2021年7月 徳法寺仏教入門講座

日本仏教史 12-鎌倉仏教1 古代から中世への社会変化-

1、鎌倉仏教の特徴と、それを生んだ社会環境

奈良時代までの仏教は国家の安寧を実現するに朝廷によって導入されものであった。平安時代になると、個人的な願いをかなえるための仏教へと徐々に変化していったが、権力と一体化したものであることは変わらなかった。ところが、鎌倉新仏教と呼ばれる仏教は、権力者のための仏教ではなく「仏法為本」という仏教理念を実現するための仏教となる。これにより、聖と俗の権力関係は上下から対等な関係へとなった。これにより政治と宗教をめぐる様々な軋轢と合意が繰り返されることになる。

これには、平安時代から始まった社会環境の変化が大きな要因となっている。平安時代には『今昔物語集』などの仏教説話が多く書かれていたが、従来の漢文では日本人の感情を表現しきれなくなり、和語や和文が多用されるようになる。これにより「仮名法語」と呼ばれる書状や著書が僧侶によって書かれ、また『平家物語』をはじめとする仏教思想を根底に置いた物語文学なども生まれることになる。文字が読めない庶民に対しても、説教や談義に芸能を包み込んだ「唱導1による布教が行われるようになった。これにより、巡礼をはじめとする社寺参拝の風習が広まり、これを迎え入れる寺社も各地に作られるようになった。

一方で、旧来仏教は権力との癒着から腐敗が進んでいった。神護寺に天暦2年(948) に書かれた四十五個条起請文があるが、その中には、寺の威をかりて他人の田畠・資財を横領してはならない、官職や起訴にコネを利用してはならない、刀甲冑を帯びて武力行使してはならない、美服を纏ってはならない、寺の中で賭博をしてはならない、寺に女人を宿泊させてはならないなどの禁令が書かれている。藤原定家の『明月記』には、延暦寺の僧侶に関して「妻子を帯し、金貸しをして富有の者、悪事をおこなう者が山門に充満している」とある。

1、仏法を説いて衆生を導く音韻抑揚をともなう語りで、日本の話芸の源流のひとつである。

2、荘園の拡大

平安時代当初は、国衙が管理する全国の土地の多くは公領であり、大寺社・公家が所有する荘園は一部に過ぎなかった。中央から派遣される国司は公領の他に荘園からも課税分を徴収し公家などに納めていたが、荘園からの封物が納められないと次の官職に影響することから、不足分を公領から穴埋めしていった。この公領荘園の一部に組み込まれていったため、大寺社や公家の荘園が徐々に拡大する一方で公領は減少していった。これを補うために、国司は農民を使って新たに開墾を進めたが、農民たちの反発を招くことになる。そこで、荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を没収することで、公領の回復と農民の疲弊を防ための対策がなされる。これが荘園整理令である。醍醐天皇が延喜2年(902)に太政官符として発布された延喜の荘園整理令がその先駆けであった。これは、醍醐天皇が即位した寛平9年(897) 以降に開かれた勅旨田の廃止、地方民が権門や寺社に田畑や舎宅を寄進することの禁止、権門や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止などを定めたものである。同時に、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外とされた。しかし、政権当事者である公家や大寺社による荘園の拡大を止めることは出来なかった。

11 世紀に入ると、内裏や大寺院の焼亡が重なり、その都度臨時課税が課された。そこで受領から、公領だけでは賄いきれないため、免税対象の荘園にも負担させる「一国平均役」を導入するようにとの申請が相次いだ。長暦3年(1039)に内裏が焼亡した際、後朱雀天皇は長久元年(1040)長久の荘園整理令を発布したが、これは「一国平均役」を導入するために、未公認の荘園を洗い出すことを目的としたものであった。前任の受領までが認めていた荘園以外は認めないとしたうえで、課税しやすくするために散在していた荘園と公田を交換してひとまとめにして(一円)境界を明確にした。さらに郡司・郷司が徴税しやすいように、徴税権・警察権・裁判権を与えたのである。これを「荘園公領制」と呼ぶ。これには大寺社が抗議したため、神社仏寺領だけは免除された。この「一国平均役」の対象は次第に拡大され、天皇や仏神事に関するものにまで適用されることになる。これにより、課税はしやすくなったものの、荘園公領の間で境界をめぐる対立が激増する。

