人間を説明するためには、大きく三つの視点に分けて、丁寧に見ていく必要があります。その三つの視点とは、不浄であること、苦であること、そして無常であるということです。
1、不浄
人間の体の中には三百六十の骨があって、それぞれが関節で支え合っています(実際には二百~二百六です)。例えは、足の指の骨は足の裏の骨を支え、足の裏の骨は踝の骨を支え、踝の骨はふくらはぎの骨を支え、ふくらはぎの骨は膝の骨を支え、膝の骨は腿の骨を支え、腿の骨は骨盤を支え、骨盤は腰の骨を支え、腰の骨は背骨を支え、背骨はあばら骨や頸の骨を支え、頸の骨はあごの骨を支え、あごの骨は歯を支えて頭蓋骨を乗せています。また、頸の骨は肩の骨を支え、肩の骨はひじの骨を支え、ひじの骨は腕の骨を支え、腕の骨は掌の骨を支え、掌の骨は指の骨を支えています。それぞれが次々と繋がり鎖のようになっているのです(『大般涅槃経』からの引用です)。
三百六十の骨が組み合わさっている姿は、まるで朽ちて壊れかけている建物のようです。骨はそれぞれの関節によって支えられ、四本の細い筋がすべての骨を巡り覆っています。五百の筋肉(実際には6百以上)が、まるで土壁のように六本の筋で互いに繋がれ、さらに五百本の筋を纏っています。七百本の細い血管が網の目のように絡み合い、十六本の太い血管が曲がりくねりながら全身を巡り互いに繋がっています。身長の三倍半ほどの長さがある二本の腸があって、体の内側を絡まりながら結びついています。十六個の腸と胃が臓器の周りを巡っています。二十五個の気脈はまるで窓のように穴を穿ち、百七もある切れ目はまるで壊れた器を連想させます。八万もの毛穴は大地を乱雑な草が覆っているようであり、五根(眼・耳・鼻・舌・身)七竅(眼・耳・鼻・口の7つの穴)は汚物に満ち満ちています。七重の皮膚が体を包み、六種の味がする食料で命を長らえることは、祭りに燃やす大きな篝火が際限なく薪を欲しがるように貪欲で満足することなどありません。このように人間の身体は、すべてが悪臭に満ちて穢れており、本質的に爛れ腐っているのです。この身体に、誰が愛着を持ち誇りを持つことができるでしょうか(『宝積経』九十六からの引用です)。
別の経典には次の様に説かれています。
九百の肉切れが全身を覆い、九百の筋がその間を連ね、三万六千の血管があり、三升(一升は一.八リットル)の血がその中を流れています。九十九万の毛穴があり、常に汗が噴き出ています。九十九重の皮膚がその上を覆っています。また、腹の中に五蔵があります。互いに葉のように重なり下に向かって繋がっている様はまるで蓮華のようです。空洞になっている穴が体の中と外を繋いでいます。その数は九十重にもなります。肺臓は上の方にあって白い色をしています。肝臓は青色です。心臓は中心にあって赤い色をしています。秘蔵は黄色です。腎臓はそれらの下にあって色は黒です。
また、六腑もあります。大腸は食物を通す役割をしています。また、肺の管理もしています。その長さは身長の三倍半にもなり、白い色をしています。胆嚢は浄化の働きをしています。また肝臓を管理しています。その色は青です。小腸は栄養を取り込む働きをしています。また心臓の管理もしています。長さは身長の十六倍で赤い色をしています。胃は食べ物を蓄え消化する働きをしています。また、脾臓の管理もしています。中には三升の糞があって黄色をしています。膀胱は尿を蓄える働きをしています。また腎臓の管理もしています。中には一斗(十八リットル)の尿があり色は黒です。三膲(上焦(横隔膜より上部)、中焦(上腹部)、下焦(へそより下部)に分かれ、呼吸・消化・排泄をつかさどるという。また、体温を保つために絶えず熱を発生している器官ともされる)は汚物を管理しています。これらの臓器が体内に散らばってるのです。大腸と小腸が赤と白の色で一八回お腹の中を回っている様子は、まるで毒蛇がとぐろを巻いているようです。
