2025年1月~5月聖覚寺仏教入門講座
日本仏教史改3 - 仏教伝来から飛鳥仏教・白鳳仏教まで -
1、渡来人(帰化人)
渡来人(とらいじん)とは、古墳時代中期末から飛鳥時代にかけて、朝鮮半島から来日してきた人々を指す歴史用語です。
古墳時代中期までは、手でこねて成型し野焼きする弥生式土器と同じ製法のオレンジ色をした土師器(はじき)が広く用いられていました。中期末頃になると、渡来人が伝えた、ろくろで成形し窖窯(あながま)で焼く陶質の韓式土器を応用し、酸素を供給しない還元焔(かんげんえん)焼成により、青灰色となる須恵器(すえき)が日本各地で作られるようになります。朝廷は須恵器を作る職人やこれを支える人たちに、陶部(すえべ)という姓(かばね)を与えていま
土師器
須恵器
1、戦前は帰化人と言われたが、これも明治期に作られた歴史用語である。
2、平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていた。「すえ」とは朝鮮語で鉄のこと。」(とうき)との混乱を避けるために、考古学用語として須恵器という当て字がされている。
とは、一族に与えられた地位を表す名前。有力豪族とその同族には臣(おみ。継体天皇以前の天皇から分かれ出たともされる有力氏族。中でも有力な氏族は大臣(おおおみ)という)・連(むらじ。臣と並ぶ有力氏族で、神代の神々の後裔(こうえい)とされている。中でも有力な氏族は大連(おおむらじ)という)・公(きみ。応神天皇あるいは継体天皇以降の皇族の後裔を称する皇親氏族)・君(きみ。中小豪族。330あまりの氏族に与えられた)という姓が、王家から独立して祭祀を行うことが許された地公豪族には値(あたい)、朝廷の様々な職務を請け負う中小豪族には造(みやつこ)・首(おびと)・史(ふひと)・画師(えし)・薬師(くすし)・書士(きし。渡来系氏族が多い)・勝(すぐり、大和政権の地方官の称号であったものが、世襲されていくうちに姓や氏に転じた)・村主(すぐり。族長を意味する古代朝鮮語由来し、漢人(あやひと)集団の統率者の敬称ともいわれる)などの姓が与えられた。土師器を作る職人には土師
す。『日本書紀』の雄略期(資料1に天皇系図)に、織物と縫物に長じた娘や韓人(かんじん)の技術者(韓奴(からのやっこ))、中国風の技術を身に着けた職人(漢手人部(あやのてひとべ)、衣服づくりの職人(衣縫部(きぬぬいべ))、家畜を扱う職人(宍人部(しし ひとべ))を朝鮮半島から連れてきたという記述があります。これらの渡来人は、日本からの要請により招かれた移住者であり、日本からは軍事援助を行っています。
平安時代初期に、朝廷が当時の畿内の主要豪族の系譜をまとめた『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、かなりの数の豪族が陶部などの渡来系姓を名乗っています。これは渡来人から技術を学んだ日本人の一族が、技を継承する者として渡来人の姓を名乗っていたと考えています。
要請によって招かれた渡来人以外に、大規模な集団で来日したという記録もあります。その一つが漢の皇祖である劉邦の子孫を名乗る漢(あや)氏です。ただし「漢」を「あや」と読んでいることから、朝鮮半島南部の伽耶(かや)にあった「安羅(安耶)」という小国が、一族ごと移住してきたとも考えられています。『日本書紀』には、応神期に漢氏の祖となる阿知使主(あちの おみ)と都加使主(つかの おみ)親子が一族十七県(あがた)を率いて来日したと記されています。県とは、当時の地域を表す単位ですので人数はわかりませんが、十七もの地域の一族を率いてきたとなれば1万人は下らないことになります。これが誇張された数であるとしても、一族を率いてきたとなれば少なくとも数百人規模ではあったと考えられます。漢氏は大和の東(やまとの)漢氏と河内の西(かわちの)漢氏に分かれて移住しましたが、次第に東漢氏が有力となり西漢氏を束ねることになります。『日本書紀』の雄略期に、部(はじべ)という姓が与えられている。
4 『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。『古事記』では大長谷若建命、大長谷王。有力豪族による連合体であった倭国を、武力により天皇を中心とする中央集権体制にしたとされる。
漢氏が値(あたい)の姓(かばね)を与えられたと記述があることから、実際に漢氏が日本に来たのはこの頃と考えられています。値姓を賜った都加使主は東漢値掬(やまとの あやの あたい つか)という名になり、明日香村の南にある檜前(ひのくま、檜隈)を領地として与えられています。都加使主は大臣(おおおみ)に次ぐ位である大連(おおむらじ)であった大伴連室屋(おおともの むらじ むろや)と共に雄略天皇の遺言を授かり、星川皇子を討ち白髪(しらかの)皇子(清寧天皇)を次期天皇に擁立しています。『新撰姓氏録』には東漢氏の一族とされる豪族が 60 以上見られることからも、畿内を中心に大きな勢力を持っていたことが分かています。