この受領と荘園の対立のような複雑な問題に対して、藤原道長から摂政を引き継いだ藤原頼道と後冷泉天皇は互いに責任を押し付け合って対応することができなかった。これが責任者を明確にしない摂関政治の限界であった。後冷泉天皇の死去により、即位した後三条天皇は、170 年ぶりの藤原氏を生母としない天皇であったため、摂関家とある程度距離をとった思い切った政策を行う。延久元年(1069)に後三条天皇が施行した荘園整理令は、それまで地方諸国の国司が判断していた公領荘園の境界を、中央に設置した記録荘園券契所で行うというものである。対象となる荘園には摂関家領や大寺社領も含まれ、荘園成立の由来が明確であり国務の妨げにならない荘園以外には、劣悪な荘田と肥沃な公田を無断で交換してはならない、荘園の住民が荘園外で耕している公田を荘園に含めてはならない、国司が経費の財源として寺社等に宛がっている公田を勝手に荘園(無定坪付庄)として扱ってはならないなどの細かな規制が加えられた。

皇天條三後代一十七第
後三条天皇

3、武家の誕生

律令体制を整備した奈良時代、朝廷は一般農民である公民1戸から一人を徴兵し、朝鮮での争乱に備えた20万人にも及ぶ大規模な軍隊を保持していた。一方、国内での犯罪や反乱に対しては常駐の組織ではなく捕亡令で対応した。役美や囚人の逃亡や強盗窃盗の捜索などの場合、国司が太政官から「追捕官符」を発令してもらい、これによって非武装の人夫である「兵」を動員してこれにあたった。また「謀反」や「謀叛」など武力が必要な場合には、国司は天皇が発令する「発兵勅符」によって、はじめて武装した「兵」を動員することができた。

宝亀11年(780) 新羅との外交関係を解消した朝廷は、財政負担となっていた軍隊を一度も使うことなく解散した。これによって厳格な律令制度を維持する必要がなくなり、規制緩和政策がすすめられることになる。まず、本籍地を離れる浪人が公認され、国司子弟・王臣子孫などが浪人となることが黙認される。また、郡衙に保管していた貸出用の米を郷に移管し有力農民に管理を委譲した。これら有力農民はこの米を高利で運用し利益を国司に渡し利ザヤを稼ぐようになる。この有力農民となるために、国司子弟・王臣子孫などが浪人となっていったのである。これにより国司は有力農民からの利益を管理する受領としての役職が中心となっていった。

桓武天皇が 34 人、嵯峨天皇が 50 人と平安初期には多くの子供を持つ天皇が続いた。これにより皇族に割り振る役職が不足し、嵯峨天皇は生母の家格が低い皇子女8人を臣籍降下して「源」の姓を与えた。「源」とは皇室と祖を同じくするという意味であり、読みは「水元」から「みなもと」とした。これにならい、次々と皇族からの臣籍降下が行われ、桓武・仁明・文徳・光孝の子孫には「平」の姓が、平城天皇の子孫には「在原」の姓が与えられた。その後「平」などの賜姓は途絶え、新たに賜姓は「源」2だけになる。これら臣籍となった元皇族や、藤原・橘などの公家の分流が各地で浪人となり富を蓄え、地方豪族や土豪のリーダー的な存在となっていった。かれらは田宅を荘園として院宮王臣家に寄進し家人となると徴税分から着服したため国司との対立が頻発した。また国司による苛政に反発して有力農民らが反乱を起こすこともあった。

これらの争いをおさめるために捕亡令がひんぱんにだされるようになる。これに対応するために、国衙院宮王臣家家人を「諸家兵士」として、あるいは富豪浪人を集めて「諸国兵士」として国衙の軍制に組織化し、押領使追討使、追捕使などの軍事的役職に任命していった。彼らが国衙の動員に応じる権利と義務を持つ新たな戦士身分階級となる。

