2024年7,10月徳法寺仏教入門講座
日本仏教史2改-仏教以前2 道教・儒教の伝来 -
1、道教とは
道教は、儒教・仏教と並ぶ中国三大宗教の一つとされるが、自然発生的な宗教であるため定義は明確ではない。一般的には、宇宙と人生の根源的な不滅の真理である「道(タオ)」と一体となった仙人を目指す教えとされ、修行者は道士と呼ばれる。道教では「道」は学ぶことはできるが教えることはできないとされていることから、道士は「道」を各自が自分自身で見出さなくてはならない。修行方法としては、不老不死の霊薬である「丹」を錬る錬丹術や「気」を整え精神の安定を図るための拳法の他に「無為を成す」ための瞑想などがある。「道」は「自然」や「無為」と同義ともされ、これを表す陰陽の思想で説明される。また「道」は「無極(むごく)」や「太極(たいきょく)」または「太素(たいそ)」とも呼ばれることから、この陰陽思想は「太極図」で示される。
教団としての道教は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得たとされる『太平清領書』を入手した張角(天公将軍)が弟の張梁(地公将軍)と張宝(人公将軍)とともに「黄老道を奉事」し、華北で大平道という宗教集団を立ち上げた。病気になるのは罪を起した報いであり、これを癒すために「首過」(天や鬼神への懺悔)を行う事や「符水」(符を入れた水を飲む)を用いることを説いた。十余年間に数十万の信徒を集めると、やがて軍隊のように組織化して政府からの弾圧に対抗した。184年に反乱を起こした(黄巾の乱)が曹操らによって鎮圧され教団は壊滅した。
太平道とほぼ同時期に、蜀で張道陵によって立ち上げられ、張衛・張魯へと 3 代にわたって継承されたのが五斗米道(天師道)である。道徳的反省や鬼神の祟りを避けることによって病を癒す「思過」を説き、張魯の頃には「符水」もするなど、太平道と共通するところが多い。入門者や治療した者に五斗の米を出させたのでこの名で呼ばれている。この教団は政府と対立することなく、3代目天師(教主)張魯の頃には蜀から中原にまで勢力を拡大させていった。張魯は自らの教えを「鬼道」と称し、平和主義・博愛主義を説いたとされる紀元前5世紀頃の思想家墨子(墨翟、ぼくてき)を教祖とした。天ないし鬼人を信仰し、人間が正しい行為をすれば必ず天や鬼人が守ってくれると説いた。そこで「鬼卒」や「鬼民」といわれた鬼道の信者は、病を癒すために懺悔や無償での道路修復などを行った。曹操はこれを利用するため、五斗米道を帰順させる。そして、張魯を鎮南将軍に登用し、自らの子どもを張魯の娘と婚姻させ、さらに張魯の 5 人の子供たちも親族以外の家臣が昇りうる最高の爵位である列候に任じたのである。「鬼道」は張魯の死後各地に広がり、北魏では国教になった。
「鬼道」と並ぶ道教の柱である「仙道」は、4世紀に葛洪が紀元前6世紀頃の思想家とされる老子を教祖として説いたものである。これは自然と一体化すること(無為自然)によって長生不死を得るという教えであり、善行によって鬼神に守護してもらうという「鬼道」とは性質が異なっている。5世紀になると陸修静によって道教の基本経典『三洞』が作成され、これに『四輔』が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系の成立によって、道教は儒教・仏教と並ぶ理論的な宗教となった。
2、弥生期の道教
北九州を中心とする筑紫神話圏で祭祀用に用いられていた銅鉾・銅戈(どうか)に装飾がほとんど見られないのに対して、畿内・中部・中国・四国地方を中心とする出雲神話圏で用いられていた銅鐸には様々な模様が描かれている。弥生式土器にも見られる幾何学模様に加え、猪や鶴のような鳥の狩猟場面や、杵で臼をつく場面、船の場面など当時の生活の様子の他、鹿・亀・蜻蛉・蛙・水鳥・蟹・イモリ・アメンボ・蟷螂なども描かれている。中でも圧倒的に多く見られるのが鹿の絵である。食用とされていた可能性もあるが、亀も比較的多く描かれていることから、ト占(ぼくせん)との関係が考えられる。亀の甲羅を用いた亀ト(きぼく)は、筮竹(ぜいちく)を用いた占筮(せんぜい)とともにト筮といわれ、辰韓や新羅経由で中国から出雲神話圏に継承された占法である。亀の甲羅と同様に鹿の骨も占いに用いられていたと考えられる。これらの占法に関しては『淮南子(えなんじ)』や『易通卦験(いつうけけん)』『周易上経』などの道教経典に詳しく記されている。幾何学模様の多くも単なる模様ではなく、道教の教理に基づいて描かれていると推測される。
