|『正信偈』学習会|仏教入門講座
源信廣開一代教 偏歸安養勸一切  令和2年8月18日(火)
- 2020年12月15日
 源信僧都は親鸞聖人や法然上人と同じように子供の時に親と別れています。源信僧都は7歳で父親と死別し、13歳まで母親に育てられました。この時代に女手一つで子供を育てるということは今とは比較にならない程大変な事であったと思われます。ですから源信僧都の母親に対する想いはとても強かったようです。13歳で比叡山に上りますが、わずか15歳で村上天皇の前で『法華経』の講義をしています。比叡山延暦寺は天台宗の寺でしたが、密教によって天台を理解するという日本独自の天台密教(台密といいます)の寺になっていました。これを本来の天台宗に戻そうとしていたのが源信の師である良源です。天台宗は『法華経」を根本聖典とする仏教ですから、その経典を15歳の少年僧が講義したという事です。この講義に対して村上天皇は紫の衣など多くの褒美を源信に与えました。15歳の少年僧は母に喜んでもらおうと、さっそくこれらの品を母に送りました。とこれが母は「私があなたを山に上らせたのは、名聞の学生にするためではありません。亡き父の菩提を弔い、私のような愚かな者を導いてもらうためです。願わくば「多武峰の聖」のように名利の衣を脱ぎ捨てて、真の仏道を求め、父と母もさとりに導いてください」といったといいます。ここにある「多武峰の聖」とは、良源の弟子で増賀という方です。『今昔物語集』や『徒然草』など多くの書物に取り上げられている聖僧で、極度の権力嫌いと奇行で知られていますが、庶民からは圧倒的な人気があったようです。このことは、多くの僧侶たちが立身出世に明け暮れていたことの裏返しでもあります。母の言葉に気づかされた源信僧都は、その後隠棲して念仏僧として暮らします。良源は天台以外に念仏にも力を入れており、比叡山では朝に「南無妙法蓮華経」というお題目を唱え、夕には「南無阿弥陀仏」と称名を称えていました。源信僧都は『法華経』の天台よりも念仏に救いを求めていったのです。源信僧都は30歳で広学竪義の判者となり、さらに宮中の内道場の十禅師に選ばれています。その後権少僧都にまで任じられますが、母の言葉を忘れることはなく、名声から離れるためにそれらの役職を直ぐに返上しています。源信僧都は多くの書物を残されていますが、特に『往生要集』は念仏の教えを日本に定着させることになる書物です。
 親鸞聖人は「廣開一代教」と言っていますが「一代教」とは釈迦の残したすべてのお経のことです。「廣開」とは読み解いて理解したという意味です。その上で、源信僧都はひとえに極楽浄土に帰依することをすべての人に勧めたというのが「偏歸安養勸一切」になります。「偏歸」とは『往生要集』の巻頭に「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん」と述べられているのを受けています。親鸞聖人が源信僧都の徳を歌った和讃の中に「本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代おしえける」という同じ内容のものがあります。「一切」の内容を源信僧都は『往生要集」で「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず」とおっしゃっていますが、親鸞聖人は和讃で「濁世末代」とされています。これは、念仏の教えが他の釈迦の教えより優れているというのではなく、この時代にふさわしい教えであるという事です。
 法然上人は『往生要集大綱』で『往生要集」には「広」と「略」と「要」があるとし「広」では阿弥陀如来と極楽浄土などを思い描く観想念仏を正しい念仏と説き称名念仏はこれを助けるための助業としており「略」では称名念仏を正業としながらも大菩提心などの助業が必要であるとし「要」で一心に称名念仏することを説いているとしています。親鸞聖人は法然上人の指摘された「要」の説をもって源信僧都の念仏理解としていますが、実際には源信僧都は観想念仏を念仏ととらえていたようです。ただし、源信僧都の『往生要集』で説かれている念仏がなければ、法然上人や親鸞聖人の念仏にたどり着くことはなかったのです。






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