2022年4、5月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史15-鎌倉仏教4 法然念仏宗-

1、法然の出生と延暦寺での出家

法然(1133-1212)は美作国久米南条稲岡荘(岡山県久米郡久米南町)の押領使であった漆間時国秦氏君清刀自の子として生まれたとされている。

『四十八巻伝』(『勅修御伝』『法然上人行状絵図』)によれば、法然が9歳の時に稲岡荘預所であった明石貞明(定明)との争いで父が殺害された。その際、仇討ちをしない様にとの遺言があったため、菩提寺の住職であった母方の叔父観覚に引き取られたという。天養2年(1145)、延暦寺に上り源光に師事すると、久安3年(1147)には皇円((1074?-1169)の下で得度し、さらに天台座主行玄師として授している。この源光皇円は共に源信の法系であった。

ただし『法然上人伝記』(醍醐寺本)には、観覚に預けられていた法然が15歳の時(久安3年(1147年))に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山で修行中に父が殺害されたことを知り黒谷に入ったとされている。また、鎮西派の祖聖光房弁長(1162-1238)が著した『徹選択本願念仏集』(卷上)では、法然から「自分は世人の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師から法然の号を授けられた」と聞いたことが記されていることから、父の死と法然の出家は無関係であるともされている。

2、黒谷別所から吉水

法然は、久安6年(1150)に17歳で比叡山黒谷別所に隠遁すると、融通念仏宗の祖とされる良忍の弟子である黒谷聖人慈眼房叡空(?-1179)に弟子入りしている。ここで法然房という房号と、源光と叡空の名から源空という法諱を授かっている。法然が隠遁した黒谷別所は、公的な仏事を行

1、警察・軍事的官職。2、年配の女性に対する敬称。3、熊谷直実が建立したとされる誕生寺が生誕地といわれている。4、十四世紀前半に成立した法然の絵伝で「知恩院」の名が初出し「浄土宗」の語が頻出するので、法然浄土宗知恩院の三位一体の関係を説く絵伝とされている。5、領家の代理者として、荘地の管理や年貢、公事の収納をつかさどった。6、日本仏教文化史であり六国史の抄本でもある『扶桑略記』を編纂したとされる。法然の弟子で多念義を主張した隆寛の叔父。7、勢観房源智(1183-1238)またはその弟子によって記されたと思われることから、最も史実に近い伝記と考えられている。大正6年に醍醐寺の宝蔵調査で発見された。

う白衣の僧達がいる延暦寺根本中堂から大原別所に向かう途中にある、黒衣の聖僧達が集まる場所であった。ここの中心的存在であった叡空は、天台戒師として在家者に授を行っていた。これには、在家者が仏事を行う際に身を清めるために行なう授と、在家者が病気治癒を目的に行なう授、そしてこの当時特に盛んに行われていた在家のままで僧侶になる在俗出家のための授があった。聖の主な活動としては、この在家授の他に臨終の際の善知識などがあった。

『保元物語』に、黒谷では源信の頃から二十五三昧会流念仏が続いていることが書かれている。これは、毎月15日に25人の同行たちが集まり、極楽往生を願って『法華経』の講説を聞き、不断念仏をつとめるという講会である。保元元年(1156)、法然は聖たちの一大霊地であり二十五三昧会が修されていた嵯峨栖霞寺釈迦堂に七日間参篭している。

さらに法然醍醐寺南都諸寺にも遊学している。南都には『往生拾因』や『往生講式』を撰述した永観(1033-1111)が復興し、東大寺浄土教の別所となっていた光明山寺があり『西方集』を著した永観の後継者重誉が住していた。永観真言僧禅林寺深観(1001/03 - 1050)の弟子で、禅林寺内に東南院を建て長座念仏を修し、後に東大寺別当になった僧である。法然永観について「禅林とは、即ち当寺の権永観なり。即ち善導道綽の意によって、往生十因を作って、永く諸行を廃して、念仏の一門において十因を開す。あに但念仏の行にあらずや」(『無量寿経釈』)と述べている。『往生十因』は『仏説無量寿経』第十八願文などを引いて念仏一行の功徳を十あげたもので、善導『観経疏』を根拠に念仏のみが仏願に随順する行であり、礼誦などは助業、それ以外は諸善としている。ただし、この念仏は心を散乱しないように弥陀に定める定心であり天台止観を継承したものである。このことは『往生十因』の後序に、この書を作ったのは源信『往生要集』を継ぐためであると記していることからもわかる。また、この書の開巻冒頭に「往生拾因念仏宗永観集」と日本で初めて念仏宗を名乗っているが、特に批判の対象とはならなかった。

