 答えを与えられた後の歩みを「往生」というのでしょう。これは「さとり」とは違います。「無明」が敗れた後の「雲霧」の下での歩みです。分かってはいるのです。ただ、思い通りにはこの身が動かないのです。それでも、進むべき方向ははっきりしているのです。この様な浄土教の救いを、親鸞聖人はこの節に述べていらっしゃるのです。






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