|『正信偈』学習会|仏教入門講座
本師源空明佛教 憐愍善惡凡夫人  令和3年6月15日(火)
- 2021年12月13日
 法然房源空上人は七高僧の最後の方であり、親鸞聖人の直接の先生でもあります。お生まれになったのは、岡山県の山間部にあった美作という国です。鎌倉時代には、それまで朝廷から派遣されたいた国司以外に、幕府からも役人が全国に派遣されました。さらに皇族や公家の子弟が浪人となり全国で荘園を広げていったことにより、勢力争いが各地で起こることになります。法然上人の父は、押領使という今の警察長官のような役人でしたが、このような争いに巻き込まれ代官に殺害されたようです。この時の父の遺言が、争いの連鎖を断ち切るために、決して敵討ちはするなということであったと伝えられています。それでも、かたき討ちを恐れる相手から殺害されることもありますから、それを避けるために伯父の観覚が住職を務める菩提寺に匿われ小僧となります。これは僧侶になることで、かたき討ちをしない意思を示すということです。観覚に才能を見出されると、15歳で比叡山の源光阿闍梨に託されますが、源光阿闍梨の手にも負えないということで、更に高名な皇円阿闍梨に託されたといいます。ところが、18歳の時に念仏聖が集まっていた黒谷の叡空の門に入いり隠退してしまいます。ここで、師である源光と叡空から一字を引いて源空と名乗り、叡空上人からその智慧の優れた様から法然道理と賛嘆され法然という房号を賜ります。黒谷で法華や台密以外の経律論を学ぶと、24歳からは奈良に赴き三論や法相などの南都諸宗も学び、智慧第一と称されるようになります。中でも天台円頓菩薩大乗戒は法然だけに戒体が相承されたため、天皇以下すべての者の伝戒の師となりました。
 しかし、自分が救われたという思いを抱くことできなかったため、黒谷の報恩蔵に入り経典を読み漁ったと言います。そこで善導の「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに」という教えに出会い、43歳の時に黒谷から京都の吉水に居を移しました。
 黒谷の念仏聖は、延暦寺内の出世から外れ、庶民の中に入り念仏を弘めていましたが、法然上人は住まいまでも比叡山から京都の中でも貧しい人々が集まっていた東山に移したのです。この吉水に親鸞聖人は弟子入りします。親鸞聖人は法然上人を「本師源空」と呼び「明佛教」と讃えています。これは師の法然上人は本当の仏教というものを分かっている方であるということですが、それは仏教とは賢くなるための教えではなく、人々を救うための教えであるということです。
 「善惡凡夫人」とは「善と悪の凡夫人がいる」ということではなく「善悪の分別に振り回されるのが凡夫人である」ということです。『仏説観無量寿経』には「汝はこれ凡夫なり。心想臝劣にして未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず」と、想像力が欠如した意志薄弱の者を凡夫と呼んでいます。社会や時代の中で作られた善悪を、あたかも普遍的なものであるかのように錯覚し、自分や周りをその中で優劣をつけ一喜一憂しているのです。親鸞聖人は、このような自分であるがゆえに「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とおっしゃっていたと『歎異抄』に書かれています。このような凡夫人を法然上人は「憐愍」されているのです。






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