東漢氏と並ぶ渡来系豪族に秦(はた)氏がありまます。『日本書紀』には応神期に始皇帝の子孫である弓月君(ゆづきの きみ)が 180 種の下級貴族と 120 県の一族を引き連れて渡来したと記されていますが、実際には東漢氏と同じく雄略期に渡来したと考えられます。秦氏は養蚕や絹布を織る技術を伝えたことから「はた織り」の語源ともなっています。山背盆地(後の京都)に居住地を与えられましたが、その農業技術を請われて、近江・摂津・大和・河内・和泉から、さらに日本全国へと広がっていきました。秦氏には禹豆麻佐(うずまさ、太秦)という姓を与えられていますが、本家だけが太秦を名乗り各地の秦一族を統括していました。桂川に葛野大堰(かどの おおいぜき)を築くことで(大井川、大堰川)広大な農地を手に入れた太秦氏は、経済力と軍事力を持つようになります。秦造河勝(はた みやつこかわかつ)が指導者となると、聖徳太子の軍政人として物部守屋との戦に加わり、聖徳太子の矢に倒れた守屋の首を斬ったとされています。聖徳太子の側近となった河勝は聖徳太子から仏像を賜り、太子没後にその仏像を安置した広隆寺を北野白梅町に建立しています。秦氏は
5、「うずまさ」とは「貴く勝るもの」という意味の古語。
太秦にあった木嶋坐天照御魂(このしまにます あまてる)神社を「蚕ノ社」とし、日尾にあった松尾(まつおの) 神社を西山の麓に移して共に氏神としています。秦一族は伏見稲荷大社や加茂神社とも深い関わりを持つなど、山背盆地を勢力下に置いていたことから、後に長岡京と平安京遷都に尽力することになります。
これ以外にも6世紀中頃に家族で移住してきた王辰爾(おうしんに)一族からは、入港する船からの租税を管理する船史(ふねのふひと)や、港を管理する津史(つの ふひと)、王家の所領を管理する白猪史(しらいの ふひと)等の姓が生まれています。飛鳥寺の飛鳥大仏(丈六(275cm)の金銅仏)を作った仏師鞍作鳥(くらつくりのとり)も渡来系の鞍作氏です。
天智期に百済が滅亡すると、数千人の百済人が戦火を逃れて来日し、近江や東国に土地が与えられています。その数年後には高句麗が滅亡し、やはり数千人が来日しており、東国に土地が与えられました。しかしこの頃は、日本から多くの留学生が派遣されていたこともあり、彼らが朝廷から重用さることはありませんでした。このため、白鳳期以後の渡来者を渡来人とは呼ばれていません。
2、仏教伝来
東漢氏や秦氏などの渡来人と手を組み勢力を伸ばしたのが蘇我氏でした。蘇我氏は、5世紀から 6 世紀にかけて、王族、物部一族、春日一族と共に奈良盆地を支配していた葛城一族の傍流でしたが、葛城円大臣(かつらぎ つぶらの おおきみ。? - 456)が雄略天皇に討たれたことにより「本家が弱体化すると勢力を拡大し、継体期には蘇我を名乗るようになります。欽明期には、蘇我氏は大臣となり大連の物部氏と政権を2分するまでになりました。蘇我稲目(そがの いなめ)は堅塩媛(きたし ひめ)と子姉君(おあねの きみ)の娘二人を欽明天皇の后(みめ、庶妻)とし、天皇との関係をさらに強化させました。。
6、天照大神の元となったとされる対馬系の神といわれる太陽神アマテルを祀っていた社。この神は男神である。
7、安康天皇3年(456)、眉輪王が安康天皇を殺したとき、眉輪王と共謀した疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいの くろひこのみこ)を屋敷に匿ったことで雄略天皇に屋敷を包囲され焼き殺されている(『日本書紀』)。奈良県御所市にある 5世紀前半の豪族居館遺跡である極楽寺ヒビキ遺蹟では、焼けた建物や塀が確認されており、円大臣の館跡であると思われている。
8、堅塩媛の子である用明天皇と子姉君の子である穴穂部皇女の間に生まれたのが聖徳太子。
この頃、新羅が朝廷と親しかった金官伽耶国(きんかん かやこく)を併合したため、新羅と対立していた百済の聖明王は、朝廷との関係強化を図り釈迦仏像と仏典などを贈ってきています。この時期を『日本書紀』は 552 年としていますが『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』や『上宮聖徳法王帝說』などでは538年としています。。物部大連尾輿(もののべの おおむらじ おこし)と中臣勝海連鎌子(なかとみの かつみの むらじかまこ)が贈られてきた仏像を宮中に安置することに反対したため、欽明天皇は蘇我大臣稲目(そがの おおおみ いなめ)にこれを下付しました。これは仏教に対する反発というだけではなく、物部氏が朝鮮半島の女性との間にできた子供を外交に当たらせるなどして、勢力を拡大させていたことに危機感を持っていたことが最大の要因であると思われます。
『日本書紀』によると、朝廷は 553年と554 年に百済に武器や兵員を援助していますが10、その見返りとして医博士・易博士・暦博士らと共に仏教僧も送られてきています。これは欽明天皇からの要請であると思われますが、重臣の意見が一致していなかったことから、まだ仏教を公とすることはできませんでした。
敏達(びだつ)期の 557年には、百済から大別王(おおわけの おおきみ) "が教典・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工を伴って来日し、難波に大別王の寺が作られています。渡来人たちによって、すでに仏像などが持ち込まれ、それを安置す
9、『日本書紀』の聖明王上表文には『金光明最勝王経』から一部を言い換え3か所の引用があるが、この経典の漢訳は 703年であることが指摘されている。