また、3、4世紀ごろの遺跡と思われるものに、熊本県玉名郡和水(なごみ) 町にあるトンカラリン遺構がある。この石造りの 460 メートルにも及ぶ地下トンネルは、抜け穴や水道としての能力がないことから、今でも謎の遺跡となっている。一つの説として考えられているのが、龍神信仰の遺構説である。龍は水神であることから一般的には水中に住むとされているが、地下にも潜んでいると考えられていた。龍が地下に潜っている洞穴を龍穴といい、東大寺や室生寺で現在も見ることができる。この遺構は最初期の龍穴ではないという仮説である。龍神を祀る神社仏閣は、京都の神泉苑を始め今でも全国にある。このように、弥生後期には道教以外にも様々な民間信仰が大陸から伝来していたと考えられる。。
3、邪馬臺国と道教
邪馬臺国に関する記述は、陳寿が著した『魏志』「東夷伝」をはじめとする中国側の資料にみられる。『魏志』の中に「この国は元来男子が王となり継承していたが、内乱ののちに卑弥呼を王とした。彼女は鬼道に事えて衆を惑わした。成人していたが夫がなく、弟が補佐して国を治めた」と書かれている。同じく『魏志』の張魯に関する記述の部分には、張魯が「鬼道をもって民を教えている」という記述がある。また『魏志』では卑弥呼が伊都国に配置していた役職名を「大率」と記しているが、これは道教の経典である『墨子』の中で、城の各方面を守護する将帥に対して用いられている呼び名である。さらに、邪馬台国から中国への渡航の際に、頭をくしけずらず虱を取らず、衣服も汚れたまま、肉食をせず女性を近づけず、まるで喪に服しているかのようにして航海の安全を祈った「持蓑(じさい)」と呼ばれたる者がいたと記されている。道教では不幸を避けるために行なう祭りを「斎(さい)」と呼ぶが、張魯は「斎」を行う者は鬼神の憐れみを乞うためにあえてみすぼらしい姿をするように定めた。「持蓑」は「持斎」のことであると考えられる。これらのことから、卑弥呼が道教の鬼道を政治に取り入れていたと推察される。卑弥呼は、景書3年(239)、魏の明帝から親魏倭王として魏の外臣に冊封(さくほう)されているため、様々な文化とともに鬼道が伝えられていたと考えられる。
また『魏志』には、この国で行われていた祭事について「輒(すなわち)ち骨を灼きてトし、以て吉凶を占い、先ずトする所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼(かたく)を視て兆を占う」と記されている。これは『日本書紀』などに見られる鹿の肩胛骨に焼いた錐を刺してできた穴によって占う「太占(ふとまに)」の法である。これを行っていたのは中臣氏であり、春日社に鹿が飼われているのはこのトを行うためである。
4、古墳時代
3世紀後半から4世紀初めの頃、九州から東北地方にわたる広い範囲で古墳が多く造られている。形態としては前方後円墳が知られているが、これ以外に前方後方墳・円墳・方墳などがある。この時代を知る手掛かりは、邪馬台国同様、遺跡・遺物以外は中国の文献から推測するしかない。中国では、戦国時代、秦・趙・斉・楚などの諸国で、権力者や富豪によって墳墓が築かれ始めた。大陸初の統一王朝を築いた秦の始皇帝の陵は、一辺が約 350mで高さは約 50mにも及ぶ 2 重の大方墳である。この様な大墳墓を古墳と呼ぶが、古墳は単なる墳墓ではなく祭祀を行う場所でもあった。『淮南子』に「天は円に地は方に」とあり、また『隋書』に「冬日至、祠天於地上之円丘、夏日至、祭地於沢中之方丘」とあることから、天神を祀るときは円丘で、地祇を祀るときは方丘で行っていたことが分かる。このため、中国や朝鮮半島の古墳は、円墳もしくは方墳が一般的であり、中国では前方後方墳は前漢の高祖劉邦とその后の陵以外には明確にそれと記されているものはない。朝鮮半島にはいくつかの前方後円墳があるが、これらは5世紀後半から6世紀前半に作られていることから、日本から伝わったとされる。前漢武帝陵は一辺約 250m、高さ 36mで漢代最大のものであるが方墳である。
魏王朝になると、実質的な祖である武王(曹操)は生前に立てる「寿陵」を築くものの厚葬を避けて墳丘は築かなかった。初代の文帝もこれに倣い陵墓を設け、蔡拝の場としてはこれとは別に廟殿を建てている。これは日本の一部地域にみられる両墓制と同じである。しかし、次の明帝になると祖霊信仰が重視されるようになる。『魏志』「明帝紀」によれば、天を祀る円丘に太祖武帝を、地を祀る方丘に妻である武宣后を配祀し、文帝を天上界の支配者である上帝に配している。他に母の文昭皇后の寝廟を建てただだけではなく、夏侯惇・曹仁・程昱など建国の功労者たちを太祖武帝の廟廷に祀り、漢の光武帝の陵墓までも保護している。明帝がこのように祖霊や天神・地祇に関心を寄せたのは道教を重視したためである。これ以降、魏王朝では道教が主流となる。
