2021年10月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史13-鎌倉仏教2 栄西と臨済宗-
1、禅宗
「禅」は「心が動揺することのなくなった状態」を意味する「ディヤーナ」の音写「禅那」の略語であるが、中国では「禅那に至る修行法」という意味になり、ここから禅宗が生まれた。禅宗では坐禅だけではなく「作務」と呼ばれる清掃や畑仕事、調理から、排泄に至る生活すべてを修行ととらえているが、これはインド仏教にはなかった理解である。
禅宗は、釈迦十大弟子の一人で頭陀第一といわれる摩訶迦葉を仏教の二祖とし、二十八祖の菩提達磨が中国に禅を伝えたとしている。しかし、禅宗の仏教理解は大乗仏教の教義に基づいていることから、その教義を釈迦にまで遡ることには無理がある。実際に禅宗の教義が成立するのは、四祖とされる大醫道信(580-651)と五祖とされる大満弘忍(601-674)以降である。弘忍の弟子神秀(606-706)は修行を通じて徐々に自己本来の清浄心を発露することを説き長安や洛陽などの中国北部で禅を広げ、兄弟弟子の慧能(638-713)は浄穢に分けることを否定し今のままでのさとりを説き中国南部で禅を広げた。慧能の弟子荷沢神会(684-758)は、慧能の禅が「頓修頓悟」であるのに対して神秀の禅が「漸修漸悟」であると批判した。これにより、禅宗は「北宗禅」と「南宗禅」に分裂するが、845年(会昌5年)の会昌の廃仏により南北宗禅ともに一旦廃絶してしまう。廃仏後、北宗禅は途絶えてしまったが南宗禅は法嗣を受けた禅僧たちによって復興する。復興した南宗禅から禅宗五家が生まれる。その一つが河北の臨済寺を拠点とした臨済義玄(-867)を祖とする臨済宗である。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』と言われた豪放な禅風で禅宗を興隆したが、唐が滅亡すると河北に 5 王朝が乱立し混乱が続いたため衰退してしまう。北宋朝によって中国が再び統一されると、黄龍慧南と楊岐方会の二人が臨済宗を立て直した。さらに南宋朝になると、楊岐派の圜悟克勤(1063-1135)の弟子大慧宗杲(1089 - 1163)を祖とする大慧派が臨済宗の主流となる。大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」が臨済宗の特徴として認識されるようになる。
1、二祖は神光慧可、三祖は鑒智僧璨とされる。
2、唐の武宗期に行われた廃仏事件。仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も排斥された。
3、臨済、瀉仰、曹洞、雲門、法眼の五家。
4、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周。
2、禅宗の特徴
禅宗は言語や論理的な説明による理解そのものが煩悩であるという理解により、経典よりも師資相承を重視している。この禅宗の特徴は「達磨の四聖句」といわれる「不立文字」・「教外別伝」・「直指人心」・「見性成仏」に表わされる。
- 不立文字…経典の言葉から離れ、禅によってさとりを直接体験する。経典を拠り所とする仏教諸派を「教宗」といい、禅宗を「仏心宗」という。
- 教外別伝・・・さとりは言葉ではなく、師の心から弟子の心へと直接伝える。
- 直指人心…さとりは言葉にできないため、直接的に示す。
- 見性成仏・・自身に本来そなわる仏としての本性を見抜いて悟りを開く。
3、栄西以前の禅