明確に武士と呼ばれる身分が生まれるきっかけとなったのが、寛平・延喜東国の乱(寛平元年(889))である。これは物部氏永らを首領とする群盗が、信濃・上野・甲斐・武蔵などで次々と蜂起したもので、終息まで7年間に及んだ。王臣の家人として運送業を営んでいた前任国司や王臣の子弟子孫が、着服を咎められたことから群盗となったのである。一向に沈静化しない乱に対応するため、朝廷は受領に軍事動員の裁量権を与えた。受領からこの軍事力の指揮を任されたのが押領使である。これが国衙軍制である。この時に押領使として任命されたのが、桓武天皇の孫でこの鎮圧により平の姓を賜った平高望、群盗千人を追討したとされる伝説の武人藤原利仁、大ムカデ退治伝説でも知られる俵藤太こと藤原秀郷の三人である。上総国押領使となった平高望は桓武平家の祖とされ子供たちはみな坂東諸国に土着し国衙官人となっていった。藤原利仁は上野国押領使となるが、しばらくして越前に帰り子孫たちは越前・加賀を中心に有力武士団である斎藤党を形成していく。下野国押領使となった藤原秀郷の子孫たちは小山・藤姓足利氏として北関東に勢力を拡大していった。この三人とその子孫たちが武士の始まりとされている。

2嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏以降、江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで源氏には二十一の系統(二十一流)があるとされているが、文献によっては源氏二十一流に含まれない淳和源氏なども存在している。

3、「院」とは太上天皇、「宮」とは三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・東宮(皇太子)、「王臣家」とは親王・内親王などの皇親や、おおむね五位以上の公家。

4、将門と純友による天慶の乱

この三人の武士の一人である平高望には5人の子息がいた。長男の国香は常陸国に土着し常陸大掾となり、次男良兼は上総国に土着し下総介となった。下総国に土着た3男の良持は、鎮守府将軍となり陸奥国胆沢城に赴任していた。北方交易により莫大な利益を得た良持は左大臣藤原忠平に貢納し家人となり、子息の将門は忠平の推挙により内裏清涼殿の北にある滝口の陣に詰める天皇親衛隊の任にあたっている。父の死により下総に帰った将門を待っていたのは叔父たちとの良持遺領をめぐる争いであった。この内紛をきっかけにして、将門は天慶2年(939)に下野国・上野国の国府を占領すると独自に除目を行い関東諸国の国司を任命し、さらに巫女の宣託があったとして新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の国司らが逃げ出したため、将門は関東全域を手中に収めることになる。これが平将門の乱である。

朝廷は一族の内紛であった時には静観していたが、将門が謀反を起したという知らせが入り、その数日後に摂津国須岐駅で藤原純友が蜂起したとの報が入ると一気に対応に追われることになる。天慶3年(940)、朝廷は追捕東海道使に藤原忠舒、追捕東山道使に小野維幹、追捕山陽道使に小野好古を、征東大将軍に参議藤原忠文を任じると、将門を討ち取ったものには五位以上、副将を斬ったものにも官爵を与えることを約束した。春の耕作期を迎え、将門の下に集まっていた手勢が解散した時を狙って、将門に殺された平国香の子で常陸国押領使に任じられた平貞盛は、将門の乱を静観していた下野国押領使藤原秀郷を味方につけ、一気に将門軍を打ち破った。この平定により、藤原秀郷は下野・武蔵両国守の任と従四位下に、平貞盛は右馬助の任と従五位上に叙されたのをはじめ、任官者は数十人にも及んだ。天慶4年(941)には藤原純友の乱も鎮圧され、ここでも功績のあった源経基らちに対して位階・官職が乱発された。

5、坂東武士の棟梁としての源氏

源経基の長子満仲は蔵人・左馬助として在京勤務し、村上天皇の御鷹飼となり、天皇の側近武士として仕えた。その子頼光も円融天皇・三条天皇の2代に仕え天皇を守護した。これ以降、頼光嫡流は代々「大内守護」として内裏清涼殿の殿上の間に詰める地位を世襲することになる。また、経基の子孫は藤原道長などの摂関家嫡流である九条流藤原氏にも莫大な献上を行い近習の家人となっている。将門も勤めた滝口も天皇守護の要職であった。一方京内の治安や刑事裁判を担当したのが検非違使庁である。何年か検非違使を勤めると五位となり受領に任じられる資格が得られた。宮廷儀礼に使う馬を管理する馬寮の官人も武士が勤めることになる。

