2020年8月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史5-奈良(寧楽) 仏教2 南都六宗(天平仏教)

1、「」としての仏教

僧網に出された僧網に対する太政官の布告に「五宗」という言葉が出ているが、ここに具体的な「宗」の名は書かれていない。また「宗」という呼び方も、これ以前は「」といわれていた。これは、隋から唐の初頭まで、中国の寺院では高僧を中心として仏教を研究する僧尼の集まりを「」とよび、三論衆や成実など多くの「」が形成されていたことに倣ったためである。日本で「」の文字が最も早く記されているのは天平9年(737)の『興福寺伽藍縁起并流記資材帳』の摂論衆である。これは元興寺の摂大乗論門徒を光明子興福寺に分置させるという文の一部であることから、元興寺にはこれ以前から摂大乗論を学ぶ摂論衆がいたことになる。天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』には修多羅三論衆・律摂論衆・別三論衆の名が『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』には三論衆摂論衆・成実の名が『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』には三論衆・唯識・律・別三論衆の名がある。これらの「」は中国同様に、各寺院内の高僧を中心とした学問機関であった。ここで学ばれていた仏教は「旧約仏教」と呼ばれ、玄奘三蔵(600-664)以降の「新約仏教」と区別されている。聖徳太子法隆寺、蘇我氏の法興寺であった元興寺、大官大寺であった大安寺はいずれも飛鳥時代からの寺であることから、これらの「」は奈良時代以前から存在していたと考えられる。

三論衆

大乗仏教教理の基本は空思想である。この思想を説いた般若経典群は、大乗経典の中でも最も初期に成立している。大乗仏教の祖ともされる龍樹(150-250)の論である『中論』は、この空思想を論じたものである。同じく龍樹の『十二門論』と龍樹の弟子である提婆(170-270)の『百論』を加えた三つの論を研究対象として中国で始まった学問が三論衆である。401年に中国に来朝した鳩摩羅什(350頃―409 頃)が三つの論を漢訳したことにより、中国で大乗仏教思想が本格的に研究されることになった。空にはいくつかの定義があるが、その一つは「いかなる存在もその本性において固定的な性質をもっていない」という「無自性空」である。あたかも固定的な性質をもっているかのように見えるのは、個々の相が他の相との対立依存関係において成立しているにすぎないというものである。これを『中論』では「およそ〈縁起〉したものを〈空〉であるとわれわれは説く。それはまた、縁りて〈仮〉説される存在であり、それはまた〈中道〉である」と説いている。「中道」とは、この世界の事象がすべて「空」であると観ずる「第一義諦」を知らしめるために、縁1、僧尼を管理するためにおかれた僧官の職。奈良時代には薬師寺におかれていた。2、例えば「淨」は「不浄」がなければ存在しえないというものである。

② 別三論衆

大安寺や弘福寺には、三論衆の他に別三論衆が存在した。三論衆は 401 年に中国に来朝した鳩摩羅什の弟子僧導(362-457)の『三論義疏』に始まる。この頃は三論に加えて『大智度論』や『成実論』を学び、さらに『法華経』や『維摩経』も講学の対象としていた。これを「古三論」もしくは「原始三論」という。純粋に三論だけを研究対象とするのは、南北2派に分かれて衰退していた三論衆を統合して再興させた僧朗(5世紀後半)からである。これを継承した嘉祥大師吉蔵(549-623)は、三論各々の注釈書とその趣旨をまとめた『三論玄義』を著し、これ以降、三論そのものよりも吉蔵の著作が研究対象となる。これを「新三論」という。しかし、玄奘三蔵や日照らによって、インドの智光らによって説かれていた新しい空理論である中観派清弁(490-570)の学統がもたらされると、吉蔵の学派は影をひそめ中観派の解釈が主流となる。清弁の主著である『掌珍論』や『般若経論』は奈良時代にはすでに伝来していた。中観思想は華厳宗にも大きな影響を与えていることから、この別三論衆とは清弁系の中観思想であると思われている。

