|『正信偈』学習会|仏教入門講座
我亦在彼攝取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我  令和3年4月20日(火)
- 2021年12月13日
 この一文は源信の『往生要集』にある「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無惓常照我身」をほぼそのまま引用しています。さらにこの原文は『仏説観無量寿経』にある「無量寿仏に八万四千の相まします。一一の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」になります。この経文を源信が受け止めた言葉です。この経文の一節から「摂取不捨」という言葉でもいわれます。一切の者を決して捨てることなく救いとるという、まさしく浄土教の特徴を表す言葉です。
 念仏の教えが広く伝えられるようになるのは平安時代になってからです。当初は朝廷が怨霊を鎮めることを目的に死者を供養するために、天台真言を問わず宗派を超えて推奨しました。民間に広めた僧侶として知られているのが空也上人です。京都の六波羅蜜寺にある国宝の「空也上人像」で知られています。空也上人は皇族生まれとも伝えられていますが、全国を旅して供養されていない御遺体を弔うということをなさっていました。京都に居を構えてからは、市中の人々にも同じような死者供養をなさり、市聖と呼ばれていました。空也上人の南無阿弥陀仏は亡くなった方への供養のための南無阿弥陀仏でしたが、源信の南無阿弥陀仏は、自分が死んだ後に浄土に生まれるためのものになります。この念仏の教えに帰依したのが藤原道長でした。しかし、この頃の念仏によって救われる者はほんの一部の者でしかないとされていました。浄土に生まれることができた者は、臨終に空の色が変わったり、天から音楽が流れたりという奇瑞が現れるとされていました。そのようなことはほとんど起こりませんから、特別な者だけが往生できるとされていたのです。
 それに対して「摂取不捨」はすべての者が漏れることなく救われるという教えです。実際の『往生要集』では往生はかなり狭き門なのですが、親鸞聖人はそうは読まないのです。親鸞聖人の書かれた『尊号真像銘文』末に『往生要集」を解説しているところがあります。「「我亦在彼摂取之中」というは、われまたかの摂取のなかにありとのたまえるなり。「煩悩障眼」というは、われら煩悩にまなこさえらるとなり。「雖不能見」というは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたわずといえどもというなり。「大悲無倦」というは、大慈大悲の御めぐみものうきことましまさずともうすなり。「常照我身」というは、常はつねにという。照はてらしたまうという。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまうとなり。つねにてらすというは、つねにまもりたまうとなり。我身は、わがみを大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまうとおもえとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらわしたまうなり。「念仏衆生 摂取不捨」のこころを釈したまえるなりとしるべしとなり」。ここで、親鸞聖人は、たとえ救われているという実感がなくても、それは私の眼が曇っているからであって、すべての者は救われているのだとおっしゃっています。それこそが「如来の大悲」とされる、仏教の基本的な精神なのです。『仏説観無量寿経』では、仏には八万四千通りの姿があると書かれていますが、これは人間の姿の数でもあるのです。どのような存在でも、仏からみればすべてが輝いているのです。ただ、本人が気づいていないだけなのです。輝き方も色々あります。苦しみの中から現れる輝もあるのです。そのことを親鸞聖人は源信の言葉から学んだのです。






徳法寺 〒921-8031 金沢市野町2丁目32-4 © Copyright 2013 Tokuhouji. All Rights Reserved.