2020年9月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史6-奈良(寧楽) 仏教3 神道と陰陽道の芽生え -
1、役行者 -呪術者の系統-
役行者1(舒明6年(634年)伝 - 大宝元年(701)伝)は役民2を管掌していた「役」を氏とする一族出身の呪術者で、生誕の地とされる大和国葛城上郡茅原郷には吉祥草寺が建立されている。17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、葛城山で山林修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得したと伝えられることから、日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。自然智宗の祖とされる神叡(生年不詳-737)や、戒師として来日した道璿(702-760)なども同様に山林修行を行ったことにより、多くの修行者が吉野比蘇山寺3などで山林修行をするようになる。僧尼にとって山林修行が重要視されていたことは、法相宗の碩学として知られる護命や徳一が月の半分は山で修行していたことや、宝亀3年(772)に十禅師4に任じられた広達や永興もそれぞれ吉野金峯山と紀州熊野の修行していたことからもわかる。京近辺だけではなく、全国各地の神が宿るとされていた名山大山も、山林修行者によって次々と修行の場となった。
『続日本紀』に、文武3年(699年)「役君小角を伊豆島に流す、初め小角は葛城山に住し、呪術を以て称せらる、外従五位下韓国連広足師となす、後、其の能を害し、讒するに妖惑を以てし、故に遠流に配す」とある。行基が「百姓を妖惑」した罪を問われる20年近く前である。2年後の大宝元年(701年)1月の大赦で茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したとされる。享年68歳であった。山頂には廟が建てられている。
役行者にまつわる多くの話は『日本国現報善悪霊異記』5(810年 - 824年。以後『日本霊異記』)に採録されたものが原型となっている。この中での役行者は、在家仏教者である優婆塞として書かれている。孔雀王の呪法によって仙人となり天を飛ぶことができたという話や、鬼神を呪で従わせ水汲みや薪拾いをさせたという話などがある。伊豆に流罪となった原因は『続日本紀』とは異なり、葛木山と金峯山の間に石橋を架けるために諸国の神々を動員した時、醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかったため折檻された葛木山の神である一言主が、天皇に役行者の謀叛を讒訴したためであると書かれている。流罪になった役行者は、伊豆大島から毎晩海上を歩いて富士山を登っていったとも記されている。また、道昭が中国に向かう途中、新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、虎の中に人がいて日本語で質問してきたので名を尋ねると「役の優婆塞」であると答えたという話も書かれている。
更に室町時代になると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承に金峰山、熊野山の縁起を合わせた『両峰問答秘鈔』『修験指南鈔』や『役行者本記』という小角の伝記がつくられ、これにあわせた絵巻や役行者の彫像や画像も制作されることになる。
役行者 奈良国立博物館
御所市吉祥草寺
1、姓は君。役小角、役優婆塞、役氏、役君、加茂役君、賀茂役君とも呼ばれる。 2、律令制下の租税の一種として、無償労働にかり出された者のこと。 3、神叡が密教修法の虚空蔵求聞持法で自然智を感得したとされる寺。現在は曹洞宗世尊寺。 4、宮中の内道場への出仕を許可された十人の最高位の僧侶。 5、薬師寺の僧である景戒(生没年不詳)によって著された日本初の仏教説話集。
2、嫌厭された道教の呪術的要素
中国では仏教と道教と儒教の間で、政権を巻き込んだ争いが繰りかえされたが(三武一宗の法難7) 日本ではこのような争いはほとんど見られなかった。しかし、道教の呪術的な面だけは禁じられるようになる。
