ここにある「正定」とは「正定聚」のことで「正しく定まった衆生」という意味です。本来は「仏」になることが定まった衆生という意味で、阿弥陀如来の国である極楽浄土に生まれたものが得ることができる利益の一つでした。初期の浄土思想では、この世で仏になることができないものが極楽浄土に生まれることによって、必ず仏になることができると説いていたのです。これに対して、決して仏になることができない衆生を「邪定聚」仏になることができるかわからない衆生を「不定聚」といいました。ところが、親鸞聖人は「正定聚」を「仏」ではなく「往生」に関する言葉として用いています。往生が正しく定まるか、往生が邪に定まるか、往生が定まらないか、ということです。
ここで重要になるのは「往生」の意味になります。親鸞聖人は「往生」に三通りあるとおっしゃっています。一つは「双樹林下往生」といいます。「双樹林」とは、お釈迦様が二本の沙羅という樹の下で亡くなられたことに由来する名前です。お釈迦様のごとくになろうと懸命に修業した僧侶達が、さとりを開くことなく命尽きた時に、永遠の命が保証されている極楽浄土に迎え入れられて、半ばになっていた修行を完結させるための「往生」です。何の保証もないのですが、日々の努力が無駄に終わると考えずに済むということです。
次が「難思往生」です。これは、修行も専門的な学びもしていない在家の信者が、死んだ後に極楽浄土に生まれて僧侶となり、さとりを開くための修行を行うための「往生」です。本来修行をしなければ助からないという仏教において、在家信者が救われるための道として考えられたものですが、こちらも何の保証もありませんから、信じろといわれても難しいものがあります。ただ、すべての衆生を救おうという大乗仏教において、在家信者の救済として考えられたものです。
最後が「難思議往生」です。「難思往生」と似ていますが「思うことが難しい」のではなく「思議することが難しい」のです。「不可思議」や「不思議」という言葉と同じで、現に起こっていることではあるけれども言葉で説明できないということです。現に起こっているということですから、死後のことではありません。今まさに往生がかなっているのですが、現実の世界が穢土であるのはそのままなのです。今生きているこの人生が「往生」という意味を持って定まるということです。「生まれ変わった」という点としての「往生」ではなく「生きている」という歩みとしての「往生」です。念仏の教えに頷き、自分が煩悩成就の凡夫であると知らされて生きる人生が、そのまま「往生」という歩みとなっているという「証」を得ているのです。法然上人や親鸞聖人は、浄土思想を心の逃げ道としての仏教から、証を得ることができる真の仏教へと変えたのです。ですから、インドや中国では成しえなかった「浄土宗」として浄土思想を仏教の「宗」としての独立をすることができたのです。ただし、その「証」とは、理想とする私である「仏」となることではなく、煩悩から離れることのできないというありのままの私を認めることができる「往生」としての生き方を得るというものです。ありのままの私を認めることで、周りの人々も認めることができるようになります。理想の私を捨てることで、心が柔らかくなるからです。
この三番目の「難思議往生」が定まったことを、親鸞聖人は「正定」と呼んだのです。「邪定」は「邪に定まる」ことです。心が「邪」なのではなく、定まり方が「邪」なのです。人生の方向性は定まっているのですが、その方向性が「邪」であるということです。真面目に信念をもっているのに、自分だけではなく周りまでも不幸にしていく生き方です。その人の心を閉ざし、頑なにしていく思想に定まるです。「不定」は、定まっていない生き方です。その場の雰囲気に流されて、社会を批判しながら何となく生きているので、強い信念を持った人に会うと簡単に影響されることになります。