将門の乱から1世紀近く経った万寿5年(1028)、上総・下総・安房などに私営田を持つ在庁官人の平忠常が安房守惟忠の館を襲撃して焼き殺し、上総介犬養為政の館も占拠して受領を軟禁した。長元 3年(1030)追討使に任じられた頼光の弟源頼信は忠常の子息の法師を伴い甲斐に入ると、子息を使者に立てて忠常を説得し降伏させた。これにより信頼を得た頼信は、坂東武士と主従関係を結んだ。頼信の後を継いだ頼家とその子義家は陸奥守・鎮守府将軍となるも、坂東武士に功績をあげさせるために、力をつけはじめていた俘囚勢力に対して戦を仕掛けていった(前九年・後三年の役)。結果、俘囚勢力を強化させることになったが、源氏は武士の棟梁としての地位を築くことになる。

4、伊賀国名張郷司源氏は丈部氏から、安芸国高田郡司藤原氏は凡氏から、美濃国席田郡司藤原氏は守部氏から、大隅国有力在庁藤原氏は檜前氏から改姓している。

6、院政と平氏の台頭

延久4年(1072)、後三条天皇は長子の白河天皇に譲位すると、2歳だった次子の実仁親王を皇太弟とした。この様に次の天皇を上皇が指名することを院政という。延久5年(1073)、後三条上皇が死去するが、白河天皇は譲位せずにとどまり、応徳2年(1085)に実仁が15歳で死去すると、翌年譲位し、8歳の長子善仁が堀河天皇となる。嘉承2年(1107)に堀河天皇が死去すると、堀河天皇の皇子で5歳の宗仁親王を即位させ鳥羽天皇となる。これらはすべて白河上皇の意志であった。さらに、白河上皇は養女である璋子と孫の鳥羽天皇を結び付け、二人の間に顕仁親王(崇徳天皇)が生まれる。しかし、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と呼んでいることから、白河上皇の子ではないかといわれている。白河上皇は保安4年(1123)には曾孫の崇徳天皇を即位させると、大治4年(1129)に死去するまでの43年間、院政を続けた。

白河上皇は法勝寺以下の六勝寺(尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)などの御願寺を次々造営した。特に法勝寺は82mの八角九重の壮大な塔を持ち、宗派を超えた仏教の総本山的な寺院であった。白河院は全宗派の人事権を掌握することで寺社勢力を統制下に置こうとしたが、下層僧侶を掌握できず、時には数千人規模の僧兵強訴を繰り返した。

白河院は坂東武家の棟梁となった源義家にたいしては距離を置いた。義家の嫡子義親が官使殺害すると隠岐流罪にし、嘉承2年(1107)さらに出雲国の目代を殺害すると北面の武士であった平正盛追討使として派遣し義親を追討させ、平氏を新たな武家の棟梁としようとした。義親の嫡子為義は金剛峯寺と対立していた高野山覚鑁の家人になると朝廷に接近し、前関白藤原忠実の家人となり、55歳でようやく従五位下に叙された。その嫡子義朝は鳥羽院の信任を得て 31 歳で従五位下に叙され、ようやく朝廷との関係を築くこととなる。

一方、白河院の寵愛を受けて諸大夫の在京武士の一人から義親討伐の功で一躍表舞台に姿を現した平正盛は、六波羅に塔をふたつ備えた阿弥陀堂を建立するなどしてその財力を誇示し、嫡子忠盛も北面の武士として白河院に仕え 18 歳で従五位下に叙されている。白河院死去の後も鳥羽院に寵愛され、北面の武士を勤めている。この間、忠盛は諸国の受領を切れ目なく勤めて蓄財に努めた。この結果、大治4年(1129)に従四位上、翌年には正四位下に叙され、長承元年(1132)には内裏の殿上人になっている。保延元年(1135) には鳥羽院の意向により瀬戸内海の海賊追討使に任じられ 26人を捕らえている。この海賊とは、石清水八幡宮神人や祇園神人が国司から一般庶民までを相手に行っていた高利貸し(出挙)の略奪的な取り立ての事である。実際には忠盛は京都から動いておらず、捕らえたのも海賊ではなく平氏に従わなかった西国武士であった。逆に多くの西国武士はこの時平氏の郎党になっている。この海賊追討の功により長子清盛は従四位下に叙されている。公卿を目前にしていた忠盛は仁平3年(1153)に死去し、嫡子清盛が跡を継ぐことになる。

