1、畜生道
畜生道には二つの場所があります。基本的には海の中に住んでいますが、一部の者は人間や天と同じ世界に住んでいます。その種類は、細かく分類すると三十四億種類にもなりますが、大きく分けると三種類に収まります。それは、鳥類・動物類・虫類の三種類です。いずれの種類であっても、食・淫・眠以外には関心がなく、たとえ肉親であっても強弱を争い、殺し合いを繰り返しています。水を飲み食事をしている時でさえ、未だかつて一度でも安らいだことがありません。昼夜を問わず、死ぬまで恐怖心から逃れることができないのです。
更に、言うまでもないことですが、水の中に住むものは漁師に捕らえられ、陸地に住むものは猟師に殺されるのです。
また、象や馬・牛・ロバ・ラクダ・ラバなどは、鉄の鉤で頭を叩かれたり、鼻に穴を空けれられたり、くつわを付けられたり、重い荷物を背負わされたりしながら、杖や鞭で叩かれるのです。それでも、ただ水や草の事だけ考えて何の不満を感じることもありません。
また、ゲジゲジやイタチなどは、暗闇の中で一生を送らなければなりません。
また、シラミや蚤などは、人間に寄生して生まれますが、人が死ぬとともに死ななければなりません。
また、竜は、三熱の苦しみを昼夜問わず受け続けなければなりません。
また、うわばみは、身体こそ大きいものの、知力がないうえに足もなく、体をくねらせながら腹で進むことしかできず、多くの虫たちに血を吸われたり身体を食べられたりするのです。
この畜生道に落ちた者は、一中劫(三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年)の間、無量の苦を受けなければなりません。またその間、様々な縁によって幾度となく殺されなければなりません。これらの苦しみは、あまりにも多すぎて数えることすらできないほどです。愚痴・無慚のために、多くの人たちから信頼を受けていたにもかかわらず、何の償いもしなかった者がこの報いを受けるのです。
解説
いま日本で畜生というと動物のことを思い浮かべることが多いと思います。ところが『往生要集』ではもっと広い範囲を指していることが分かります。まず住んでいる場所として、人間界と天界をあげています。そして、鳥類・動物類・虫類の三種類が畜生であるとして、その種類は三十四億種にもなるといいます。地獄が罪を犯した者に責め苦を与える場所、餓鬼が目には見えないものの人間界に住む魑魅魍魎であったことをから考えると、畜生は私たちが目にすることができる人間以外の生物すべてを指すということです。ただ、人間と違うところは、畜生は食(食べること)・淫(異性と交わること)・眠(眠ること)以外に関心を持っていないということだとしています。ですから、たとえ肉親同士であっても、強弱を争い、殺し合いを繰り返しているというのです。水を飲み食事をしている時でさえも、何時自分が殺されるか分らないので、未だかつて一度も安らいだことがないという苦しい世界が畜生道です。これは、現代のペットとは違います。野生の世界であり、家畜の世界になります。畜と言う字は蓄と同義で、本来「たくわえる」という意味です。ですから、家畜とは家に蓄えられている財産です。ですから、畜生という漢字は生物を蓄財として認識しているという中国らしい言い方なのかもしれません。印度での意味は人間以外の生物という意味でした。
次にこの畜生の辛い生き様を書かれています。水の中に住む野生生物は漁師に捕らえられ、陸地に住む野生生物は猟師に狩られます。また、象や馬・牛・ロバ・ラクダ・ラバなどの家畜は、鉄の鉤で頭を叩かれたり(象です)、鼻に穴を空けられたり(牛です)、くつわを付けられたり(馬やロバ、ラクダです)して、重い荷物を背負わされ、杖や鞭で叩かれているのに、人間が餌をくれるので一生懸命に付いて行くというのです。また、ゲジゲジやイタチは、暗闇の中で一生を送らなければならないといいます。イタチとはそういう生き物であると思われていたようです。また、シラミや蚤などは、人間に寄生して生まれますが、人が死ぬとともに死ななければなりません。ここで言う竜は、インドのナーガという大蛇になります。中国の竜の原型ですが、手足や角はありません。タージマハールなどの東南アジアの仏教遺跡に行きましたら、門や参道に彫られています。身体が一本で九つの首を持つ九頭竜は福井の川の名前にもなっています。この竜は、三つの熱に何時も苦しんでいるといわれています。うわばみは、今では大酒飲みの事を言いますが、伝説上の生き物で大きなミミズみたいなものです。大蛇は頭が良いのですが、これは、愚鈍です。ただひたすら大きくて柔らかな身体を持ち、生きながらにしていろいろな生き物に身体を食われながら生きています。
これが畜生道に落ちるのは、愚痴・無慚のために、多くの人たちから信頼を受けていたにもかかわらず、何の償いもしなかった者であるといいます。愚痴とは愚かで智慧がないということですし、無慚とは後悔しない、謝らないという意味です。つまり、愚かな者とは、自分の非に気付くことのない者であるということです。どれだけ多くの人たちの助けを受けてきたのか、どれだけ多くの人たちに迷惑をかけてきたのか、このことに気づくことも無く、感謝も謝罪もなく生きている者が愚者です。決して頭の回転が悪いという意味ではありません。自分の人生だから好きに生きても構わないという生き方になります。これが畜生に近いということでしょう。でしから、これは野生生物を見下した言い方とは違います。ただ、人間として大切にしなければならないことを、畜生という言い方で示しているのです。