10、『日本書紀』の応神期に、百済からつがいの馬2頭とその飼育係である阿直岐(あちき)が贈られたとあり、これ以降馬の飼育が盛んに行われていたらしく、兵員以外に馬百頭なども送っている。
11、敏達天皇が、小黒吉士(おぐろの きし)とともに、宰(みこともち)として百済国に派遣していた。
る仏殿があったと思われますが、記録上ではこれが日本最初の寺となります。12蘇我稲目は、これらの職人たちを使って百済から贈られてきた仏像を向原(むくはら)の家に安置します。これが日本人のための最初の寺とされる向原寺13です。これは蘇我稲目の私的な寺ではあるものの、天皇の許可は得ていました。この後、渡来人によってもたらされた痘瘡(とうそう)が日本中に広がります。物部大連尾輿と中臣連鎌子はこの仏像の祟りであるとして、仏像を破棄することを天皇に求めました。天皇はこれを受け入れ仏像を難波の堀江に流し捨てたとされ、向原寺も物部尾輿と中臣鎌子により焼かれてしまいました。
稲目の跡を継いだ馬子は自宅の東に私的に仏殿を建てていましたが痘瘡になってしまいます。稲目が敏達天皇に、祀っていた「仏神」を粗末にした祟りであるとの占いを告げたところ、天皇は馬子に「仏神」を祀るように命じます。これにより、再び仏像を祀ることが天皇公認となりました。馬子は千人の僧尼を得度させ、仏像を安置する仏殿と仏塔を建てました。ところが馬子の病は癒えたものの、再び痘瘡が流行してしまいます。物部弓削守屋(もののげの ゆげの もりや)と中臣勝海は天皇に、仏法を招いた祟りにより国民が皆死んでしまうと訴えたため、再び仏法を断つように勅命が下りてしまいます。そこで守屋は仏塔を倒し仏像と仏殿を焼き払い、仏像を再び難波の堀江に棄て、尼僧たちの法衣を奪い還俗させ監禁してしまいました。すると馬子の痘瘡が再び悪化したため、天皇に仏法を祀る許しを請いました。そこで天皇は他の者に広めないことを条件にして許可し、尼僧たちも馬子のもとへ帰したため、馬子は河内国石川の別邸に寺(後の龍泉寺)を建てています。
敏達天皇の後を継いだ用明天皇は自らの痘瘡を治すため、仏法に帰依したいと群臣に諮っています。これに守屋と勝海は反対しましたが審議は保留となり、この7日後に用明天皇は没することになります。物部守屋は親交のあった穴穂部皇子を次の天皇にしようとしましたが、これに反対する蘇我馬子は王族や葛城一族、大伴氏を味方に付けて物部守屋を討ち滅ぼしてしまいました。
12 さらに崇峻(すしゅん)期の 588年には、3人の僧と共に仏舎利・寺工・鑪盤(ろばん)博士・瓦博士・画工などが来日している。
13、礎石は今も残っている。7世紀には推古天皇の豊浦宮となり、その後日本最古の尼寺である豊浦寺となる。現在は本願寺派寺院。
3、飛鳥仏教
聖徳太子(574-622)の父である用明(ようめい)天皇¹⁴が疱瘡(ほうそう)15で死去した後、跡を継いだ崇峻16(すしゅん)天皇は東漢値駒(やまとの あやの あたい こま。? - 592年)に暗殺されます。「適齢期の男子皇族がいなかったことで、用明天皇の兄敏達(びだつ)天皇18の妻であった推古(すいこ)天皇が即位しました。推古天皇は即位の翌年「皇太子及び大臣(おおおみ)に詔(しょう)して、三宝(さんぽう)20を興し隆えしむ。是の時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競ひて仏舎を造る。即ち是を寺と謂う」という「三宝興隆」の詔を発し、仏教に全面的な認可を与えます。これ以降、天皇が仏教に帰依することに問題はなくなります。
推古32年(624)時点で、全国に寺院 46 か所、男の僧侶16人、尼僧が 569 人いたという記録がありますが、この頃はまだ朝廷の権威が確立していませんでしたから、詔が発せられる以前から全国の豪族が仏教を受け入れていた事がわかります。
『日本書紀』に、各寺で4月8日と7月15日に「設斎(おがみ)」という法要が行われていたとありますが、これは灌仏会(かんぶつえ)と盂蘭盆会(うらぼんえ)14、橘豊日天皇(たちばなの とよひの すめらみこと)。? - 587
15、痘瘡(とうそう)、天然痘ともいう。
16、長谷部若雀天皇(はつせべの わかささぎの すめらみこと)。553? -592
17、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇。実質的権力者であった蘇我馬子(551? - 626)を疎ましく思った崇峻天皇が反旗を翻そうとしたため、馬子が東漢直駒に暗殺させたとされている。東漢直駒も馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪って自らの妻とするが蘇我馬子により処刑された。
18、沼名倉太珠敷命(ぬなくらの ふとたましきの みこと)。538? -585?
19、豊御食炊屋比売命(とよみけかしき やひめの みこと)。554-628
20、仏と仏の説く法、それを聞く集まりである僧伽(そうぎゃ、さんが)のことで「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる。この三つがそろって初めて仏教が成立するとされている。
の事ですから、すでに寺が祖霊追善の場となっていたことになります。