東大寺の珍海(1091-1152)についても法然は「七に越州とは、また同じく当寺の三論の碩徳越州の珍海なり。これまた同じく『決定往生集』一巻を作って、十門を立てて往生の法を明かす。その中にまた善導の前の文により、傍らに諸行を述ぶといえども、正しくは念仏往生を用いる」(『無量寿経釈』)と述べている。『決定往生集』は、浄影・嘉祥・迦才・慈恩・元暁などの中国・朝鮮の浄土祖師の文を引いて浄土教が時機相応であることを示し、いかなる凡夫も称名念仏すれば仏願力により決定往生の安心を得て、臨終来迎をうけ極楽浄土に往生できると記したものである。珍海の「名を称し十声を具足す。もし、この間において余縁散乱、その心重ならざれば業道即ち成せず、真の十念に非ず。但是れ相似の十念のみ」と、永観の念仏を継承したものであった。

また、法然は念仏聖の遊蓮房円照(1139-1177)に会うため西山の広谷を訪れたともいわれている。『明義進行集』によると、遊蓮房は経典一巻、書籍一冊も持たず、ただ「一向念仏ばかり」称え、わずかの外出にも「一幅半なる極楽の曼荼羅をともに具し」「自ら首にかけて、休みもし、泊

8、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語。9、インド伝来とされる釈迦像を安置している。後の清凉寺。10、法然の教えに帰依した諸宗の学僧、静遍・明遍・隆寛・空阿・信空・覚愉・聖覚・明禅八名の僧伝を没年順に記してある。

まりもする処には、左右なく西に掛けて、これを拝み、極楽六時讃をおぼえて、時をたがえず誦して念仏を申」していたという。また「霊証を得たる事度々なり」とも記されていることから、法然はこの「霊証」を求めて遊蓮房のもとを訪ねたと思われる。遊蓮房は広谷の庵を法然に譲り吉峰に移ると、39歳で臨終を迎えている。この際「臨終に九念して、いま一念と法然上人にすすめられ申して、声高に一念して、やがていきたえぬ」とある。また『四十八巻伝』にも「上人つねには、浄土の法門と、遊蓮房とにあえるこそ、人界に生をうけたる思出にては侍れ、とぞおおせられける」と遊蓮房のことが書かれている。

治承3年(1179)に叡空が没すると、法然は黒谷聖人の名称と黒谷坊舎や聖教を譲られている。これは法然が常随の弟子であったことを示しており、叡空が死去する 47 歳までの法然の記録がほとんど残っていないのもこのためである。法然はこれ以降、聖として多くの在家者に授している。その後まもなく吉水にも居を構えているが、これは広谷の庵を移建したともされている。

3、念仏宗(浄土宗)の開宗

10 世紀後半に延暦寺禅瑜が著した『阿弥陀新十疑』に「未断惑の凡夫も、念仏の力によりて往生することを得るなり」「十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり」とあり『梁塵秘鈔』にも以下の様な今様があることから、平安期には念仏による悪人往生や悪人成仏は広まっていたことが分かる。

仏は常に在せども現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に仄かに夢に見えたまふ我等は何して老いぬらむ思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽弥陀の誓ひを念ずべし弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず

法然が念仏往生を公に説いたとされる最も古い記録は大原勝林院での大原談義(大原問答)である。これは、文治2年(1186)、後に天台座主となる顕真の招きを受けた法然が、顕真の住房である大原勝林院で行ったとされる談義である。『知恩講私記』にはこの記録はないが『一期物語』や『源空上人私日記』などには記述がある。『一期物語』によると、顕真道綽善導の往生論を聞くために法然を勝林院に招いて談義を行い、ここに顕真とその門徒以外にも東大寺の俊乗房重源(1121-1206)とその弟子や、大原の念仏聖なども集まったらしい。話の内容は不明であるが、顕真が「法然房は智慧深遠と雖も聊か偏執の失あり」と言っていることから、専修念仏を語ったと思われる。この講義に感激した顕真が5つの別院を建て専修念仏の道場とし、東大寺の重

