コピーしました
徳法寺
|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史4 ‐釈迦伝説1 誕生から出家まで‐

語句をクリックすると詳細リンクが開きます

1. シャカ族


 シャカ族の人種に関しては諸説あるが、文化的にはアーリア系であった形跡が残っている。現在ネパール領内であるルンビニー県で使われている言語はアバディ語であるが、これはサンスクリット語で「最果ての地」を意味しており、この地がアーリア系文化圏であることを示している。また、原始仏典にある釈迦アンバッタというバラモンの青年との対話も、このことを現している。


 「アンバッタよ。おんみはいかなる氏姓の者なのですか?」「きみゴータマよ。わたしはカンハーヤナという氏姓の者なのです。」「アンバッタよ。あなたの母方および父方の昔からの名および氏姓を憶いおこしてみますと、シャカ族は主人の子孫であり、おんみはシャカ族の家僕女の子孫である。シャカ族オッカーカ王を祖先とみなしています。昔オッカーカ王は寵愛した妃の王子に王位を譲ろうと欲して、年長の王子たち、すなわちオッカームカカランドゥハッティニーヤシーニプラの四人を国外に放逐した。かれらは国外に放逐されて、雪山ヒマーラヤ)の麓にある湖水の畔に、サーカ樹の大きな森のあるところに住居を定めた。かれらは血統の乱れることを恐れて、自分たちの妹たちを配偶とした。そこでオッカーカ王は随順している大臣たちにたずねた、「いま王子たちはいったいどこに住んでいるのか?」「王さまよ。かれらは雪山の麓にある湖水の畔にサーカ樹の大きな森のあるところにいま住んでおられます。かれらは血統の乱れることを恐れて、自分らの妹たちを配偶としました。」そこでオッカーカ王は喜びのことばを発した。「王子たちはじつに能力がある(シャキャ)。王子たちは最上の能力がある」と。 それ以来、かれらはシャカ族として名が知られている。かれらこそがシャカ族の先祖である。


 ここにあるオッカーカ王イクシュヴァーク王甘蔗王)とは『リグ・ヴェーダ』にも登場する英雄王で、話しをするとその口からたいまつの光のような光線が射したとされている。シャカ族が従属していたコーサラ国もこの王の末裔を自称している。釈迦アンバッタとの対話には、次のようなシャカ族の特徴が書かれている。


 「ゴータマよ。シャカ族の生まれの人々は粗暴である。シャカ族の生まれの人々は粗野である。シャカ族の生まれの人々は軽はずみである。シャカ族の人々は狂暴である。隷属してる者でありながら、バラモン達たちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばない。これらのシャカ族が、隷属してる者でありながら、バラモン達たちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばないということは、適当でなく、ふさわしくない」と。青年バラモンアンバッタはこのように最初に、シャカ族に対して貶(けな)したことばをなげかけた。


 四人の王子が教えを請うたカピラ・ゴータマ仙人の名にちなんで、ゴータマを姓とし、町の名をカピラヴァストゥとしたとも伝えられているが、これは後世になってから作られたようである。シャカ族の都であったカピラヴァストゥには公会堂があったことから、シャカ族は王政ではなくサンガと呼ばれる共和制であったとされている。経典に「繁栄と大いなる快楽とに恵まれた種族」や「シャカ族の自尊」とも書かれていることから、シャカ族は勢力こそ小さかったものの、進歩的改革的な部族であり、高い生活レベルと自尊心を持っていたと思われる。シャカ族の領地は東西八十キロ、南北六十キロほどで、石川県の面積に相当する。

2. 釈迦の両親と受胎

 釈迦の姓もしくは氏姓は「ゴータマ(ガウタマ)」である。これは『リグ・ヴェーダ』に登場する詩人の名であると同時に、仙人の末裔を意味し、バラモン姓の一つである。このことは、仏典で釈迦クシャトリヤ出身であるとされていることと矛盾している。「ゴータマ」の語源的な意味は「最上の牛」であることかあら、バラモン姓とは関係なく、牛が神聖視されていたインドでは一般的な名前であったとの説もあるが、定説はない。父の名前はスッドーダナといい「白米の御飯」という意味であることから「浄飯王」と訳されている。母はシャカ族の縁族で東隣にあるコーリヤの出身であるマーヤーとされている。出産のために里帰りする途中、ルンビニーという村の花園で休憩をとっていた時に産気づき、ここで釈迦を生んだ。釈迦が実在の人物であることが疑われた時期もあったが、一八六八年にイギリスの考古学者フェラーネパール南部のバダリア(ルンビニー)で「アショーカ王紀元前3世紀)が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれた遺跡を発見したことにより、釈迦の実在が歴史的に証明された。釈迦の名は「シッダッタシッダールタ)」と伝えられており、意味は「目的を達成した人」である。
 釈迦誕生の伝説は、極めて古い経典や詩句の頃から伝えられている。まずは、誕生前の釈迦トゥシタ天兜率天、仏教の世界観である六道のなかの天界の一つ。天界欲界色界無色界に分けられ、欲界は更に下から四天王忉利天夜摩天兜率天化楽天他化自在天に分けられている。兜率天には内院と外院があり、内院は将来仏となる菩薩である弥勒菩薩が説法しているとされ、外院には諸天が住んでいる。このため、弥勒信仰では兜率天を浄土として考え兜率往生という思想になっている。ここに住む天の身長は二里(一里は中国では五百メートル、日本では三千九百メートル)、寿命は人の四百年を一日として四千歳である)にいたとされ、釈迦はこのトゥシタ天から六牙の象に乗り(または自身が象となり)右脇からマーヤーの胎内に入ったとされる。この時の様子を「ジャータカ序」の「遠くない因縁譚」には次の様に伝えている。