日本で古墳が造られ始めたのは畿内であるとする説が有力であるが、北九州とする説もある。『魏志』「東夷伝」に卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとある。魏代の一歩は約 1.44mであるから約 144mとなるが「東夷伝」には倭韓地方では一歩が 0.3 メートルとあることから 30m前後とも考えられる。また、殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されていることから、埴輪が導入される以前だったこともわかる。卑弥呼は魏の列候にならい、古墳形式の墳墓を築いたと思われる。これが記録上での日本最古の古墳である。
古墳の形状には地域差が見られる。方墳や前方後方墳は対馬から宮城県に至るまで全国各地に500基ほど確認されている。その多くが古墳時代初期のもので、次第に前方後円墳が主流になっていく中、出雲東部地域だけが古墳時代を通して作られている。この地域は出雲神話圏の中心であり、大国主神(大三輪神、大物主神、大汝(おおなむち)神、大地主(おおとこぬし)神、倭大国魂(やまとのおおくにたま)神、大己貴(おおなむち)神)を代表とする国神(くにつがみ)を信仰する地域であることが関係しているとも言われる。これに対して、前方後円墳はヤマト勢力を象徴する形状である。現在、卑弥呼の墓として有力視されている箸墓古墳は前方後円墳である。この古墳を宮内庁は「大市墓(おいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲(やまとととひものそ)姫命(『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそひめ)」)の墓に治定している。この古墳の名前は『日本書紀』にある次のような記述に由来している。
「倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となりました。しかし、この神はいつもに昼に姿を見せず夜ばかり訪ねてきませんでした。そこで姫は神に「あなたは夜にしか来られないので、はっきりとそのお顔を見ることができません。もうしばらくここにお留まりになってください。明るくなってからその麗しきお姿を拝見したいのです」とお願いした。神は「もっともな話である。私は朝方あなたの櫛笥の中に入っていましょう。私の姿に驚かないでください」と答えた。姫は心の内で少し不思議に思ったが、朝になるのを待って櫛笥を開けてみた。するとそこに長さ太さが表紐ぐらいの美麗な小蛇がいたので、驚いて叫んでしまった。神は恥ずかしく思い、人の形となり「あなたは我慢できず私に辱しめを与えた。私も山に帰ることであなたに屈辱を与えよう」と告げると、空を飛び山へ帰ってしまった。姫は空を仰ぎ、自分の行いを悔いて座り込んでしまった。そして自ら箸を陰に突き立てて自害したのです。そして大市に葬られました。そこで、人々はこの墓を箸墓と呼ぶのです」
これ以外にも『日本書紀』には、箸墓が「日也人作、夜也神作」と記されていることや、倭迹迹日百襲媛命が甥の子である崇神(すじん)天皇(御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと、十代天皇とされるが、実在した可能性のある最初の天皇ともされる) に神意を伝える巫女の役割を果たしていたこと、さらに倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇が群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させたことなどが記述されいいる。これらと『魏志』「東夷伝」に「倭の女王に男弟有り、佐けて国を治む」とあることや、卑弥呼の死後に戦乱が起こったという記述には関連性が考えられる。この古墳の規模は墳長およそ 278mあるが、後円部は径約 150m、前方部は約 130mであり『魏志』の記述よりもさらに大きい。もしこれが倭迹迹日百襲媛命の墓であるとしたならば、崇神天皇陵(墳丘長は 242m という全国 16 位の規模の古墳。天皇陵としては最古の前方後円墳とされている)よりも巨大であることから、天皇以上の権力を持っていたことになる。崇神陵とされる行灯山古墳は最古の大型前方後円墳である箸墓古墳から数える と五番目に築造された大王墳と考えられるため、箸墓の被葬者を卑弥呼ないしはヤマト王権の初代大王と見なすと、崇神天皇は初代でも10代目でもなく5代目の大王だった事になる。
