2021年11月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史14-鎌倉仏教3 道元曹洞宗-

1、道元

道元は正治2年(1200)に大納言土御門(村上源氏久我流)通具(1171-1227)を父として生まれたとされている。母は摂政関白松殿(藤原)基房に縁の深い人物であったと思われる。母の死去をきっかけに13歳 の時比叡山で得度し、その後授戒して仏法房道元となるが、比叡山で学んだ本覚思想に疑問を抱き 18歳で建仁寺に入ってる。これは栄西が死去して2年後であった。栄西の弟子である明全(1284-1225)に師事し密教禅を学ぶと、貞応2年(1223)に24歳で師の侍者として宋に渡る。港で出会った年老いた典座(修行道場の料理長)から、日常の生活すべてが修行であることをおそわったという。天童山景徳禅寺で臨済宗大慧派の無際了派(1149-1224)から教えを受けるが満足できず、師を求めて各地を巡ったすえに、翌年、無際了派の死去に伴い新たに天童山の住持となった曹洞宗系の長翁如淨(1162-1227)に出会い弟子と なった。如淨は臨済や曹洞といった宗派的な発想を嫌い、その禅は只管打坐というひたすら坐禅だ けを行うという実践的なものであった。如淨の下で修業した道元は、宝慶元年(1225)に「身心脱落」し印可を受ける。この直後に明全は病死している。安貞元年(1227)道元如淨から正当な禅 の継承者である法嗣と認められ、禅の歴代継承者の名を連ねた嗣書を渡されると「まのあたり大宋 国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしをしるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめん」(『正法眼蔵』)との意欲を持って帰国している。帰国直後から坐禅の作 法を記した『普勧坐禅儀』の撰述に着手していることからもその意気込みがうかがわれる。

京都に戻ると明全の遺骨を埋葬するために建仁寺に入る。その時訪れた建仁寺の様子を道元は「仏法陵遅し行こと眼前に近し。予、始入建仁寺時見しと、後七八年に次第にかはりゆくことは、寺の寮々に各々塗籠をし、持器物、好美服、貯財物、好放逸之言語、問訊・礼拝等陵遅することを以て思ふに、餘所も被推察也」(『正法眼蔵随聞記』)と嘆いており、若い僧たちは「交会淫色」な どの「雑談」までしていたという。

1、かつては内大臣土御門通親(1149-1202)が父とされていたが、道元永平寺で「育父源亜相」を供養したとの記録の「育父」を実父と解釈して、現在は通親の次男で亜相(大納言)であ った道具を父とする説が主流となっている。通親は後白河法皇の乳母・藤原範子を室に迎え、範 子の連れ子である在子を養女にして後鳥羽天皇の後宮にいれる。在子が皇子を生むと土御門天皇 に即位させ実権を握っている。九条兼実を失脚させたことから、兼実の日記『玉葉』には「積悪 の輩」と書かれ、源頼朝も『愚管抄』に「手にあまる」と嘆じている人物である。

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日本仏教界に批判的であった道元は、庵を比叡山の僧に破却されてしまい、深草の極楽寺別院安養寺に仮住まいすることになる。ここに禅を学ぼうという者が集まって来たため、道元は最初の『正法眼蔵』となる和文の法話集『弁道話』の撰述に取りかかる。さらに、天福元年(1233)に は極楽寺敷地内に観音導利院興聖宝林禅寺3を開いている。道元が寺を開いたことを聞き太宰府か ら俗弟子楊光秀が訪れると、道元は仮名法語『現成公案』を与えている。「花は愛惜にちり、草は 棄嫌におふるのみなり」という法語で知られるこの法語集は、道元によって『正法眼蔵』 75巻本 の首巻に置かれている。さらに翌天福2年(1234)には、初心者向けの禅入門書『学道用心集』を 書いている。文暦元年(1234)には、比叡山で出家得度後浄土門に入った後、多武峰の東山覚晏の もとで達磨宗を学んでいた孤雲懐奘(1198-1280)が道元の弟子となっている。道元は、出家在家 を問わず集まった者の質問に応じる形で説法を行い、それを懐奘が記録したのが『正法眼蔵随聞記』(6巻)である。

