|『正信偈』学習会|仏教入門講座
道綽決聖道難證 唯明浄土可通入  令和元年7月16日(火) 
- 2019年12月7日
 道綽禅師は中国の僧侶で、聖徳太子とほぼ同時代の方になります。禅師とはいいましても禅宗とは関係ありません。今でも浄土真宗の坊守の法名に「禅尼」と付けることがありますが「禅」とは僧侶に対する呼称の一つです。もとは『涅槃経』を二十四回も講義したといわれる涅槃宗の高僧でした。四十八歳の時、玄中寺で曇鸞大師の碑文を読んで浄土門に帰入し、その後『観経』を二百遍も講じ、晩年には日課として称名を七万遍行ったと伝えられています。親鸞聖人は生涯でいくつかの名前を名乗られていますが「親鸞」という名前以前には「綽空」と名乗っていました。これは道綽と法然上人の僧名である源空から頂いたものです。その道綽禅師を称える一節の最初に挙げられているのが、仏教を「聖道」と「浄土」の二つに分けたということです。道綽禅師は『安楽集』で次のように述べていらっしゃいます。

 第五にまた問ひていはく、一切衆生みな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。なにによりてか今に至るまで、なほ自ら生死に輪廻して火宅を出でざる。答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここをもつて火宅を出でず。何者をか二となす。一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。

 道綽禅師が学んでいた『涅槃経』は「悉有仏性」を説いている経典です。これは、すべての人は仏になる可能性意を持っているという教えです。しかし、道綽禅師は可能性はあると言われても、現実には誰も仏になることが出来ないことに悩んでいたのです。それがこの一文です。仏になる可能性を持っていながらそれがかなわない原因を、大乗仏教には「聖道」と「往生浄土」の二つの教えがあるのに「聖道」ばかりを歩もうとしているからであるというのです。なぜ「聖道」の仏教が成就しないのかというと、釈尊が亡くなって時間が経ちすぎているということと、その深い智慧を理解する能力が備わっていないからであるとしています。このような現状を「末法」であり「五濁悪世」といい「浄土の一門」だけが仏になることが出来る「路」であるというのが、道綽禅師の明らかにしたことです。「門」というのは入り口が違うのです。これは「道」が違うというのではありません。基本的に対処後方が違うということです。「釈迦仏」を目指すのが「聖道」であるのに対して、凡夫のままでの「往生」を目指すのが「浄土」です。「私でも救われる仏教」であり「すべての人が救われる仏教」です。それまでの浄土教は仏教を「難行」と「易行」と分けていましたが、難易の問題ではなく「門」が違うと明らかにしたのが道綽禅師です。
 
 道綽禅師にこの視点を与えたのが「機」と「教」と「時」の問題です。それは『安楽集』に次のように述べられています。

 興の所由を明かして時に約し機に被らしめて、浄土に勧帰せしむれば、若し教、時機に赴けば修し易く悟り易し。若し機と教と時と乖けば、修し難く入り難し。

 もし時を得ざれば方便なし、これを名づけて失とす。利と名づけず。いかんとならば、潤える木を攢りて、もって火を求めんに、火得べからず。時にあらざるゆえに。もし乾きたる薪を折りてもって水を覓むるに、水得べからず。智なきがごとしのゆえに。

 「機」とは、教えの対象となるものであり、教えを受けることの出来る衆生の能力によって分類されます。教えを前にしたとき明らかになる自分の姿ともいえます。教えが自分の機に相応しているのかが要となります。もし相応していなければ、その「教」によって救われることはありません。そして「時」です。これには諸説ありますが、釈迦滅後500年までを「正法」といい教と行と証のある時代とされます。500年から1500年までを「像法」といい証がなくなりますが、教と行は残っていますから、生き方を定めることは出来ます。これを過ぎた時代が「末法」です。行が無くなり教しか残っていません。道綽が生まれたのが仏滅後1501年とされますから、ちょうど「末法」に入った時です。この証も行も無くなった時代に相応するのが「浄土の一門」であるというのです。
 親鸞聖人はこのことを和讃で次のように述べています。

 本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく
 本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ
 末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ

 ここにある「聖道万行」とは浄土教以外の大乗仏教すべての宗派ですし「涅槃の広業」とは涅槃宗のことです。「浄土」が「聖道」よりも優れているのではなく「機」と「教」と「時」に相応しているということを明らかにして下さっているのが道綽禅師です。






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