また、頭の先から足の甲に至る骨の髄から皮膚の間には、八万匹もの虫がいます。この虫には四つの頭と四つの口、九十九本の尻尾がありますが、すべてが同じ姿をしているわけではありません。それぞれの虫の中にはさらに九万の小さな虫がいて、その大きさは秋に抜けかわった鳥獣の細毛よりも小さいのです(『禅経』や『次等禅門』からの引用です)。
『宝積経』の五十五巻と五十六巻には次の様にも説かれています。
母親の胎内から生まれて七日経つ頃には、八万もの虫が身体中に現れて全身に食らいつきます。舐髪(しはつ)という二匹の虫は髪の毛根に住み着き常に髪の毛を食らいます。繞眼(にょうげん)という二匹の虫は眼の中にいて常に眼を食らいます。四匹の虫が脳の中にいて脳を食らいます。稲葉(とうよう)という一匹の虫は耳にいて耳を食らいます。蔵口(ぞうく)という一匹の虫は鼻にいて鼻を食らいます。遙擲(ようちゃく)と遍擲(へんちゃく)という二匹の虫は唇にいて唇を食らいます。針口(しんく)という一匹の虫は舌にいて舌を食らいます。五百匹の虫が左半身にいて左半身を食らいます。右半身も同じです。四匹の虫が消化器の上半分を、二匹の虫が下半分を食らいます。四匹の虫が尿道にいて尿を食らい、四匹の虫は直腸にいて糞を食らいます。(中略) 黒頭(こくず)という一匹の虫は脚にいて脚を食らいます。このように、八万の虫がこの体の中にいて昼夜を問わず食らい続け発熱させたりするのです。また悩み事などがあると、これらの虫が悪さをして様々な病を起こし、どのような名医も治すことなどできなくなるのです。
『僧伽咤経』には次の様に説かれています。
人が死を迎える時、身体中の虫たちが恐れおののき互いを食らい合うので、恐ろしい痛みに襲われ苦しみます。その人を枕もとで見守っている親族たちは、それを見てとても悲しくつらい思いをするのです。虫たちは互いに食らい合い、最後に残った二匹の虫は七日間戦い続けます。生き残った最後の虫は最後まで生き続けます。
また、どれだけ上等の食事を食べようとも、お腹の中で一晩経てば不浄なものに変わってしまいます。糞など身体から出る汚物がどれもこれもひどい匂いがすることを考えればわかるはずです。人間の身体も同じです。歳の若きも老いも関係なく不浄なものです。どれだけ海水で洗い清めようとも決して浄潔になることはありません。外観を美しく飾ろうとも、体の中に不浄なものが詰まっているのです。それは、綺麗な絵が描かれている壺に糞などの汚物が入っているのと同じです(『大智度論』や『摩訶止観』からの引用です)。
ですから『禅経』には次の様な偈文があります。
この身が臭く不浄であると知っても、愚かな者は愛着し、外観の美しい姿ばかり見て内側の不浄なことを察することができない。
言うまでもありませんが、命終の後に野辺の塚に捨て置かれれば、一日二日と日を経て七日もすると全身が腫れあがりどす黒くなり、異臭がして肉はただれ、皮膚は破れて膿や血が流れ出ます。大鷲や鷹、鳶、梟などの鳥や、狐や犬などの獣が、その肉をつかみ、割き、食らい、かみつきます。鳥や獣が食らい尽くした後、食い散らかされた肉片に、無数の虫や蛆がその臭い匂いつられて群がってきます。そのおぞましい姿は、犬が死んだ時よりも醜いものです。時を経て白骨となり果てれば、骨はバラバラに散り散りとなり、手足の骨も髑髏も違うところに転がってしまいます。風に吹かれ日差しに曝されて、雨に打たれ霜に包まれて何年も過ぎれば色も変わり、ついには腐れ朽ちて粉々になって塵土と一つになってしまうのです(これは究極の不浄の様です。『大般若経』や『摩訶止観』からの引用です)。
このように、この身は始まりから終わりに至るまで不浄であるということを知らなければなりません。愛し合っている男女も同じです。智慧のあるものであるなら、この身体に執着することなどなくなるはずです。
ですから『摩訶止観』には次の様に説かれています。
このように、人間の身体を観察すれば、それまでどれほど肉欲が強かった者も欲が萎え肉体に嫌悪するようになることは、糞を見ないときに美食に惑わされていた者が、糞の臭いを嗅いだ途端に吐き気に襲われるのと同じです。
また、次のようにも書かれています。