7、保元・平治の乱

白河院の死去により、27歳の鳥羽院が院政を始めた。鳥羽院は白河院により12年間蟄居させられていた藤原忠実を相談役として復活させると、その娘泰子を皇后にした。さらに藤原長実の娘得子も院参させ、祖父白河院から押し付けられた璋子(待賢門院)とその子である崇徳天皇から距離をとる。保延5年(1139)得子が体仁親王を生むと、誕生3か月で皇太弟とし、永治元年(1141)崇徳天皇を退位させ3歳で体仁親王は近衛天皇として即位し、得子(美福門院)は皇后になった。

復権した忠実は次子の頼長を寵愛し、長子で摂政の忠通は疎外されるようになった。そこで忠道は美福門院に接近し地位の保全を図る。久安6年(1150)頼長は元服した近衛天皇に養女多子を入内させ皇后とした。これに対抗し、忠通と美福門院は女院の養女であった呈子を忠通の養女として入内させ中宮とする。この争いを見た父忠実は将来忠通の子息に返すことを条件に、摂政を頼道に譲るよう迫った。忠通がこれを固辞したため、忠実は忠通の屋敷の倉庫を家人武士に襲わせ、氏長者の証の品々を奪い頼道を氏長者とした。調停に立った鳥羽院は忠道を関白に、頼道を同格の内覧に任命したため、執政が2人という事態になる。久寿2年(1155)近衛天皇は子供を残すことなく 17 歳で死去した。美福門院は崇徳天皇の子重仁親王と、崇徳天皇の同母弟雅仁親王の子守仁親王を猶子として養育していたが、即位したのはそのどちらでもなく雅仁親王であった。これは、父を差し置いて皇位につけた前例がなかったためといわれている。これが後白河天皇である。同時に守仁親王は皇太子となった。これらを画策したのが信西入道藤原通憲である。信西の妻は雅仁親王の乳母であった。身分は低かったもののその学才で近臣となった信西は、弟子であった頼道を近衛天皇呪詛の罪で失脚させた。

保元元年(1156)、28年間院政を行ってきた鳥羽院が 54 歳で死去したが、この際、崇徳上皇は葬儀に参列することを許されなかった。鳥羽院の死を機に崇徳院と頼長が挙兵するという噂が以前から流れたことから、後白河天皇は検非違使で清盛の次男平基盛・源義康らに京都市内を巡回させ、頼長配下の源親治を逮捕させた。また、源義朝に東三条殿を家宅捜査させて、頼長の命により呪詛を行っていたという僧侶を捕らえる。追い込まれた崇徳院は白川殿に移ると、そこに崇徳院警護の武士や頼長が合流した。これは反乱を起こす為ではなく、院として白川を御所とするためであった。しかしこれを敵対行為とみなした後白河天皇と忠通は、信西の進言より源義朝・義康、平清盛・源頼政の大軍で攻め込んだ。この際、源義朝は近江・尾張・伊豆・相模・安房・武蔵・上総・下総・下野から、平清盛は河内・伊勢・備前・備中から武士を集めている。これが政権に武士が介入した最初であり、慈円は『愚管抄』において、この乱が「武者の世」の始まりであり歴史の転換点であったと論じている。これにより崇徳上皇は讃岐に配流されたが、天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事であった。また、薬子の変以来の死刑が行われ、28日に平忠正が、30日に源為義と平家弘が一族もろとも斬首されている。一方、平清盛は播磨守に、弟の頼盛・教盛の昇殿が許され、源義朝は右馬権頭と昇殿、義康は従五位下と昇殿が許された。これは源氏よりも信西に近かった平氏に厚い恩賞であった。

荘園公領制を基盤とする儀礼国家の再建を目指した信西は、すぐに後白河天皇荘園整理令を発布させる。これは「九州の地は一人の有なり。王命のほかに何ぞ私威を施さん」という宣言で知られている。その内容は