ヤマト勢力が継承してきた前方後円墳も、時代とともに変化している。初期の頃は副葬品として鏡や剣や玉など宗教性の強いものが用いられていたが、中期以降は武器や馬具など軍事力を誇示するものが中心となり、道教的な祀りの要素は希薄になってくる。更に『日本書紀』に最初の仏教信徒として記されている用明天皇陵は方墳となる。用明天皇の同母妹で最初の女帝であった推古天皇は、仏教を庇護した聖徳太子(用明天皇の子)に摂行させたが、厚葬を禁止する勅旨を出し、墳墓も方墳としている。政治・兵法・薬学など各方面の知識をもつ多くの百済系渡来人に冠位を授与するなど、百済文化の影響を強く受けた天智天皇の陵は、上円下方墳という儒教風の「天円地方」を表すものとなっている。最後の古墳とされているのは天武陵である。天武天皇は易を中心とした陰陽思想への傾倒が強かったことから、その陵墓に八卦を取り入れた八角形状にめぐる列石をもつ段築の円墳となっている。天武天皇を継いだ文武天皇は伊勢信仰の確立者として知られているが、その墳墓は八角形ではあるものの平面基形である。『日本書紀』には、仁徳・発黙・武烈・継体各朝において宗廟である古墳に奉仕することは、単なる祖霊崇拝ではなく、諸国の天神地祇の加護を得るために必要な政であったことが記されている。旱魃や火山噴火といった天災の回避や鎮圧、疫病や病気の治癒、火災の鎮火から戦乱の終息まで、あらゆる場面で宗廟に勅使が送られ祈請が行われた。時代とともに宗教性を色濃く反映しながら古墳の形態が変わっていったが、この様な祈祷の場が墳墓から伊勢神宮などの神社に移行していくことになる。道教も姿を変え、鬼神信仰から仏教や儒教が取り入れられた日本独自の陰陽道へと移行していく。
5、神々の体系化
ヤマト勢力に対抗していた出雲神話圏の本拠地は、出雲東部にある出雲氏族の祭神熊野大神(くまのおおおかみ)を祀る熊野神社とされている。出雲氏族はヤマト勢力に編入された後にも出雲を根拠として、南は周防から東は山陰を経て播磨・丹波から北陸・機内へ入り、東海道から北関東にまで広がっていた。この範囲では、方墳と前方後方墳が多くみられるが、これは地神信仰が盛んであった新羅で多く見られる形状である。これは出雲氏族が、百済と友好関係にあったヤマト勢力に対抗するために、新羅との関係を重視していたためと考えられている。ヤマト勢力に従属した後は、従順の意を示すために、熊野大神に代わって須佐之男命の子孫とされる大国主(おおくにぬし)神を出雲大社に祀り主神とした。同じく大国主神を主神とする大神(おおみわ)神社の御神体である三輪山の山頂には、磐座(いわくら)と神杉がある。この神杉に大国主神が降りるとされているが、これは中国で地神を祀る際に、壇を設け木を植えていたことに由来すると思われる。
ヤマト勢力は勢力を拡大するごとに、支配下の各氏族の神々(地神(ちじん)、国神(くにつがみ、国津神)、氏神(うじがみ))をヤマトの神々(天神(あまつがみ、天津神))を中心とした系列の中に取り入れていった。この様な神々の体系化は少しずつ行われていったと思われるが、それを文字化したのが、ほぼ同時期に書かれた『日本書紀』と『古事記』である。ただし、その内容には差異が見られる。
天地開闢として語られる十二柱七代の神「神世七代(かみよななよ)」も『古事記』では天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ、高皇産霊尊(たかこうさんれいのみこと))・神産巣日神(かみむすひのかみ)・宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)・天之常立神(あまのとこたちのかみ)の「別天神(ことあまつかみ)」と、国之常立神(くにのとこたちのかみ)・豊雲野神(とよぐもぬのかみ)の「二独神(ふたひとりがみ)」に加えて宇比地邇神(うひぢにのかみ)・妹の須比智邇神(すひぢにのかみ)から伊邪那岐神・(いさなぎのかみ)妹の伊邪那美神(いさなみのかみ)までの「五夫婦神」であるが、一方の『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)・国狭槌尊(くにのさつちのみこと)・豊斟渟尊(とよくむぬの みこと)の「三独神(みひとりがみ」」に加えて泥土煮尊(ういちにのみこと)・沙土煮尊(すいぢにのみこと)から伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)までの「四夫婦神」としている。充てられている漢字は違っているものの「イザナギ」と「イザナミ」という音は一致しており、いずれもこの夫婦神によって国造りがなされている。ただし『古事記』では天神が夫婦神に国づくりを命じたとしているのに対して『日本書紀』では夫婦神が計らった結果であるとしている。