道教由来の禁呪(まじない)や符籙(おふだ)を用いた呪術に関する記述が、多くの文献に残されていることからも、道教が一般に広まっていたことが分かる。『日本書紀』に記載されている道教の呪術を禁じた事例として、644年の「常世神事件」がある。これは、駿河の不尽河(今の富士川)辺りの住人である大生部多が巫覡 (みこ)を率いて、虫を常世神として祀ることで富と若返りが得られるという教えを説き人々を惑わしていたため、秦河勝がこれを討ったというものである。「大宝僧尼令」には「凡そ僧尼、吉凶をトひ相り、及び小道・巫術し、道術符禁に依りて病を療せらば、皆還俗せしめよ。其の仏法に依りて呪を持して疾を救うこと、湯薬とは、禁むる限りにあら ず。」と、僧尼が仏教の陀羅尼や湯薬によって病気を治すことは認めているが、道教の呪術によって病気を治すことは禁じている。これは、道教の呪術には呪詛が多く含まれていたためである。このことは『続日本紀』の「長屋王の物語」から知ることが出来る。天武天皇の孫で左大臣を務めていた長屋王が突如幽閉され、夫人の吉備内親王や4人の王子と共に自殺に追い込まれたという事件があった。幽閉の理由が、道教の呪術である「左道」によって謀反を図っているとの密告によるというのである。どのような呪術であったかは記されていないが、よく知られている呪詛として「蠱毒の造畜」や「厭魅や造符」がある。「蠱毒の造畜」は『名例律』裏書に「蠱(まじないの虫)に多種ありて、備さに知るべからず。あるいは諸蠱毒を集合して、これを一器の内に置く。久しくして相食み諸蠱みな悉く尽く。もし蛇のみならばすなわち蛇蠱となすの類なり。畜とは、謂うに、猫鬼(蠱毒のこと)の類を伝畜することなり」と書かれている。これを行った者や作り方や使い方を教えた者は絞首刑に処せられた(『賊盜律』)。また「厭魅や造符」に関しては『名例律』裏書に「邪俗、陰かに不軌を行う。あるいは人形を作りて、心を刺し眼を釘うち、手を繋ぎ足を縛りて、前人をして疾に苦しめ、死に及ばしめんと欲するものなり」とあり、また『賊盗律』には「およそ憎悪するところありて厭魅をなし、及び符書を造りて呪詛し、以って人を殺さんと欲する者は、各、謀殺を以って論ず。」と、殺人に用いた場合には懲役2年である謀殺罪を適用するとしている。
実際に処罰された記録もある。神護景雲3年(769)塩焼王の妻不破内親王は県犬養姉女(内親王の母方の縁者)・忍坂女王・石田女王(共に父塩焼王の姉妹)らと共に、子である志許志麻呂を皇位につけるために、巫蠱の術によって称徳天皇を呪詛したとして捕らえられている。この術は、天皇の髪の毛を佐保川で拾った髑髏に入れて行うというもので、3回にわたり繰り返されたという。不破は内親王の身位と皇親の身分を奪われ「厨真人厨女」と賜姓・改名されたうえに平城京内での居住を禁止され、志計志麻呂は土佐国に配流されている。また、宝亀3年(772)には、光仁天皇の皇后である井上内親王は皇太子他戸王と共に天皇を呪い殺す厭魅咒詛を数度にわたり行った大逆罪により廃后となっている。
養老元年(717)の詔に「僧尼は仏道に依り神咒を持して」病人を救済するのが本来の在り方であるのに「詐て幻恠の情を禱り、戻りて巫術を執り、逆じめ吉凶を占」う者がいるとしてこれを禁じていることから、僧尼の中にも道教的な呪術を行う者がいたことが分かる。天平元年(729)の詔に「内外文武の百官および天下の百姓、異端を学習し、幻術を蓄積し、厭魅呪詛して百物を害い傷るものあらば、首は斬し従は流せん。もし、山林に停住して詳り仏法をいうまねして、自から教化をなして、伝習して業を授け、書符を封印し、薬を合して毒を造りて万万恠を作し、勅禁に違犯するものあらば、罪またかくの如くならん。その妖訛の書をば、勅出でてより以降、五十日の内に首し訖れ。もし、限の内に申さずして後に紅し告げられたるものあらば、首従を問わず、皆ことごとく配流せん。」(『続日本紀』)と呪術を行った首謀者を死罪に処す旨が明示されている。「山林に停住して詳り仏法をいうまね」をしている者とはとは、山林修行の私度僧と考えられる。