白雉4年(653) に唐に渡り玄奘三蔵から法相宗を学び日本に伝えた道昭(629-700)は、河南省の隆化寺で二祖神光慧可の孫弟子にあたる慧満から禅も学んでいる。帰国後、法興寺の東南隅に禅院を建て坐禅を修しているが、これは修行の一環としての坐禅であり禅宗とは言えない。天平8年(736)に来朝した道璿は華厳宗を伝えただけではなく、神秀の孫弟子でもあったことから、大安寺西塔院に禅院を建てて北宋禅を伝えているが、これも禅宗というわけではなかった。道璿から禅を学んだ行表の弟子が最澄である。最澄も唐で牛頭山流の禅を学び「円・戒・禅・密」の「四宗相承」を標榜したが、その中心はあくまでも円(天台)であり密(密教)であった。しかし、唐では石頭宗の祖石頭希遷。(700-790)や洪州宗の祖馬祖道一7 (709-788)らによって、禅宗が仏教の主流となっていた。このことを空海から聞いた嵯峨天皇の皇后橘嘉智子の要請により馬祖の孫弟子義空が来朝し、嵯峨天皇の離宮跡に日本で最初の禅寺となる檀林寺を開いている。この寺は焼失するが、後に足利尊氏が夢窓疎石(1275-1351)を開山として天龍寺として再建している。これにより、日本でも禅を学ぼうとする僧が現れる。曹洞宗の祖である洞山 良介の弟子となった瓦屋能光もその一人である。163 歳まで生きたとされるが、中国の史料には登場しているものの帰国することなく蜀の地で死去している。栄西以前に臨済禅を伝えたのが覚阿(1143-?)であり、最初に禅宗を開こうとしたのが大日房能忍(生没年不詳)である。
承安元年(1171) に宋に渡った覚阿は、臨済禅の公案集である『碧巌録』を著した圜悟克勤(1063-1135)の弟子仏海慧遠(1103-1176)の法を嗣いでいる。覚阿が仏海に示した言葉が『嘉泰普燈録』という燈史に載っている。燈史とは禅僧が悟った境地を記録したものであるが、日本人僧侶で中国
5、五祖弘忍門下の法持(635-702)を開祖とする流派。全盛期には北宗禅・南宗禅に対抗する勢力を形成していた。
6、慧能の孫弟子。曹洞宗大本山總持寺には石頭のものとされるミイラが安置されている。
7、慧能の孫弟子。、語録を重視しこれが公案を重視する臨済宗へと発展していった。
の燈史に採録されたのは覚阿だけである。4年間の修行後、帰朝した覚阿に高倉天皇が禅とはどのような教えであるのかを質問したところ、笛を一吹きして答えたが全く理解されなかったため、日本での布教をあきらめ比叡山に隠遁しそのまま没したという。
大日房能忍は北宋の永明延寿(904-976)が著した『宗鏡録』(全100巻)により禅に感銘を受け、摂津水田の三宝寺を拠点に達磨宗を興した。しかし、禅が仏教として認められなかったため、文治5年(1189) に弟子の練中と勝弁を宋の臨済僧拙庵徳光の下へ送り自らの見解を託している。これに拙庵徳光が達磨遺像を付与してきたことに自信をつけた能忍は京都での布教に乗り出して いる。日蓮が『開目抄』に「建仁年中に法然・大日の二人出来して、念仏・禅を興行す」と述べていることからも、当時は能忍が禅を代表する僧であったことが分かる。栄西は『興禅護国論』に達磨宗の教義を「行無く、修無し。本より煩悩無く、元是れ菩提なり。是の故に事戒を用ひ不、事行用ひ不、只応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し舎利に供し長斎節食を労せん耶」と書いていることから、日本で主流となっていた本覚思想的な禅宗であったと思われる。能忍の孫弟子で永平寺三世である徹通義介(1219-1309)が弟子の総持寺開山瑩山紹瑾(1268-1325)に与えた「嗣書助証」に「八宗の講者たりといえども、進んで以て達磨正初祖として宣下を蒙り、それによりに恩国裏、初めて達磨宗を仰ぐ」とあり、また法然の弟子弁阿弁長(1162-1238)の伝記『聖光上人伝』にも「これにおいて禅師、院奏を経て、達磨宗を弘む」とあることから、能忍に対して達磨宗の祖として弘法を認める宣下があったと思われる。しかし、比叡山から非難を受けると、間もなく不慮の事故により急逝してしまう。能忍没後も中世末まで三宝寺に門流が伝承されていたことが分かってい る。