1、天
天は欲界、色界、無色界の三つの世界に分かれて存在しています(ちなみに、いままでの地獄界から人間界は、すべて欲界に属しています。色界、無色界は天だけの世界です)。天は非常に広大で多くの天に分かれているので、すべてをここで説明することはできません。そこで、一例として、欲界にある六欲天の下から二番目の天、忉利天(帝釈天が治める天。帝釈天配下の三十二天の国もこの中にあるため三十三天とも言います)について説明しています。
この忉利天は、この上なく快適な世界ですが、この天に住む神々(身長は七千メートル、衣の重さは三.六グラム、寿命は千歳。ただし、この世界の一日は人間界の百年なので、三億六千五百万年になります)が命終に近づくと、五つの衰えが現れてしまいます。一つには、髪飾りの花が枯れてしまいます。二つには、衣が塵や垢に汚れてしまいます。三には、脇の下から汗が出てきます。四には、両目がしばしば瞬きをするようになります。五には、今いる環境が楽しめなくなるのです。
このような様子が見え始めると、侍女や家来たちは、まるで手に持っていた草を捨てるかのように、皆、何のためらいもなく、天の元を離れて行ってしまうのです。一人になった天は、林の中に倒れ伏して泣きながら嘆くのです。「私はいつの時も、多くの侍女たちを可愛がってあげていたのに、皆一斉に私のことを、まるで草のように見捨てて行ってしまった。今の私は、帰るべきところも頼ることのできる者もいない。このような私を誰が助けてくれるのだろう。帝釈天の城下からもうすぐ消えなければならない。帝釈天に謁見することもできなくなってしまう。城にある美しい宮殿の中を見ることもできなくなり、帝釈天の宝象に乗せていただくことももうないでしょう。城内にある衆車苑を見ることも、麁渋苑で甲冑を着ることも、雑林苑で宴会をすることも、歓喜苑を散策することももうないのです。劫波という大木の下にある白くて柔らかな石に座ることもなく、曼陀枳尼という池の素晴らしく清らかな水で沐浴することもないのです。天に住む者だけが口にできる、四種の甘露の水も二度と飲むことができませんし、五つの音で奏でられる素晴らしい音楽も聞くことはできません。なんと悲しいことでしょう。自分一人でこの苦しみを抱えなければなりません。もしかなうならば、このような私を哀れに思って、僅か数日でもこの命を長らえさせてもらえるのであれば、どれほど嬉しいでしょう。どうか、馬頭山や沃焦海などがある人間界には堕とさないでください」このようにどれだけ嘆き悲しもうとも、誰も救ってはくれないのです(『六波羅蜜経』からの引用です)。
このような苦しみは、地獄の苦しみよりはるかに辛いものなのです。ですから『正法念経』には「天界から下界に堕ちる時抱く苦しみに比べれば、地獄の苦しみなど一六分の一にも満たないのです」という偈文があるのです。
また、大きな徳を備えた天が現れると、他の天に仕えていた眷属は今までの天を捨てて、その天に仕えるようになります。また権威と徳を備えた天の心にそぐわない者は、宮殿から追い出され、天界から追放されてしまうこともあるのです(『瑜伽論』からの引用です)。
忉利天以外の五欲天も同じくこの苦の中にあります。色界、無色界はこのようなことはありませんが、いずれは堕ちなければならないという苦はあります。(中略)天界の最高位である非想非非想処の天でさえも、阿鼻地獄に堕ちることさえあるのです。天上界でさえも、生まれたいと願うような世界ではないと知るべきです。
解説
今までの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人はすべて欲界に属しています。今回の天は欲界・界・無色界の三つの世界にまたがっている世界です。この三つの世界はすべて迷いの世界であって、この中を私たちは流転しているというのが仏教の世界観です。欲界は字の通り欲のある世界です。色界の色は「いろ」ではなく「色即是空」の「しき」で「形があるもの」という意味です。ですから、色界とは欲はないけれども形がある世界、無色界は欲も形もない世界です。このことは、天が非常に広い意味を持っていることを表しています。インド神話の天は人間より強い力を持っていますが欲がありますから色界です。色界の天はそのような欲を持たない天ですし、無色界の天となると、形さえ持たない天です。この天は、法そのものと言っても良いでしょう。ただし、迷いの中にある法です。無色界の最上位にあるという「非想非非想処」は、舎利弗や目連の師であり、釈迦も師事したともいわれている六師外道の一人サンジャヤ・ベーラッティプッタの教えそのものです。このことから、六道の世界とは、単に仏教を求めさせるための方便というだけではなく、人間の様々な心の置き所や有様という意味を持っていることが分かります。ですから六道のことを六趣とも言います。
『往生要集』では、天の中でも理解しやすい欲界の上から二番目にあるという忉利天だけを引用しています。ここはバラモン教の最高神である帝釈天が治めているという天です。この世界の天は身長が七千メートル、衣の重さが三.六グラム、寿命が三億六千五百万年であるといいます。これほどの長寿でもいずれは尽きる時が来ます。死が近づいて来ると五つの衰えが出てくるとあります。一つには、髪飾りの花が枯れてしまいます。二つには、衣が塵や垢に汚れてしまいます。この二つは、高齢になると身だしなみに気を使わなくなるということでしょう。三つには、脇の下から汗が出てきます。これは高齢になると、落ち着くどころか、物忘れがひどくなったりするせいで、かえって気が動転することが多くなるということです。そして四には、両目がしばしば瞬きをするようになります。これは肉体的な老化現象ですね。最後は、今いる環境が楽しめなくなるのです。これは天についての衰えですが、私たちについても同じことが言えます。これらのことは、どれほどの財力や才能、権力を持ち合わせていても変わることがありません。
このような様子が見え始めると、侍女や家来たちは、まるで手に持っていた草を何のためらいもなく捨てるかのように、立ち去ってしまうといいます。ここから天の嘆きが始まります。恵まれた環境にあった者ほど、それを失うときの苦しみは大きいのです。ここで天が願うのが、今まで何億年も生きてきたにも拘らず、僅か数日の延命なのです。明日で夏休みが終わるという日の子供のようなものです。『正法念経』にはこの時の苦しみに比べれば、地獄の苦しみなど十六分の一にも満たないというのです。ある意味では、この天は人間の欲望をすべて叶えている世界であると言えます。手に入った欲望の量が多ければ多いほど、それを失った時の苦しみは大きいということです。
また、大きな徳を備えた天が現れると、眷属は今まで仕えていた天を捨てて、大きな徳を備えた天のもとで仕えるようになるとあります。どれほど高い評価を得ている者であっても、自分以上の者が現れればただの人になってしまうのです。それほどに、周りからの評価によって得られている自信というものは、簡単に壊れてしまうものなのです。これも天に限った話ではありません。
非想非非想処ほどの法を悟った者でさえも、明日には地獄の心境に堕ちるかもしれません。それほどに、だれも明日の自分を知ることなどできないのです。まして欲界の天など求めても、さらに大きな苦を招くだけであるということを述べているのです。
