2024年5、6月聖覚寺仏教入門講座

日本仏教史1改-仏教以前1 宗教の誕生 -

1、縄文時代

16,000年前から3,000年前まで13,000年間続いた縄文時代は、世界史の区分では中石器時代から新石器時代に相当する。土器弓矢竪穴式住居が使われ、表面を滑らかに研磨加工した磨製石器を用いた採取や狩猟によって生活しており、農耕や家畜の飼育は限定的であった。

「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を“Cord Marked Pottery“ と報告したことに由来する。土器の型式によって、草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)の6期に分けられる。

磨製石器

1、旧石器時代は、約200万年前~約1万年前の期間とされ、打製石器を使用して狩猟・採取生活が営まれた。中石器時代は、紀元前1万年~紀元前8000ないし6000年頃の期間とされ、気候が温暖になり人間が採取狩猟で食物を得やすくなり、細石器が用いられていた。新石器時代は、紀元前8000年~紀元前6000年頃に始まり、磨製石器が用いられた。この頃から人類の定住が始まり、土器の使用、農耕や家畜の飼育が行われるようになった。

ア)草創期約(1万3000年前-1万年前)

温暖化により海が陸地に進入してきたために、日本列島が大陸から分離する直前の時期である。環境の変化により、狩猟の獲物がゾウや野牛などの大型哺乳動物から、シカやイノシシなどの中・小哺乳動物や貝類・魚類に変わった。このために小型の骨製U字型釣針や、刃部(刃先部分)のみに磨き(研磨)をかけた槍・弓矢・斧に使う局部磨製石が作られる。豆粒文土器隆起線文系土器爪形文系土器押縄文系土器(多縄文系土器)などの土器の他に、女性像を線刻した小礫なども出土している。

爪型文系土器

隆起線文系土器

豆粒文土器

女性像を先刻した子礫

イ)早期約(1万年前-6000年前)

日本列島が完全に大陸から離れて島国となった時期である。数戸の竪穴住居からなる集落が構成される。ドングリクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的な農業が行われるようになる。縄文や撚糸文が描かれた圧煮炊き用の尖底土器や小型の土偶が作られる。狩猟用の縄文犬が人と一緒に埋葬されている。埋葬の形式は屈葬。日本の人口は2万100人程。

撚糸文尖底土器

小型の土偶

ウ)前期(約6000年前-5000年前)

気候がさらに温暖化し、亜熱帯性の常緑広葉樹林や乾季に適応した落葉広葉樹林からなる植物帯が形成された時期である。広場を囲むように竪穴住居が作られるようになる。木器土器黒曜石などに漆を塗るようになる。集落の近くに宗教的な意味合いを持つ環状列石が作られる。この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化した。平底土器が一般化すし、羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる。耳飾り勾玉管玉などの宗教的装身具も作られるようになる。日本の人口は10万5500人程。

平底土器

黒浜式土器

羽状縄文を施した繊維土器

エ)中期(約5000年前-4000年前)

気温が低下し始め、日本列島がほぼ現在の形となった時期である。集落の規模はさらに大きくなる。植林農法の種類もドングリからクリに変わり大規模化し、大型の貝塚も形成される。石棒土偶石柱祭壇が作られる。抜歯の風習が始まる。立体的文様のある王冠型土器火焔型土器と呼ばれる宗教的大型土器が作られる。人口は26万人程。

王冠型土器

火焔型土器

才)後期(約4000年前-3000年前

内陸地域にも貝塚が作られるなど生活圏が広がる。土器を使った製塩の跡が見つかっており、塩を作る専業の部族や交易を行う部族も生まれた。東北地方を中心に環状列石が作られ、巨大木柱遺跡も各地で見つかっている。また村の一角に土器塚が出来る。敷石住居址も見つかっている。気温の低下により人口は16万人程に減少。

製塩土器

製塩土器

カ)晩期(約3000年前-2300年前)