③ 成実

『成実論』はインドの訶梨跋摩(250-350)によって書かれた論で、三論と同じく鳩摩羅什によって漢訳された。これは部派仏教の偏った見解を批判した論である。訶梨跋摩の師である鳩摩羅多は説一切有部もしくはその分派の経量部の僧とされている。訶梨跋摩も師と同じく部派仏教の僧であることから、この論は部派仏教の論ということになる。説一切有部に対する批判としては「有」と「無」はすべて方便の説であり第一義諦の立場からは有も無もない「聖中道」こそが仏教であるとしている。ただし『中論』では一切の存在は「無自性空」であるとしているのに対して『成実論』では「仏は二諦を説きたまう。真諦俗諦とである。真諦とは色等の法と涅3、唯識にも影響を与えた部派仏教の一派。

摂論衆(唯識)

唯識思想の学問である。唯識思想は、インドでの瑜伽行(ヨーガ)という瞑想に基づく修行(禅定)から起こったもので瑜伽行派と呼ばれていた。瞑想の世界では認識の対象はすべて主観によって作り出されるが、日常の認識も本質的にはこれと同じであるという理解から、主観から離れることで煩悩から脱するという思想である。人間の意識を、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根によって認識される六識と、その意識を受け取る自我意識である第七識の末那識、さらにそれを受け取る第八識の阿頼耶識に分けている。阿頼耶識は過去世から現在に至るあらゆる識を蓄積していることから「蔵識」とも、また現在のすべての識を引き起こす原因ともなっていることから「種子識」ともいわれる。また阿頼耶識自体には善悪いずれにも属さないことから「異熟識」ともいう4。唯識思想ではあらゆる存在の本質とそのあり方について三つの性質があるとしている(三性説)。一つは、日常の思考において存在すると考えられるものはすべて妄想によって実在すると執着されたものであるという「遍計所執性」であり、二つは、阿頼耶識によって現在の識が生まれ現在の経験がさらに阿頼耶識に蓄積されるという縁によって繰り返されるという「依他起性」であり、三つは、すべて意識の上でのことでありそれ自体存在していないと悟ることによって得られる真実の世界という「円成実性」である。従来の空理論は無に偏る不完全な「未了義教」であり、唯識思想によって空理論が完全な「了義教」となると主張している。ただし、唯識の理論体系には『倶舎論』などのアビダルマ思想を取り入れているために、中観派からは小乗に近い教えであるとして「権大乗」と指摘されている。中国に伝わった唯識思想は、菩提流支(?-527)によって漢訳された世親の『十地経論』を所依とする地論と、真諦(499-569)によって漢訳された無着の『摂大乗論』を所依とし世親の『摂大乗論釈』を注釈書とする摂論衆によって研究された。真諦はすべての生の中に如来はあるという如来蔵思想の『大乗起信論』も漢訳していることから、摂論衆では阿頼耶識を如来蔵的に解釈するようになる。隋朝末には地論は華厳に吸収されてしまうが、摂論衆は『涅槃経』を所依とする涅槃と並び最も盛行した「」となる。推古朝の頃に遣隋使や新羅僧によって摂論衆が伝えられると、特に元興寺で盛んに研究されるようになる。さらに、玄奘三蔵から直接教えを受けた行基の師である道昭が、帰国後、摂論衆の担い手となった。道昭と共に唐へ渡った僧の中に、藤原鎌足の長男である11歳の定恵がいた。また、蘇我蝦夷が滅ぼされたとき、焼かれた宝物の中から『国記』を取り出し中大兄皇子に奉ったのが道昭の父である船史恵尺であった。このことから、藤原鎌足は五「あったとされる元興4、これらを阿頼耶の三相(自相・因相・果相)という。5、五の内、三論・摂論・成実以外の2はわかっていない。