また、大和国の多武峰を中心として活動していた弟子の東山覚晏や懐奘(1198-1280) らは興福寺の門徒らの焼き討ちにあい、越前の白山系天台宗の拠点である波著寺に本拠を移している。覚晏没後、懐奘や門弟の懐鑑、義介らは道元の門下となり曹洞宗の基礎を築くことになる。栄西が覚阿と能忍を意識していたことは『興禅護国論』の末尾に附されている『未来記』から見て取れる。ここで栄西は、博多から来た張国安という者が宋の霊隠寺に参詣した際、住職の仏海禅師から、自分の死後20年後に日本で禅宗を弘める者が現れると予言し、仏海禅師の後を継いだ仏照禅師(拙庵徳光)もそのことを讃えていたことを聞き、自分こそがその禅僧であると書いている。仏海は覚阿の師であり、仏照は能忍に印可を与えた禅僧である。この『未来記』には「好人は海を越ず、愚人は到れどもなんぞ要せん」と能忍と覚阿を非難していると思われる言葉もある。
4、栄西
明庵栄西は保延7年(1141)に備中にある吉備津神社の神官を務める賀陽氏の子として生まれた。三井寺で仏教を学んでいた父から八歳で『倶舎頌』を学ぶと、14歳で比叡山に登り密教僧となる。仁安3年(1168)に28歳で聖地巡拝のために宋に渡った際、後に勧進聖として活躍する重源と出会い共に聖地を巡礼している。半年ほど宋に滞在した後、重源と共に帰国すると備前・備中を
8、元吉備国の総鎮守で、律令制下の名神大社の一つ。足利義満が造営した国宝の本殿は出雲大師に匹敵する規模。
拠点に活動し、多くの密教関係の書を著している。重源は養和元年(1181)に平氏によって破壊された東大寺再建の大勧進職に任じられ活躍するが、重源の死後この大勧進職を継いだのが栄西であり、その後も栄西門流が勧進職を引き継いでいる。栄西を鎌倉幕府に取りなし たのも重源である可能性が高い。
文治3年(1187) に栄西は2度目の入宋を果たしている。この目的を、栄西は「西域に赴」く為であったと書いている。栄西は、本覚思想が主流となり戒律を軽視するようになった日本仏教の風潮を危惧し、これを正すためには釈迦誕生の地へ行く必要があると考えたようである。しかし、西域の政情が不安定になり交通が閉ざされたため帰国の途に就くが、嵐により宋へ吹き戻されてしまう。やむを得ず、前回訪れた天台山万年寺へ赴いたところ、ここで臨済守黄龍派の禅僧虚菴懐敞に出会う。当時、中国で禅宗が盛んであったことは日本でも知られており、栄西自身も一回目の入宋で実感してはいたものの、儀式を重視する密教と教学を重視する顕教を兼修することが基本となっていた日本人の仏教観では、直感的な禅宗を仏教として受け入れることは難しかった。しかし、栄西は戒律を守り規則正しい生活を行っている禅僧の姿を目の当たりにしたことで、虚菴懐敵に弟子入りを志願することになる。すでに比叡山で菩薩戒を受けていたが、改めて小乗仏教戒である四分律と菩薩戒を受けなおしている。
日本の顕密仏教とは異なり、南宗の仏教はさとりに達するために必要とされる持戒・禅定・智慧の三学を兼修することを基本としていた。このいずれに重点を置くかによって、僧侶は戒僧・禅僧・教僧の三つに分けられ、仏教寺院も律院・禅院・教院の三院に大別されていた。この三院は等価値であり正統仏教とされ、浄土門などはこの枠外とされて いた。栄西は三学の中の禅と戒律を学んだが、同時代の俊荷 (1166-1227)は、南宗滞在中の12年の間に三院すべてで修行し、禅院では後に日本臨済宗の主流となる楊岐派を学んでいる。帰国後、律と教を修学する寺院として泉涌寺10を建立し栄西とも交流している。
禅院での生活は清規という起床から就寝まで細部にわたる規定によって営まれるものであった。ここでの修行から、厳しい戒律を基本とし、臨済禅によりながら、密教的な仏教理解をするという栄西独特の臨済禅が生まれた。栄西は私財を投じて万年寺や天台智顗ゆかりの智者塔院などの修復も行っている。
9、禅宗24流のうち 20 流をまでを占めるまでになった。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。