国神という語が用いられているのは、天照大御神(アマテラス)の命を受けて地上に降臨した邇邇芸命(ニニギノミコト)から求婚を妻となった木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)に対して、邇邇芸命は身籠ったのが国津神の子ではないのではないかと疑った箇所である。木花之佐久夜毘売はこの疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で火照命(ほでりのみこと、火明命)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の三柱の子を産んだ。火遠理命の孫が初代天皇の神武天皇である。木花之佐久夜毘売はイザナギの子である大山津見神(おおやまつみのかみ)の子とされている。大山津見神は、海神の綿津見神(わたつみのかみ)と対の神として山神として呼ばれており、山の民が祀っていた神であると考えられる。
天神が「天上にいる神」という意味であるならば『日本書紀』では日神としての大日霙貴(おおひるめのむち)が最初の神である。「イザナギ」と「イザナミ」がこの神の誕生を喜び、天上を支配させるために天柱によって天上に送り上げたという。次に生まれた月神も同じように天上に送ったが、次いで生まれた素戔嗚尊(すさのおのみこと)は残忍であったため、天上ではなく「根国」に放逐されることになる。しかし、素戔嗚尊は天上界である高天原におもむき日神に暇乞いをしたことで、高天原に留まることを許される。ところが悪行は止まらなかったため、結局、出雲に追放されることになる。『日本書紀』はこの後、天孫降臨神話を展開するが、ここで初めて日神は天照大神と名を変えている。天照大神という名前は天武天皇の時代以降に使われるようになった呼び名である。天照大神の孫である瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)は皇祖とされる高御産巣日神によって葦原中国(あしはたのなかつくに)を治めるように命じられる。しかし邪神(国神)が多くいたので、天照大神の子天穂日命(あまのほひのみこと)を派遣したが、国神の大己貴神(おおあなむちのかみ)に媚びて任務を全うできなかった。次いで天稚彦(あめわかひこ)を遣わしたが大己貴神の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として復命せず、武甕槌神(たけみかづちのかみ、鹿島神宮の祭神)と経津主神(ふつぬしのかみ、香取神宮の祭神)を出雲討伐に向かわせた。大己貴神は、子の事代主神(ことしろぬしのかみ)からの進言により降伏勧告を受け入れ国を譲ることとなる。ここで国神と呼ばれるのは出雲系の神々をはじめとする各地の豪族たちが信仰していた神々を指している。一方で天神はヤマト直系の氏族が祀る神々である。国神は地祇とも呼ばれるが、この場合は土地・海川・巨木・巨石を神格化したものを含む。
天神を代表する神が天照大神と八幡神である。天照大神の本来の名は日神であるが「卑弥呼」が「日御子」の意味であれば、ヤマトでは最初期の頃から「日」が信仰されていたことになる。日神奉納のための官司(かんし)としては、敏達6年(527)に日祀部(ひまつりべ)が設置されて以降、日奉造(ひまつりのみやつこ)や日奉部(ひまつりべ)など日を祀るための官司が宮廷内に作られている。この神の象徴が八咫鏡(やたのかがみ、咫は婦人の手の長さで約 18.5 cm。8 咫は約 148cm)である。この鏡は「日矛」とも言われる。日本に帰化した新羅の王子「天之日矛」が日鏡を献上したと言われていることから関係があるとも考えられる。ただし、幾度となく火災にあっていることから、現在伝わっている八咫鏡は別のものとされている。三輪山は元々、現在三輪山の西麓にある神坐日向(みわにますひむかい)神社が頂上に祀られていた日神信仰の山であったとされるが、日神はここから丹波など各地を転々とした後、ヤマトから日の昇る方角に当たる地である伊勢神宮に落ち着くこととなった。