この観察をするならば、高い眉、翠い眼、白い歯、赤い唇を見たとしても、一塊の糞に粉を振ってあるように、また、腐った死体の上に美しい衣を着せているようにしか見えなくなります。見ることすらおぞましく思えるほどです。まして、近くに身を寄せようなどとは思うはずもありません。この事実を知って、殺人者を雇って自殺した者もいます。まして、抱き合い性交するなどあり得ないことです。このように観察することは、性欲の病を抑える良い薬となるのです。
解説
地獄・餓鬼・畜生・修羅が今世での悪業によって来世で受ける報いの世界であったのに対して、この段の「人」は今の状態が苦に満ちており、執着に値しないことを説いています。この世界の楽を求めてそれに執着することから苦が生まれるという思想は、初期仏教から一貫しています。ですから、今までの世地獄などの世界が、大乗仏教的な方便であったのに対して、この段は伝統的な仏教理解であるともいえます。ただし、縁起の法などによって説明される哲学的な初期仏教の苦とは違い、ここでは誰でも理解しやすい現実的な三つの苦として説かれています。
最初の苦は「不浄」です。人間としての身体がいかに汚く汚らわしいものであるかということを知ることによって、人間として生きることに対する執着を離れさせようということです。まずは様々な経論によって、どれほど美しく着飾ろうとも、一皮むけば骨や筋肉、内臓などによって体ができているということを、嫌悪感をもたらすような言い方で説いています。骨の数などは今の医学からみると多少のずれはありますが、かなり正確に言い当てています。内臓に関しても、機能的な理解のずれはあるものの、どこにどういうものがあるのかは理解していたようです。
それに対して、現代の理解とはかけ離れているのが八万匹の虫の話です。この虫は、顔などにいるダニやお腹にいる寄生虫の事ではありません。まして腸内細菌でもありません。その姿は四つの頭と四つの口、九十九本の尻尾を持っており、この虫の中にさらに九万匹の虫がいるというのです。これらの虫は、目や鼻、口などの全身にあるあらゆる部位に生後七日目には住み着きます。この虫たちが病気を起こすと考えられていました。この様に、全身に虫が住み着いているという考え方から「虫の居所が悪い」「腹の虫がおさまらない」「虫の知らせ」などの言葉が生まれています。庚申塚などはその代表的な例です。これらの虫が宿主である人間が死を迎えようとする時、互いに食らい合いをするので、人間は全身に激痛を感じるというのです。解剖をすれば、骨の数や内臓の様子まではわかりますが、病気の原因までは分からなかったのでしょう。解剖の時に出てくる回虫などの寄生虫や、遺体から虫が湧き出してくることからこのように考えたのかもしれません。身体の中に何万もの虫が蠢いている様を想像すれば、確かに気持ちのいいものではありません。
次にあげている不浄は、身体の中には糞尿が溢れているということです。どれだけ美味しいもの、香りの良いもの、美しい料理を食べても、お腹の中で一晩経つと糞尿になってしまいます。これは、どれほど美しい人であろうが変わりません。これは美しい絵が描かれている壺の中に糞如が入っているのと同じだというのです。
最後は、一般に「九相観」と言われている、死体が徐々に朽ち果てていく姿を観ずる行です。これは修行者が性欲を絶つために行うものです。朽ち果てていく姿が真実であるのだから、目の前の色香に騙されてはいけないということです。浄土真宗は肉食妻帯の在家仏教ですから、このような行は必須ではありません。ですから、このような行は行いませんが、出家僧にとっては、かなり切実なものであったのでしょう。ただここでは、自分の身体に対する執着から離れるために引用されています。
これらの事実を察する賢い者であれば自分の身体に対する執着から離れることができるはずであるというのです。逆に、外見の美しさに惑わされて、この世界に執着する者は智慧のない者であるということになります。智慧のないことを知るという浄土真宗からすれば、後者で問題ないのですが、源信僧都等の出家仏教からすれば、やはり前者であるべきなのです。