10、歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されており、皇室の菩提寺として御寺と呼ばれている。現在は真言宗泉涌寺派の総本山。
5、帰国後の栄西
建久2年(1191)に帰国した栄西は、九州から長門を拠点として戒律と禅の重要性を説いた。ここで日本でも禅宗が受け入れられることに自信を着けた後、栄西は京都に戻っている。後世に編纂された『百錬抄』11には、建久5年(1194)に「入唐上人栄西」と「在京上人能忍」による禅宗の布教が停止されたとあるが、この書以外にはこの記録はない。ただし『元亨釈書』12に、建久6年(1195)に九条兼実を介して内裏に赴いた栄西が、能忍の禅は偽物であるが自分の禅は正しい教えであり、最澄も禅の重要性を説いていることを主張したとあることや、実際に栄西が京都で受け入れられなかったことなどから、比叡山を中心として禅宗に対する疑義があったことは推測できる。一方で、この年、栄西が博多在住の宋商人たちの協力により、日本初の本格的禅宗寺院となる聖福寺を博多に建立していることから、禅宗を支援する動きがあったことこともわかっている。同年に栄西は禅院の衣食・行儀についての戒律を略述した『出家大綱』を書いているが、これは戒律を否定していた能忍の禅を意識したものであると考えられる。
栄西は多くの著作を残しているが主著とされるのが建久9年(1198)に著した『興禅護国論』である。これは次の10章からなっている。
1,令法久住門……仏法を久住させるには戒律が第一であり、戒律の遵守こそが禅である
2,鎮護国家門…禅宗こそが鎮護国家の法である
3,世人決疑門・・・禅宗に対する疑いが、無知と偏見から起こっていることを証明する
4,古德誠証門・・・古来、宗派を超えて禅が実践されてきた根拠をあげる
5,宗派血脈門・・・禅宗は過去七仏から師資偲相承されており、栄西は五十三代目の祖師である
6,典拠増進門・・・禅宗の正当性を証明する典拠を示す
7,大綱勧参門…禅への入り口には、教理・禅・直入の三通りがある
8,建立支目門・・・宋の禅院での規律正しい生活を説明する
9,大国說話門・・・禅宗に関わる物語の紹介
10,回向発願門…禅によって人々に功徳を回向し、大慈悲心を以て禅の教化に努める
この1章・3章・7章で、栄西は戒・定・慧の三学とされる仏教の修行体系の中でも、慧を獲得するためには戒・定が必要であるとし、特に戒が重要であると説いている13。戒と禅の関係は「大乗の法門は、心意が止息すれば、戒が生じ、ひいては禅定を得る」というものである。禅宗は戒律を教えの本源としており、戒律は正しい仏教を世に久しく留める教えであるから、禅宗を再興する以外に仏教を立て直す道はないというのが栄西の説であった。また、学識がなく理解が遅い者でも、鈍根で智慧なき者でも、もし坐禅に専心すれば、必ず仏道を成就するとして、末法の世では禅によらなければさとりを得ることが出来ないとしている。
11、公家の日記などを抜粋・編集した鎌倉時代後期に成立した歴史書。編著者は不詳。
12、臨済宗の僧虎関師錬(1278-1346)が漢文体で記した日本初の仏教通史。全30巻。
13、参禅問答は戒律を先と為す。是の故に、禅宗は戒を持って先と為す。是の故に、此の宗は仏戒を以て師と為す。西方の常理、戒浄を基と為す。
6、鎌倉禅と入宋僧による京都禅の勃興
栄西の後を継いだ退耕行男(1163-1241)・釈円栄朝(-1247)らも禅密兼修の僧であった。行男は鶴岡八幡宮の供僧職をつとめ、頼朝・政子らの信望も厚かったが、栄西が鎌倉に下向するとその門下に入っている。栄西が鎌倉幕府によって重用されたのは行男の影響が大きい。入宋したという記録もあるが定かではない。後に実朝の冥福を祈るために高野山に上り、栄西の死後は東大寺大勧進職もつとめている。弟子に大歇了心がいる。