推古天皇の甥である聖徳太子21は、執政として飛鳥22から斑鳩23に遷都すると斑鳩
21、上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやの うまやとの とよとみみの みこと)。593 - 622
22、現在の奈良県高市郡明日香村
23、現在の奈良県生駒郡斑鳩町
宮を創りましたが、これに隣接して斑鳩寺(法隆寺)を造営しています。当時の伽藍は焼失しており、現存の西院伽藍は7世紀末頃に再建されたものです。また「夢殿」を中心とする東院伽藍は斑鳩宮旧地に建てられたものです。聖徳太子は、推古11年(603)に冠位十二階24、翌年には十七条憲法(資料)を施行したとされています。
初の女性天皇とされている推古天皇は、聖徳太子に勝鬘夫人(しょうまん ぶにん)という在家の女性が釈迦の代わりに説法している大乗仏教経典『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の講義をさせています。聖徳太子は『法華経』と『維摩経』の講義もしたとされ、現在、その講義録として『法華経義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』(「三経義疏」)が伝えられていますが、直筆とされているのは『法華経義疏』のみです。これらが本当に聖徳太子の講義録であるかを実証することはできません。ただし『日本書紀』25に聖徳太子の『勝鬘経』と『法華経』の講義に対して、推古天皇が播磨国の水田百町を布施し、これを斑鳩寺に納めたという記録があること。『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るき しざいちょ う)』26に、この土地を斑鳩寺(伊河留我本寺)・中宮尼寺・片岡僧寺の三寺に分納したとありますが、ここでは水田が二百七十三町に加増されています。中宮尼寺と片岡僧寺はこの時代にはまだなかったことから、聖徳太子が死亡した後に、皇極天皇27
24、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智
25、奈良時代に成立した日本の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720)に完成したとされている。日本に伝存する最古の正史で、神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。
26、天平19年(747)、法隆寺が提出した縁起資財帳。聖徳太子研究、あるいは奈良時代における法隆寺の規模・経済、寺領の分布などを知るうえで貴重な史料。原本は現存しない。最古の写本は、河内国観心寺蓮蔵院蔵本を寛政7年(1795)に転写・寄進した法隆寺所蔵折本のもの。
27、天豐財重日足姬天皇(あめとよたから いかしひたらし ひめの すめらみこと)。594-661。大化の改新の翌日、の6月14日、同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲ったが、これは日本史上初の天皇の譲位(退位)とされている。孝徳天皇の崩御後再び皇位に即き斉明天皇となっている。これも日本史上初の重祚。
によりさらなる援助が施され、これを三カ寺に分けたと考えられています。実際に兵庫県龍野市に法隆寺鵤荘が存在し、その西側に「片岡」の地名が集中していることなどから、聖徳太子が経典の講義をしたことは実話である可能性は高いとされています。
斑鳩寺以外にも聖徳太子が建てたとされる寺院は数多くありますが、中でも信憑性が高いのが四天王寺です。『日本書紀』によれば「物部氏との戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てる」との聖徳太子の誓願成就によって、摂津国難波に四天王寺が建てられたとされています。四天王寺には、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つ(四箇院) 28が設置されており、親鸞聖人はこれを利他教化のための理想的な寺として称賛しています。現在四天王寺に聖徳太子の佩刀(はいとう)29とされる七星剣と丙子椒林剣(へいししょうりんけん)が保管されている他、本尊の救世観音は聖徳太子の念持仏であった如意輪観音であると伝えられています。現在、この2か寺以外に太子建立七大寺に数えられているのは、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(いけじりでら、法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)である。また、叡福寺、野中寺(やちゅうじ)、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)は聖徳太子ゆかりの寺として「河內三太子」と総称されています。
28、敬田院は寺院、施薬院と療病院は薬局・病院、悲田院は病者や身寄りのない人のための施設。
29、身分の象徴や自己防衛の手段として、儀式的な装飾として携帯した刀。