11、平安時代末期(1180年前後)に後白河法皇によって編まれた今様歌謡集。「遊びをせむとや生まれけむ戯れせむとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ動がるれ」「舞え舞え蝸牛舞わぬものならば馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん踏み破らせてんまことに美しく舞うたなら華の園まで遊ばせてん」などが知られている。12、隆寛法然墓所である大谷廟堂の月忌・年忌に行われた知恩講の式次第を記したもの。13、『法然上人伝記』(醍醐本)の冒頭部分。14、作者不詳ながら親鸞書写の『西方指南抄』中末に収録されている。

源も南無阿弥陀仏をもって名のりと定めたとも伝わっている。顕真法然の弟子になっていたことは日蓮も言及しており、法然の門弟信空の父藤原行隆は造東大寺長官であり重源とも縁があったことから、この談義が行われた信憑性は高い。この4年後の文治6年(1190)、法然は重源の要請により、再建中の東大寺で『浄土三部経』を講義しており、その記録は『無量寿経釈』観無量寿経釈』『阿弥陀経釈』として残っている。これ以外に九品寺流の祖覚明房長西(1184-1266)が法然の著述としているのは『阿弥陀懺法』『往生要集料簡』『浄土初学抄』『選択本願念仏集』『浄土五祖伝』の5部である。これ以外に法然の思想を知る手掛かりとなるのは、親鸞が記録した法然の法語・消息である『西方指南抄』と、法然の死去してから62年後の文永11年(1274)に道光が編纂した『漢語灯録』『和語灯録』がある。この中でも最も知られているのが九条兼実(1139-1207)の要請により編纂された『選択本願念仏集』である。

九条兼実高野山大伝法院学頭であった仏厳房聖心を通して、即身成仏を説く真言念仏に親しんでいた。しかし文治5年(1189)に後鳥羽天皇摂政であった兼実は、法然と往生について談じた直後に法然から在家授している。この後兼実とその家族は、頻繁に法然から受しているが、本格的に法然に帰依するのは建久7年(1196)の政変により失脚した以降で、建久9年(1198)に『選択本願念仏集』を依頼している。

『選択本願念仏集』は16章からなるが、法然の自筆は巻頭の「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」だけで、本文は安楽房遵西真観房感西証空ら門弟によって書かれている。16章の内容は次の通りである。

第1章聖道浄土の二門のうち、聖道を捨てて浄土に帰すべきである。第2章正雑二行のうち、雑行を捨てて正行に帰すべきである。第3章阿弥陀仏は余行を認めず、念仏のみを往生の行として選択したのであるから、造像起塔智慧高才多聞多見持戒持律などの作善功徳正行ではない。第4章善導源信は、捨家棄欲起立像塔発菩提心を捨て専修念仏を勧めている。第5章念仏の利益。第6章末法万年ののちには余行はすべて滅び念仏のみがとどまる。第7章阿弥陀仏の光明は、余行を修する者を照らさず、念仏の行者のみを摂取する。第8章念仏の行者は、至誠心深心廻向発願心三心を必ず具する。第9章念仏の行者は、念仏を行ずるにあたって、長時修慇重修無余修無間修四修の法式を用うるべきである。

15、法然は後鳥羽上皇中宮で兼実の娘宜秋門院任子など、多くの有力公家にも授している。16、京都市上京区北之辺町にある天台圓淨宗廬山寺が所蔵している。現存する法然の自筆はこれ以外に消息が3通あるのみである。

第10章阿弥陀仏の化仏来迎する時、念仏する者のみを讃嘆する。第11章念仏三昧の功徳は他の諸善の比類を絶している。第12章観無量寿経には、衆生が一向に阿弥陀仏の名号を称するように説かれている。第13章阿弥陀経には、念仏以外の雑善では往生し得ないのので一心不乱に弥陀の名号を執持せよと説かれている。第14章諸仏は余行を証せず、念仏のみを証している。第15章諸仏は念仏の行者を護念する。第16章釈迦は弥陀の名号をねんごろに舎利弗に附属している。

