|『正信偈』学習会|仏教入門講座
矜哀定散與逆惡 光明名號顯因縁  令和2年2月18日(火)
- 2020年6月25日
 「矜哀定散與逆惡」の「矜」と「哀」は、どちらも「あわれむ」という意味です。そのあわれみの対象が「定散」と「逆惡」です。まず「定散」ですが、これは『仏説観無量寿経』の中に説かれている「定善」と「散善」というの二つの極楽浄土に生まれるための善行のことです。「定善」とは「息慮凝心」と言われるように、心を静かに定めて自分の中に極楽浄土を具体的にイメージする行です。何かを行おうとする時、ただ漠然と行動するのではなく、出来る限り具体的なイメージをもって行わなければ思いとは違う結果になってしまいます。ですから「さとり」も、それがどのようなものであるのかをイメージしている必要があるのです。『仏説観無量寿経』は極楽浄土を具体的にイメージするための方法が説かれています。これがなければ、極楽浄土とはいっても、人によって全く違う世界をイメージしてしまうことになります。これに対して「散善」とは「廃悪修善」と言われるように、心を定めるのではなく、世間で悪と言われることを行わず善と言われることを行うというものです。『仏説観無量寿経」には「一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心ありて殺せず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯せず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」という「三福」が浄土に生まれるために修すべきこととして説かれていますここにある「十善業」とは「十悪(殺生,偸盗,邪淫,妄語,両舌,悪口,綺語,貪欲,瞋恚,邪見)」をなさないことです。いずれも仏教では行わなければならない善行とされています。ところが善導大師は、この善行を行っている人が阿弥陀仏のあわれみの対象であるというのです。その理由を『往生礼讃』で次のように述べています。

 もし専を捨てて雑行を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに、慚愧懴悔の心あることなきがゆえに。

 善導大師は「定善」や「散善」を行ずる者を「専を捨てて雑行を修せんとする者」として、ほとんど何も得ることがないといっています。その理由が「雑縁乱動」です。何故ならば真っ直ぐに仏を念ずることなどできない(正念を失する)、煩悩が心を乱す(貪瞋諸見の煩悩来り間断する)、自分の行動を恥ずかしいと思う心がない(慚愧懴悔の心あることなき)ためであるというのです。このように、現実には不可能でもあるにも関わらず、まじめに仏道を歩もうとしている者を、仏は哀れんでいると善導はいうのです。
 「逆惡」とは「五逆」と言われる仏教で最も罪の重い悪と言われるものです。「五逆」には小乗の「五逆」(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と大乗の「五逆」(寺塔や経像などの破壊、三乗の教法をそしること、出家者の修行を妨げること、小乗の五逆の一つを犯すこと、業報を無視して悪行をなすこと)がありますが、いずれもそれらの悪行を行った者を責めるのではなくあわれむというのです。
 あわれんで「光明名號顯因縁」したというのです。ここに「光明」と「名號」という二つの言葉が出ています。「光明」とは、仏の智慧が真実を明らかにしてくださることを光に例えたものです。「名號」と「は南無阿弥陀仏」ですが、全ての人を救いたいという願いそのものです。「顯因縁」とは「名號」が「因」で「光明」が「縁」であることを「顯」すということです。仏教の願いとは、どうすれば世の中の全ての人を救うことが出来るのかという事です。この願いに始まるのが仏教ですから「因」です。このための方法が「縁」です。これは方便や教えといいます。教えは願いをかなえるためにあるのです。
 これを善導大師は『往生礼讃』で次様に述べています。

 問ひていはく、一切の諸仏三身同じく証し、悲智の果円かにしてまた無二なるべし。方に随ひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を歎じて、勧めて礼念等をもつぱらにせしむるは、なんの義かあるや。答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。このゆゑに釈迦および諸仏勧めて西方に向かはしむるを別異となすのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらず、知るべし。

 どのような仏であっても、仏である限りは「十方を摂化」することを願っている。これを「因」として「信心をもつて求念」することを「縁」とするのが称名念仏であるというのです。またこの因縁を父母に例えて『観経疏』で次のように述べています。

 一に「孝養父母」といふは、これ一切の凡夫みな縁によりて生ずることを明かす。いかんが縁による。あるいは化生あり、あるいは湿生あり、あるいは卵生あり、あるいは胎生あり。この四生のなかにおのおのにまた四生あり。経に広く説きたまふがごとし。ただこれあひよりて生ずればすなはち父母あり。すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくは能生の因すなはち闕け、もし母なくは所生の縁すなはち乖きなん。もし二人ともになくはすなはち託生の地を失はん。かならずすべからく父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆゑにこの身あり。この義をもつてのゆゑに父母の恩重し。

 両親がいなければ子供が生まれないのと同じように「因」と「縁」の両方が無ければ、救われることもない、という事です。さらに善導大師は『観念法門』で次のように述べています。

 至誠心・信心・願心を 内因となし、また弥陀の三種の願力を藉りてもつて外縁となす。外内の因縁和合するがゆゑにすなはち見仏することを得。

 ここでは「信心」が「内因」で「願力」が「外縁」となり、これが「因縁和合」して「見仏」を得るというのです。これについて親鸞聖人は『教行信証』「行巻」に次のように述べています。

 まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は「光明・名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。

 ここで親鸞聖人は「徳号」(名号)が「因」となり「光明」が「縁」とはなるが「真実信の業識」が「内因」となって「光明・名号」が「父母」のような「外縁」となるという、二重の因縁があることを示しています。ここにある「真実信の業識」とは、私の内にある私のものでは無い仏心です。これを阿弥陀仏から廻向された信心とも法蔵菩薩とも言います。私さえ良ければよいという煩悩から逃れることのできない心ではなく、一切衆生とともに救われたいという仏心にこの身を任せるということが他力の信であり、私が救われるための「因」であるのです。






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