『日本書紀』で聖徳太子は、皇后穴穂部間人を母とする第一皇子として「厩戸皇子」の名で記された後「豊耳聡(とよみみと)」「聖徳」「豊聡耳(とよとみみ)」「法大王」「法主王」が別名として書かれています。後世になって「厩戸王子(うまやとの おおきみ)」「法皇(のりの おおきみ)」「聖徳太子」と呼ばれるようになります。
『日本書紀』の中で、聖徳太子はすでに神話的な人物として書かれています。中でも良く知られているのが、聖徳太子の師である高麗僧慧慈との話です。慧慈は三論(さんろん)や成実(じょうじつ)といった仏教学の学僧として、推古3年(595)に百済僧慧聡と共に高句麗から来訪した「三宝の棟梁」と称された高僧で、法興寺(飛鳥寺、蘇我氏の氏寺)に入寺しています。推古 23年(615) に帰朝しましたが、推古 30 年(622)に聖徳太子が死去したことを伝え聞くと、翌年の同日に自分も後を追って死ぬと予言し、事実その通りに病死したというものです。聖徳太子の死去した日時は『日本書紀』より先に書かれている『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』では2月22日となっていまが『日本書紀』では2月5日になっています。理由は定かではありませんが、慧慈の命日か玄奘三蔵の命日に合わせたとも考えられています。他に、厩戸で生まれたので厩戸皇子とした、一度に10人の訴えを聞くことができたなど、真偽の定かでない話が多く記されています。
推古天皇が 75 歳と長寿だったのに対して聖徳太子が 49 歳で亡くなったために、聖徳太子が天皇になることはありませんでした。聖徳太子が小野妹子を主席として送った遣隋使が「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と語ったとされていますが、実際に数十人にも及ぶ国費留学僧を送っていることから、仏教に関心が高かったことは確かです。
入唐僧が続々と帰朝してきました。舒明4年(632)に帰朝した旻は、大流星の音を天狗と判ずるなどして、その新しい知識を示しています。
4、白鳳仏教
皇極4年(645年)、乙巳(いっし)の変32により蘇我氏が滅ぼされた後、中大兄皇子33は叔父である孝徳天皇を補佐して大化の改新を行っています。この時、蘇我氏の寺である飛鳥寺に使いを遣わして、この後も仏教を正教として尊び興隆に勤めることを伝えています。また、仏像や四天王像などを寄進し、両親の遺志を継いで百済大寺を完成させました。その規模は飛鳥寺を遙かに凌ぎ、九重の塔の高さは法隆寺五重塔の二倍、現代の 25 階ビルにも相当し、当時の東アジアでも超一級の寺院であったといいます。更に、斉明天皇の川原宮跡に川原寺34を建立した他、近江の崇福寺(志
32、皇極4年(645、乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
33、「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する。後の天智天皇。626-672
34、飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村川原)にあった仏教寺院。飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を
賀山寺)や筑紫の観世音寺・筑紫尼寺なども建立しています。天智天皇に即位すると、白雉 19 年(668)に日本初の律令法である近江令が出していますが、これは中国にまねて律令制を布くために出した法令を総称したものであり、体系的なものではなかったと思われます。
蘇我一族で蘇我入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変に加担した功績で新政権では右大臣に任ぜられました。しかし、大化5年(649)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向が石川麻呂に謀反の志があると密告したことにより、石川麻呂は一族とともに自害しています。この石川麻呂が建造し、自害後に完成したのが山田寺です。その後、天智天皇と天武天皇35により未建立であった塔の建設工事が進められ、天武14年(685)には丈六仏像が開眼されました36。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったと思われます。
壬申の乱によって即位した天武天皇は、川原寺で一切経を書写させると、諸国に放生(ほうじょう)37を詔し、宮中で安居(あんご)38を開くなど、次々とこれまでに行われていなかった仏事を行っています。更に小紫(しょうし) 39美濃王と小錦下(しょうきんげ)紀臣訶多麻呂(きのおみのかたまろ)を高市大寺(たけちだいじ)40の造寺司(ぞうじし)41に任
平城京へ移したが、川原寺は飛鳥の地にとどまり、中世以降衰微し廃寺となった。跡地は国の史跡に指定されている。
35、天智天皇の同母弟。大海人皇子(おおあまみこ)。天智天皇の死去後、672年に壬申の乱で天智天皇の太子大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。?-686
36、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。