栄朝は上野世良田の長楽寺をひらき、兼密禅の道場とした。弟子には円爾弁円(1202-1280)・無本覚心(1207-1298)・神子栄尊(1195-1273)らがおり、鎌倉禅を強固なものにしただけではなく関東天台宗の復興にも貢献している。
円爾は神子らとともに文暦2年(1235)に入宋し、同じ臨済宗でも栄西とは異なる楊岐派の禅を学んでいる。この時円爾は禅院だけではなく律院や教院にも参学している。帰国後北九州に地盤を作ると、九条道家の知遇をうけて東福寺の開山となっている。東福寺は東大寺と興福寺の規模を兼ねた大伽藍を持ち、東大寺大仏と同じ5丈(約 15m)の釈迦木像を収めた大仏殿を含め、総工費 13万8千5百貫文(約35億円)もの巨費を費やしたものであった。寺内には禅宗風の七堂伽藍を備えていたが、禅宗の祖師だけではなく真言八祖像や天台六祖像も祀られている真言・天台・禅の兼修寺であった。実際、円爾は栄西と同じく天台密教の僧であったため、真言・天台にも精通しており、禅僧以外の僧侶も東福寺に教えを乞いに集まってきていた。花園天皇から聖一国師と謚されたので、この門下を聖一派という。円爾には非常に多くの弟子がいたことから、聖一派は大門派に発展した。弟子のほとんどが円爾から兼密禅を受け継いでおり、それぞれが東福寺に塔頭を構えて門下の育成にあたった。そのため、聖一派は十刹十カ寺、諸山五十数カ寺を擁する京都禅林の主流となった。
円爾の後、東福寺二世となった東山湛照(1231-1291)は、天台浄土教黒谷の流れを汲む三聖寺の僧であった。円爾の弟子となった後に三聖寺を禅院に改めている。この門派を三聖門派という。東福寺三世となったのは宋で12年間禅を学んだ無関玄悟(1212-1291)である。亀山上皇は三井寺別院跡地にあった離宮を禅院に改め禅林禅寺とし無関を開山としている。これが後の南禅寺である。亀山上皇は無関を師として出家し禅僧となっている。これにより、禅宗は朝廷公認の仏教となった。この門流を龍吟門派という。
東福寺四世となったのは14年間宋で禅を学んだ白雲慧暁(1238-1297)である。強い観音信仰を特徴とし円爾の弟子の中で最も密教的な性格が強い門流である。この門流を栗棘門派という。
東福寺六世となったのは10年間宋で禅を学んだ蔵山順空(1233-1308)である。鎌倉幕府とも関係が深く、門流は永明門派という。
円爾の門流以外では、真言密教出身で、行男・栄朝から禅を学んだ後、道元の下にも参じている無本覚心(1207-1298)がいる。6年間宋で学んだ後、実朝の菩提を弔うために建てられた西方寺の開山となる。これが後の興国寺である。この頃、時宗を開いた一遍が無本から印可を受けている。円爾よりもさらに密教色が強く、坐禅以外に千手・不動。愛染などの修法も定めている。この派を法燈派とよぶ。興国寺を本拠にして全国に勢力を拡大させていった。
密教や天台との集合禅が主流の中、隠遁生活の中で禅だけを追求した入宋僧も少なくなかった。帰国後洛北妙見堂に隠棲した道祐(-1256)、信州別所の安楽寺に隠棲した樵谷惟僊、草河の勝林寺に隠棲した天祐思順などが知られているが、いずれも法系が永続することはなかった。
7、渡来僧による南宗禅の伝来
鎌倉を中心に禅への関心が高まっていたことは宋にも伝わり、鎌倉時代中期から後期にかけて多くの禅僧が日本を訪れている。
蘭渓道隆(1213-1278)は北条時頼の招聘により、寛元4年(1246)に博多に上陸し京都泉涌寺に立ち寄った後、宝治2年(1248)に入宋僧の大歇了心が住持を務めていた鎌倉寿福寺に入っている。念禅密兼修寺院であった粟船(大船)常楽寺の住持となると、ここを宋風禅院に改め、建長3年(1251)に北条時頼が建長寺を建立するとここの開山となって いる。同寺は参徒二百余人を擁する大禅刹となった。建長8年(1256)、北条時頼は蘭渓道隆を戒師として出家している。北条時頼が禅に傾倒したのは、南宗禅が仏教だけではなく道教・儒教も兼学し王法を敬い南宗皇朝の神聖化を積極的に助ける役割を果たしていためである。蘭渓道隆も禅だけではなく朱子学をも兼修していた。ただし時頼が重んじたのは禅だけではなく、律宗も同等以上に扱い、華厳律宗の叡尊に対する北条氏一門の信仰は熱狂的であったという。叡尊の弟子の忍性は鎌倉で社会福祉的な活動を行っている。禅と律を中心に仏教を庇護する鎌倉幕府の流れは室町幕府にも引き継がれることになる。