⑤ 律

崇峻元年(588)に尼善信が百済に赴いて日本人で最初の戒を受けている。その後、天武7年(679)に道光が律を学ぶために入唐し、帰朝後に『四分律抄撰録文』を著している。現在大蔵経に収められている部派仏教の律蔵 71 部のうちの 68 部までが奈良時代にまでに渡来していたが、特に『四分律』に関する研究が盛んに行われた。ただし研究はされるものの、日本で授戒が行われるのは鑑真の来朝まで待たなければならなかった。

⑥ 修多羅

少なくとも大安寺と弘福寺に存在していた修多羅とは何を学んでいた学僧の「」であったのかについて、いまだに明確な回答はない。推測できる資料として、大安寺塔中院への宇佐八幡宮勧請を記した『南都大安寺塔中院縁起』に、八幡像と共に安置されていた一切経を毎日転読しており、それを常修多羅供と呼んでいた、という記録がある。大安寺の修多羅には大修多羅や常修多羅があったことが『日本霊異記』に記されている。これらのことから、常修多羅とは、日夜を通して仏教経典を読誦する学僧のであったと考えられる。一切経を読誦するということは、単に読むというだけではなく、その内容にも精通していることも求められた。大きな法要の際に召集された経典読誦集団に「梵」がある。これは「安居沙門」とも呼ばれる、講師をも努めることが出来る学僧によって編成されていた。後に南都六宗が形成された東大寺では、各宗の指導僧は東大寺大修多羅が勤めている。つまり、大修多羅の中から優れた学僧が各宗の講師となっていたのである。これらのことからも「修多羅」とは経典に精通した読誦ではないかと推測されている。

2、南都六宗(天平仏教)の成立

正倉院文書に収められている『僧智憬章疏本等奉請啓』によると、天平勝宝3年(751)、僧都良弁(689-773)の命により六宗の章疏目録製作が企画され、東大寺の華厳(花厳宗)・律・法性(法相)・倶舎(薩婆多宗)・三論・成実の各宗学頭がこれに応えたと記されていることから、この時点で東大寺内にこの六宗が存在していたことが分かる。各宗にはそれぞれ大学頭・少学頭・維那の三役が置かれ、宗ごとの蔵書も備えていた。これは僧尼に対して仏教教義の研鑽を求めるために設置されたもので、総勢70人弱の僧が宗僧として組み込まれたと思われる。これによって、東大寺は国分寺の統括という役割以外に、六宗兼学の官寺という役割も担うことになる。この翌年、東大寺大仏開眼法要を前に、高さ六尺(約 1.8m)ほどの黒漆塗で、扉には各々の祖師像や菩薩像・護法善神を極彩色で描かれた「六宗厨子」が大仏殿内に安置された。この法要に参加した僧尼が1万人とされていることからすれば、宗僧は僧尼の中でもほんの一握りでしかないが、日本に仏教の教義を学ぶための公式の組織が出来上がったのである。この後、4

華厳宗(花厳宗)

東大寺毘盧遮那仏は『華厳経』によるものであることからも、南都六宗の中心は華厳宗であるといえる。また、六宗の中で華厳宗だけが経典をよりどころとしている「宗」でもある。六宗を学ぶ学僧たちは、法相から始まり、最終的に華厳を学ぶことが求められていた。華厳宗は唐の智儼(602-668)・法蔵(643-712)らによって確立された哲学的な宗派である。これを日本に伝えたのは法蔵から教えを受け、戒師として来日した道璿(702-760)と、新羅で仏教を学んだ審祥(性没不詳)である。東大寺は、この二人を師として華厳を学んだ法相の僧である良弁によって開かれた。三論や法相が一部の生しか救わない「三乗教」であるのに対して『華厳経』の教理は一切生を救う「一乗教」であるこという良弁の主張が聖武天皇によって尊重されことにより、東大寺毘盧遮那仏建立に繋がったのである。法蔵『華厳経』は毘盧遮那仏の三昧の境地を諸々の菩薩が讃嘆している、60巻から80巻にも及ぶ大部の経典である。この境地は、生きとし生けるものすべてが洩れることなく調和し合っていることを知ることである。ビルシャナとは「光明遍照」という意味で、世界を成立させている智慧であり生命である。この世界はすでに完成されており、我々はそこに生かされているのだが、その意味を理解していないだけであるとし、毘盧遮那仏が菩薩であった頃の願行という華で荘厳されたこの世界を「蓮華蔵荘厳世界」と称している。自我にとらわれている想いが破られ、この「蓮華蔵荘厳世界」の中に生かされているという明白な理解と不動の信念を得ることを「信」として、さとりへ至るための最も大切な根元であると説いている。この「信」を得た者が菩薩道を歩むことになる。これを「自利利他円満」を説く大乗仏教の仏道としている。