1,後白河が践祚した久寿2年(1155)以後に宣旨なしに設立された荘園はすべて停廃せよ。

2,本免田以外の加納・出作で国司の命に従わないものはすべて停止せよ。ただし後白河の宣旨、白河・鳥羽両院の院庁下文を有するものは、それを提出して天皇の裁可を待て。

3,伊勢・石清水ら7社に神人名簿を提出させ、本神人以外は解任せよ。

4,興福寺・延暦寺・園城寺ら5寺の悪僧の濫行を停止せよ。

5,国司に下知し、大寺社の末寺末社と称する国内寺社の濫行を停止せよ。

6,伊勢・石清水ら二十二社は、社領と年間神事経費の細目を提出せよ。

7,東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺も、寺領と年間仏事経費の細目を提出せよ。

というものであった。これを実行するために記録荘園券契所が置かれ、信西の嫡子俊憲が記録所弁となってこれにあたった。

さらに社会秩序を回復させるために新制三十五個条を発布している。これには神事仏事興行令を冒頭に、過度の身分差別を禁止する過差禁止令、下級官人服務励行令、京內秩序確立令(夜間パトロールの励行、武装携帯の禁止、空家の禁止、道路耕作の禁止、家宅前の道橋の清掃、病者孤児の遺棄禁止、寄宿人の調査)などが含まれている。これにはもう一人の息子である貞憲も加わっている。これらにより、長い政治混乱で中断していた儀式が復活し、漏刻機を置くことで時間も厳守されるようになる。復活させた儀式の中には舞姫の舞を見て楽しむ宴会や、相撲召合もあった。これを武力で支えたのが平清盛である。

順調に思われた信西の改革は、いきなり終末を迎える。保元 3年(1158) 32歳の後白河は16歳の長子守仁親王に譲位し二条天皇が即位する。これにより後白河は院政に入ろうとするが、美福門院や近臣たちは後白河を中継ぎとして見ていたため二条天皇による親政を望んでいた。この権力の2分化の間をついたのが後鳥羽院の近臣であった藤原忠隆の子信頼であった。『平家物語』で「文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし」と酷評されている信頼であったが、後白河院の寵愛を受けて 27 歳で中納言にまでなっている。さらに大臣・近衛大将を望んだが、信西によってこれを阻まれてしまった。これを恨んだ信頼は、保元の乱で思った恩賞を得られなかった源義朝と手を組み、信西を失脚させる。

平治元年(1159) 清盛が熊野詣に出発した隙をついて、義朝は信西と息子たちを逮捕するため院御所三条殿を襲撃・放火する。信西と子供たちは逃れたが後白河院は軟禁された。信頼は二条天皇を擁して内裏を制圧すると公卿達を招集し、信西子息たちを解官させ、自身は大臣・大将、義朝は従四位下播磨守としている。絶望した信西は自害しその首はさらされた。天皇を擁していたために信頼に従った公卿たちであったが、帰京し六波羅館に入った清盛が天皇を御所から脱出させると、そのほとんどが六波羅に参入し、一転して「信頼・義朝追討宣旨」が出された。信頼は六条河原で斬首、義朝と長男義平も首をさらされ、3男頼朝は清盛継母の池禅尼の嘆願により伊豆流罪となった。妾常盤御前も義経ら3人の子供たちと捕らえられた。これによって武家の棟梁は平氏のみとなった。

8、後白河院政と平氏政権

平治の乱以降も、後白河院と二条天皇の確執は続いた。信西を失い一旦は劣勢に立った後白河院であったが、永暦元年(1160) 美福門院が死去し、後白河に皇子憲仁が生まれると形勢は均衡状態となる。この両者の間でバランスをとったのが清盛であった。清盛の妻時子は二条天皇の乳母であったことから、清盛も乳父として後見する立場にあった。一方で、清盛は後白河院別当であり、妻の妹滋子は後白河院の子憲仁の母である。永暦元年(1160)、清盛は正三位参議となり、武士として初めての公卿となる。翌応保元年(1161)には権中納言になり、長寛3年(1165)には嫡子重盛も参議に任じられ、一門の受領は6~8か国、知行国は武蔵・尾張・越前を獲得するまでになる。特に、久安2年(1146) に清盛が安芸守になって以来氏神とした厳島社と、清盛が本拠地していた福原を結ぶ瀬戸内沿岸の港湾整備を行うことで掌握した瀬戸内海運は莫大な利益を上げていった。