嘉定2年(1236)には日本初の本格的な禅堂となる興聖寺禅堂の竣工式が行われた。ここに、越前一乗谷波着寺を拠点にしていた達磨宗の一派から覚晏の高弟覚禅懐鑑(-1251)が門下の徹通義介(1219-1309)や義演(-1314)、順徳上皇(もしくは後鳥羽上皇)の子である寒巌義尹(1217-1300、法王長老、九州曹洞宗の祖)らと共に入門している。達磨宗以外からも、浄土宗の然阿良忠4(1199-1287、浄土宗第3祖)や覚明房長西(1184-1266、浄土宗九品寺義の祖)や、心地覚心(1207-1298、臨済宗法燈派の祖)などが参集している。弟子の中で皆伝である法嗣であったのは、懐奘・詮慧(比叡山横川の僧、京都永興寺の開山)・僧海(弟子中の第一座となるが 27歳で死去)の三人 とされる。弟子の増加に合わせて典座の心得を規定した『典座教訓』や、入門者の出家と授戒作法 を定めた『出家授戒作法』を著している。さらに『現成公案』以来途絶えていた『正法眼蔵』の撰 述・示衆(説法)を始め、4年半の間に41巻を著している。またこの時書かれた『永平広録』には 120 回を超える上堂『が行われていたことも記録されている。

これだけ積極的に布教活動を行っていた道元が、寛元元年(1243)に越前へと拠点を変えている。この理由を道元自身は語っていないが、いくつかの要因が考えられている。

比叡山黒谷の僧光宗(1276 - 1350)が天台教学に関する資料を集めた『渓嵐拾葉集』(1347、300巻あったと伝えられるが現存は113巻)に、後嵯峨天皇の時代に仏法房(道元)が『護国正法義』を著して奏聞に及んだが「佐の法師」によって道元の教えは仏教に拠ったものではないと判定され たために極楽寺が破却された、と書かれている。仁治3年(1242)12歳で急死した四条天皇に代 わって即位した後嵯峨天皇は土御門道親の嫡男通宗の娘通子の子であり、土御門道親の四男定通は 後嵯峨天皇の育ての親でもあったことから、土御門一門は政権の中枢に返り咲いている。定通が内 大臣となり禁中の諸事を独占したことで、朝廷に『護国正法義』を奏聞できたのであろう。ただし、

2、現在の伏見区黒染町にある欣浄寺とされているが定かではない。

3、現在は伏見区深草にある日蓮宗の宝塔寺。

4、浄土宗鎮西儀の祖弁長(能忍から禅を学んでいる)の弟子。一向俊聖(1239 -1287、一向宗の祖)の師。

5、「私は宋の国から何も土産を持たず、空手で故郷に帰ってきた。ただ、目が横に、鼻が縦に付いていることがわかった」といった、禅宗の長老や住持が法堂で行う法話。

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護国正法義』が著述されたのが越前に行く1年ほど前であることから、極楽寺破却の原因を越前に行く3か月前に、道元が天台別院である六波羅密寺で、禅宗の系図こそが釈迦以来正しく伝わっ てきた仏教であるという『正法眼蔵』「古仏心の巻」を説示したことであるとも考えられている。また、寛元元年には円爾が上洛し、興聖寺とは伏見稲荷大社を挟んだ北側に建立された東福寺に 入っている。前年の仁治3年(1242)に道元は『正法眼蔵』に臨済宗を次のように批判しているこ とから、円爾が京都で受け入れられたことを快く思わなかったとも考えられる。

