|『正信偈』学習会|仏教入門講座
顯示難行陸路苦 信樂易行水道楽 平成30年1月16日(火)
- 2018年3月2日
 今回の一節は、龍樹の作とされる『十住毘婆沙論』の「易行品」にある、次の文章によって書かれているものです。
 
 また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿唯越致に至る者あり。

 この部分は親鸞聖人が『教行信証』の「行巻」に引用しています。この文章を根拠にして「八宗の祖」と言われる龍樹が、自分の力で悟りを得るために精進努力するのは陸路を歩くように難しいのだけれども、他力を信ずることによって船で旅するように簡単に悟りを得ることが出来るとおっしゃっている、と言うのがこの「正信偈」の一節です。今でこそ、陸上交通網の発達により、水上交通の利便性は薄れてしまいましたが、鉄道や自動車が登場するまでは、洋の東西を問わず、船による移動が最も安全で快適なものでしたから、親鸞聖人にとってもこの例えは分かりやすいものであったのでしょう。
 しかし『十住毘婆沙論』で言っているのはそういうことではありません。龍樹は大乗仏教の祖とも言われている方です。大乗仏教とは、それまでの仏教を小乗であると非難して生まれた新しい仏教です。それまでの仏教はまず自分が救われてから周りの人も救おうという仏教でした。ですがこれでは自分が救われなければ誰も救うことは出来ません。これに対して大乗仏教とは、周りの人達と一緒に自分も救われようという、他者の救済に重点を置いた仏教です。しかし、修行をしていない者が悟りを得るということは普通では考えられません。そこで龍樹たちが考えたのは、出家した僧侶、すなわち菩薩が厳しい修行をし、修行をしていない者はその菩薩の言葉を信じてついていけば悟りを開いたのと同じことになるというものです。ですから、陸路と言うのは僧侶の歩む道、これを菩薩道といいます。それに対して水路というのは在家信者の歩む道ということです。ですから『十住毘婆沙論』には「かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。自ら度しまた彼を度せん。」とあるのです。ここにある「八道」とは、出家者が歩むべきとされる「八正道」のことです。これは、正見(仏道修行によって得られる仏の智慧)、正思惟(正しく考え判断すること)、正語(妄語(嘘)・綺語(無駄話)・両舌(仲違いさせる言葉)・悪口(粗暴な言葉)を離れること)、正業(殺生・盗み・邪淫を離れる)、正命(戒律に反する生活をしない)、正精進(「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」を実践する)、正念(身・受・心・法に注意を向けて、常に今現在の状況に正しい認識をもつ)、正定(正しく集中する)の八つです。すなわち、僧侶が信徒を載せる船となるのです。
 これに対して、親鸞聖人は龍樹を含む出家者も船に乗り悟りを得るのが仏教であると言っているのです。この場合の船は南無阿弥陀仏になります。このことを言うために、親鸞聖人は陸路の「道」を、わざわざ「路」に変えています。「道」と「路」の違いを、親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」(二河白道の釈)に次のように述べています。

 「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。「路」は、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。

 『十住毘婆沙論』では両方とも「道」といっているのです。「道」は「東海道」のように大きな「みち」公的な「みち」です。これに対して「路」は「裏小路」とか「迷路」のように細い「みち」私的な「みち」になります。親鸞は修行によって悟りを得る仏教は「小路」であり、信心によって悟りを得る仏教が大乗仏教を成就させる「大道」であるというのです。これは『十住毘婆沙論』を引用しながら、その内容を変えてしまっていることになります。これは親鸞聖人の独断ではありません。この後に続く六祖の方々の歩みを通して、仏教の教えがこのように進化を遂げていくのです。船が僧侶であると、僧侶が道を誤ってしまえば船に乗っている人すべてが、同じく道を間違えることになります。この様な宗教はいくらでもあります。どれほど立派な人であろうとも、人によって導かれる教えはこの危険性から逃れることは出来ません。「人」を「神」にしても同じです。「神」の言葉を聞くのが「人」である以上、危険性は変わらないからです。「南無阿弥陀仏」は「人」でも「神」でもありません。親鸞聖人が「諸仏」と言われる、お釈迦様から私に至るまで、どのようにすればすべての人を救うことが出来るのかということを真剣に考え続けてきてくださった無数の方々の、時代や地域を超えた願いそのものです。これを「本願」と言います。この「本願」をもって船とする、と言うのが親鸞聖人です。
 龍樹はお釈迦様と同じインドの生まれですし、お釈迦様が亡くなられてまだ千年も経っていない時代の方ですから、やはりお釈迦様の如くになりたいという思いが強かったのでしょう。しかし、親鸞聖人にはそのような思いはありません。仏教に救われたい、仏教によって救いたいという思いはあっても、私が救いたいという思いは叶わないことを知っているのです。同じ大乗仏教でも、龍樹のような仏教を「聖道門」といい、菩薩の仏道になります。これに対して、親鸞聖人のような仏教を「浄土門」といい、凡夫の仏道です。「聖道門」が間違った教えであるのではありません。ただ、凡夫には歩むことのできない道なのです。この視点があったからこそ、このような読み替えになったのです。






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