37、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式。インドに起源をもつ行事で、中国や日本にも伝えられた。
38、僧侶が一定期間、1か所に集まって集団で修行すること、およびその期間。
39、七色十三階冠。以前の冠位十二階制を改め、大化3年(647年)に制定された日本の冠位。上位より大織・小織・大繍・小繍・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武。
40、現在まだその所在ははっきりしていません。
41、奈良時代に官寺あるいはこれに淮じた寺院を造営するために設置された令外官のこと。
命しています。この寺は「今の大官大寺、是なり」と注釈がなされていることから、百済大寺を引き継いだ寺であることが分かります。また諸国の豪族に対して、仏舎利塔42を造り仏像と『金光明経』と『仁王経』を安置し、公式行事として礼拝供養を義務付けました43。国民に対しても「諸悪莫作(しょあくまくさ) 44」を詔し、六斎日(ろくさいにち) 45を決めて殺生を禁止し、牛馬犬猿鶏などの肉を食べることも禁じました。皇后の病気治癒のために薬師寺を造営し、自身や皇女が病気になると多くの僧侶に祈祷の誦経をさせていますから、寺は祈祷所であり僧侶は呪術者であったことがわかります。これらの僧侶は国費によって賄われているため、一般の人たちを教化することは禁じられていました。
天武 10年(681 年)には、日本史上初となる体系的な律令法である飛鳥浄御原令(あすか きよみはら りょう)が発令されています。しかし、律令が完成する前の686年に天皇が死去したことから、諸官司に頒布されたのは持統3年(689年)でした。この法律により、天皇号の制定や、戸籍を6年に1回作成すること、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など律令制の骨格が制度化されています。
持統天皇46は天武天皇の意思を引き継いで薬師寺の造営を進め、持統 11 年に薬師三尊像の開眼法要を行っています。持統天皇はこの薬師寺を中心とした、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城となる藤原京に遷宮しています。その三年後に即位した文武天皇48は薬師寺を完成させると、同じ藤原宮内に大官大寺(だい
42、仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるとされる仏塔。
43、この頃各地に立てられた寺としては、播磨の大興寺・出雲の教昊寺・山代の新造院・河内の新造院・尾張の光明寺(葉栗尼寺)・上野の放光寺などが確認されてる。これ以外に寺院名が分からない天武・持続期ごろのものと思われる寺院跡が、播磨に17 か所・近江に 15 か所・尾張実川で7か所・上野で5か所確認されている。
44、仏教の基本的な実践徳目を端的に述べた『七仏通戒偈』の冒頭の句。「もろもろの悪をなすなかれ」と読む。道徳的な意味で悪い行為をしてはならないということ。
45、仏教の思想に基づく斎日のひとつ。1か月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した。
46、高天原廣野姫天皇(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)。天智天皇の娘で天武天皇の皇后。天武天皇の死去後、皇位継承者であった草壁皇子が病気により薨去してしまう。草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)が7歳と幼かったことから、一時的に天皇に即位した。「日本」という国号を定めた可能性が高い天皇でもある。645-703
47、儒教の教典『周礼』に、王城は「一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀り(宗廟)、西に土地の神を祀る(社稷)。前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く。」とあることに基づいて作られた城。
48、倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)。初めて漢風諡号
かんだいじ)を造営しました。文武天皇が 25 歳で早世すると、後を継いだ元明天皇49は平城京に遷り、薬師寺と大官大寺も平城京内に移建されることになります。
を贈られた天皇。当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統上皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていたことから、後の院政形式の始まりとされる。に登場する帝のモデルともされる。683-707
49、阿陪皇女(あへのひめみこ)。天智天皇の娘。藤原京から平城京へ遷都した他『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』の完成、和同開珎の鋳造等を行った。草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母でもある。文武天皇が25歳で死去した際、孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、初めて皇后を経ないで天皇に即位した。661-721