● しかあるに、近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禅は、胸襟無事なることを得了りぬれば、便ち 是れ平穏地なり。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法 の漢とはいはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。又一類の漢あ り、坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず。行亦禅、坐亦禅、行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安然なり。ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨済の余流と称ずるともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命つたはれることおろそかなる によりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにか おく。

さらに、仁治3年(1242)に『如淨録』が道元の元に届いている。これを読んだ道元が「国王大 臣に近づくことなかれ。深山幽谷に居して一箇半箇を接得せよ」(『宝慶記』)という師からの言葉 にわが身を顧みた可能性もある。『正法眼蔵』には、王侯貴族と親しく交わらず、皇帝から贈られ た禅師号も断わり、一切の名利をすてて、生涯黒衣で通し、一生の間坐禅に徹しきった如淨の生き 方を讃嘆しており、自らもそれに倣おうとしたのかもしれない。

これらいくつかの理由により京都を離れることにしたの道元がこの頃詠ったのが「山のはの ほのめくよひの月影に光もうすくとぶほたるかな」(『後拾遺和歌集』)である。

寛元元年(1243)興聖寺を弟子の詮慧に任せると支援者である六波羅探題波多野義重(如是居士、-1258)の知行地であった越前に向かった。越前一乗谷波着寺系の弟子が多くいたうえに、越前で 勝山平泉寺を中心に勢力を持っていた白山天台は、延暦寺と対立関係にあった園城寺に近かったこ とから道元に好意的であった可能性も考えられる。また、道元は『帰依三宝』の中で『法華経』こ そが釈尊の説いた諸経のなかの大王であり大師であり、その他の経典は『法華経』の臣民・眷属で あり方便に過ぎないと書いており、実際『正法眼蔵』に数十か所もの『法華経』からの引用がある ことからも、白山天台道元を受け入れやすかったと考えられる。

越前に入った道元は、波多野義重により傘松峰大仏寺が建立するまでの1年間、平泉寺に近い 禅師峰と吉峰寺の草庵に仮住まいしながら『正法眼蔵』を25巻執筆している。大仏寺に入ると、弟子たちのために、進退作法を示した『大仏寺弁道法』や食事作法を詳説した『赴粥飯法』を撰述 している。寛元4年(1246)には大仏寺を吉祥山永平寺に改名し、自も希玄と改名している。

宝治元年(1247)には鎌倉にあった波多野義重の屋敷で授戒会や説法を行っている。この頃詠 んだ和歌が「春は花夏ほととぎす 秋は月冬雪さえて すずしかりけり」である。しかし、道 元の禅は臨済禅が主流の鎌倉では受け入れられることなく半年余りで帰国している。

建長4年(1252) 秋ごろ体調を崩した道元は、弟子たちに釈迦最後の垂誡とされる『遺教経』を

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もとに「八大人覚」を教説している。その最後の言葉が次の一文である。

● 仏法にあひたてまつること、無量劫にもかたし、人身をうることも、またかたし。たとひ人身 をうくといへども、三州の人身よし。そのなかに南州の人身すぐれたり。見仏聞法、出家得道 するゆゑなり。如来の般涅槃よりさきに、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきか ず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる。宿殖善根のちからなり。い ま習学して、生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈 迦牟尼仏にひとしくして、ことなることなかからん。

建長5年(1253) 体調を悪化させた道元は上洛すると弟子の屋敷に入り療養するが8月28日に 死去している。京都東山で荼毘に付された後、遺骨は永平寺に帰っている。この年の4月には日蓮 が安房から鎌倉に入り、11月には蘭渓道隆建長寺の開山となっている。