 さて、ボーディサッタが母胎に宿られた刹那に、突如として一万の世界全体が震え、揺れ、動き、三十二の前兆が現われた。一万の大世界全体に無限の光明が満ちわたり、そのためその輝きを見ようとするかのように、目が見えない者は視力を回復した。耳が聞こえない者は音を聞き、口がきけない者は話をし、背がまがっている者はまっすぐになり、足が悪くて歩けない者は歩くことができた。縛られていたすべての生ける者たちは、鎖や枷などから解き放たれた。すべての生ける者たちの病いは消滅し、すべての生ける者どもは愛らしい言葉づかいをした。優しげに馬がいななき、象が吠えた。すべての楽器は触れられていないのにそれぞれの調べを奏で、人々の手などにつけた飾りが鳴った。すべての方角が澄みわたり、生ける者たちに安らぎを与えようと穏やかな涼しい風が吹いた。ときならぬ雲が出て雨が降り、大地からも水がわきあがって流れ出た。鳥は空中を飛ぶのをやめ、河川は流れずに止まり、大海の水は甘くなった。どこもかしこも平地は五色の蓮華で覆われ、陸生や水生などの花がすべて咲き、樹木の幹には幹の蓮華、枝には枝の蓮華、つる草にはつる草の蓮華が咲いた。地面では岩面をつき破って上へ上へと七つずつのびた杖状の蓮華が現われ、空中ではたれさがった蓮華が生じた。いたるところに花の雨が降り、空中では天上の楽器が奏でられた。一万の世界全体が、まわして投げあげた花束のように、押しつけて結んだ花束のように、飾りととのえた花環の座席のようになり、一面に花環をつけ、払子(ほっす)がゆれ、花の好香があまねく薫るこのうえなく美しいものとなった。

 この様な釈迦の神話化は、初期仏教の頃から一部の僧侶によって疑問視されていたが、当時のインドでは偉大な人物を語る上で不可欠のものであったようである。

6. 出家

 釈迦出家したのは二十九歳とされる。その時の様子は次のように述べられている。

 ビクらよ、わたくしはじつに〔道を求める心をおこして〕のちに、まだ若い青年であって漆黒の髪があり、楽しい青春にみちていたけれども、人生の春に、父母が欲せず顔に涙を浮かべて泣いていたのに、髪と鬚を剃り下して、袈裟衣をつけて、家を出て出家者となった。

 この両親や妻子を捨てるという行為は、無責任なようにも思われるが、当時、出家が許されたのは妻子に経済的な不安を与えない者に限られていた。もっとも、釈迦の教団が大きくなって後にはこのような制約は無くなっている。釈迦が捨てたのは家族というよりは王位を含めた社会的な価値観であった。
 釈迦の時代、社会構造が変化することにより、従来の価値観が通用しなくなっていた。このような時代状況の中でさまざまな思想が現われたが、その中にはプラーナ・カッサパアジタ・ケーサカンバリンのように社会通念を否定する中で、あらゆる道徳観までも否定するものも少なくなかった。これらの思想は、現状に不満を持つ層の人たちの間で支持を広めていた。これに対して、釈迦は従来の価値観は否定しながらも、善と人として歩むべき道を求めて出家したのである。
 古い経典である『五分律』に書かれている出家の様子は、奴僕であるチャンナに引かせた白馬に乗って夜中に城を出た釈迦は、途中、宝衣を脱ぎチャンナに持たせて城に帰らせ、自身は猟師が着ていた袈裟衣と自分の衣を替えてもらい、剃頭師に剃髪してもらった後に、王舎城に行きビンバシャラ王に見出されたとある。これが後の時代に書かれた「ジャータカ」では次の様な話となっている。

