|『正信偈』学習会|仏教入門講座
歸入功徳大寶海 必獲入大會衆數 平成30年6月19日(火)
- 2018年7月24日
 親鸞聖人は「海」という言葉をよく使われていますが、三通りの使われ方をしています。一つは「大海」のように、実際の海のはたらきをそのまま例えた使い方です。二つは「群生海」のように、凡夫である私たちの在り方を表している使い方、そして、三つ目が今回の「大寶海」や「本願海」のように、私たちを救う法を表してる使い方です。
 「海」は仏教以前のバラモン教の頃から譬喩として用いられていました。それは、どのようなカーストの者でも、死ねば一つのアートマンになるということを、河川と海に例えた表現です。今回の「歸入功徳大寶海」はこの例えに似ているようにも感じられます。同じような「海」の例えとして『正信偈』の中に「如衆水入海一味」があります。どのような人生を歩んできた者であろうとも、浄土に生まれれば皆等しく「一味」となるという意味です。このような「海」としてのはたらきを親鸞聖人は「行巻」に次のように述べておられます。

 「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。

 ここで親鸞聖人は「凡聖所修の雑修雑善の川水」だけではなく「逆謗闡提恒沙無明の海水」までも「転じ」て「大宝海水と成る」とおっしゃっています。これは、バラモン教以来の海と川の例えとは違っています。この言葉の後に、親鸞聖人は次のように続けています。

 良に知りぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごとし。

 これは、七高僧のお一人である源信僧都の『往生要集』にある次の言葉によると思われます。

 氷と水と性は異処にあらざるがごとし。故に経に云く、煩悩菩提体二なし。生死涅槃も異処にあらず云々。我未だ智火の分あらず。故に煩悩の氷を解きて功徳の水と成すこと能はず

 ここにある「経」は、源信僧都が天台宗を起こされた智顗の『摩訶止観』にある「無明轉即變爲明。如融氷成水。」を『往生要集』に「無明変じて明となる、氷の融けて水となるが如し。」と引用なさっていることから、実際には経典ではなく『摩訶止観』であると思われます。智顗と源信僧都は、煩悩と悟りは本質が同じであるという天台教学を説明する例えとして、氷と水を用いています。親鸞聖人にも、煩悩と悟りが本質的に同じであることを詠われている和讃が「曇鸞讃」にあります。

 本願圓頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩菩提體無二と すみやかにとくさとらしむ

 親鸞聖人がお二人と異なっているのは、この氷と水の例えを、「海」に重ねているところです。ここから生まれたのが「群生海」などの表現になります。先の川と海の例えは、水量に絶対的な違いがあることによって成り立ちます。ところが。両方とも海では薄まることがありません。どのような汚れも海に入ってしまえば薄まってしまうというのではなく、汚れそのものが清らかになるという例えです。これは、智顗や源信僧都のように、本質的に同じという意味ではありません。煩悩がそのまま悟りにつながるのです。これを表している和讃が「曇鸞讃」にあります。

 無碍光の利益より 威德廣大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる
 罪業功徳の體となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに德おほし

 これらは「群生海」がそのまま「大寶海」となることを詠っています。このような発想は、煩悩を無くすことを目的にした初期の仏教にはありませんでした。煩悩が自分を苦しめる元凶であるとして、いかにして煩悩を滅するかが関心事だったのです。除夜の鐘を撞くのもこの頃の考え方から来ています。貪欲・瞋恚・愚痴といった煩悩が人を不幸にするという考え方は、今でも仏教の基本です。煩悩を無くする努力をすると、人は煩悩を客観的に捉えることができるようになります。ところが、そうなってくると、煩悩に惑わされている者を見下げるようになってしまうのです。これも煩悩です。煩悩を無くする努力をしたために、別の煩悩が大きくなってしまうのです。ここに努力をするということ自体の問題が出てきます。努力をすると、人は必ずその努力を誇ってしまうのです。そこで親鸞聖人は『一念多念文意』に次のようにおっしゃっています。

 「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつるがゆえに、大宝海とたとえたるなり。

 ここで親鸞聖人は「みちたりぬとしらしめんとなり」と、努力して求めるのではなく、既にここにあることを知らしめるのが仏教であるとおっしゃっています。ですから仏教に出会った人は「しらず、もとめざるに」いつの間にか「功徳の大宝」が「そのみにみちみ」ちていたことを知らされるのです。「こほりおほきにみづおほし さはりおほきに德おほし」とありますが「さはり」の多い人と少ない人がいるということではありません。皆等しく海のように大きいのですが、自分の「さはり」の多さに気づいていないのです。これに気づかされているのが「聞法」です。自分の「さはり」の多さに気づいていくほど「德」が多くなっていくのです。それが海のようになる様が「歸入功徳大寶海」です。これが親鸞聖人の出会った浄土教です。ですから修行を必要としないのです。
 「必獲入大會衆數」の「大會衆」とは「皆が合える場所」という意味です。自らを高めていく人生とは、他人とは違う場所を求める人生です。ですから、他人を自分と同じ人間であるとは思えなくなっていき、最後は家族でさえも道具に思えてしまうのです。逆に、すべての人を自分と同じ目線で見ることができる世界が「大會衆」です。これを親鸞聖人は『一念多念文意』に次のようにおっしゃっています。

 宝海ともうすは、よろずの衆生をきらわず、さわりなく、へだてず、みちびきたまうを、大海のみずのへたてなきにたとえたまえるなり。

 誰も「きらわず、さわりなく、へだて」ない世界です。その中の一員になるということが「數に入る」ということです。自分の幸せを、特別な存在になるところに求めるのではなく、自分の凡夫性を知るところに求めるならば、必ず皆と一つになる世界を獲得できるというのが親鸞聖人の教えです。






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