2、道元の禅

道元が宋で最初に学んだ禅は、臨済禅でも大慧宗杲(1089-1163)の看話禅であった。馬祖など が「即身即仏」「平常心是道」を標榜した洪州系禅など「人は本質的に仏である」ことを説く初期 の禅は「仏であるから、何もしなくてもよい」(平常無事)とう日本の本覚思想と同じ考え方に陥 る危険性を含んでいた。「仏法は功を用いる処無し、祇だ是平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困れ 来れば即ち臥す」「一無位の真人」(『臨済録』)を強調する臨済宗は、たとえ本質的に仏であっても 現実の自己は迷いの存在であるから、公案により「悟り体験」をする看話禅によりこの危険性を回 避した。日本の臨済各派はこの看話禅を基盤として継承され、江戸時代の白隠慧鶴(1685-1768) により大成されることになる。

これに対して、道元の師である如淨の禅は曹洞禅の中でも宏智正覚(1091-1157)が標榜した、 公案などの一切の思慮分別を断絶してただ黙々と坐するという黙照禅の流れを汲むものであった。この両方を学んだ道元は、公案を用いながらもそのどちらでもない独自の禅風を打ち立てた。そ れは、仏であることを悟るための禅ではなく仏であるための禅という、従来の禅の概念を覆すもの であった。「さとり」が到達すべきものではなく継続的な状態であることを表すために、道元は「さ とり」の代わりに「身心脱落」という表現を用いている。この坐禅自体が仏の状態を維持する修行 であるということを「修証一等」という。

道元は「修証一等」を次のように語っている。

それ、修・証はひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等 なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに、修行 の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ。直指の本証なるがゆえ なるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。(『正法眼蔵』)これを具体的に表す道元の言葉が次である。

6、少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戲論

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● うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそのきはなし。し かあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要 小のときは使小なり。…しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬 する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。このところを うれば、この行季したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行季したがひて現成公案な り。このみち、このとろこ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるに あらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。(『正法眼蔵』)

道元は「現成公案」を従来の「真理の現前成就」ではなく「修行が成就する」という意味で使って いる。

道元は悟りを到達点であると考えることを誡めるために「学道の人、若し悟を得ても、今は至極 と思て、行道を罷ことなかれ。道は無窮なり。さとりても、猶行道すべし」(『正法眼蔵随聞記』) という言葉も残している。

道元は仏を次のように語っている。

● およそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらざる。(『正法眼蔵』)

● 仏法は人の知るべきにあらず。この故に昔しより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏 法をきはむるなし、独り仏にさとらるる故に、唯仏与仏、乃能究尽、と云ふ。(『正法眼蔵』)

また、坐禅は次のように「法性の施為」(『正法眼蔵』)によて成すものであるという。

● ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ、仏 となる。(『正法眼蔵』)

これは「覚」ではなく「信」の禅である。「仏法大海信為能入なり。おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところなり」(『正法眼蔵』)という言葉は、親鸞の『正信偈』にある「必以信心為能入」と酷似している。さとりが究められないという道元の理解は、さとりが得られないというのではな く、きわめるものではないということである。これにより本覚思想や優越感や独善的な達成感にに 陥る危険性を回避している。

道元にとっての坐禅とは次のようなものである。

● 上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。

● 言を尋ね語を遂ふの解行を翻し、迴光返照の退歩を須ひよ、自然に身心脱落し、本来の面目 現前せん、恁麼を得んと欲せば、急に坐禅を務めよ。

● 坐禅は則ち大安楽のほうもんなり。

● いわゆる坐禅は習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり。(『普勧坐禅儀』)

● 坐はすなわち仏行なり。坐は即ち不為なり。これ即ち自己の正体なり。この外別に仏法の求 むべきなきなり。(『正法眼蔵』)

さららに、道元の禅は自利に留まるものではないことも語っている。

● 仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己および

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他己の身心をして脱落せしむるなり。(『正法眼蔵』)

利他に関しては「衆生を利益するというは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるな り」(『普勧坐禅儀』)と利益という形でより積極的に示している。