資料2、十七条憲法
一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すく)なし、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直さん。
三に曰わく、詔(みことのり)を承けては必ず謹め。君をば則ち天とし、臣をば則ち地とす。天覆い地載せて四時順行し、万気通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さむのみ。ここをもって、君言えば臣承り、上行なえば下靡く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰わく、群卿百寮、礼をもって本とせよ。それを治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓礼あるときは国家自ら治まる。
五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟、一日に千事あり。一日すらなお爾り、況(いわ)んや歳を累(かさ)ぬるをや。頃、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見てを聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。
六に曰わく、悪を懲し善を勧むるは、古の良き典なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆す利器たり、人民を絶つ鋒剣たり。また佞(かたま)しく媚ぶる者は、上に対しては則ち好んで下の過を説き、下に逢いては則ち上の失を誹謗(そし)る。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。
七に曰わく、人各任有り。掌(つかさど)ること宜しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、者官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念いて聖と作る。事大少となく、人を得て必ず治まり、時に急緩となく、賢に遇いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うきことなし。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。
八に曰わく、群卿百寮、早く朝りて晏(おそ)く退け。公事きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事尽
さず。
九に曰わく、信はこれ義の本なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。
十一に曰わく、功過(こおか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにするべし。
十二に曰わく、国司国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土(そつど)の兆民は、王をもって主となす。任ずる所の官司はみなこれ王の臣なり。何ぞ公とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。
十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得るの日には、和すること曽(かつ)てより識れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。
十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患その極を知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載にしてもってひとりの聖を待つこと難し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。
十五に曰わく、私に背きて公に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾起こるときは則ち制に違(い法を害う。故に、初めの章に云わく、上下和諧せよ。それまたこの情なるか。
十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節なり。民を使うべからず。それ農(とつく)らざれば何をか食わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん。
十七に曰わく、それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理を得ん。