さらなる気温の低下により海面が低下した時期である。、これにより従来の漁労活動が困難になる。木製の太刀や漁労の網が作られる。東北の太平洋側で銛漁が行われ、北九州・近畿では縄文水田が作られた。弥生土器に連なる簡素な形をした口縁部の外面に出っ張った突帯(とったい)がある刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)の(かめ)が作られる。この技法は半島からもたらされたもので、稲作の開始と関係があると考えられている。人口はさらに減少し7万人程となる。

縄文晩期石棒

刻目突帯文土器

2、縄文時代の宗教

縄文時代祭祀呪術信仰などに関連した宗教的遺物に「土偶」「岩偶」「石棒」「石刀」「石冠」などがある。

岩手県一関市にある縄文時代前期杉則遺跡から出土した全長8.7cmの土偶は、頭部や手足が省略されているものの、胸のふくらみ、腰のくびれから女性であると考えられている。中期以降の土偶の多くは女性をかたどっており、中には妊娠している女性の土偶もみられることから、安産や多産を願う宗教儀式に用いられたものと考えられる。

土偶の出土が多いのは縄文時代後期で、平泉町の新山権現社遺跡からは239点もの土偶

杉則遺跡土偶

新山権現社遺跡

鼻曲り土面

が出土してる。これらの土偶の基本形は顔面逆三角形状で、胴長短足で怒り肩となっている。また、ひも通し穴があるロ・耳・鼻形土製品など、仮面の前段階と思われるものも出土している。

縄文時代晩期の一戸町・蒔前遺跡から出土した全長17.7cmの土製仮面は、鼻筋が左に曲がっていることから「鼻曲り土面」と呼ばれている。左右にひも通し穴があることから仮面として使われていたものと考えられる。縄文時代晩期を代表する土偶に「遮光器土偶」がある。この土偶は顔面の大半を「遮光器」状の丸い目が占め、目と目の間に輪のような鼻と口が表現されている。二戸市の雨滝遺跡から出土した土偶は全長23.5cmで、頭部には山形状の装飾がり顔面は朱に塗られている。盛岡市の手代森遺跡から発掘された土偶は全長31cmと大型のもので、頭部・右腕部・胴部がそれぞれ60cmずつ離れて出土していることから、宗教行事の後に廃棄されたものと考えられる。

遮光器土偶

雨滝遺跡土偶

手代森遺跡土偶

この時代にみられるような宗教は、一般的にはアニミズムと呼ばれている。これは、万物に宿る精霊を信仰する精霊信仰であり、自然界に対して畏怖の念を向ける自然崇拝でもある。アニミズム信仰では、特に精霊や自然界との交信が出来るとされる者が、しばしば宗教指導者として認められることになる。これが呪術師(シャーマン)であり、この呪術師を中心とした宗教がシャーマニズムである。縄文時代土偶などもこのシャーマンによって使用されたと考えられる。

縄文期の埋葬法は、円形の土壙墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的であった。石を胸に抱かせて葬る抱石葬もみられる。墓地には環状列石が置かれているものもある。後期以降の土壙墓には装身具が副葬されているものもあるが、ここに埋葬されている者は政治的主導者もしくは宗教的指導者であったと考えられる。埋葬品としては、男性は腰につける飾り、女性は貝のアクセサリーが多く、ヒスイなどの宝石や耳飾りなどは男女による差はない。死者とともに大切なものを埋葬してしまうという事は、死者に何かしらの宗教的な意味を見ていたことを表している。

3、真脇遺跡

真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡である。縄文時代前期初頭から晩期末まで途切れることなく遺物・遺構が出土していることから、およそ4000年もの間、この地で人々が継続的に生活していたことがわかる。通常は残りにくい木製品や、動物の骨、植物の種子が非常に良好な状態で出土しており、とくに前期末から中期初頭にかけての地層から、発見されただけで286頭ものイルカの骨が出土しており、実際には何千頭ものイルカの骨が地中に眠っている可能性もある。イルカ層からはイルカ骨以外にたくさんの土器や石器の他、トーテムポールのような彫刻を施した木柱も出土している。イルカ骨の中に埋もれた状態で見つかっていることから、イルカ漁と関係する「マツリ」のシンボルであったとも考えられる。アイヌの人々が、狩りで獲った熊の霊を神様に返す「熊送り」という儀式を行うが、これと同様の「イルカ送り」のような儀式を行っていたのではないかと推測されている。