坐禅をこのように理解している道元にとっては禅宗という名乗りすら許されないものであった。

● 禅宗の称たれか称しきたる、諸仏祖師の禅宗と称するいまだあらず。しるべし、禅宗の称は魔 波旬の称するなり。魔波旬の称を称しきたらんは、魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず。(『正 法眼蔵』)

と、禅宗や曹洞宗と称することを嫌い、仏法や正法と表現している。この傾向は越前の吉峰寺に入 って以降特に顕著になっている。ここで書かれた『仏道』には「仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心、み だりにこれを禅宗と称」することを誡めさらに次のように語っている。

● 従古至今、いまだ禅宗の称あらざるを、みだりに自称するは、仏道をやぶる魔なり、仏祖のま ねかざる怨家なり。

● 仏仏祖祖の法のほかに、さらに禅宗と称する法のあるににたり、もし仏祖の道のほかにあらん には、外道の法なるべし。

● あきらかにしるべし、禅宗と称するは、あやまりのはなはだしきなり、つたなきともがら、有 宗・無宗のごとくならんと思量して、宗の称なからんは、所学なきがごとくなげくなり、仏道 かくのごとくなるべからず、かつて禅宗と称ぜず一定すべきなり。

また、道元如淨の「如今箇々祇管に雲門・法眼・偽仰・臨済・曹洞等の家風別ありといふは、是れ仏法ならざるなり、是れ祖師道ならざるなり」を受け次のように展開している。

● 先師古仏を礼拝せざりしさきは、五宗の玄旨を参究せんと擬す、先師古仏を礼拝せしよりのち は、あきらかに五宗の乱称なるむねをしりぬ。

● 仏道におきて各々の道を自立せば、仏道いかでか今日にいたらん、迦葉も自立すべし、阿難も 自立すべし、…各々自立せん宗旨、たれか正邪を決択せん、正邪いまだ決択せずば、たれかこ れを仏道なりとし、仏道にあらずとせん、この道理あきらめずば、仏道と称しがたし。

● 学仏の道業を正伝せんには、宗の称を見聞すべからず、仏仏祖祖付属し正伝するは、正法眼蔵 無上菩提なり、仏祖所有の法は、みな仏付属しきたれり、さらに剰法のあらたなるあらず、こ の道理、すなわち法骨道髄なり。(『正法眼蔵』)

親鸞が経典を読み替えて、より真意を明らかにしているのと同様に、道元も独自の読み替えを行 い、仏教の新たな境地を表している。『涅槃経』にある「悉有仏性」は「あらゆる衆生は仏性を有 す」と読まれているが、道元は「すなわち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時 は、衆生の内外、すなわち仏性の悉有なり」と読んでいる。また「諸悪莫作」は「諸悪をなすなか れ」と読むところを「諸悪は莫作なり」と読み

● 諸悪なきにあらず、莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。諸悪は空にあ らず、莫作なり。諸悪は色にあらず、莫作なり。諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみなり。た とへば、春松は無にあらず、有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず、無にあらず、 つくらざるなり。諸仏は有にあらず、無にあらず、莫作なり。…自己は、有にあらず、無にあ

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らず、莫作なり。・・・しかあれば、莫作にあらばつくらましと趣向するは、あゆみをきたにして 越にいたらんとならんがごとし。(『正法眼蔵』)

● 善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。法等、悪等なり、法等、善等なり。(『正法眼蔵』)

と独自の善悪論を展開している。

また、当時の仏教界では定説とされていた末法思想に対しても

● 教家に名相をこととせるに、なほ大乗実教には、正・像・末法をわくことなし、修すればみな 得道す。

● 今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必 ず得べきなり。(『正法眼蔵随聞記』)

と、末法は方便説に過ぎないとして否定している。

深草にいる時は、正信修行すれば賢愚利鈍、男女貴賤、在家出家、身分の違い関係なく、誰でも 等しくさとることができるとしていた(『正法眼蔵』)。特に女性に関しては

● 得道はいづれも得道す、ただしいづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ 仏道極妙の法則なり。(『正法眼蔵』)

