|『正信偈』学習会|仏教入門講座
獲信見敬大慶喜 10月20日(火)
- 2015年12月10日
信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん

 親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中で、この部分を次のように解説をされています。

 「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。

 ここで『正信偈』の「大慶喜」が「得大慶」となっています。これはこの一文が、次の経典の言葉に由来しているからです。

 人有信慧難 若聞精進求 聞法能不忘 見敬得大慶 則我善親友
(人、信慧あること難し。もし聞かば精進して求めよ。法を聞きて能く忘れず、見て敬い得て大きに慶べば、すなわち我が善き親友なり)『佛説無量寿経』

 経典のこの一節は、お釈迦様が弟子の阿難尊者に対して、阿弥陀如来の功徳を称えて詠っているところです。『尊号真像銘文』を書かれている時には、経典の言葉に従っていたのでしょう。これが推敲を経て今の文に変わっているのです。理由の一つとして「喜」という文字を入れたかったことが考えられます。親鸞聖人の「喜」に対するこだわりは、次の文章に表れています。

 「歓喜」というは、「歓」は、みをよろこばしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり。『一念多念文意』

 この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなずく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、みにも、こころにも、よろこぶこころなり。『唯信鈔文意』

 ここで親鸞聖人は「喜」を、絶えることなくこころによろこびが溢れていることであるといっています。これに対して「慶」は信心を得た時に感じるよろこびです。ですから、信心を得たよろこびは、一時のものではなく消えることのないものであることを表したかったのでしょう。
 もう一つの理由として考えられるのは「得」を使うことにためらいがあったということです。同じ「うる」という読みでも、親鸞聖人は「獲」という経典には無かった言葉を用いています。この二つの文字について親鸞聖人は次のように述べておられます。

 獲字は、因位のときうるを獲という。得字は、果位のときにいたりてうることを得というなり。『末燈鈔』

 ここで親鸞聖人は「獲」は「因」で「得」は「果」で「うる」ものだと言うのです。仏教で「果」といえば、一般的な仏教では仏になるということですが、浄土教では往生することになります。ここでは「獲信」といいますから「信」は往生の「因」ということになります。経典では「得」の字が使われており、この理解で読むならば「人は信の智慧を備えることは難しい。ですから、もし仏の教えを聞くことがあったならば、精進して教えに従い仏の智慧を求めなさい。仏の法を聞いて忘れず、仏を見て敬い、往生を得て大きな慶びにいたるならば、すなわちあなたは仏である私の善き親友となるのです」となります。これが『正信偈』では「往生の因である信を獲れば、見て敬い大きに慶喜するのです」となります。つまり、「往生」の利益としての「慶」から「信」の利益としての「慶喜」となっています。「獲信」の時「即得往生」であれば問題はないのですが、当時の「往生」理解に幅があったために、あえて「得」の字を省いたのかもしれません。
 次に「見」の対象が問題になります。何を見て何を敬うことで「慶喜」するのかということです。一般的にはこれは「仏」になります。ここでいう「仏」とは阿弥陀仏です。

 願わくは弥陀佛を見たてまつり、普く諸の衆生と共に、安楽国に往生せん 『浄土論』

 すなわちかの佛を見たてまつれば、未証淨心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、淨心の菩薩と地上のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。『浄土論』

 これ以外には、諸仏や諸仏の浄土を「見」るというものもあります。

 念念に諸佛を見たてまつらん 『帰三寶偈』

 たとい我、佛を得んに、国土清浄にして、皆悉く十方一切の無量無数不可思議の諸佛世界を照見せんこと、猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん。若し爾らずんば、正覚を取らじ  『佛説無量寿経』

 たとい我、佛を得んに、国の中の菩薩、意に随いて十方無量の厳淨の佛土を見んと欲わん。時に應じて願の如く、寶樹の中にして、皆悉く照見せんこと、猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん。若し爾らずんば、正覚を取らじ 『佛説無量寿経』

 たとい我、佛を得んに、他方国土の諸の菩薩衆、、我が名字を聞きて、皆悉く普等三昧を逮得せん。この三昧に住して、成佛に至るまで、常に無量不可思議の一切の諸佛を見たてまつらん。若し爾らずんば、正覚を取らじ  『佛説無量寿経』

 更に次のように、浄土に住む者やその者の心、その者学びの場を「見」るというものもあります。

 たとい我、佛を得んに、国の中の人天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸佛の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ  『佛説無量寿経』

 たとい我、佛を得んに、国の中の人天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸佛の国の中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ  『佛説無量寿経』