② 律宗

戒律は本来教義ではない。戒はシーラの語訳で習慣を意味し、律はヴィナヤの語訳で規則の意味である。インドでは仏教教団に所属する人々が守るべき日常生活での規定が戒律である。これは教団発足時から固定されていたものではなく、具体的な問題が起こるたびに順次定められていった(随犯随制)。これらは具体的な文言によって作られており学処 (戒条)といわれる。学処は重要度と対処の度合いで5種類あるいは7種類に分けられている(五篇七聚または篇聚)。これが書かれたものが『波羅提目又経』と呼ばれ、戒経・戒本とも翻訳されている。これらは僧侶によって暗唱されていた。仏教がインド各地に広がることにより、その地域に合わせた戒5

③ 法性(法相)宗

律がつくられるようになっていった。。これが仏教内に部派が生まれる原因の一つである。インドでは戒律は各部派ごとに決められたものであり、戒律だけで成立する部派は存在しない。ところが、中国ではこの戒律がさとりを可能にする根源として考えられ、学問の対象となっていった。生活文化が大きく異なる中国では、インドの戒律自体を理解することが難しかった。そこで法顕(339頃-420頃)は、戒律の謎を解くためにインドまで行くことになる。まず『十誦律』が、続いて『魔訶僧祇律』と『四分律』が中国に伝えられ漢訳された。この中でも特に研究されたのが『四分律』で、四分律宗といわれるようになる。これが後に南山律宗と相部宗、東塔宗の3つに分かれていった。来朝した鑑真は南山律宗と相部宗の流れを汲んでいたため、唐招提寺ではこの二つの宗を学ぶことになる。律宗は戒律を守ることが主な目的となることから、他の宗に比べると特徴的な教義と呼べるものは少ない。戒律は守るべき者によって区分されているが、大きく分けると在家戒と出家戒に別れる。在家戒は男性在家信者である優婆塞が守るべき優婆塞戒と女性在家信者である優婆夷が守るべき優婆夷戒がある。出家戒は沙弥戒・沙弥尼戒・式叉摩那戒7・比丘戒・比丘尼戒(比丘戒・比丘尼戒を合せて具足戒という)の5つがあり、合わせて「七衆戒」という。後になると、声聞・縁覚・菩薩という考え方が生まれ、それぞれ声聞戒・縁覚戒・菩薩戒が定められる。インドで唯識思想は二つの系統に分かれていった。一つはナーランダ寺院で、陳那(480年頃-540年頃)・無性(生没年不詳)・護法(530-561)・法称(生没年不詳)と継承された有相唯識説といわれる、現実世界の説明に重点を置く系統である。すべての事象を論理的に説明するために、アビダルマを用いて緻密な認識論・論理学を展開している。もう一つは、徳慧(生没年不詳)・安慧(470-550頃または 510-570頃)と継承された無相唯識説いわれる、認識対象だけではなく識自体を空ずることを目的とした実践に重点を置く系統である。玄奘三蔵はナーランダ寺院で護法の弟子である戒賢(529-645)に師事し、有相唯識説を学んでいる。そして、世親の『唯識三十頌』を護法等の10人が注釈した『成唯識論』を、帰国後漢訳している。更に玄奘は『成唯識論』の理解に不可欠な『倶舎論』や『成実論』を、統一した訳語で漢訳している。これにより『成唯識論』を所依とし、玄奘三蔵の弟子である慈恩大師窺基(632-682)を祖とする法相宗が中国で生まれることになる。この教えは、慧沼(650-714)、智周(668-723) と相承されたが、これ以降は衰退してしまう。大宝3年(699)に智鳳、智鸞、智雄が入唐して智周のもとで修学し日本に法相宗を伝えている。養老元年(717)には玄昉(691-746)が入唐して同じく智周に学び、玄奘三蔵が翻訳した新約経典を含む一切経とともに帰朝した。玄昉は興福寺の僧であったことから、興福寺では宗学の中心が法相宗となる。元興寺摂論衆興福寺に移したのも玄昉の意向であると思われる。これ以降、多少の盛衰はあるものの、日本では現在に至るまで法相宗は継承され続けている。6、『四分律』『十誦律』『魔訶僧祇律』『五分律』『根本說一切有部律』『パーリ律』などがある。7、尼僧のうち、沙弥尼から比丘尼に至る間、2か年間の修行中の者の戒。

