|『正信偈』学習会|仏教入門講座
往還廻向由他力  平成31年2月19日(火)
- 2019年6月29日
 「廻向」という言葉は「廣由本願力廻向」という所でも出ていましたが、大乗仏教の要になる言葉です。大乗仏教とは、自分だけが救われるのではなく、すべての衆生と共に救われようという教えです。ですから「廻向」とは、自分の積んだ功徳を周りの皆に廻すという意味です。自分が勉強したことを皆に聞いてもらうということも「廻向」です。言葉以外でも、皆の模範になるような行動をとることによって、周りの人に良い影響を与えることも「廻向」です。ところが曇鸞大士は、浄土教において「廻向」とは自分がする功徳ではなく、仏が自分に与えてくれる功徳であるというのです。煩悩成就した凡夫に功徳など積めるはずがないということです。たとえ、まっすぐ歩こうと思っても必ず曲がってしまうのが凡夫なのです。「廻向由他力」とはこういう意味です。
 曇鸞大士はこの「廻向」をさらに「往相」と「還相」という二つの相に分けます。自分を浄土に迎え入れる阿弥陀如来の「廻向」が「往相」です。では「還相」」とは何かというと「往相」だけでは衆生を救うことができません。大乗仏教はすべての衆生を救わなければなりません。そこで「浄土」に生まれたのち、この穢土に生まれ変わり衆生を救う必要があります。これが「還相」です。親鸞聖人の和讃にも次のようにあります。

 往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり
 還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり

 しかし、親鸞聖人は自分が死後浄土に生まれた後、再びこの穢土に生まれ変わるとは考えてはいませんでした。「往相」も「還相」も阿弥陀如来から自分への「廻向」であると了解したのです。それが次の和讃です。

 弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ

 私の心の中で働く「仏心」としての阿弥陀仏の「廻向」により、私が浄土を歩むことができます。これが「往相」の「廻向」です。しかしそのためには、私に言葉や生き様を通して教えてくれる師が必要です。それが「還相」の「廻向」です。親鸞聖人にとっては法然上人がその人でした。私に対して「普賢の徳を修」して下さっていたのです。私の中の「仏心」を外から示してくださる方がいなければ「往相」とはならないのです。私の外と内の両方からの「廻向」によって、初めて浄土を歩むことができたというのが親鸞聖人の実感でした。親鸞聖人にとって、この二つの「廻向」こそが浄土真宗の要でした。ですから『教行信証』には「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。」と書かれたのです。「仏心」はすべての人の中にありますが「煩悩」もすべての人の中で成就しています。それはその人の性格や人生に関係ありません。私の内なる「仏心」がなければ浄土を歩むことはできませんが、だれかがその「仏心」を外から指し示してくれなければ、どちらに進めばよいのかわからないのです。ですから、浄土真宗という仏教は「他力」による歩みであり、また「賜った信心」によって得られる救いであるのです。






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