と述べ、当時の仏教界が女性を「貪淫」のみなもととして「比丘尼・女人」を道場に入れないこと を「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判し「邪風」と激しく非難していた。しかし、越前に 入ると「在家は仏法の在処にはあらず」という出家優先主義に変わり次のように語っている。

● 帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず。諸天の出家人を拝するに、比丘・比丘尼またく答 拝せず。これ出家の功徳すぐれたるゆえなり。(『正法眼蔵』)

● 衆生は親疎を選ばず、ただ出家授戒を勧むべし。…聖教のなかに、在家成仏の説あれど、正伝 にあらず。女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず。仏祖正伝するは出家成仏なり。(『正 法眼蔵』)

また、京都や鎌倉の臨済禅に対しては

● 戒行持斎を守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふ も、亦これ非なり、只是れ柄僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へ ばとて、必ずしも宗とする事なかれ。

● 是を宗とする事、宋士の寺院に寓せし時に、衆僧にも見へ来らず、実の得道のためには唯坐禅 工夫、仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学五眼房、故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて 持斎をかたく守りて戒経を終日誦せしをば、教て捨てしめたりしなり。

戒律至上主義を否定し

● 当世の人、多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり、是れ亦非なり、直饒ひ高堂大観玉をみが き金をのべたりとも、是れに依て得道の者あるべからず。

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● 僧徒の此事をいとなむは仏法興隆にはあらざるなり、たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句 をも思慮し一と時の坐禅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ。

● 今ま僧堂を立んとて勧進をもし随分にいとなむ事は、必ずしも仏法興隆とは思はず、只当時学 道する人もなくいたずらに日月を送るあひだ、只あらんよりはと思ふて、迷徒の結縁ともなれ かし、亦当時学道の徒がらの坐禅の道場のためなり、亦思ひ始めたる事のならぬとても恨みあ るべからず、只柱ら一本なりとも立て >置たらば、後来も、かく思ひくはだてれども成らざり けりと見んも、苦るしかるべからずと思ふなり。

と大規模な寺院を次々と建てていることを批判している。また「この坐禅をつとめん人、さらに真 言止観の行をかね修せん、さまたげあるべからずや」という弟子の質問には次のように答えている。

● 在唐のとき、宗師に真訣をききしちなみに、西天東地の古今に、仏印を正伝せし諸祖、いづれ もいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。

● まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし。

● 広学博覧はかなふべからざることなり、一向に思ひ切りて止べし。

● 文筆詩歌等其の詮なき事なれば捨べき道理なり、仏法を学し、仏道を修するにも、猶を多般を 兼学すべからず、況や教家の顕密の聖教、一向にさしおくべきなり、仏祖の言語すら多般を好 み学すべからず。

● 高広なる仏法にことの多般を兼ぬれば、一事をも成すべからず。

「しからば何ごといかなる行か、仏法に専ら好み修するべき」という問いに対しては

● 桟に随ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処ろは坐禅なり、此の行、能く 衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり。

● 語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆なこれまで の自行化他のために畢竟して無用なり、只管打坐して大事をあきらめなば、後には一字を知ら ずとも、他に開示せんに用ひつくすべからず。

と答え禅僧が密教や詩歌などの孝養に走ることを誡め、さらに

● 行者、自身の為に仏法を修せんと念うべからず、名利の為に仏法を修すべからず、果報を得ん が為に仏法を修すべからず、霊験を得んが為に仏法を修すべからず。但だ仏法の為に仏法を修 す、乃ち是れ道なり。(『学道用心集』)

と仏教に専念すべきこと説き「みみをおほふて三教一致の言をきくことなかれ。邪説の最邪説なり」 と儒教・道教に耳を傾けることを禁じている。

他宗にたいしては

● この単伝正直の仏法は、最上のなかの最上なり、参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・ 念仏・修懺・看経をもちるず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。(『正法眼蔵』)

