2021年4月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史 10-平安仏教4 平安浄土教-
1、奈良時代の浄土教
隋から唐代の中国では、慧遠(334-416)を祖とする『般舟三昧経』」に基づいた観想念仏の廬山流、禅と念仏を合せた慧日 (680-748)2の慈愍流、日本浄土教に繋がる道綽(562-645年)・善導(613-681)による浄土教などの念仏が、宗派を超えて広がりを見せていた。遣唐使らによってもたらされた浄土思想により、東大寺の阿弥陀院や、興福寺東院東塔の阿弥陀三尊像などが造られている。三論や華厳、法相などで浄土経典の注釈が行われたものの、あくまでもさとりを得るための補助的なものとして捕らえていた。このことから、浄土教は公家のあいだでも光明皇后の母橘夫人が弥陀三尊像を念持仏としていたなど限定的な広がりしかみせなかった。
法隆寺蔵、弥陀三尊念持仏
2、天台浄土教
天台宗は法華経を根本聖典として智顗(538-598)が開いた宗派であるが、智顗は『摩訶止観』の中に『般舟三昧経』による念仏も取り入れている。ただし、智顗は『維摩経疏』で諸仏の浄土を4種に分けている(四種浄土説)中で、阿弥陀仏の極楽浄土を最も地位の低い「凡聖同居土」に配していることから、修行を成就することの出来ない者のための方便浄土として見ていたことがわかる。しかし、凋落していた天台宗を再興した天台6祖湛然 (711-782)は『輔行伝弘決』の中に「諸教所讚、多在弥陀」と記すなど浄土教を天台宗に積極的に取り入れていった。唐で最澄(766/767-822)に天台法門を授けた天台7祖道邃は湛然の弟子である。しかし、最澄は『守護国界章』の中に「南無阿弥陀仏」という一句を書き入れてはいるものの、日本で念仏に対する評価が低かったためか、法華経を読誦する法華三昧堂は造っものの、念仏を修する常行三昧堂は造らなかった。
日本天台が浄土教を積極的に取り入れたのは第3代天台座主円仁(794-864)である。五台山で法照流の念仏三昧を修してきた円仁の遺命により、延暦寺で不断念仏が行われるようになり、念仏の常行三昧は法華三昧と並ぶ日本天台の行法となった。円仁の弟子の相応(831-918)は常行堂を
1、紀元前後に成立した最初期の大乗仏典のひとつであり、現存する仏典の中では、阿弥陀仏と極楽浄土について言及している最古の文献。精神統一(三昧)によって極楽浄土の阿弥陀仏を現前に見ることが述べられている。
2、23歳のとき海路でインドに向かい、18年間で70余国を遍歴する。インド僧から浄土教を学び、帰唐後、念仏・禅・戒律などすべての修行を修めて往生を願うという浄土教(禅浄戒合行思想)を主張した。慈愍流は宋代以降、浄土教の主流となる。
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東堂に移し念仏を定着させ、延昌(880-964)は毎月15日の別時念仏を始めると、弟子の増命(843-927)は寛平5年(893)に西塔に常行堂を建て不断念仏の道場とした。また、円仁の弟子の遍照(816-890)は、仁和寺で法華三昧と常行三昧を修し、延暦寺以外にも念仏の場を広げている。これによって、花山天皇の姉宗子内親王の七七日には、阿弥陀如来を本尊として法華と念仏によって仏事が営まれるなど、公家に死者供養として浄土教は広がっていった。この時行われていた具体的な行法を、源為憲の『三宝絵詞』は「ひえの山の不断念仏」として次のように紹介している。
延暦寺西塔の常行三昧堂
念仏は慈覚大師のもろこしより伝て、貞観七年より始行へるなり。四種三昧の中には、常行三昧となずく。仲秋の風すずしき時中旬の月明なるほど、十一日の暁より十七日の夜にいたるまで、不断に令行なり(故結願夜修行三七日也。唐には三七日行と云、我山には三所に分て、一七日行也。合三七日也云々)。身は常に仏を廻る。身の罪ことことくうせぬらむ。口には常に経を唱ふ、ロのとが皆きえぬらむ。心は常に仏を念ず。心のあやまちすべてつきぬらむ。阿弥陀経云。若一日若二日若三日乃至七日一心不乱、臨終の時に心顚倒せずして、即極楽に生まる。七日をかきれる事は、此経によて也。