④ 倶舎宗(薩婆多宗)

唯識の大成者である世親(5世紀頃)の『倶舎論』を研究する「宗」である。ただし、この論書は唯識のものではなく、2世紀頃に編集された説一切有部の『大毘婆沙論』を世親が講義したものをまとめたものである。これは偈文だけであったため釈文も求められ、これに応えて作られたのが『阿毘達磨俱舍論』である。ただし、これは経量部の立場から説一切有部を批判的に論じているため、説一切有部の問題点を提起しながらその教義を詳しく論じたものとなっている。法相宗を理解するための学問であることから、倶舎法相宗の附宗として扱われた。すべての現象的な存在は無常であり無我であるが、存在を構成する要素的なものを「法」と呼び、この「法」は実有であるとする。この構成要素は75種あり、物質的存在(色法)・心(心法)・心の付属的はたらき(心所法)・心と相ともなわないもの(心不相応行法)・無制約的なもの(無為法)の5群に分けられる(五位七十五法)。この世界を生物の世界(有情世界)と場所としての世界(器世界)に分け、有情世界を欲界・色界・無色界の三界にさらに分けてこの三界の中を輪廻すると説いている。輪廻の因となる業にも身口意の三業があることを説き、悪業の起因となる煩悩を細かく分類し百八煩悩をとしている。倶舎論部派仏教の教義ではあるが、倶舎宗が亡くなった後も、現在に至るまで仏教の基礎学として引き継がれている。

⑤ 三論宗

三論衆と別三論衆は統合され一つの宗として扱われるようになる。基本的には新しい中観思想である別三論衆の理解である。三論は、大乗仏教の基本思想である空を学ぶための学問として、三論宗が衰退した後も現在まで学ばれ続けている。

⑥ 成実宗

南都六宗の一つとして残ってはいるものの、三論宗の附宗という形であり、専門に学ばれることがほとんどなくなる。

3、護国仏教としての側面

「宗」により仏教を学問として学ぶ体制は整ったが、基本としては疫病退散や国家安寧を祈るための仏教であるという理解は変化していない。仏教的な知見を得ることや厳しい戒律を守ることも、超常的な能力を得るために必要なものとして考えられていた。この能力を得るために、朝廷や豪族は莫大な資金を投入して、寺院を作り、僧尼を中国に留学させていたのである。僧尼も、その期待に応えるために修行や学問をする者がほとんどであり、行基のような僧尼はまだ少なかった。在野の私度僧も超能力宗教者の色合いが濃く、仏教の思想によって人々を救済するという意識の者が現れるのはまだ先である。密教的護国祈祷仏教の僧尼となるために、沙弥や沙弥尼は正式な僧尼になるための前提条件として、山に籠って精神と肉体を鍛えていた。神叡8(生年不詳-737)以降、この様な荒行によって獲得されるとされた「自然智」を求める者は、この後平安仏教になっても変わることなく、仏教の大きな流れとなって続いていく。8、神叡の肖像彫刻は「法相六祖」のうちの一つとして、興福寺国宝館に展示されている。