 かれは、「いまこそ、わたしは世俗からの大いなる離脱をしなければならぬ」と思って、臥床から起きあがって門口に行き、「そこにいるのはだれか」と問われた。敷居に頭をのせて寝ていたチャンナが、「若君よ、わたしはチャンナでございます」と答えた。「わたしはいま世俗から大いなる離脱をしようと思い立った。わたしに馬を一頭用意しておくれ」。かれは、「ご主人さま、承知いたしました」といって、馬具をもって厩舎へ行き、油燈がよい香を放ってともっているなかで、スマナの花模様のある布の覆いのしたで、快適な地面に立っている馬の王カンタカに目をとめ、「わたしは、今日、これに馬具をつけることにしよう」と、カンタカに馬具をつけた。そ〔の馬〕は馬具をつけられているうちに気づいた。「この馬具のつけぐあいはとてもしっかりしている。他日、遊園地に行ったときの馬具のつけ方と同じではない。わが若者は、いま世俗から大いなる離脱をされようとしているに違いない」と思い、それから満足気に高らかにいなないた。その声は都全体に広がっていったのであろうが、神々がその音を静めて、だれにも聞かせなかった。
 一方、ボーディサッタは、チャンナを送りだしてから、「息子を一目見てこよう」と思って、すわっていた床座から立ちあがって〈ラーフラの母〉の住んでいるところへ行き奥の部屋の扉を開けられた。その瞬間、奥の部屋のなかで油燈がよい香を放ってともった。〈ラーフラの母〉は、スマナマッカリーなどの花が一アンマナの量ほどもまき散らされた寝床で、息子の頭に手をあてたまま眠っていた。ボーディサッタは敷居に足をのせて立ったまま眺め、「もし、わたしが王妃の手をよけてわたしの息子を抱けば、王妃は目を覚ますであろう。そうすれば、わたしが出立する邪魔だてとなるだろう。となってから、戻ってきて会うことにしよう」と考えて、高楼の露台からおりられた。
 こうしてボーディサッタは高楼の露台からおりられると、馬の側へ行ってつぎのようにいわれた。「これ、カンタカよ、おまえは今日一晩、わたしを連れて行っておくれ。わたしはおまえの力をかりるならば、となって神々も含めたこの世の人々を救うであろう」といって、そこでひと飛び、カンタカの背に乗られた。カンタカは、頸からの長さが十八ハッタあり、それに似合った高さをそなえ、力は強く、走るのは速く、白一色で、ちょうどきれいに洗った法螺貝のようであった。この馬が、もし、いなないたり蹄の音をたてれば、その音は都全体に広がったであろう。だから、神々がみずからの威力をはたらかせて、それをだれも聞くことがないようにと、いななきの声を静め、歩みを進めるごとに、手のひらを〔蹄のしたに〕あてがうのだった。ボーディサッタは、駿馬の見事な背の中央にまたがり、チャンナには馬の尻尾を握らせて、真夜中に大門の側にやってきた。
 ところが、そのとき、王は、「このようにしておけば、ボーディサッタが、どんな時刻であっても、都の門を開けて出て行くことはできないだろう」と、二つある門扉のそれぞれを、千人の男でなければ開けられぬようにしておいた。ボーディサッタは強い体力があり、象で計算すれば百億頭分の力、人間で計算すれば千億人分の力をもっておられた。かれは、「もし門が開けられないのなら、いまカンタカの背に乗ったまま、尻尾を握っているチャンナともども、カンタカを両腿にはさんで、十八ハッタの高さの城壁を跳びこえて行くことにしよう」と考えられた。チャンナも、「もし門が開けられないのなら、わたしは若君を肩に乗せ、カンタカの腹を右手で抱えこんで、城壁を跳びこえて行くことにしよう」と考えた。カンタカもまた、「もし門が開けられないのなら、自分はご主人さまが背に乗っておいでになるまま、尻尾を握っているチャンナともども、もちあげて、城壁を跳び越えて行くことにしよう」と考えた。もし門が開けられなかったならば、三者のうちのだれかが、考えたとおりにしたであろう。ところが、門に住んでいる神が門を開けてしまった。
 その瞬間に、悪魔が、「ボーディサッタをひき戻らせよう」と思ってやってきて、空中に立ったままいった。「きみ、出てはならぬ。きみは、いまから七日目に輪宝が現われるはずだ。きみは、二千の属島に囲まれた四つの大きな国土(四大洲)を統治することになるのだ。きみ、戻りたまえ」「おまえはだれか」「おれは全能者だ」「悪魔よ、わたしは輪宝がわたしに現われることを知っている。だが、わたしは王権を求める者ではない。わたしは一万の世界を鳴り響かせてとなるであろう」と〔ボーディサッタは〕いわれた。悪魔は、「では、これからは、きみが愛欲のこころ、怒りのこころ、害意のこころを抱いたときには、あばいてやるつもりだ」と〔ボーディサッタの〕あらさがしをするために、影のように離れずについてきた。