これと同様のことが『今昔物語』の「慈覚大師始建楞厳院語」にある。
亦貞観七年と云ふ年、常行堂を起て不断の念仏を修する七日七夜也。八月の十一日より十七日の夜に至まで。是極楽の聖衆の阿弥陀如来を讃奉る音也。引声と云ふ是也。大師唐より移し伝へて永く此の山に伝へ置く。身には常に仏を迎て。口には常に経を唱ふ。心には常に思を運ぶ。三業の罪を失ふ事是に過たるは無し。
これらによると、常行三昧と不断念仏は同じものであり、滅罪の法であったことが分かる。また不断念仏とは言っても『仏説阿弥陀経』に曲調を付して読誦していたこともわかる。これを年中行事として八月に行っていた。このことは『梁塵秘抄』に「山寺行う聖こそ、あはれに尊きものはあれ、行道引声阿弥陀経、暁懺法釈迦牟尼仏」と詠まれている。ちなみに智顗が『摩訶止観』で説いている常行三昧は「九十日身常行無休息、九十日口常唱阿弥陀仏名無休息、九十日心常念阿弥陀仏無休息」とあり、読経ではなく念仏となっている。智顗にとっての常行三昧は滅罪ではなく仏を観想するための法であった。これが、臨終において極楽浄土に往生するための滅罪の法となっているのは、円仁が学んだ常行三昧が、天台ではなく『仏説阿弥陀経』を誦する法照の五台山の念仏だったためである。法照の念仏は禅や天台との融合を図ったものであったため、円仁は受け入れやすいものであった。
密教色の強い園城寺の天台からは、千観(918-984)が念仏を広めている。千観は、園城寺で出家・受戒した後に、空也の影響を受けて浄土教へ傾倒し、民衆教化のための『極楽国弥陀和讚』をつくった。応和2年(962)に摂津国箕面山に隠遁してからは念仏者として生活を送っている。翌応和3年(963)には、勅命により祈雨を祈願し奇瑞を現したという記録もあることから密教僧でもあったことがわか
愛宕念仏寺 千観像
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る。応和宗論3の論者として選ばれたが辞退し、摂津国金龍寺(安満寺)を再興して浄土教の信者集団を作った。
延暦寺では良源の弟子である性空や増賀、源信が天台浄土教を広めた。その後も、覚運(953-1007)や覚超(960-1034)によって、浄土教は延暦寺において不動の地位を築くことになる。その中で、生まれたのが良忍(1072-1132)である。比叡山東塔の常行三昧堂(阿弥陀房)の堂僧であったが、康和5年(1103)に大原別所に隠棲した。大原別所は
良忍像
天徳3年(959) に延昌が補陀落寺を建て、長和2年(1013)に源時叙(?-1024、寂源)が勝林院を造るなど浄土教が盛んな地であった。良忍は天仁2年(1109)に来迎院を創建すると、毎日6万遍の念仏を唱え、手足の指を燃して仏経を供養し、眠りを断って修行した。永久5年(1117)に三昧の中で阿弥陀の示現を蒙り「一人の念仏が他の多くの人の念仏に通じて融けあい、他の人の念仏が一人に通じる」という融通念仏の教えを感得したという。良忍は、念仏に音をつける声明や、法会の参加者が名前を本帳(念仏帳)に書き入れることで結縁とする儀式作法の創始者でもある。良忍の死後、良忍が夢想に現れたという者が 30 人を超えているが、これは良忍の教えが広範囲に影響を与えていたことをうかがわせるものである。良忍の弟子の家寛などが公家に取り入り在家中心の仏教組織を作り上げていった。また、良忍の弟子の一人で天台念仏聖の指導者となった叡空(?-1179)は九条兼実からの帰依を受け、これが弟子の法然へと繋がっていく。
3、念仏聖