真脇遺跡環状木柱列

クリの丸太を半分に割り円形に並べて立てられた「環状木柱列」はこの遺跡だけではなく、石川県金沢市新保本チカモリ遺跡富山県小矢部市桜町遺跡などにも見られる北陸独特のものである。このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ば

れ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている。

真脇遺跡から出土した土製仮面縄文時代後期の もので、右顔面と顎が欠けているが、復元すると能面ほどの大きさとなる。目はつりあがり、眉と鼻が高く、顔面にイレズミまたは魔よけの化粧と思える沈線文が施されている。これ以外にも貝製の仮面や、鼻や耳だけが土製の仮面、仮面をつけた土偶も出土していることから、仮面を用いた儀式が行われていたことが分かる。同様の仮面が出土する地域は、現在、ナマハゲ(男鹿半島)やアマメハギ(能登町秋吉地区輪島市門前町)、面様年頭(輪島市輪島崎町)といった仮面行事が行われている地域と一致している。

土製仮面

中期の住居址の近くから、墓穴に板が敷かれた「板敷土壙墓」と名づけられている墓が4基確認されている。これは真脇遺跡だけで確認されている形態である。4つの土壙墓はそれぞれ東西南北の四方向に配置され、楕円形をした土壙の向きも南北あるいは東西に統一されている。また土壙自体が一般的なものよりも大きく丁寧に作られている。4つの墓のうち最も新しいものと最も古いものとの間には200年ほどの年代差があることから、何世代にもわたって指導者が継承されていたと推測される。4つの土壙墓のうち3号土壙墓と名づけられた土坑墓からは人骨も出土している。胸に赤色漆塗りペンダントをつけて手足を曲げた屈葬のかたちで埋葬された20代から30代の男性である。この近辺からは、石棒土偶、人形のペンダント滑石製の耳飾や玉など日用品ではない特殊な遺物が出土していることから、この場所が集落の聖域であったことがわかる。2000年(平成12年)11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。また、中期中葉に属する板敷き土壙墓が発見された。そのうち1基から、仰臥屈葬による人骨が発見された。屈葬とは、埋葬の際、死者に手足を折り曲げた埋葬の状態をいう。あおむけの仰臥屈葬の他に、横腹を下にした横臥屈葬、腹を下にした俯臥屈葬、上体を立てた座位屈葬がある。屈葬を行った理由としては、墓坑を掘る労力の節約、休息の姿勢、胎児の姿を真似ることによる再生を祈る、死者の霊が生者へ災いを及ぼすのを防ぐため、など様々な説がある。近年まで日本で行われていた座棺による土葬も屈葬の一種である。

4、弥生時代と弥生文化

弥生という名称は、明治17年(1884)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器弥生式土器と呼ばれたことに由来する。弥生時代とは、水稲農耕が本格的に始まった紀元前10世紀から、前方後円墳が出現する古墳時代が始まる紀元後3世紀中頃までを指す。

本郷弥生町出土壺形土器(複製)

紀元前10世紀ごろ九州北部で稲作が始まると、紀元前9世紀の福岡市板付遺跡からは集落内に階層差が生まれていたことが確認されている。身分社会を伴う弥生文化は、高知平野に紀元前8世紀、山陰瀬戸内には紀元前7世紀に伝わり、紀元前6世紀には畿内から濃尾平野伊勢湾地域にまで拡散した。青森県にある紀元前4世紀の砂沢遺跡や紀元前3世紀の垂柳遺跡からは水田稲作の痕跡が確認されていることから、水稲農耕はかなりの速さで日本列島を縦断伝播したといえる。

また伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術も備えた状態であったことが判っている。この頃の水田は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度の「小区画水田」が無数に集合したものが主流であった。しかし、東北地域では水稲農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されていないことから、弥生文化には含まれない。東日本に弥生文化が定着したのは紀元前3世紀ごろであることが、小田原市にある中里遺跡によって確認されている。この中里遺跡は、近畿中央部からの入植によるものであることが分かっている。その後、紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。これにより、弥生文化は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている。

紀元前5世紀中頃になると、大陸から北部九州へ大陸系磨製石器などを用いた水稲耕作技術が伝わり大規模な水田が作られるようになる。これにより、弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成されていった。

2、南西諸島北海道では水稲農耕が行われていない。このため、南西諸島では貝塚時代グスク時代北海道では続縄文時代擦文時代という時代区分がなされている。

5、弥生時代の生活

弥生時代の主な住居は竪穴建物であった。また、水稲農耕は穀物の備蓄を可能としたため、倉庫として掘立柱建物貯蔵穴が作られ、財産という価値観が生まれた。集落内には、居住する場所と墓とがはっきりと区別されるようになった。

復元された吉野ヶ里遺跡の竪穴建物。

家畜としては、縄文時代から飼われていたイノシシ以外に、大陸からニワトリが持ち込まれている。また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌ以外に、大陸から食用家畜としてのイヌも持ち込まれた。

復元された池上曽根遺跡の大型掘立柱建物

大陸から渡来した管状土錘を用いた網漁が行われた。また、イイダコ蛸壺漁も行われている。カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられる。

稲作のための道具として、木製のや、石製の庖丁を用いたが、次第に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀に用いていった。

管状土錘

開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、耕作地水利権などをめぐって戦いが発生した。佐賀県吉野ヶ里遺跡では物見櫓の跡が見られる。

弥生時代前期の墓からは、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。北部九

州では、前期から中期にかけて銅剣銅戈石剣石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例も見つかっている。

石鏃

このような争いを通して、各地に小さな「クニ」が生まれた。『漢書』3には「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る」とある。『後漢書』4東夷伝によると「倭奴國」に対して「光武賜以印綬」とある。国宝である「漢委奴國王」の金印がこれと思われるが、字が異なっていることから異論も多い。この書には。当時、北部九州には奴國

銅戈

以外にも伊都国末盧国などがあったこと、弥生時代後期の2世紀後半に倭国が大いに乱れたことなども書かれている(倭国大乱)。この時期、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸東海地域以東に至る広い範囲で、戦争を前提として作られたと思われる高地性集落環濠集落の跡が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。しかし、弥生時代前期に比べると武器の発達が見られないこと、副葬品以外では近接武器がほとんど出土していないこと、受傷人骨が少ないことなどから、倭国大乱とはどのような争いであったのかは分かっていない。

3世紀前半には邪馬臺国国王卑弥呼に朝貢し、倭国王であることを証明する「親魏倭王」の金印を授けられている(『魏志』『倭人伝等)。北部九州・吉備山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に別かれていた勢力が、

漢委奴国王印

争いと連合を繰り返し、少なくとも4世紀の末頃までには、西日本と東日本の一部に跨る統一的な政治勢力が現出したとされている。

3、中国後漢の章帝の時に班固班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻。『後漢書』との対比から『前漢書』ともいう。

4、中国後漢朝について書かれた歴史書。本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120卷。

5、中国の歴史書『三国志』中の「書」第30巻。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末に書かれ、中国では正史として重んじられた。

6、弥生時代の道具

弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器青銅器鉄器土器などに分けることができる。工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて大陸から伝わった青銅器鉄器を使うようになった。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

石器・・縄文文化より伝わった打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。大陸から水稲農耕とともに伝わった磨製石器

は、蛤刃磨製石斧抉入片刃石斧といった工具や、石包丁石鎌など開墾や耕起、収穫に用いられた道具として用いられた。また同じ大陸系磨製石器の1つとして磨製石剣磨製石鏃も伝わり、金属製武器(青銅製武器鉄製武器)が本格導入される直前の時期に実戦用武器として使用された。この影響を受けて、打製石器でも剣型武器である打製石剣が製作され、実戦に導入されるようになった。