法然はこの中で、専修念仏を説いてきた祖師の次第相承としての「血脈」も明示している。また、浄土往生の行は念仏だけである根拠として善導『観経疏』をあげている。ここで善導は浄土往生の行である読誦観察礼拝称名讃歎供養五正行以外はすべて雑行であり、正行の中でも称名は往生を決定する「正定業」で他の四つは「助業」であると説いている。ここでの称名とは「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨」てないことである。さらに法然源信『往生要集』で「往生の諸行」としている「布施持戒教養父母」を排しているが、その理由として、称名念仏には仏が備えた四智三身十力四無畏などの内的なさとりの功徳や、相好光明説法利生などの外的なはたらきの功徳などをすべて込められていることを示している。この様に浄土往生の行を易行としたのは、仏が「一切の衆生をして平等に往生せしめんが為に、難を捨てて易を取り、本願とした」ためである。

『選択本願念仏集』の内容は東大寺で行った『三部経釈』や、その後に門弟遵西の父で少外記であった中原師秀に請われて初七日から六七日にいたる六会の導師を行った際の説法の筆録である『逆修説法』と大きく変わってはいない。ただし講義録ではないため、より論旨が整理され教義の核心を端的にあらわしたものとなっており「血脈」を示すことで、より念仏宗開宗を意識したものとなっている。この4年前、建久5年(1194)に「入唐上人栄西」と「在京上人能忍」による禅宗の布教が停止されたことから、同様の措置が取られることを恐れた法然は「高覧を経て後、壁の底に埋みて窓の前に遺すこと莫れ。恐らくは破法の人をして悪道に堕せしめざらんが為なり」と記させている。このため、弟子の中でも書写を許されたのは執筆に携わった3人以外には信空隆寛・幸西・源智・聖光・親鸞など数人だけであった。実際に、法然の死後に公表されると、三井寺明王院公胤『浄土決疑鈔』華厳明恵房高弁『堆邪輪』を著わすなど、念仏停止の声が一斉に起こることになる。

4、法然の念仏

『一期物語』に「凡そ先達に値うごとに、みな称嘆せらる。惣じてわが朝、来到する所の聖教、乃至伝記目録、一見せざることなし。ここに出離の道を煩ひて、身心安からず」「往生要集を先達として浄土門に入り、この宗の奥旨を闕」とあり『源空私日記』には「出離の道に煩いて身心安か

らず。そもそも始め曇鸞・道綽善導・懐感の御作より、楞厳先徳の往生要集に至るまで、奥旨を窺うこと二反すと雖も、拝見の時は往生なほ易からず。第三反の時、乱想の凡夫、称名の一行に如かず。これ則ち濁世の我等が依怙なり、末代の衆生の出離と、開悟せしめ訖んぬ。」と『往生要集』により念仏と出会ったことが書かれており『往生要集詮要』『往生要集釈』『往生要集料簡』『往生要集略料簡』と四部の法然著とされる注釈書が残されている。ただし『往生要集』称名念仏は「もし相好を観念するに堪えざるものあらば、或は帰命の想に依り、或は引摂の想に依り、或は往生の想に依りて、応に一心に称念すべし。…。行住坐臥、語黙作々に、常にこの念を以て胸の中に在くこと、飢えて食を念ふが如く、渇して水を追ふが如くせよ。或は頭を低れ、手を挙げ、或は声を挙げ、名を称へ、外儀は異なるといえども、心の念は常に存せよ。念々に相続して、寤寐に忘るることなかれ」と、あくまでも観想念仏に堪えることのできない者を対象としている。このため『往生要集料簡』の末尾には「私に云く、恵心、理を尽して往生の得否を定むるには、善導の専修雑行の文を以て師南としたもうなり、また処々に多くかの師の釈を引用す。見るべしと云々。然れば則ち恵心を用いん輩は必ず善導に帰すべきか」と『往生要集』善導の念仏理解によって読むことを勧めている。『源空私日記』の夢想には「然れば則ち世の為、人の為、この行を弘通せしめんと欲うと雖も、時機量り難し、感応知り難し。つらつらこの事を思い、暫く伏して寝ぬる処、夢想を示す。紫雲広大に聳えて日本国を覆えり。雲中より無量の光を出す。光の中より百宝色の鳥飛び散じて、虚空に充満せり。時に高山に登りて、忽ちに生身の善導を拝めり。御腰より下は金色なり。御腰より上は常の如し。高僧云く、汝、不肖の身なりと雖も、念仏興行、一天に満たし、称名専修、衆生に及ぼさんが故に、我ここに来れり、善導即ち我なり、と云々。これに因りてこの法を弘む。年年次第に繁昌して、流布せざる所なけむと」と善導と夢の中で出会ったことが書かれており、同じような記述は『一期物語』『法然上人伝記』『黒谷源空上人伝』にも見られる。