奈良時代も終わりを迎えた頃、平安から鎌倉の浄土教に大きな影響を与えた播磨加古駅の教信沙弥(786-866)が生まれている。本人の残した資料はないが、平安期に書かれた多くの往生伝にとりあげられたいる。それらによると、幼くして出家し興福寺で唯識を学んだ後、諸国を遊行し、播磨国賀古駅の北辺に草庵を結び隠遁したという。ここで妻帯し子を儲けると、田畑を耕し、駅の荷物運びなどで生計を立てていた。極貧の中、庵の西壁に窓を設けると、そこに向かってひたすら西方極楽浄
兵庫県加古川の教信寺
3、村上天皇が応和3年(963)に天台宗の 10師と法相宗の 10師を宮中に招いて行った論議。天台側は一切の衆生は成仏すると主張し、法相側は成仏しないもののあることを主張した。
4、後に良忍のものとして「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、是名他力往生、十界一念、融通念仏、億万百遍、功徳円満」という偈頌がつくられた。
5、『古今著聞集』によると、3282人もが結縁を結んだという。
6、後白河法皇の声明師範をつとめた。承安2年(1172)に法皇の請により『声明集二巻抄』を撰し『声明集序』を献上した。
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土の阿弥陀仏に思いを寄せ、昼夜をいとわず口称念仏をしていたこという。その最後の様子を、永観(1032~1111)の『往生拾因』には次のように書かれている。
稍く賀古の駅の北を見れば小廬あり。その廬の上に当りて鵄鳥集り翔る。ようやく近き寄り見れば、群狗競いて死人を食ふ。傍の大石の上に新たなる髑髏あり。容顔損ぜず、眼口咲めるに似たり。香気薫馥す。たた廬内を臨めば、一老嫗一童子のあり。相共に哀哭する。すなわち悲情を問ふ。嫗が曰く。死人はこれ我が夫、沙弥教信なり。去十五の夜、既に以つて死去す。今、三日に成れり。一生の間、弥陀の号を称して、昼夜に休まず以つて己が業となす。これを雇ひ用うる人、呼びて阿弥陀丸となす。これを日を送る計となして、すでに三十年を経たり。この童はすなわち子なり。今、母と子と、共にその便を失いて、為さん方を知らざるなり。
親鸞聖人のひ孫である覚如(1271-1351)の『改邪鈔』に「つねの御持言には、われはこれ賀古の教信沙弥(この沙弥のやう、禅林の永観の『十因』にみえたり)の定なり、と云々」とある。
念仏を庶民に広めたのが空也(903-972)である。空也は仁明天皇(810-850)の皇子である常康親王(?-869)の子と伝えられている。藤原氏が全盛期を迎える中、常康親王は仁明天皇崩御の後、母親が紀氏出身であったことから公家として生きる道をあきらめ出家している。父の出家によって空也も私度僧となったと考えられる。20歳の頃に、尾張の国分寺で正式に得度して空也と名乗ると、阿波と土佐の境にある湯島に赴き、断食不動不眠の行により観世音菩薩の示現にあずかっている。背に仏を負い法螺貝を持って陸奥出羽への布教を志して諸国を巡歴しながら、委骸(棄てられた死体)を火葬にして念仏を称
六波羅蜜寺 空也像
え、山に道を通し、井戸を掘るなどしている。この時、手に鹿角をつけたま杖を持ち、腰に毛皮を巻き、胸に鐘を下げ「南無阿弥陀仏」の念仏と共に打ち鳴らしたという。天暦2年(948)に比叡山で授戒し光勝となったが、沙弥空也の名で聖として京で委骸の火葬を行っている。応和3年(963)に、空也が疫病で亡くなった委骸を鴨の河原に集めて供養した際に、三善道統が記した敬白文には、これらの遺骸に対して「みな妙覚を証せん」という空也の願いが記されている。これにより庶民からの支持を得た空也は「阿弥陀聖」または「市聖」とよばれるようになった。慶滋保胤(?-1002年)が編纂した往生伝『日本往生極楽記』によれば、それまで京では不吉とされていた念仏が空也により流布されたことを「自ら唱え、他をも唱えしめ、爾後は世を挙げて念仏を事と為すは、誠に是れ上人の衆生を化度するの力」であると讃え、滅後10年近く続いた六波羅蜜寺の供花会の詩序には「寧ぞ如来の勅を奉じて如来の使と為り、此の娑婆世界に来って濁悪の衆生を度するに非ざる乎」と空也の業績を讃えている。