 たとい我、佛を得んに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚を取らじ 『佛説無量寿経』

 これらは別のものではなく、一つのことを様々な角度で言い表しているのでしょう。阿弥陀仏とその浄土である極楽浄土は別のものではないという「身土不二」という言葉があります。浄土は世界であり、そこに住む人々であり、人々の生きざまであり、学びとしての生活の場でもあります。また「まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申す」(『御消息集(善性本)』)とあるように、念仏の教えを賛嘆し勧める人を諸仏とおっしゃっています。つまり、阿弥陀仏を信じて念仏すると目の前に阿弥陀仏が現れるということではないのです。阿弥陀仏に託して説かれている念仏の教えを信じることによって、自分を育ててくださっている方々を諸仏として仰ぎ、この世界が念仏の学びの場として受け止められるということが「見」ということです。
 ここで親鸞聖人は文尾に「せん」とおっしゃっています。先ほどこれを「するのです」と訳しましたが、強い意志を表す言い方です。ですから、これはそのように「見」えたということではなく「見」るようにしなければならない、ということです。「見」えたのならば「仏」でしょうが、「見」るようにしなければならないと確信したことを「往生」というのでしょう。出来はしないけれども、どうすれいいか分かっているということです。互いが煩悩具足・極悪深重の凡夫であると自分に言い聞かせて、欠点を認め合いながらも尊重し合えるようにすることが、楽の極みへと繋がる道であるという見方が出来るようになることが獲信です。
 その第一歩が、自分を凡夫であると知らされることです。このような自分を多くの方々が今まで支えてくれた居たことに気付くと、否が応でも頭が下がるのです。これが諸仏との出会いです。敬う心が生まれてくるから「大慶喜」が湧き上がってくるのです。「仏」にはなっていないものの、生きる事が楽になるのです。他人から尊敬されようとすると苦しいのですが、他人を尊敬できるということは楽なのです。人から嫌われようが自分の身のままで生きていけるということは、強い信念が必要です。この時、周りから攻撃されても壊れない強い自分を作ろうとすると大変な努力が必要になります。そうではなくて、周りを尊敬できる自分になることで壊れなくなるのです。これを「金剛心」・「柔軟心」と言います。硬くて柔らかいのです。穏やかで強いのです。この思いを支えるのが「大歓喜」です。
 宗教とは何かという答えは、宗教の数だけあるのでしょう。ですから、どの宗教が正しいかという問いは成り立ちません。真理を求めるという宗教もあるかもしれませんが、これは人間の知的関心の世界です。哲学や自然科学の分野になるのでしょう。仏教にこのような一面がることも確かですが、基本はいかにしてすべての人々の願いを満足させるかということでしょう。特に浄土教は個人と世界の両方にそれを求める教えです。ただし、この願いは、煩悩を叶えるものではなく、教えられて初めてそれが本当の願いであったと気づかされる願いです。その願いに気づかされたことを親鸞聖人は「大慶喜」と言うのです。このような結果を得るために必要となるのが「因」です。親鸞聖人の場合、この「因」が念仏の教えであり、そこから獲られる「信」になります。
 同じ念仏を説く教えでも、様々な宗派に分かれている一つの理由が結果の違いにあります。自分の願いを叶えるための念仏と、与えられた願いを叶えるための念仏です。この与えられた願いとの出会いが「見」なのでしょう。諸仏や浄土と出会うということです。出会ったという現実を前にすると、何が真実であるかという議論は意味を失います。元々、自分には真実をうかがい知る能力は無いというのが親鸞聖人の立場です。そういう能力は無くても出会うことはできるのです。出会ってきた方々を諸仏として敬えるような人になりたいということです。そのための念仏なのです。このように目的を明確にしなければ、同じように努力しても結果がぶれてしまうことになります。
 念仏は呪文ではなく教えなのです。その教えに頷いたところから、自分の眼で「見」ることが出来るようになるのです。誰かが「見」たものを、もっともらしいから信じるというのではありません。どうしても自分より優れていると思った人の言葉を信じたくなりますが、自分の価値観や損得から完全に離れることは至難です。どのように優れた人でも、その人の人生や時代に拘束されています。ですから仏教は釈迦から離れざるを得なかったのでしょう。完璧な人間を目指すのではなく、欠点があるままでの自分や他人を認め、尊敬し合える世界を親鸞聖人は与えられたのでしょう。欠点がるのですから、尊敬とはいっても無条件というわけにはいきませんが、それでも大切な人であると思えるようにするということです。喧嘩したり、時には悪口を言い合うことがあっても「お陰さまで」と言い合える、柔らかな関係があれば十分ではないかということです。そう思えた方を「妙好人」と言います。悟りを開いたわけではありませんから仏ではありませんが「大慶喜」を得た方です。親鸞聖人は法然上人にこの姿を見られたのでしょう。そして自分もそうなりたいという目標をもって念仏の教えに帰依されたのです。







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