蛤刃磨製石斧

有柄式磨製石剣(吉野ヶ里遺跡出土)

抉入片刃石斧

青銅器・・青銅器は半島と大陸から北部九州に伝えられた。銅鏡は全国的に出土しているが、銅矛銅剣銅戈などの武器型の青銅器は北部九州で、銅鐸畿内で多く見つかっている。

銅矛などの武器型青銅器は、伝来後すぐに国内で生産されている。刃が研ぎ澄まされていることから、初期は実際に戦闘に使われていた可能性が高い。しかし時代とともに墓の副葬品とされるようになったことなどから、所有者の威儀を示すものに変わっていったことがわかる。

銅鐸の祖型とされる朝鮮の小銅鐸は装飾品としての馬具や楽器であったが、日本では伝来した当初から祭祀用として独自の進化を遂げていった。徐々に大型化するとともに、吊るす部分が退化していっている。これは、舌を内部に吊るして鳴らす使い方から、置いて祀る使い方へと変わったためであると考えられる。

銅鐸東京国立博物館

銅鏡も渡来して間もなく国内でも生産されるようになったが、墓に副葬されたものや意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられたものが見つかっていることから、実用品としての鏡ではなく宗教的な道具として用いられていたと思われる。

このように青銅器は主に宗教的用途に用いられ、先などの農具やヤリガンナなどの工具、などの小型武器などにも使用されたが非常に少量である。

鉄器・・弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化し、後期以降に西日本全域に拡散した。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に工具や農具として用いられた。この時期の鉄器鉄素材を半島から輸入しており、非常に貴重品であったことが分かる。鉄素材と交換に半島へは米を輸出していた。九州北部に輸入された鉄素材は日本各地の交易品と交換されている。国内で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

銅鏡福岡市博物館

土器・・弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。縄文土器と比べて装飾が少ないと思われがちだが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器には多様な装飾が施されるものも少なくない。器種としては高坏などが作られた。特に縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。これらの土器は、大規模な集落で集中的に生産されたと考えられている。

高杯

弥生土器

弥生土器

弥生土器

木器・・木器は主に食膳具耕起具として使われた。特に食膳具には漆や細かな装飾を施すなどされた優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれである。農耕具は水田稲作の導入にともない持ち込まれたもので、エブリのほか、田下駄などが見られる。祭祀に関する木製品で、ムラの境界や入口に立てられた標柱などの上に付けられたと考えられているのが鳥形木製品である。ムラに侵入者が来ないように見張ったり、追い払ったりする力があると考えられており、現在の鳥居の原形ではないかと考えられている。

(c) 2015 Komatsu City

鳥形木製品 小松市八日市地方遺蹟

木製農具(東京国立博物館)

7、弥生時代の墓

縄文時代には住居近くに埋葬されていたが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。また、直接埋葬する土墳墓から、甕棺石棺木棺などの棺が使用される墳墓や大規模な墳墓である墳丘墓も作られるようになる。

土墳墓・・同じ土墳墓でも弥生時代になると寝た状態で埋葬される伸展葬が主流となる。また、板石で蓋をした石蓋土墳墓西日本全域で広く見られている。

甕棺墓・・や壺を棺とした墓で、弥生時代前から中期にかけて北部九州に多く見られる。の棺は、縄文時代にも一部で用いられていたが、大きなを作る技術がなかったため乳幼児の葬送用に限られていた。甕棺墓は、日本以外では朝鮮半島南部中国の長江中流域だけにしか見られない。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約0年後であることから、日本から伝わったものと思われる。甕棺は粘土で作成し、地面に燃料となる藁を敷いた上に置き、さらに上に藁を敷き詰め、その上を粘土でドーム状に覆って焼いて作られた。甕棺はその形状から屈葬となる。弥生時代後期には急速に衰退し、石蓋土壙墓箱式石棺墓などに取って代わられ、古墳時代までには消滅した。