7、百済の速古大王の末裔を名乗る渡来系一族。醍醐天皇の時代に祖父の三善清行が大学頭・文章博士を務めて参議まで至り、父の文江も文章博士となっている。道統も文章博士となるが、これ以降この一族は歴史から姿している。親鸞の妻の三善氏は漢系渡来人の一族で別系統。
8、陰陽道を家学とする賀茂氏の生まれであるが、若いころから仏教に傾倒したため、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。念仏結社『勧学会』や『二十五三昧会』の結成にも関わり、出家して比叡山の横川に住した。空也の弟子であり、源信の盟友でもある。
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また、空也は畿内を襲った疫病を退散させるため、14年にわたり市中で勧進を行っている。これに庶民だけではなく、公家や朝廷も応じ、金色一丈の観音像・六尺の梵天帝釈・四天王の造像と紺紙金泥の大般若経一部六百巻の書写が完成し、応和3年((963)にこれらを鴨川のほとりに建立した西光寺(後の六波羅蜜寺)に納めている。この勧進を通して公家からの支持も得た空也は、天禄元年(970)に大納言正三位藤原師氏が死去した際、閻魔王にあてた優恤(お目こぼし)を乞う手紙を書き、葬送の場で火にくべている。
空也の死後、その生涯は次第に伝説化されていった。蛙を呑んだ蛇を錫杖を振って吐かしめた話や、念仏によって盗賊の難から避がれたなどの話が付加されていく。また、病んだ老女に体力をつけさせるために殺生戒を破ってなまぐさものを買い与えた上に、その老女の求めに応じて性行為をしたところ、その老女は神泉苑の老狐であることを告白し、空也を真の聖人であると讃えたという話まで伝えられている。
空也の少し後に活躍した行円は、鹿の皮をつけていたことから皮聖と呼ばれるが、阿弥陀如来の四十八願をたのむ四十八講を開き、千手大悲陀羅尼を持し民衆からの支持を得た。もともと、皮を身につけるというのは、御贄と芸能を行う者の扮装で『万葉集』では公家などに寿詞をのべる「乞食人」として記されている。このような乞食比丘が多くいたことは『今昔物語』にも書かれており、この時代の念仏聖には密教的呪術的色合いの濃い者が多かったようで、中には山中で人を殺して処刑される者までいた。延暦18年(799)には、諸国司に対して、部内の山林にある精舎を調査してそこに住む比丘や優婆塞を報告するようにとの詔がでているが、これは邪法によって民衆の支持を集めている聖や沙弥を取り締まるためであった。
行円・『集古十種』より
この時代の聖・沙弥については、慶滋保胤が『日本往生極楽記』(939-935頃の著作)を記した後、大江匡房(1041-1111)の『続本朝往生伝』、三善為康(1049-1139)の『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』、蓮禅(?―1149)の『三外往生記』、藤原宗友(?-?)の『本朝新修往生伝』など多くの往生伝が書かれている。これを見ると、平安初期の聖・沙弥は、南都や比叡山などで研鑽を積んだ者や山林修行修行をした者が教団組織から離れ、寺庵や山林に籠った隠遁聖や、別所などに住む別所聖、各地を遊行する遊行聖となった者たちであったことが分かる。ところが、平安中期以降は、念仏以外の行を行っていない者や、破戒や造悪の者が次第に多くなっている。例えば、美濃の沙弥薬延は「法師に似ると雖も、作法は僧に非ず、頭髪二寸、俗の衣服を着て、田猟漁捕し、穴を食い、鳥を瞰い」ながらも、夜に入って「身体を沐浴し、清浄なる衣を着し、後園中に行って持仏堂に入り」仏事を修したという。また、大宰府安楽寺の順源は娘を妻とする破戒を犯しながらも往生往生を遂げている。他にも、7度も獄につながれたものの「日夜に阿弥陀仏を唱て」往生した雲林院菩提講の聖や、一生の間に一善の心もなかったが、臨終に一心念仏往生した藤原忠宗なども記されている。