時頼は文応元年(1260)に同じ臨済宗でも松源派の蘭渓道隆とは法系を異にする破庵派の兀庵普寧(1197-1276)を日本に招請している。宋で無名であった蘭渓道隆とは違い、兀庵普寧は既に 63歳と高齢ではあったが諸寺の首座・住持を務めた宋でも著名な禅僧であった。博多聖福寺から京都東福寺を経て鎌倉建長寺に入っている。兀庵普寧の禅も儒仏一致であったが、蘭渓道隆とは法系が異なっていたため反発も招くことになる。菩薩である地蔵よりも仏である自分の方が上位であるという理由で、建長寺の仏殿にあった本尊地蔵菩薩を礼拝することを拒んだといわれている。時頼が没した後、兀庵普寧は自らの禅を理解するものがいないことに失望し帰国している。この間6年ほどであった。宗覚禅師と諱されたことからこの門流を宗覚派というが、日本での滞在時間が短かったことから弟子の数が少なく大門派にはならなかった。
蘭渓道隆は弘長2年(1262)に兀庵普寧に建長寺住持を譲り京都建仁寺に転じ、京都に南宋風の禅を伝えている。兀庵普寧が帰国した後、再び鎌倉へ帰ると禅興寺を開き建長寺住持に再任された。一時流言によって甲斐や奥州に配流されたものの、許されると寿福寺に住した。蘭渓道隆は32年 にわたり日本で禅の普及に尽力した。渡来僧や入宋僧に各地で住持になることを勧め、京都の円爾と共に禅宗を発展させている。この結果、公家を外護者とする京都禅と武家を外護者とする鎌倉禅が展開していった。一方で、この様に権力と一体化した禅のあり方に批判的な禅僧も現れた。悟空敬念やその弟子東巌慧安などは大伽藍住むことなく隠遁生活を送っている。蘭渓道隆は弘安元年(1278)に死去すると大覚禅師と謚されたため、その門流を大覚派という。一時は聖一派に次ぐ有力門流であったが次第に勢いを失っていった。
文永6年(1269)には蘭渓道隆の法系である松源派の大休正念(1214-1288)が来日している。北条時宗に招かれ、鎌倉の禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺に住した後、浄智寺の開山となった。蘭渓道隆や兀庵普寧よりも文字言語による教化に力を入れたことで、非常に多くの語録が残ってい る。特に、七言・五言の漢詩を多く残しており、これにより禅林文学18が起こることになる。大休正念が釈迦の常楽我浄、孔子の文行忠信、老子の清浄無為はおのおのが性命を正す道であるという三教一致を説いたことにより、北条一門は『論語』を重んじるようになった。さらに、蒙古来襲の際、大休は時宗に「巨敵を攘い社稷を安じて万世不抜の基を立つるは、皆仏性を妙悟するの霊験な り」という法語を与えている。これ以降、禅風は民族的・国家的性格を色濃くすることになる。仏源禅師と諱されたので、この門流を仏源派というが、これも大門派にはなることはなかった。
宋が滅んで元朝となった弘安2年(1279)には時宗の招請で無学祖元(1226-1286)が来日した。一旦建長寺に入った後に円覚寺の開山となっている。生涯、北条一門をはじめとする鎌倉武士の教化に専念した。後に仏光禅師・円満常照寺国師と諱させたことから、その門流を仏光派という。こ の派は多くの門弟を輩出したが、京都初の南宋禅風寺院となった南禅寺開祖の規菴祖円(1261-1313)や、後嵯峨天皇の皇子で真言宗寺院であった那須雲岩寺を禅宗に改宗して開山となった高峰顕日(1241-1316)が知られている。