支石墓・・数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。縄文時

晩期九州北西地域で見られる。当時、朝鮮半島南西部で盛んに用いられていたことから、渡来人の墓であると思われる。弥生時代前期の内に北部九州からもみられなくなったが、五島列島愛媛県などごく一部に伝播していった。

石棺墓・・板石を組み合わせて棺とした墓である。弥生時代前期支石墓に伴う形で見られるようになった。北部九州から中国地方西半部までの海岸地域で多く見られる。弥生時代中期には、九州北部では甕棺墓が主流となったため、中国地方の海岸地域のみでしか見られなくなった。

木棺墓・・弥生時代木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を組み立てるものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。木棺を作るには、製板技術が必要であり、そのためには金属器(または磨製土器)の使用が不可欠であることから、弥生時代前期から作られるようになったと考えられている。弥生時代前期末までには西日本地域に広がり、一般的な墓制となった。特に機内では、土墳墓とともに中期方形周溝墓の主体部として使われているが、木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく分かっていない。弥生時代後期には石蓋土壙墓箱式石棺墓などに取って代わられ衰退した。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が、特に弥生時代前期の遺跡から見つかっている。

再葬・・一度遺体を土壙して骨化させてから、改めて小型の亀や壺に埋葬する方法である。弥生時代前期の中部・関東地域で行われていたが、方形周溝墓が伝わるとこの埋葬方法はなくなっていった。

墳丘墓・・遺体埋葬地に土で塚を築いた墓である。弥生時代前期からみられるが当初は比較的小規模のものが多かった。

埋葬施設

墳丘(盛り土)

方形周溝墓・・弥生時代前期中頃に出現し、中期中頃には南関東後期には北関東から東北南部へと広がっていた墳丘墓の一つである。木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りをして墳丘を築いたものである。集落の近くの平坦な丘の頂や沖積地の微高地などに作られた。形に多様さや墳墓を囲む石列などの装飾は見られない。供献の土器類は地域によって異なるが、一般的には壺や高杯、器代、、鉢などである。この墓には複数の埋葬者がみられることから家族単位の墓であると思われる。また、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから、家族ごとの身分格差があったこともわかる。方形周溝墓はいくつも密接して見つかっていることから、墓所としての場所が決め

方形周溝墓の構造

られていたと思われる。この形式は、弥生時代より早い時期に朝鮮半島で大量に作られていたことから、水稲耕作とともに伝えられたものであると考えられている。ただし、北部九州には方形周溝墓が極めて少ないことから、この墓を作った集団が日本に渡ってからかなり早い時期に畿内へと移動したのではないかと推測されている。

方形台状墓・・周囲の土を掘りだして、山や丘陵、尾根の上に作った墳丘墓である。弥生時代中期に中部・関東地方で作られた。

大規模墳丘墓・・弥生時代後期畿内や戸内海沿岸で作られた。特に吉備地方では全長10mにも及ぶ墳丘墓が作られており、大型の壺や器代が副葬されている。

楯築墳丘墓・・岡山県倉敷市にある、直径約45m、高さ約5mの円丘の両側に方形の張り出しを持った、全長80mにも及ぶ巨大な墳丘墓である。3世紀頃のものと思われるが、この地域の「クニ」の長の墓であると考えられている。兵庫県たつの市にも突出部が二つある墳丘墓がある。この突出部は棺を担いだ葬列が通るための道ではないかと考えられている。

楯築墳丘墓

四隅突出型墳丘墓・・山陰地方で作られた方墳の角が突き出したような形態の墳丘墓である。墳丘墓全体に貼り石を敷き詰めた、高度な土木技術が用いられたものもある。この形態は北陸地方にも伝播していることから、古代出雲の勢力範囲が日本海沿いに広がっていたことが分かる。

これら墳丘墓が3世紀後半に出現する前方後円墳などが作られる古墳時代へと繋がることになる。墳丘墓には地域性がみられるものの、古墳は地域差がほとんど見られない。このことは、3世紀後半に、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆している。

四隅突出型墳丘墓