法然九条兼実の「曰く、一たび信心を発して、更に疑慮なき者、少に一念・十念を修して、以て往生の資糧に備え、それよりして後、また称念せず、而して自ら以為く、決して往生すべしと。かくの如きの人もまた順次すべきやいなや。また信心決定の後は、設ひ四重・五逆等の重罪を犯すとも、往生の障とすべからざるや」という問いに対して、一念・十念については「観経所説の十念往生」は、臨終のことであるから、平生の念仏と混同してはならない。たとえ決定の信心が得られたとしても、一念・十念した後に称念しなければ「後念の罪悪、往生を障る故に」往生は出来ないと答えている。また「たとえ深信を起して、常に専ら称念するも、もし重罪を犯せば、即ち当に能く懺悔念仏すべし。もしそれ然らざるときは、則ち順次の往生を得難しとなり」「一念十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申ば、信が行をさまたぐるなり。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもうは、行が信を妨也。信をば一念に生と取て、行をば一形にはげむべし。」とも言っている。

法然が亡くなる直前に源智の要請で書いた『一枚起請文』には「もろこしわか朝にも、もろもろの智者たちの沙汰し申さる>、観念の念にもあらす、又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず、た>往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたかいなく、往生するぞおもいとりて、申すほかには、別の子細候はず。たゝし三心四修なんと申す事の候は、みな決定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもううちにこもり候なり。この他に奥深き事を存ぜば、二尊の御あわれみに外れ、本願に漏れ侯べし。念仏を信ぜん人は、たとえ一代の御のりをよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまいをせずして、た>一向に念仏すべし」と、念仏には観想念仏や学識は不要であり、ただ念仏して愚鈍の身であることを自覚し智者のふるまいをしないように述べている。

『法然上人伝記』(醍醐寺本)には「およそ聖道門は智恵をきわめて生死を離る。浄土門は愚痴に還りて極楽に生まる。所以は聖道門に趣くの時は、智恵を瑩き禁を守り、心性を浄むるに以て宗とす。しかるに、浄土門に入るの人は、智恵を憑まず、行を護らず、心器をも調えず、只ただ甲斐なき無智者になりて、本願を憑み往生を願うなり」「浄土宗は悪人を手本として善人まで救済する」と、信心を得た悪人愚人を信仰の手本としている。これは法然が知識や修行によって高みを目指す「知の仏教」「行の仏教」に対して「信の仏教」を提起したともいえる。

またには「念仏申さんは、ただ生まれ付のままにて申すべし。善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、本のままにて申すべし。この念仏に入るの故に、始めて持戒・破なにくれと云うべからず。ただ本体ありのままにて申すべし。」と善人悪人や持戒を、また「源空が念仏申すも、一文不通の男女に斉しくして申すぞ。まったく年来修学したる智恵をば、一分も憑まざるなり」と智慧の浅深や修行の長短も問わないことを述べている。また「余行はしつべけれども、せずと思うは専修心なり。余行目出たけれども、身にかなはねば、えせずと思うは、修せねども雑行心なり」と、他の行が及ばないから仕方なく念仏しているというのは、たとえ念仏だけであっても専修念仏とはいわないとも言っている。