道教の神が神祇に組み込まれ、さらに仏教に取り入れられた事例もある。『日本書紀』の香香背男命は星宮の祭神となっているが、本来は道教の北斗星信仰であった。これが仏教と習合し妙見菩薩となり、さらに神祇信仰と習合して妙見宮となる。密教寺院にみられる曼荼羅図の中に星曼荼羅図というものがあるが、これは道教が密教に習合したもので、安穩息災・福寿増長の祈りをささげる対象となっている。
6、富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。 7、北魏の太武帝(在位:423年 - 452年)、北周の武帝(在位:560年-578年)、唐の武宗(在位:840年-846年)、後周の世宗(在位:954年・959年)の4回。弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊と財産の没収、僧の還俗など。 8、小道巫術(『養老僧尼令』)、厭符(『養老僧尼令義解』)、道術符禁(『大宝僧尼令』)、小厭小符(『集解古記』)、道士法(同)、符造左道(『集解穴記』)、左道(『続日本紀』)、厭魅(『賊盜律』)、蠱毒(『名例律』)など多くの呼び名があるが、一般的には呪禁と言われることが多い。
3、神仏習合
天平13年(741)に八幡宮が藤原広嗣の乱平定のため祈禱を行ったことへの褒賽として、秘錦冠一頭、『金字最勝王経』『法華経』各一部、度者十名、封戸、馬五匹などが奉納され、三重塔(神宮寺である弥勒寺)の造営が命じられている。これに応える形で、天平勝宝元年(749)に宇佐八幡宮禰宜尼である大神朝臣社女が東大寺大仏礼拝を行い、宇佐八幡神が天神地祇を率いて大仏建立手の協力を申し出たことを聖武天皇に伝えている。この時、大神朝臣社女は聖武上皇・光明子・孝謙天皇と同じ紫の輿に乗り、共に大仏に拝謁している。八幡神は天神地祇の筆頭的存在の神として扱われており、親王の最上位待遇である一品の神階が授与されている。協力の申し入れが許可されると、八幡神は梨原宮に造られた新殿に入り東大寺の守護神となり、ここで神前読経悔過10行事が行われるようになった。悔過法要は、宗教的罪過を悔い改め吉祥を求めることを目的とした仏教的儀礼の一つであるが、罪穢により生じた災厄を除き福を招くための神事である大祓と同一視され、これが神仏習合の一因となる。八幡神への返礼として、天平勝宝2年(750)には、豊前国大神宮寺(弥勒寺)に一切経一部と『阿含経』197巻が奉納されている。
この時期、神祇と仏教の関係は「神は仏法を悦び、仏法を擁護する」(護法善神)という消極的な容認と「神も一個の衆生であり、仏法によって苦悩をまぬがれようとする」(神身離脱)という積極的従属の2種類がみられる。「護法善神」の例としては、天平神護元年(765)の詔の「神等をば三宝より離れて触れぬ物ぞとなも人の念である、然れども経を見まつれば、仏の御法を護りまつり尊みまつるは諸の神たちにいましけり」がる。また「神身離脱」の例としては、奈良時代から平安初頭にかけて建てられた神宮寺がある。これは、神の代わりに僧尼が仏道修行や布施をするために神域内につくられた寺院である。このように神のために寺や仏像を作ることを「法楽」という。この様な事例は中国の『高僧伝』『続高僧伝』にもみられることから、これに倣ったものと思われる。奈良時代に創建された神宮寺としては、気比神社・若狭比古神社・伊勢神宮・鹿島神宮などがある。神域内に神宮寺が建立された由来は次のように伝えられている。
『三代実録』には、越前気比神宮の気比神が「吾が為に寺を造りて吾が願を助済せよ、吾れ宿業に因り神と為ること固より久し、今仏道に帰依せんと欲して福業を修するに因縁を得ず、故に来りて之を告ぐ」という記述や、近江国能州郡奥嶋の嶋神が「神霊と云ふと雖も未だ蓋纏を脱せず、願くは仏力を以て将に威勢を増し、国家を擁護し郷邑を安存せんとす」と告げたという記述がある。
『日本後記』や『平安遺文』には、若狭国遠敷郡若狭比古神社の神主であった和朝臣宅継の曽祖父赤麻呂が天変地異を鎮めるため仏道に帰心して深山で練行していた時に「我れ神身を禀けて苦悩はなはだ深し、仏法に帰依して神道を免れんことを思ふ」と人に化した比古神が神託したとある。
