この一文の文頭に「開入」という言葉があります。「開」は「開示」という意味です。「開示」の内容を善導大師は「長劫の苦因」(『観経疏』玄義分)とおっしゃっています。仏教の基本にこの世はすべて苦であるという「一切皆苦」があります。その苦の原因を皆に分かるように示して納得させるということが「開示」です。
「入」を善導大師は「永生の楽果に悟入」(『観経疏』玄義分)することであるとおっしゃっています。つまり、苦の原因を知ることで尽きることのない安らぎの世界である「悟」に「入」ることが出来るというのです。ただ、浄土真宗ではこの「入」を「帰入」と読んでいます。「帰」る先は「極楽浄土」です。浄土とは行くところではなく帰るところなのです。つまり、知らない世界ではなく本来の世界に帰るという意味で「還帰」とも言います。善導大師も『法事讃』で「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず」とおっしゃっています。『仏説阿弥陀経』には「倶会一処」と、また『平等覚経』では「今みなまた会して、これ共にあい値える」世界として「極楽浄土」を説いています。「倶会一処」は時々「南無阿弥陀仏」の代わりにお墓に書かれてもいますが「皆が共に会える場所」という意味です。「極楽浄土」は「心得開明」「耳目開明」と『仏説無量寿経』に説かれているように「心や耳目が開かれた世界」であり「すべての命と一つになることが出来た世界」なのです。逆に「地獄」は「「心塞意閉」と『仏説無量寿経』に説かれているように、心が塞がれ周りとの意思の疎通ができない「皆がバラバラになる場所」であり「誰も傍に居ない場所」という世界です。苦の原因がはっきりすることによって、本来の自分に戻り、皆と同じ世界を生きることが出来るという事です。このことから、浄土真宗は善導大師が「悟入」とおっしゃった「悟」の内容を「賢くなる」ことではなく「本来の姿に気づく」ことであると受け止め「帰」としたのです。
「開入」する世界が「本願大智海」です。親鸞聖人は「海」を様々な言葉で語られていますが、その一つが『教行信証』行巻の「「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり」です。また「和讃」には「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり」と同様の趣旨のものもあります。ここでいう「川」とは一人一人の衆生です。「和讃」では「衆悪」と言っていますが『教行信証』では「凡聖所修の雑修雑善」となっています。それぞれが人生の中で身につけてきた価値観です。その価値観で自分や周りに善悪や優劣をつけるのですが、それを「悪」とおっしゃっています。何故ならこの価値観はその人が歩んできた人生同様に一つとして他の人と同じものがないため、皆と一つになることを阻むものであるからです。各々の価値観を差し置いて、共通の「本願」という個を超えた価値観に帰依することで、初めて共通認識を得ることが出来るのです。また「海」のはたらきを「和讃」では「逆謗」だけですが『教行信証』では「逆謗闡提恒沙無明」と述べています。これは「決して救われることのない者」という意味です。その様な者が「屍骸もとどまら」ないほどに転じて「本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水」となるというのです。どのような罪悪や欠点も全て受け止め、それを徳に変えるということです。苦の原因を自分の無明であると知らされた者は、他の人の無明をも認めることが出来ますから、罪悪や欠点を無くするのではなく受け止めることで、それがそのまま徳となるのです。