一方の八幡神は、全国にある 85,000 の神社の中で、最多の 44,000 もの神社で祀られている神で、大分の宇佐神宮が総本社である。祭神として応神天皇を祀っている。『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、八幡神は天照皇大神に次ぐ皇室の守護神として、朝廷も宇佐神宮と石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬してきた。ただし八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』や『日本書紀』には見られない。「八」は「多くの数」を意味し「幡」とは神の依り代として用いられた「旗」を意味することから「沢山の旗」を用いた神事を行っていたと思われる。神功皇后が三韓征伐(新羅出征)のため対馬に寄った際に祭壇に八つの旗を祀ったという伝説や、応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる伝説とも関係があると思われる。本来、宇佐氏の氏神を祀っていた宇佐神宮が、なぜヤマト勢力にとって重要な場所となっていったのかは様々な推測がされているものの、まだ定説には至っていない。また、宇佐神宮は、仏教伝来後、いち早く神仏習合した神社でもある。東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749)、宇佐神宮の禰宜である尼僧が上京し、八幡神が大仏建造に協力しようと託宣した、という記録あることからも、早くから仏教と習合していたことがわかる。宝亀8年(777) には八幡神が「出家」し仏弟子となり、天応元年(781) には朝廷から宇佐神宮に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈られている。これにより全国の寺が鎮守神として八幡神を勧請したことで、八幡神は全国に広まる。後の本地垂迹において、阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされたが、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている。
また、『日本書紀』と『古事記』の中で、大神神社と並んで重要視されているのが宗像(むなかた)大社である。この神社の祭神は奥津島比売命(おきつしまひめのみこと、多紀理毘売命(たきりひめのみこと)、田心姫(たごりひめ)、田霧姫(たぎりひめ))、市寸島比売命(いつきしまひめのみこと、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、市杵島姫(いつきしまひめ))、田岐都比売命(たぎつひめのみこと、湍津姫(たぎつひめ))の三女神で、それぞれ奥津宮(沖ノ島)、中津宮(大島)、辺津宮(宗像市田島)に筑前国の古族である胸形君(宗像氏、宗形氏)が祭ることになっている。この三女神は「根国」に追放されそうになった須佐之男命が天照大神にいとまごいをして許された時、誓いのしるしとして須佐之男命が差し出した剣を天照大神が噛み、その時吹いた狭霧から生まれたとされている。特に沖ノ島は4世紀後半から10世紀初頭まで継続的に祭祀が行われていたことが確認されており、鏡や鉄剣、勾玉など多くの奉献品や祭器が出土している。大陸とヤマトを結ぶ海の道の道標の神ともされていたことから、ヤマト勢力にとって大陸の文化を伝える中継地として重要な場所であったと推測されている。
6、儒教とは
「儒(じゅ)」とは、元来、冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団を指す言葉であった。東洋学者の白川静氏は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交信する「巫祝(ふしゅく)」を「儒」の母体と考えている。現在日本で行われている儒教由来の儀式は、送り火迎え火などの「お盆」や仏壇に置かれる「位牌」などがあるが、いずれもシャーマニズム的なものである。「儒」のシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して教義化することで、身分制秩序崩壊によって混乱していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とされる。孔子(孔丘、BC551-BC479)は春秋時代の魯国に生まれた。実力主義により身分制秩序が解体されつつあることを憂い、周王朝初期への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられたが、これに『詩』『書』『礼(らい)』『楽(がく)』『易(えき)』『春秋』を合わせた「六経(りくけい)」が儒家の経典とされている。その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏(さし)伝』『春秋公羊(くよう)伝』『春秋穀梁(こくりょう)伝』といった注釈書や論文集である「伝」も整理された。