『多度神宮寺伽藍縁起資材帳』には、伊勢国桑名郡多度神社の東の道場で満願禅師が阿弥陀仏を奉持していたところ、多度神の「吾れ久劫を経て重罪業を作し、神道の報を受く、今冀くは永く神身を離れんが為に三宝に帰依せん」という神託をうけたとある。満願は鹿島神宮にも神宮寺を建て大般若経六百巻と仏像を安置している。
『日本霊異記』には、近江国能州郡の陁我大神が「道を修することを禁ぜずと雖も従者を妨ぐるに因て罪報と成り、猶後生に此の獮猴の身を受けて此の社の神と成る、故に斯の身を脱せんが為に此の堂に居住して我が為に法華経を読め」と告げたという記録がある。
三重県名賀郡種生村の常楽寺所蔵の『大般若経』の巻五十,九十一、百八十七は天平宝字2年(758)に沙弥道行が寄進したものであるが、巻五十には「奉為神風仙大神」と、巻九十一には「奉為伊勢大神」とあり、道行が深山で修行中に大雷に遇い、神の怒りを鎮めるために寄進したと書かれている。
これら神宮寺に関わる僧は皆山岳修行者である。最初は神社に併設される形で建立された神宮寺であるが、後になると神社を支配下に置くようになった。
敦賀気比神社
若狭神宮寺
9、天武天皇の孫で、聖武天皇の女婿。天平宝字8年(764年)に恵美押勝(藤原仲麻呂)が孝謙上皇に武装叛乱を起した際(藤原仲麻呂の乱)に、押勝によって天皇に擁立されて「今帝」と称したが、押勝の敗走に伴い孝謙上皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一家とともに殺害された。 10、仏法僧の三宝に対して自ら犯した罪や過ちを悔い改めること。
4、神道の芽生え
日本の神々は鳥獣草木や風・水・火・山・太陽・月といった自然神から始まり、次にアメノコヤネの命(中臣氏の祖神)・アメノオシヒの命(大伴氏の祖神)・ニギハヤヒの命(物部氏の祖神)などの人格神となった。自然神は農耕生活に結びついた神であり、明確な名前や常設の社もなかったと考えられる。これに対して人格神は氏神であり、祖神としての名前を持ち、古墳に代表されるような特定の聖域は持っていたが、明確な姿は持や社のような建築物もなかった。これに対して、仏教は教義だけではなく、寺院と仏像を伝えることになった。これにより、神祇も社や神像11が作られるようになる。また、仏前と同様に神前でも仏典が読誦されるようになる。このように、神祇は仏教を取り入れていったが、神祇独自の体系や教義はまだ生まれなかった。
奈良時代に入ると、「倭」は「日本」へと国号を改め、律令制をはじめとして国としての様々な整備を行う。中国にならい「大宝」という年号を建元したのもこの時であり、それまで名乗っていた「大王」を「天皇」と改めたのもこの時である。これは中国の「皇帝」を模したものであるが、内容は大きく異なっている。「皇帝」は「天帝」の天命により「天子」となり天に代わって地上を統治することを許された者であるが「天皇」は天の子孫、すなわち神の子孫として天に代わって地上を治めるものである。これを正当化するためにつくられたのが『日本書紀』である。各地の神話を基に神々を系列化し、日神の孫を初代とする系統を作り上げた。
また、中国の祠令を基にして神祇令も制定された。これによって「カミマツリ」を天皇・国家の安寧のためのものであると規定し、天皇が行う祭祀として、毎年行う十種の四時祭12と二回の大祓13、さらに二つの臨時祭14を定めている。これらは、儀式の重さに合わせて大祀・中祀・小祀に分けられている。この際、次第に神々に対する祝詞奏上が行われるようになり、教義も考えられるようになる。これが「神道」の起こりである。
「神道」という言葉は『日本書紀』の「用明即位前紀」にある用明天皇(橘豊日天皇)の「仏法を信けたまひ神道を尊びたまう」という所と「孝徳即位前紀」にある孝徳天皇(天万豊日天皇)の「仏法を尊び神道を軽りたまふ。生国魂社の樹を断りたまふ類、是なり」と、大化3年(647)の「惟神。惟神は神道に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ」という所が最も古い用例である。同時期の『古事記』には見られないことから、一般的な言葉ではなかった。しかも、今の「神道」が持つような意味ではない。中国では「自然の理法」のことを「神道」と呼んでおり仏教でも使われていた。さらに、この時代では特に道教の呼称ともなっていた。日本では中国の用例に加え、神祇を仏教と対比して用いる場合もあったために、この『日本書紀』での用例は様々な意味で用いられている。『日本書紀』以降、平安時代になるまで「神道」の用例は少なく、たとえ用いられていても「神」そのものの意味であり、神祇が「神道」として教義を明確化されるのは鎌倉時代以降となる。