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4、高野聖と真言浄土教
承平元年(931)に醍醐寺は太政官より醍醐の山陵に近い東安尼寺を別院とし、本寺とともに「先帝山陵不断念仏之音」がするように命じられている。これは、醍醐寺が朝廷から延暦寺の不断念仏を行うよう求められたものである。承平8年(938)には朱雀天皇が醍醐寺に三昧堂を建立し、法華三昧が定立し、天暦3年目 (949)にはここに阿弥陀三尊が奉渡され、天台系念仏が正式に導入された。
藤原師伊の子で高野山一長者となった定昭 (906-983)は若いころから念仏三昧を修していたが、天元4年(981)には悪趣におちるのを止めて極楽に往生するため、金剛峯寺以下の別当職を辞退して興福寺一乗院に隠棲した。
天台座主尋禅((943-990)の兄弟で永観の法孫に当る深覚(955-1043)は高野山に籠居し無量寿院を開くと、専ら『仏説無量寿経』を念じたと伝えられている。
高野聖の祖ともされる小田原聖教懐(1001-1093)は役人であった父が処刑した罪人の怨霊により一族が次々と殺され自分一人となったため、興福寺に入り僧ととなったが、怨霊から逃れることができず、興福寺の念仏別所小田原に転じ修行した後に高野山へ移った。ここで念仏聖の集団をつくり、毎日金剛界・胎蔵界の修法と密教の阿弥陀真言による阿弥陀行法を修した。
このような動きの中で覚鑁(1095-1143)が密教と浄土教を統合する教えを開いた。それは「大日如来は阿弥陀如来である」「大日如来の密権浄土と阿弥陀如来の極楽浄土も同じところである」(「五輪九字明秘密釈」)というものであったが、金剛峯寺内での対立により、高野山を出て根来寺に移っている。
覚鑁の孫弟子である聖心は九条兼実のために安元2年(1175)に『十念極楽易往集』を著している。ここで「密厳浄土大日空位、極楽世界弥陀心地」であり「此の如く観ずる時、娑婆を起さずして惣ち極楽に生まれ、我が身弥陀に入り、弥陀と替わらず、即ち大日と成る」と述べている。兼実はこの後源空に帰依している。また東大寺から高野山の東別所の蓮華谷に隠遁した明遍が源空の弟子となり、別所聖である重源が源空と深くかかわるなど、真言浄土教は源空の念仏へと繋がっていく。
5、南都仏教系浄土教と山岳信仰系浄土教
東大寺では、天慶元年(938)に念仏院が建立され、朱雀天皇の頃には念仏が修されはじめ、天徳5年(961)に戒壇和尚明祐の臨終の際には、前日の夕に弟子等が『仏説阿弥陀経』を読誦して
9、小咒は、オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン。
大咒(無量寿如来根本陀羅尼)は、ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ。
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廻向し、臨終念仏して入寂している。こ
東大寺別当であった永観 (1033-1111)は永承5年(1050)から毎日一万遍の念仏を始め、壮年以後には六万遍に増したため、晩年には咽喉涸れてただ観想に努めたと伝えられている。永観は『往生講式』(『順次往生講式』『阿弥陀講式』)の中で「弥陀名号の中、即ち彼の如来、初発心従り仏果に至るまで、一切の万行万徳を所有し、皆悉く具足し、欠減有ること無し、唯だ弥陀一仏の功徳のみに非ず、亦十方諸仏功徳を摂す、以て一切の如来は、阿字を離れざる故に、因て此の念仏は諸仏の護念する所、今此の仏号の文字少しと雖も、衆德を具足」しているので称名念仏は大陀羅尼や法華三昧よりも勝れており「散漫の者も千に一生ぜず、専修の人は、万に一失無し」と、念仏だけを専らに行ずる者は必ず往生できることを説いている。康和5年(1103)に書かれた『往生拾因』には永観の『往生講式』を「念仏の輩、皆な以て競い写し、以て念仏宗と為」したと書かれてる。永観の念仏理解は善導と道綽によっており、源空の先駆けともいわれている。