 ボーディサッタは手中に帰する転輪聖王の位を、唾のかたまりのように惜し気もなくふり捨て、多大な尊敬を受けつつ都から出て行かれた。アーサーラ月の満月がウッタラーサーラ星宿に宿るとき、出て行かれたのであるが、もう一度都を見たいという気持ちをもたれた。ところが、かれにこのような思いが浮かんだだけで、「〈偉大な人〉よ、あなたはふり返ってごらんになってはなりません」とでもいうかのように、大地が裂けて、ろくろのように回転した。ボーディサッタは都に向かってたたずみ、都を眺めてから、その土地に〈カンタカふり返りの霊廟〉を建てるべき場所を指定し、カンタカを進むべき道の方に向けて、多大な尊敬を受け、広大な栄光をになって出発された。
 このような栄光をになって前進し、ボーディサッタは、たった一晩のうち三つの王国を通り過ぎ、三十ヨージャナ隔たったアノーマーという川の岸辺に到着した。ところで、馬がそれ以上前進できなかったのかといえば、決してそうではない。というのは、この馬は、一大世界のなかを、ちょうど轂(こしき)に取りつけた車輪の外縁でも踏むように、端々をまわって朝飯前にひき返し、自分のために調えられた飼い葉を食むこともできるからである。ところが、そのときは、神々や竜や金翅鳥などが空中から投げおろした香りのよい花環などで、腿のところまで覆われてしまい、身体を引き抜いては、からみついた香りのよい花環を切って〔進んで〕いたので、たいへん遅れてしまった。だから、三十ヨージャナしか進まなかったのである。さて、ボーディサッタは岸辺に立ってチャンナにたずねられた。「この川は何というのか」「王子さま、アノーマーと申します」「わが出家もまた至高のもの(アノーマ)になるであろう」といって、踵でたたいて馬に合図をされた。馬は跳躍して八ウサバの幅がある川の対岸に立った。ボーディサッタは馬の背からおり、銀片のような砂の河原に立ってチャンナに告げられた。「これ、チャンナよ、おまえはわたしの装身具とカンタカを連れて戻りなさい。わたしは出家したいのだ」「王子さま、わたしも出家したいのです」ボーディサッタは、「おまえが出家することは認められぬ。おまえは戻りなさい」と三度拒まれた。
 装身具とカンタカとを受け取らせてから、「わたしのこの髪は修行者にはふさわしくない」と考えられたが、他にボーディサッタの髪を切るのに適した者はいなかった。そこで、「刀でみずから切ろう」と思って、右手に剣をとり、左手に冠ともとどりをつかんでいっしょに断ち切られた。ボーディサッタは冠ともとどりとをいっしょにつかんで、「もしわたしがとなれるならば、空中にとどまれ。もしそうでないなら、地上に落ちよ」といって、空中に投げられた。すると、宝珠のついたもとどりと頭冠は一ヨージャナの高さのところに行って空中にとどまった。神々の王サッカが天眼で眺めていて、一ヨージャナの大きさの宝石の箱のなかに受け取って納め、三十三天の住処に、〈宝珠のもとどりの霊廟〉という名で安置した。さらにボーディサッタは、「このカーシー産のわたしの衣服は修行者にふさわしくない」とかんがえられた。すると、カッサパ仏のときの、むかしのかれの友人であったガーティカーラ大梵天が、もう一人つぎにが現われるまでのあいだの、朽ちることのない友情をもって考えた。「今日、わたしの友人は、世俗からの大いなる離脱に向かって出てきた。かれのために、修行者に必要な用具(三枚の衣剃刀水濾し袋)をもって行ってやろう」
 ボーディサッタは〈聖者の標章〉を身に着け、最上の出家の衣服を受け取ると、「チャンナよ、両親にわたしの無事なことを伝えておくれ」といって、送りだされた。チャンナボーディサッタを礼拝し、右まわりにまわって去った。しかし、カンタカチャンナと話を交わしているボーディサッタのことばを聞きながら立っていたので、「もう自分のご主人さまにふたたびお目にかかることはないのだ」と思い、〔ボーディサッタの姿が〕視界から消えると、悲しみに堪えかね、胸が張り裂けて死んでしまい、三十三天の住処にカンタカという天子になって再生した。チャンナは、初めは〔王子に別れたという〕ただ一つの悲しみであったが、カンタカが死んだために、第二の悲しみにうちひしがれて、泣き叫びながら都に向かって行った。