正安元年(1299)に日本遠征に失敗した元が平和外交の使節として来日させたのが、名僧として知られていた一山一寧(1247-1317)である。北条貞時は一時、一山一寧を元の間諜と疑い伊豆の修禅寺に幽閉した が、疑いが腫れると建長寺の住持に迎えている。既に無学祖元・大休正念が死去していたことから、関東武士を中心に一身に帰依を集めた。さ らに後宇多上皇の懇請を受けて南禅寺三世となると、南宋禅が公家の間にも浸透することになる。一山一寧は禅以外にも儒教にも精通してお り、僧侶以外の人々にも大きな影響を与えた。文保元年(1317)に死去すると、翌日に一山国師と謚され、その門流は一山派とよばれている。
18、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学。禅の法語、詩文、日記、論説などの分野に及ぶ。
延慶2年(1309)には北条貞時の招きで東明慧日(1272-1340)が来日し曹洞宗宏智派を伝えて いる。円覚寺に白雲菴を創り貞時の師となっている。東明慧日が死去すると、観応2年(1351)に は同派の東陵永璵が来朝し、引き続いて曹洞宗宏智派を伝えている。宏智派は鎌倉から肥後・尾張・武蔵に広がり多くの文芸書を残している。後に越前朝倉の庇護を受け発展したが、信長により朝倉が滅ぼされるとともに歴史から消えていった。
嘉暦元年(1326)には北条高時の招請により清拙正澄(1274-1339)が来日している。鎌倉建長寺・円覚寺から京都建仁寺・南禅寺に上り、足利尊氏はじめ多くの京都武士をも教化している。当 時元で流布していた『禅林備用清規』を日本用に改定した『大鑑清規』を撰述し日本禅林の規矩を 整えた。やがてこれが日本の習俗と折衷されて小笠原流礼法に発展している。暦応2年(1339)に 死去すると、大鑑禅師と諱されたので、この門流を大鑑派という。
ついで元徳元年(1329)には元朝禅林の中核的な存在であった明極楚俊(1262-1336)、竺仙梵僊(1293-1349)が来日している。しかし、南北朝時代内乱にともない、これ以降来朝者は跡を絶つ ことになる。
8、宗としての禅
日本では奈良時代の南都六宗に平安時代の天台・真言が加わることで、密教を基本とした八宗体 制となっていた。ここに、鎌倉時代中期以降、新たに禅宗と浄土宗が公家や武家の間でも広まって いく。円爾は『十宗要道記』に顕密八宗に浄土宗と仏心宗を加えた十宗を立て、これらがすべて律 門・教門・禅門の三門に包摂されているとしている。東大寺の僧である凝然(1240-1321)は文永 5年(1268)の『八宗綱要』に八宗以外に禅宗と浄土宗がさかんに弘通していると述べている。日 蓮(1222-1282)も八宗に禅宗と浄土宗を加えた十宗の存在を認めている。しかし、康永4年(1345)に延暦寺が朝廷に提出した申状では、禅宗の興行によって八宗の弘通が妨げられていると訴えてお り、応安元年(1368)に延暦寺が朝廷に南禅寺以下の禅院の破却を求めて提出した奏状の中では「八 宗之外」の禅宗と浄土宗は非公認であるして批判している。さらには、禅宗と浄土宗は雑行・非法 であるとして、両宗の停止を朝廷に求めている。
公式に宗派として認められない中で、蘭渓道隆の弟子である南浦紹明(1235-1309、大応国師)から、宗峰妙超(1283-1338、大徳寺開山、大燈国師)、関山慧玄(1277-1361、妙心寺開山、無相大師)へと 引き継がれた法系により現在の日本臨済宗が確立されることにな る。これを「応燈関の法灯」という。また後醍醐天皇の帰依を受け 天龍寺を開いた夢窓疎石(1275-1351)の活躍もあり、臨済禅は室町 時代に一宗としての独立を成し遂げることになる。この後も変遷を 重ね、現在、日本臨済宗には、建仁寺派・東福寺派・建長寺派・円覚 寺派・南禅寺派・国泰寺派・大徳寺派・妙心寺派・天龍寺派・永源寺 派・向嶽寺派・相国寺派・方広寺派・佛通寺派の十五派がある。