● 仏家には教の殊劣を討論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。

● いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道入とならしめんとな り。

● 仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とす。

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と坐禅の優位性を主張し、特に急激な広がりをみせていた浄土宗に対しては

● ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし、…口声をひまな くせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし。(『正法眼蔵』)

と痛烈な批判を行っている。

3、道元以後の動向

道元の死去後、永平寺第2代となった孤雲懐奘は、永平寺の伽藍 や規矩を整備した際「加之祖翁栄西僧正素意也」と密教禅である栄 西の宗風を取り入れる。これにより、道元の禅風を重視した詮慧・ 寂円らが相次いで永平寺から離れることになる。

高齢の懐奘に代わって永平寺第3代 となったのは徹通義介である。義介は 道元の弟子となった後、京鎌倉で臨済 宗を学び入宋している。密教禅の影響を受けていた義介は、永平寺住 持となった際、永平寺内に土地神、五軀像等の護法神を造営している。これにより、義演との間で争論が始まる。これが 1260 年頃から 1317 年までに及ぶ三代相論と言われる内部紛争である。収集を図るために 懐奘が間に入るが、懐奘の死後再燃し、義介は 75 歳で永平寺を離れ ている。加賀守護富樫家尚の招きで真言 宗寺院であった加賀押野荘大乗寺を禅 院に改め初代となる。これにより、道元 の法系は永平寺系と大乗寺系に分裂す ることになる。

永平寺第4代に義演がなると支援 者である波多野氏がこれに反発し、永 平寺の経営が破綻してしまう。そこで 大乗寺の義介を呼び戻し再建を図る ものの、反対派の協力が得られず失敗 し、義演も永平寺から退去したため、 永平寺は住職がいないことになった。

そこで永平寺第5代となったのが、寂円が開いた宝慶寺2世で あった義雲である。宝慶寺の寺物を永平寺に備えることで再建した ことから、永平寺中興の祖といわれる。これ以降20 代門鶴まで寂 円系の禅僧が永平寺を維持するが、その後衰退の一歩をたどり、応 仁・文明の大乱の余波を受けて塔堂伽藍は焼失してしまう。

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一方の大乗寺では瑩山紹瑾(1268-1325)が、35歳で大乗寺 第2代となると一気に勢力を拡大させていった。瑩山は、8歳で 永平寺徹通義介に弟子入りすると、13歳で懐奘から菩薩戒を 受け、18歳で寂円に入門し、さらに東山湛照・万寿宝覚(聖一 派)・白雲慧暁(聖一派)・心地覚心から臨済宗を学び、比叡山で 天台も学んでいる。21歳で永平寺に帰るが、三代相論の際、義介 と共に大乗寺に移っている。27歳で義介から印可を受け道元よ り相伝した袈裟を受け取り、46歳で能登酒井に永光寺、54歳で 能登櫛比庄にあった諸嶽寺を禅院に改め陀羅尼を意味する総持 寺とした。これらはいずれも白山天台の拠点であったことから、 白山信仰の本地仏である観音信仰や修験道をそのまま継承し、さ らに天台系の山王信仰熊野信仰も取り入れている。これにより総持寺は新たな霊場として全国か ら修験者が集まることになる。

瑩山禅師は『伝光禄』第五十一祖永平元和尚の章に「かの明全和尚は、顕密心の三宝をつたへ て、ひとり栄西の嫡嗣たり」といい「師(道元)其(明全)室に参じ、重て菩薩戒をうけ、衣鉢等 を、つたへ、かねて谷流の秘法、一百三十四尊の行法、護摩等をうけ、ならびに律蔵をならひ、ま た止観を学す」と記しており、密教を積極的に取り入れていった。『瑩山清規』には、月中行事と して、土地堂、韋駄天、火星神、夏中祈祷、祈祷千巻、因病祈祷が、年中行事としては、龍天、多 聞天、加羅天等の仏教内天部諸神だけではなく日本国内の諸神祇を対象とした正月三朝祈祷、楞厳 会等の諷経が明示されている。また、永光寺の上棟には「大吉。直日。成日。富貴。大吉日。胃宿。大吉。月耀。無火難。大歳対諸神天。願成就日。和合日。天恩。万事大吉重複日。吉事重畳日。択 十吉日。上棟」とあることから、密教の星占思想による吉日良辰を重視していたこともわかる。

