釈迦は正しきバラモンであろうとした。そのバラモンとはあらゆる束縛から解き放たれた者である。このため、自らを束縛する教義や戒律を否定した。当時、多くの哲学的な教えが、互いに自分たちの教えこそ絶対真理であることを主張し、他の教えを否定していた。自分の教えに対する執着は他の教えに対する偏見を生む。釈迦は自分の考えが真実であると思うことの危険性を熟知していた。このことは、次の言葉に表れている。
ナンダよ。世の中で、真理に達した人たちは、〔哲学的〕見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとはいわない。〔煩悩の魔〕軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、―かれらこそ聖者である、とわたくしはいう。
ナンダよ。これらの〈道の人〉・バラモンたちはすべて、〔哲学的〕見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。〔そのほか〕種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたくしはいう。
ナンダよ。わたくしは〈すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている〉と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々―かれらはじつに〈煩悩の激流を乗り超えた人々である〉と、わたくしは説くのである。
釈迦は論争しあっている者たちを「自己の見解に耽溺(たんでき)して汚れに染まっている」者とし、真の聖者を次のように述べている。
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。知慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、たがいに衝突しながら、世の中をうろつく。
聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものお)しみもかれを汚すことがない。たとえば〔蓮の〕葉の上の水が汚されないようなものである。たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでもとくに執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれらは貪らず、また嫌うこともない。
釈迦は教義や戒律を避けるだけではなく、いくつかの質問には答えることをしなかった。その質問を「無記」という。そのもっとも古い形態である「四無記」は次の四つである。
1) 我および世界は常住であるか、あるいは常住ならざるものである。
2) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか。
3) 身体と霊魂とはひとつであるか、あるいは別の物であるか。
4) 人格完成者は死後に生存するか、あるいは生存しないか。
これらの質問に釈迦が答えなかったのは、無意義な議論や確実な根拠を持たない議論を避けるためである。原則として、釈迦は経験によって確かめられるものしか信じないという考え方であった。伝統的な儀式の多くを否定したのは、その真偽を確かめることができないからである。否定はしても対立する教義を説かないため、他の思想との間に勝劣が成立しない。このため、仏教は他の教えを超えていると表現された。他の思想から非難されても敵対的な応答をすることもなかった。仏教の求めるものが「他者からの勝利」ではなく「心の平安」であるからである。このためには争わないことが重要である。これは次のような言葉で語られている。
もろもろの出家修行者やいろいろいいたてる世俗人に辱められ、その〔不快な〕ことばを多く聞いても、あらあらしいことばをもって答えてはならない。りっぱな人々は敵対的な返答をしないからである。
修行者はこの道理を知って、よくわきまえて、つねに気をつけて学べ。もろもろの煩悩の消滅した状態が〈やすらぎ〉であることを知って、ゴータマの教えにおいて怠ってはならない。
これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々―、かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて〔一部の人々から〕称讃を博するだけである。〔たとい称讃を得たとしても〕それはわずかなものであって、平安を得ることではできない。論争の結果は〔称讃と非難との〕二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
非難されるのは、欲せざることである。称讃されても、心の平安を得ることにはならない。
修行僧らよ、われは世間と争わない。しかし世間がわれと争う。法を語る人は、世間のなんびととも争わない。世間のもろもろの賢者が「なし」と承認したことを、われもまた「なし」と語る。世間のもろもろの賢者が「あり」と承認したことを、われもまた「あり」と語る。
世間には世間のことがら(法)がある。如来はそれを覚り、現観し、覚りおわり現観しおわってから説明し、説示し、仮りにたて、安立せしめ、開示し、分析し、明白ならしめる。
仏教の修行者は「たえ忍ぶことを説き」「不抗争を称讃する者」と呼ばれていた。元々、釈迦は新しい宗教や思想を主張しようとしたのではなく、束縛や執著から離れて自然の法に則した人間として生きる「道」を示したかったのである。釈迦の頃から今日に至るまで、多くの仏教宗派は従来の宗教を捨てることを求めていない。その地域の宗教用語や概念を用いながら、その意義内容を束縛の少ないものにするという方便的な教化を行っている。このように相手によって説き方を変えることを対機説法という。この教化方法により、仏教はその地域の思想を取り入れることで、より深い宗教性を持つことになった。仏教では教えを彼岸に渡るための筏に例えるが、これは彼岸に渡ってしまえば筏が必要なくなるものであることも示唆している。どのような教えも方便でしかないということである。大切なのは教えではなくで、人間が束縛から放たれることなのである。
逆に、世間一般で言われている善行によってその人の価値を評価することは否定した。
魚肉・獣肉〔を食わないこと〕も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみれることも、粗い鹿の皮〔を着ること〕も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中のなされるような、不死を得るための苦行も、〔ヴェーダの〕呪文も、供儀も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
一方で「人間として正しい道を歩むための心得」という形で、最初期の経典の頃から教義的なものが示されている。
「人間として正しい道を歩むための心得」としての教えは、後に「戒律」として整理されることになる。それ以前は「守るべき道徳」として、次のようなことが説かれている。
1) 殺すなかれ
仏教の僧や信徒も肉食をしていたので、まったく殺すなということではない。節度を保つことを求めるものである。
2) 盗むなかれ
原語では「自分に与えられていないものは取ってはならぬ」となっている。
3) 邪婬を行うことなかれ
男女間の道を乱してはならないという意味。
4) 言葉に関する教え
言葉を慎め・偽るなかれ・悪口をいうな・粗暴なことば発するな・むだ口をきくな・民衆の理解できることばで説け、など言葉に関しては細心の注意を求めている。
5) 酒を飲むなかれ
最初期は飲みすぎるなということであったが、徐々に厳しくなった。これは修行僧の間で酒による失敗が多々見られたためである。また、信徒の間でも酒により身を亡ぼすものが少なくなかったため酒を禁止するようになった。飲酒と共に賭博も禁止している。
6) 注意深くあれ
7) 足るを知れ
8) 怠けるな
9) 惰眠をむさぼるな
10) 心をとり乱すな
11) 不運にくじけるな
12) 健康に心がけよ
13) 音楽・舞踊・歌謡を楽しんではならない
14) 恥を知れ
15) 愚を知れ
16) 反省のこころを持て
17) 思いやりの心を持て
18) 恩を忘れるな
19) 耐え忍ぶこと
20) 他人からのそしりにこだわるな
21) 羨むな
22) この世に無駄なものは存在しない
23) 施与を行え
24) 人のために尽くせ(奉仕)
25) 法にかなった事柄には協力せよ
これが原始仏教の発展とともに整理され、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒という「五戒」が成立した。これに、不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見を加え、不飲酒を除くと「十善戒」となる。肯定的なものとしては、施与・戒め・出離・知慧・努力精励・忍耐・真実・決意・慈しみ・平等が「十の完全な徳」(十波羅蜜)とされた。
抑制すべき心の汚れとして説かれている。後に煩悩として整理されるが、最初期の仏教では、まだ分類や体系化されていない。偽り、満身、貪欲、笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、詐欺、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺(たんでき)、異性に対する欲望、自己の愛執、生老死に対する無知、財産への執着、妄愛、慢心、邪見、十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意という主観的機能(六根)と、色(かたち)・声・香・味・触(触れられるもの)・法(思考されるもの)という客観的な対象(六境))などが挙げられている。