3000 人いたとされる孔子の弟子たちは、孔子の死後八派に分かれた。その中で孟子(孟軻)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加えて義を説いた。義とは事物に適切であることである。これに対して荀子(荀況)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。荀子の思想は、徳ではなく法によって国を治める法家(ほうか) 思想として、秦の韓非子や李斯に継承された。この思想により、秦の始皇帝は中国を統一すると伝統的氏族社会を解体し徹底した法治制度を敷き、法家思想以外の思想活動を禁止して、特に他流の儒教経典はことごとく焼き払わせた(焚書坑儒)。秦の滅亡後、分裂した中国を再び統一して漢を建国した劉邦は、秦が行った極端な政策により生じた混乱を鎮めるために、民衆が受け入れやすい道教を採用した。その中で、秦の統治下にありながら法家思想以外の儒経経典を密かに保管していた儒者たちも登用されることになる。漢の武帝は、匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じたが、これに伴い無為を尊ぶ道教に代わって儒者を重用するようにる。儒学を正統の学問として五経博士を設置したことにより、儒家の経書が国家の公認のもとに教授されることになり、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が重臣の地位を独占した。これ以降、儒教は一般教養として定着することになる。
7、儒教の伝来
『古事記』によれば、応神天皇が渡来人である和邇吉師(わにきし、王仁 (わに))から『論語』と「千字文」すなわち儒教と漢字を伝えられたとある。つまり儒教は漢字と同時に伝来したことになる。ただし、実質的な儒教の伝来時期は『日本書紀』に百済の王朝が五経博士である段楊爾を遣わしたという記述のある継体7年(513)である。百済はこの後も定期的に「五経博士」を大和国に送ってきている。『日本書紀』では、百済から欽明 15年(554)に「五経博士」と共に僧曇慧等を送ったとされているのが仏教伝来とされている。この時は他に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人なども送られてきている。このように、儒教は孝養文化の一つとして、王朝から王朝へと伝えられた。実際、7世紀以降の日本で学問の養成機関として大学寮と陰陽寮、典薬寮(てんやくりょう)が設けられているが、その中でも最も重視されていたのが儒教を学ぶ大学寮であり、中国同様日本でも儒教は官僚養成の中心となっていった。大化改新の指導理念も儒教であり、律令国家の基本理念であった。「五経」は一般教養として明治時代になるまで広く学ばれており、儒教を宗教としてとらえることはほとんどなかった。
8、道教の影響
儒教や陰陽道、仏教が伝わった後にも、道教が無くなったわけではない。50 巻からなる平安時代の法令集『延喜式』には道教の神々や道教式の儀礼も記載されている。宮中で6月と12月に行われる大祓の時に唱えられる呪や正月元旦の朝に行われる神事である四方拝の儀は道教の神々を拝する儀式を継承しているものである。道教を取り入れた神祇は宮中だけではなく、民衆の中にも広まっていた。漢神の祟りを鎮めるために牛を生贄にすることが各地で行われたため、これを禁止する太政官符が出ている(『続日本記』)が、これは道教に由来する儀式である。また「天の羽衣伝説」や「浦島太郎伝説」のように神仙思想由来の仙女や不老不死を伝える民話や、道教の庚申塚も全国に多く残っている。様々な思想が互いに排斥することなく多重的に重なり合うことにより、日本独特の宗教観がはぐくまれてきたのである。
庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜、人が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるために眠らないで勤行をしたり宴会をしたりする風習である。庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では青面金剛、神道では猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神(さえのかみ)として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。