57 歳で総持寺を弟子の峨山韶碩に譲ると永光寺 に戻り、如淨語録・道元霊骨・懐奘血経・義介嗣書・ 瑩山嗣書を埋納した「五老峰」を祀り、これを永劫 に奉祀することを定めている。元亨3年(1323)に は後醍醐天皇から受けた「十種の勅問」に明解な答 えたことで「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨をた まわっている。入滅事の示衆語が覚心念持の語に依 っていることからも、瑩山が密教禅に強く影響を 受けていたことがうかがわれる。密教化が進んだも のの、春夏3か月ずつ行われる本格的な禅修行であ

7、明治10年に当時の総持寺永平寺両大本山貫首の教義によって、道元を高祖・瑩山を太祖と する称号が決められた。

8、無本覚心の弟子孤峰覚明は覚心没後瑩山の弟子となり興国寺を継いでいる。

9、「念起是病。不続是薬。一切善悪。都莫思量」

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る決制安居(江湖会)、12月1日から8日間昼夜兼行で坐禅する定座(臘八接心)、1日3回の勤行 や4回の坐禅などは行っていた。

瑩山の門下からは二神足といわれた明峰素哲(1277-1350)と峨 山韶碩(1275-1365)が生まれている。明峰は富樫氏の出身で、比叡山で出家・受戒した後、建仁寺に移 り、さらに加賀国大乗寺に瑩山紹瑾をたずねてその門下となった。大乗寺・永光寺の住持となり、26人の弟子(明峰十二門派)を中核 とした合議制による寺院運営を編み出し、仮名法語などにより能登、加賀、肥後、美濃、出羽、甲斐に教線を伸長した。

峨山は能登(現在の津幡町)に生まれ、16歳の時に比叡山で出 家し天台教学を学んだ。一説には 白山修験道の行者であったともい う。正安元年(1299)に大乗寺の 瑩山の弟子となり、諸方遍歴の後、 永光寺に帰っている。正中元年(1324)に瑩山禅師より總持寺 2 世を任せられると、その後40年以上にわたって住持を務めた。門 下の「峨山二十五哲」により、日向、加賀、下総、大隈、出羽に 布教を拡大していった。弟子の中でも、特に太源宗真(普蔵院)、 通幻寂霊(妙高庵)、無端祖環(洞川庵)、大徹宗令(伝法庵)、実 峰良秀(如意庵)にそれぞれ塔頭寺院を開かせ、總持寺住職はこ の五院住職の輪番とし、永光寺と同じく合議制による寺院運営を 規定した。また、中国曹洞宗の禅理論である五位説を取り入れ、 曹洞宗を名乗るようになる。

南北朝から室町期にかけて、瑩山門下により全国に末 寺を有し、曹洞宗が一大仏教集団となった理由には、神 仏の庇護を期待する加持祈祷の傾向を強めた以外にも、越前金津橋建設や灌漑、水利開発などの公益事業や、加 賀勝聖寺門前橋や実峰の橋の供養、霊泉発掘などの現世 利益を盛んに行ったことや、葬儀のための下火法語や追 善供養の法語が多数つくられていることから、真言・天 台・臨済では葬儀や法要ができない階層の人々の中に浸 透していったことが考えられる。これは京都を中心に禅 文芸を展開していった臨済宗とはおよそ趣を異にしたも のであった。

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