善悪観については「彼の三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊たちと比ぶれば、わ御坊たちは仏の如し」(『法然上人伝記』(醍醐寺本))「悪をも捨て給わぬ本願と聞かんにも、増して善人をば、いかばかり喜び給わんと思うべき也」(『一二箇条問答』)とあり『西方指南抄』の「しやう如ぼうへつかはす御文」には「五逆十悪の重き罪つくりたる悪人、なを十声一声の念仏によりて往生をし候はむに、まして罪つくらせおはします御事は、何事にかは候べき。たとひ候べきにても、いく程の事かは候べき。この経に説かれて候罪人には言ひ比ぶるべくやは侯」とある。一方『法然上人伝記』(醍醐寺本)「禅勝房との十一箇条問答」の「かくの如きの罪人を度せんが為に発すところの本願」や、法然述とされる『念仏往生要義抄』の「世すでに末法になり、人みな悪人なり…しかるに阿弥陀ほとけの本願は、末代のわれらがためにおこし給える願なれば」など、悪人正機的な言葉も垣間見える。このような法然の念仏を、慈円は「不可思議の愚痴無智の尼入道によろこばれ」

17、『和語灯録』に所収されている一二箇条の質問に対する法然の返答。18、真宗高田派が伝時してきた、親鸞が記した法然の法語・消息・行状記。19、後白河法皇の第三皇女式子内親王(1149-1201)ともいわれている。

ていると書いている。

法然『三部経大意』に「而を上古より已来、多下品と云ども可足なんと云て上中品を欣ばず。是は悪業の重に恐て心を上品にかけざるなり。若夫れ悪業によらば惣じて往生すべからず、願力によりて生ぜり。何ぞ上品にすすまん事を望みがしとせんや。…我等悪業深しと云えども未造五逆。行業疎そかなりと云ども、念仏一声、十声に過たり。臨終より前に弥陀誓願を聞得て、随分に信心を至たす。然は下品までは下るべからす。…浄土宗の心は浄土に生れんと願るを菩提心と云えり。念仏は是大乗行也、無上の功徳也。然は上品の往生手をひくべからず。上品を欣う事、我身の為にあらず、彼の国に生れ終わりて、還りて疾く衆生を化せんが為也。是仏の御心に叶わざらんや。」と、平安時代に慶滋保胤が「十方仏土の中には西方を以て望とす九品蓮台の間には下品というとも足んぬべし」と下品往生を願っていることを否定している。

法然以前は往生の是非を臨終正念の念仏で判断していたため、多くの念仏行者が入水・焼身・断食などを行っていた。これに対して、法然は『浄土宗略抄』に「まめやかに往生の心さしありて、弥陀の本願をたのみて念仏申さん人」を迎え取る仏の来迎を見て正念に住することが臨終正念であり、臨終正念に念仏をするから仏が来迎するのではないことを「仏の来迎一定ならば、臨終の正念はまた一定とこそはおもうべき理」と語っている。また臨終の時に善知識が必要なのは『観無量寿経』の下品下生にあるような日ごろ念仏もせず往生を願う心もなく逆悪を犯してきた者だけであり、阿弥陀仏の像を西の壁に安置し五色の糸を手に握らせることも「前業逃れ難くて、太刀にて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を滅ぼす類多く候えば、左様にて死に候とも、日頃の念仏申て極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀・観音勢至、来り迎え給べしと信じおぼしめすべきにて候也」と従来重視されていた「臨終の沙汰」を否定している。

法然の念仏は来迎を伴う独特な観想念仏であった。『源空上人私日記』には「聖人齢四十三より、浄土門に始めて入りて閑に浄土を観想し給う」とあり『知恩講私記』には「願力不思議の故に初に常わに宝樹・宝宮殿を見る、仏力不思議の故に後は親しく化仏・化菩薩を拝す。闇夜に燭無しと雖も、光明照して昼の如くに、室の内外見ること明鏡に向かうに似たり。口称の力現身に証を得ること導和尚に等しく感禅師に同じ。寧ぞ一向称名の功にあらんや。寔に是れ専修念仏の徳なり。行の本願に順じ勤の仏意称えること之を以て験と為し、之を以て証と為す」とある。また建久九年(1198、法然66歳、『選択本願念仏集』著作の年)には正月一日から七日間の念仏に入り、一日には明相、二日には水相観と、念仏によって「自然にこれを成就」し地想観の中に瑠璃相を少し見たという。これを「二月七日に至るまで、三十七箇日の間、まいにち七万念仏不退にこれを勤め」「これによりてこれらの相を現ず」と水想・地想・宝樹・宝地・宮殿の5観を見るに至っている。この後、何度ものような体験をしており、元久3年(1206)には「念仏の間、三尊大身を現じたまう」のを見たという。これは『観無量寿経』にあるような従来の観想念仏ではなく、一日に6万・7万という長時の念仏によって得ることができるという法然独自の「三昧発得」といわれるものである。