禅林寺(永観堂)
東大寺別所光明山寺の覚樹・重誉は永観の念仏を継承し、実範は天台浄土教の影響を受けて「年来心を安養に懸」け『観無量寿科文』を著すなど三論系浄土教を説き、覚樹の教学を伝える珍海は称名念仏による往生に確信を持てない人々のために『決定往生集』を書いているが、ここで善導の立場から永観の専修念仏を「正中の正」として源空に先立って称名正因説を説いている。
勝尾寺
箕面の勝尾寺第4代座主証如は夢枕に現れた教信沙弥の教化を受けて熱心な念仏者となったという。これ以降、勝尾寺は念仏聖の寺となった。『梁塵秘抄』には「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御崎、南は熊野の名地とかや」と謡われている。
6、極楽往生
『日本後記』によると、大同元年(806)に早良親王の御霊を鎮めるために諸国の国分寺で「彼岸会」が行われている。これは阿弥陀如来の極楽浄土にいるとされた死者を供養することを目的とするものであった。これが自らの極楽往生を願う信仰へと変化していく。
その代表が藤原道長である。『栄花物語』などに『往生要集』を愛読していたと書かれている道長は、寛仁3年(1019)に出家すると、自邸の隣に無量寿院を建てている。これに7体の薬師如来を祀る七仏薬師堂、不動明王を祀る金堂などを加えて法成寺としている。ここに作られた阿弥陀堂は平等院鳳凰堂をはるかにしのぐ豪華なものであったという。道長の夫人倫子が法成寺内に建てた西北院の落成法要では、3日3夜の不断念仏が、叡山東塔・西塔・横川、三井寺、興福寺、仁和
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寺から集められた、きらびやかな衣に、頭に花をかざし、顔に白粉をつけた12歳から15歳の僧によって行われという。
死を覚悟した道長は法成寺の無量寿院(阿弥陀堂)の念誦の間を病室として利用し、万寿4年(1027)に金色の九体阿弥陀如来像に見守られてここで死去している。『栄花物語』によれば「御目には阿弥陀如来の相好を見奉せ給、御耳にはかう尊き念仏を聞しめし、御心には極楽をおぼしめしやりて、御手には阿弥陀如来の糸をひかへさせ給いて、北枕に西向に臥させ給へり」と『往生要集』の臨終念仏の記述をそのまま行っている。このような臨終の迎え方は『平家物語』『源平盛衰記』『後拾遺往生伝』などにも見られることから当時広く行われていたようで、公家以外でも源頼光のような武士も同様に臨終を迎えている。
道長の子である藤原頼道が、永承7年(1052)に宇治の別荘を寺に改めたのが宇治平等院である。翌年建立した鳳凰堂は『仏説観無量寿経』に説かれている極楽浄土の姿を実際にあらわしたもので、本尊は丈六阿弥陀如来であり、東正面3ヶ所と南北両側面の1ヶ所の板扉、両側面と仏像の壁の背面の板壁に『仏説観無量寿経』にもとづく九品来迎図が画かれ、西背面の板扉には、十三観の第一である日想観を描いたうえ、経文の1節を色紙形に書き込んでいる。その美しさから「極楽不審久者宇治乃御寺乎礼へ」と謳われている。
極楽往生のための行は次第に過剰なものになっていった。3寸から5寸の塔を多く造り供養するということが盛んに行われ、その数は8万4千から 30万にも及ぶ。後白河法皇が京都に造った蓮華王院(三十三間堂)に千体の仏像を納めたのもこれと同意である。念仏の数も同様で、1万遍から5万遍の念仏が普通に行われ、100万遍念仏の例もあった。中には30年間で36億11万9500遍という例もある。さらには、京都の鳥辺山・阿弥陀が峰・船岡山などで薪を積み火をつけてその中に結跏趺坐して身を焼いて往生を願ったという話が『法花験記』『百鍊抄』『扶桑略記』『元享釈書』などにいくつも記されている。また、自ら首を縊って往生を遂げる者や賀茂川や琵琶湖、桂川に身を投げて往生を遂げる者もあったという。
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