永万元年(1165) 二条天皇は2歳の順仁に譲位し六条天皇を即位させると23歳で死去した。翌永万2年に後白河院は6歳の憲仁を皇太子にする。これにより、後白河院は朝廷で無二の存在となり、清盛は皇太子の後見人としての権力を得ることになる。仁安2年(1167) 清盛は従一位太政大臣、重盛は権大納言となっる。数か月で太政大臣は辞任するものの、この時点で平一門の公卿は5人、受領は 11 か国、知行国は5か国にまで増加した。しかし翌年、清盛は大病を患い天台座主明雲の下で出家する。後白河院と清盛は、政局が不安定となることを恐れて、5歳の六条天皇の退位(13歳で死去)と8歳の高倉天皇の即位を急遽行った。その後奇跡的に回復した清盛は、娘の徳子を後白河院の養女としたうえで高倉天皇の中宮にしている。

公卿を輩出した平一門であったが、宮中の諸行事はすべて後白河院と近臣らが公卿議定で行い、軍事や外交は清盛派の公卿が「内議」と呼ばれる密談で行うという分業体制となっていった。ただし、荘園公領間の問題や寺社による強訴に関しては対立した。嘉応元年(1169) 尾張国で目代が日吉神人を暴行したことから、延暦寺は責任者である院の近臣権中納言藤原成親の流罪を求め内裏を占拠した。成親を擁護する後白河院と延暦寺を擁護する清盛は対立し、福原にいた清盛は六波羅邸に入ると武士を動員し後白河院に軍事圧力を加える事態となった。また、承安2年(1172)に宋から後白河院と清盛に届けられた贈り物に「賜日本国王」と書かれていたことから右大臣九条兼実らはこれを不快として返牒すべきではないとしたが、清盛は院と共に「内々に」返礼を送っている。翌承安3年(1173)、清盛は福原の大輪田泊を整備すると、ここを拠点に宋との貿易を独占した。宋から輸入した大量の銭によって港の整備費用をまかなったことから、日本に本格的な貨幣経済が始まることになるが、治承3年(1179)の『百錬抄』に「天下上下が病悩する銭の病」と書かれる程のインフレが起こることにもなる。

治承元年(1177) 後白河院の近臣で信西家人であった西光の子が、荘園の検地を妨害したというこ とで白山神社領涌泉寺を焼き払った。白山の訴えに応えて延暦寺強訴し、後白河院は座主明雲を伊豆 流罪に処したが、これを不服とした延暦寺は配流途上の明雲を奪還している。これを謀反と見なした後 白河院は清盛に比叡山攻めを命じた。比叡山を討つために京都に結集した平氏の軍勢は、平氏打倒の企 てがあったとして、比叡山ではなく法勝寺僧俊寛の鹿ケ谷山荘を急襲し、西光は拷問の後惨殺、成親は 流罪の後暗殺、俊寛は鬼界が島に配流となる。

これにより後白河院の権威は低下してしまう。治承2年(1178)徳子が言仁親王を生むと生後1か 月で皇太子となる。治承3年(1179)後白河院は関白基房と組み清盛排除に動くと、清盛は福原から数 千騎を引きて上洛し、後白河院を鳥羽殿に幽閉してしまう。治承4年(1180)高倉天皇は3歳の言仁親 王に譲位し、安徳天皇が即位する。

9、平家の滅亡

後白河院を幽閉したうえでの安徳天皇の即位は、公家たちには受け入れがたいものであった。さら に、譲位後初の神社参拝は賀茂社か石清水社とするという慣例を破り、高倉院が厳島社に行幸したため、 園城寺は延暦寺・興福寺と連合して上洛し、後白河院と高倉院を奪取しようとする。この動きを受けて、 後白河院の第三皇子以仁王は、鳥羽院の娘八条院の後ろ盾を受けて、全国の源氏に挙兵を促す檄文を発 した。計画を察知した平氏は以仁王を捕らえようとするが、園城寺がこれを匿った。園城寺は延暦寺と 共に蜂起しようとするが反対派によって実現しなかったため、以仁王は興福寺に向かう。しかし平氏の 追撃を受け殺害されてしまった。平氏は園城寺を焼き払い、諸国に以仁王の令旨に呼応する武士の追討 を命じた。清盛は延暦寺・園城寺・興福寺に囲まれた京を嫌い福原に遷都する。しかし、延暦寺からの 批判を受けてわずか半年で京都に帰ることになった。