20、『和語灯録』に収録されている。「本にいわく、この書は鎌倉の二位の禅尼の請によて、記し進ぜらるる書也云云」と、鎌倉二位の禅尼(北条政子)に宛てたものとされている。

念仏の数については『三部経大意』に「善導和尚、三万已上は上品往生の業也と云へリ」と記し、人にもこれを勧めている。法然は自身を「十悪の法然房」と称しているが、下品下生が五逆・十悪の愚人であるのに対して、善導『観経疏』散善義で下品上生を「十悪を造る軽罪の品夫人」としていることから、『観無量寿経釈』に下品上生を「九品の中にこの品最要なり。頗る我等が分に相当れり」と述べている。また三品については「一には辺数に約して分つとは、善導の釈に云く、毎日三万辺は上品の業と云々。これを以て案ずるに、二万は中、一万は下なり。これ則ち辺数の多少に約して三品を分つ義なり。九品これに准ずべし。二に時節に約すとは、源信僧都の弥陀経の記の中にかの経の七日の念仏を以て上品と為す。かれに因りてこれに准ずるに、或は十日の念仏を以て上々品と為すべし。これ即ち一往、時節の久近に約して三品を分つなり。九品これに准ずべし。」としている。

法然には「一心金剛の師」としてを重視していた面もある。『七個条制誡』には「は仏法の大地なり。衆行、区なりと雖も同じくこれを専らにす。ここを以て善導和尚は目を挙げて女人を見ず。この行状の趣、本の制にも過ぎたり。浄業の類、これに順はずんば、惣じて如来の遺教失し、別しては祖師の旧跡に背けり。旁、拠るところなき者か」とあることからもわかる。

5、延暦寺奏状興福寺奏状建永(承元)の法難

正治2年(1200)、栄西が活動を始めた鎌倉幕府で、将軍頼家の命により念仏宗の僧による布教活動が禁止された。京都でも、延暦寺が一部門弟の諸宗批判への善処を法然に求めたことで起請を立て釈明している。しかし、門弟らによる諸宗批判が続いたことから、元久元年(1204)、延暦寺天台座主真性に、専修念仏の禁止を朝廷に申し入れるよう求めた。慈円は兄九条兼実に配慮して穏便に事を進めるよう法然に要請した。そこで法然は改めて起請文を書くと共に、門弟らの偏執を制した以下の様な「七個条制誡」(「七個条起請文」)を延暦寺に提出している。

1,「愚人」の身でありながら、物知り顔に真言止観などの諸宗を破したり、阿弥陀仏以外の仏・菩薩を誇ったりしてはならない。2,「無智の身」でありながら、智慧深遠の人や専修念仏以外の行を修している人たちと、好んで争論をおこすようなことをしてはならない。3,「愚痴偏執の心」で、学問や修行を異にしている人たちに対して、本業を捨て専修念仏に帰すよう無理強いしてはならない。4,念仏門には行が不要であるからといって「淫酒肉食」を勧めたり、をたもっている人を雑行人と見下したりしてはならない。また弥陀の本願を信じている者は、罪を犯しても恐れることはないと説いてはならない。5,が、聖教をよりどころとせず、師説を棚上げにして、ほしいままに個人的な意見を述べたり、みだりにいさかいをおこすような計画を立ててたりして、愚人を迷わすよ

21、慈円の弟子で以仁王の子。

うな行為をしてはならない。6,「痴鈍の身」でありながら、美辞麗句を並べ、教えを説くことに誇りをもち、種々の邪法を説いて、無智の道俗を自分の陣営に引き入れるような教化をしてはならない。7,「邪法を説」いて、これこそ正法であり、師範の説かれたものであると偽ってはならない。