全体としては神祇が仏教に対抗する動きは室町時代になるまで見られないが、仏教と距離を置こうとする動きは見られた。これは、道鏡が八幡神からの神託によって天皇になろうとしたような事例を避けるために、光仁天皇が王統の継承を決める神事に僧侶が関わることを禁じた(神仏隔離)ことに始まる。更に光仁天皇は、宝亀3年(772)に伊勢神宮の神宮寺を神域から移動させ、武器携帯者同様に念誦を持つものが二鳥居より内に入ることを禁じている。しかし、多くの伊勢神宮の神官が退職後出家していることから、これは仏教を排斥するというものではなく、神祇と仏教とを分離することを目的とするものであった。実際、後に本時垂迹思想が起こると、天照大神は観世音菩薩や大日如来と同一視されるようになる。
11、天平宝字7年(763)に満願が多度神の神像を作ったというのが記録上最古の記録である。これ以降、平安時代になると多くの神像が作られるようになる。 12、祈年祭(豊作を天神地祇に祈念する。諸国神社の神主を神祇官に集めて幣帛を頒布する)、鎮花祭(疫病退散を祈る。大神神社と狭井神社で行う)、神衣祭(天照大神へ御衣を奉る。伊勢神宮で行う)、大忌祭(広瀬神社の祭祀)、三枝祭(率川神社の祭祀)、風神祭(竜田神社の祭祀)、月次祭(祈年祭と同じく幣帛を頒布する。深夜に天皇が神と共に食事をする「神今食」を行う)、鎮火祭(「宮城四方角」において火災防止を祈祷する)、道饗祭(「京四方大路最極」において鬼類の侵入を防ぐ)、神嘗祭(伊勢神宮に新穀を奉する)、相嘗祭(特定の諸社に新穀を奉する) 13、6月と12月に朱雀門に諸官を集めて行う半年の穢れを掃う祭祀。 14、天神地祇惣祭(天皇即位を天神地祇に報告する)、一代一度大嘗祭(天皇即位最初の新嘗祭)
5、密教経典の伝来
この時代、遣唐使によって『仏頂尊勝陀羅尼経』『不空羂索神変真言経』『千手千眼觀世音菩薩姥陀羅尼身経』といった雑密経典15といわれる陀羅尼16が説かれている経典類が移入されている。『仏頂尊勝陀羅尼経』は玄昉が聖武天皇の病気平癒のために読経した勅願経で「もし人大悪病に遇いて、この陀羅尼を聞けば、すなわち永く一切の諸病を離れることを得、また消滅することを得る」と説かれている。『千手千眼觀世音菩薩姥陀羅尼身経』には「狂乱失念死」「虫毒害死」「飢餓困苦死」「怨家讐対死」などから逃れる陀羅尼がある。『不空羂索神変真言経』は菩提流支訳とされている経典で 30巻にも及ぶ大部の経典で、この経典の本尊である不空羂索観音はヒンドゥー教のシヴァ神を仏教に取り入れたものである。これらの密教経典は法性宗が担当していた。密教経典に対する需要は大きかったようで、これら以外にも『大吉義神呪経』『七仏所說神呪経』といった雑密経典や『大日経』『金剛頂経』といった純密経典も取り入れられていく。道鏡が始めた百万塔建立では、塔の中に木版刷りの密教経典である『無垢浄光大陀羅尼経』にある陀羅尼が収納された。これは邪魅・魍魎・悪鬼・怨霊を退散される陀羅尼である。
6、御霊信仰の起こり
『日本霊異記』に書かれている長屋王の話は次のようなものである。長屋王が元興寺での法会の席上、衆人の前で乞食の沙弥を打ったため、その報いとして自殺した後に悪霊となってしまった。この呪いによって、火葬にした遺体を埋葬した土佐国では多くの百姓が死んでしまったという。そこで、京に近い紀伊国海部郡椒抄の奥嶋(現在は沖ノ島)に改めて手厚く葬ったところ、祟りはおさまったというものである。これは平安時代に都から全国へ広まっていった、異常な死に方をした人間の霊魂が祟るという御霊信仰の源流と言えるものである。この荒ぶる神を鎮めるために仏教が有効であるとされるようになる。
7、陰陽道の芽生え