以仁王の檄文は全国の平氏に不満を持った武士たちの心を動かした。さらに令旨に呼応する武士の 追討を命じたことで、疑われた源氏の武士たちは立ち上がらざるを得なくなる。伊豆で20年余り流人 生活を送っていた頼朝も、自分に討手が差し向けられていることを知り、舅の北条時政や佐々木秀義親 子らと目代を襲撃・殺害し挙兵したが敗れ海路安房に逃れる。ここに安房・下総・上総・武蔵・相模か らの武士が合流した。頼朝にやや遅れ為義の次男義賢の子義仲以仁王の子北陸宮を推戴して信州で挙 兵した。義光の曾孫武田信義・安田義定兄弟も甲斐で挙兵する。治承4年(1180)平維盛・忠度・知度を追討使として五千騎の軍が坂東に向かったものの、富士川河畔で源氏軍と対峙すると川を渡って源氏方に逃走する者が続出した。これは追討軍に加わっていた東国武士であった。追討軍は戦うことなく背走するが、頼朝はこれを追撃せず鎌倉に引き返し東国支配の強化に努める。

平氏の大敗により全国各地で武士たちが蜂起する。平氏はこれを鎮めるため近江・美濃に追討軍を派遣したが消耗戦となる。治承 5年(1181)、平氏は兵力補充のために、かつて朝鮮半島派兵のために持ちいていた徴兵制を導入するが市民の反発を招くことになる。この混乱の中、清盛は64歳の生涯を終えた。

治承5年から寿永元年(1182)にかけて、旱魃にみまわれた。これに徴兵と兵糧米徴発により、未曾有の「養和の飢饉」に襲われる。これは「嬰児を道路に棄て、死骸は巷に満つ。夜々強盗、所々放火。餓死者、数を知らず」(『百錬抄』)、「道路死骸充満」「五条河原で童形の者が死人を食う。人が人を食うは飢饉の至極」(『吉記』)という状況であった。このような状況下でも、平氏は終結させた諸国武士を京都に留めていた。帰国させると二度と動員できない上に、源氏方に寝返ってしまうかもしれないからである。食料が尽きた武士たちは放火や略奪を繰り返した。頼朝は東国を源氏、西国を平氏に分割する和平案を提示するが平宗盛はこれを拒否した。この年、頼朝よりも先に義仲が動く。頼朝に子義高を質に送ると北陸の蜂起勢力をまとめて上洛の動きを見せる。平氏は寿永2年(1183) 全力を北陸に向け越中と加賀の国境砺波山に陣を張るが、義仲は倶利伽羅峠の夜襲でこれを打ち破った。平氏は京都まで逃げ帰るが、延暦寺義仲に味方したため安徳天皇と建礼門院徳子を擁して、三種の神器と共に六波羅邸と福原を焼き払い大宰府まで落ち延びる。しかし、豊後の緒方惟栄に逐われて屋島に拠点を置いた。京都に入った義仲は兵糧を求めて略奪を始めたたため、後白河院は義仲に平氏追討を命じたが大敗し京都に戻る。後白河院は頼朝に上洛を要請し、義仲には京都から退去するように命じた。怒った義仲は院御所法住寺殿を襲撃し院を幽閉し、園城寺円恵法親王(後白河皇子)や天台座主明雲を殺害した。三河で待機していた範頼・義経率いる頼朝軍が京都に入ると義仲は北陸道に逃れるが近江粟津で討ち取られた。軍を立て直し福原に陣を敷いていた平氏に対して、畿内・西国に源氏は少なかったため、義経は動員に従った武士や住人を御家人に加えることを約束して兵力を確保すると、鵯越の奇襲で福原の平氏を撃破し、さらに屋島での戦いでも勝利したため、平氏は彦島に逃れる。この戦いで瀬戸内の武士の多くが源氏につき、義経は水軍を手に入れると壇ノ浦で平氏を亡ぼした。平氏を討ち滅ぼした頼朝は京都には入らず、そのまま鎌倉を居に据えた。全国の武士御家人として編成し、全国の国衙荘園公領に対する命令権を獲得し、各国に総追補使(守護人)を置いた。本来これは平氏追討のために一時的な権限であったが、平氏滅亡後、後白河院が義経に頼朝追討宣旨を与えたことを責め、永続的に守護(総追補使)・地頭を設置することを認めさせた。これらの任免権はすべて鎌倉が握った。この職は国衙の官人とは違い、長期にわたる任としたため在地領主となっていく。これ以降、畿内に集中していた権力の分散が加速するyことになる。