陰陽五行説は、道教に五行説など中国各地の様々な思想を取り込んで生まれた自然哲学思想で、占星術や筮竹から暦にいたるまで、その内容は広範囲にわたっている。陰陽五行説に関する最も古い記録としては、後に日本初の僧正となる百済僧観勒が、推古10年(602)に暦本・天文地理・遁甲・方術に関する書を推古天皇に献上したというものがあるが、本格的に学ばれるようになるのは律令体制になってからである。
奈良時代に確立された律令体制は中央集権体制を基本としている。この制度を維持するために、中央政府には90余りもの諸官庁が作られた。この中に官人養成機関としての役割も持つ官庁が三つあった。大学寮17・陰陽寮・典薬寮である。中務省に属する陰陽寮は陰陽五行説を学び政治に生かす官庁で、陰陽・天文・暦・漏剋(風雲の気色)の4部門から成っている。天文は天文博士が天文の気色を観察し天文生の教育を行い、暦は暦博士が暦を造り暦生の教育を行い、漏剋は漏剋博士が守辰丁(時守)を指揮して時刻を報告していた。陰陽だけが、式占18や筮竹を用いて地相の占筮を行う陰陽師19と陰陽生を教育する陰陽博士に分かれていた。これらはいずれも、当時世界最先端とされる科学技術であった。典薬寮は律令制の中の医疾令により制定された機関で、宮内省に属する医療・調薬を担当する官庁である。長官は典薬頭で医、針、按摩、咒禁、薬園の5部門で構成されていた。専門職の医師、針師、按摩師、咒禁師、薬園師と教育担当の医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士、薬園博士がおり、学生は医得業生と呼ばれた。最先端医療部門であった。
この頃は治療のための呪術的なことは、典薬寮の呪禁師が行っていた。呪禁師という言葉は『日本書紀』敏達6年(577)に百済国王が敏達天皇に仏教経典と共に派遣してきた者の中に、禅師や造仏工と並んで記されているのが初見であるが、これは経呪を行う僧侶であると考えられる。持統5年(691)に、天皇から賞賜をさずかった技能者の中に医博士務大参20徳自珍と並んで、呪禁博士矢素子武と沙笔芳置の名前がある。これが典薬寮にある呪禁師と思われるが、木素や沙宅という姓は亡命してきた貴族出身の百済人のものである。呪禁師が行っていた呪術は、仏教の経呪とは別の道教的なものであった。藤原不比等を継いだ藤原武智麻呂を支えた人物を記した神亀5年(728)の条に「陰陽には津守連通・真人王仲文・津連首名・谷那庚受等あり。暦算には山田忌寸田王・志紀連大道・私石村・志斐三田次等あり。呪禁には余仁軍・韓国連広足等あり。方士には吉田連宜・御立連呉明・城上連真立・張福子等あり」とある。余は百済系渡来人の系統であるが、韓国は物部氏の同族で朝鮮半島との外交を担当していた一族である。役行者の弟子である広足は天平4年(732)には典薬頭に就任している。しかし、奈良時代中期以降になると、呪術師の名前は消えてしまう。これは仏教の経呪よりも劣ると判断されたため、同じ道教系の呪術として陰陽師に吸収されていったためではないかと思われる。一方の陰陽師は治療的な呪術をも取り入れ、次第に祭祀的な色合いが強くなる。さらに平安時代になると密教儀礼をも取り入れ、中国の陰陽五行説とは異なる日本独自の陰陽道が成立することになる。
15、マントラ(真言)を誦して治病、延命、招福などの呪術を行う陀羅尼を説く経典。呪力を得るための山岳修行を勧めている。650~700年ごろに『大日経』と『金剛頂経』が成立し、密教的実践による速疾成仏(即身成仏)を強調する密教を純粋密教(純密)という。 16、ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指した。やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった。 17、式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成専門官庁である。当初は儒教を中心に学んでいたが、次第に一般教養としての漢文学を学ぶ機関へと変化していった。このため、家庭で教育を行えない中下流貴族の立身のための教育機関と考えられるようになった。 18、式盤という円形と方形の二つの盤を重ね、十二月将、二十八宿等を配した占い盤を用いる。 19、同じト占でも、神祇官は太占や亀トを行っていた。 20、冠位四十八階の上から二十九番目の位階。