この誓約書に京都近在の190人もの弟子たちが3日間にわたり署名している。しかし、ここでの「愚人」「無智の身」の用法が、他の法然のものと一致していない。

この頃既に、法然の門弟の間に一念多念の対立が起こっていた。法然の念仏は、長時修慇重修無余修無間修四修を求めており、法然自身も一日に数万遍の称名念仏を行っていたことから、多くの念仏を求めるのが多念義である。一方、弥陀の本願を信ずる一念の意義を重視し、称名は往生のための行ではなく、仏の救済に浴したことに対する報謝の行であり、念仏の要は信であり、称名の行は時間の余裕に従って修めるべきであるというのが一念義である。成覚房幸西法本房行空善信房親鸞などが一念義とされる。法然一念義と同じ立場を表明したこともある。ただし、比叡山から問題視されていた造悪無碍と呼ばれた弟子のうち、行空は一念義であり遵西は多念義であることから、この教団内の対立とは関係がなかった。

後鳥羽上皇は、この誓約書によって事を収めるように沙汰している。これは、兼実の次男である摂政九条良経やその家司の蔵人頭三条長兼が上皇の側近であったことが影響しているとおもわれる。しかし、これ以降も法然門下による諸宗批判は収まることはなかった。

元久2年(1206)、今度は興福寺が九箇条の奏状を朝廷に提出して、法然専修念仏の教義を糺改することを要望した。起案者は笠置寺解脱房貞慶(1155-1213)であるが「興福寺僧綱等」が「天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんこと」を求めたものである。

1,勅許なく新宗を立てた。2.専修念仏の者だけに弥陀の光明があたる新像を図した。3.釈尊諸仏を軽んじた。4.読経や造寺造像などの万善を侮蔑した。5,霊神を尊重しない。6.浄土の教えを誤認している。7,念仏を曲解している。8,を守ることを否定した。9.国土を守るべき仏法を推戴させ国土を乱した。

22、京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にある磨崖仏の巨大な弥勒仏を本尊とする寺。23、法相宗の僧。祖父は平治の乱では自害させられた藤原通憲(信西)、父藤原貞憲土佐に配流された。父の弟が遊蓮房円照の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たし、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。

この中で、新宗を立てるには、仏教の所説に価値評価の序列をつけたうえで自らの依る説が仏教の中でもっともすぐれたものである証明(教相判釈)、その教えが釈迦にさかのぼることの証明(伝灯)、さらに朝廷からの勅許という3つの条件が必要であるのにこれを行っていないと非難しているが、これに答えている『選択本願念仏集』がこの時点では公開されていなかった。

翌年、朝廷は興福寺と、専修念仏の処置についての折衝を始めている。興福寺側は、行空と遵西の流罪法然の責任追及、さらに「念仏宗」「専修」の使用禁止を求めた。これに対して安楽房遵西と法々房行空を召し出すべしという後鳥羽院の院宣が出されたが、これ以外の処置については詮議が行われただけで宣旨は発令されなかった。そこで翌年2月、興福寺は改めて朝廷に、法然源空安楽房遵西成覚房幸西・住蓮房・法本房行空らの処罰と「念仏宗」「専修」の語の禁止を求めた。これに「沙門行空は、忽ちに一念往生の義を立て、故に十戒毀犯の業を勧め、恣に余仏を誇り、その念仏行を願進す。沙門遵西は、専修と称して余教を毀破し、邪執に任せて衆善を遏妨す」との罪状をもって明法博士に罪名を勘進させたものの、その他の要求はやはり却下された。

翌年建永元年(1206)、後鳥羽院は12月9日から28日まで熊野行幸している。慈円『愚管抄』によると、この間に「又建永の年、法然房と云上人ありき。ま近く京中を住処にて、念仏宗を立て、専修念仏と号して、ただ阿弥陀仏とばかり申べき也。(中略)その中に安楽房とて泰経入道がもとにありける侍の入道して、専修の行人とて、又住蓮と番いて、六時礼讃善導和上の行なりとて、これを立てて、尼どもに帰依渇仰せらるる者出きにけり。それらがあまりさヘ云はやりて、(中略)京田舎さながら、このようになりける程に、院の小御所の女房仁和寺の御室の御母、まじりにこれを信じて、密かに安楽房たちなど云もの呼び寄せて、この様説かせて聞かんとしければ、又具して行向同僚達出きなんどして、夜るさえ止めなどする事出きたりけり。とかく云ばかりなくて、終に安楽・住蓮頸切られにけり。法然上人流して、京中に在るまじにて、追われにけり」とある。この「院の小御所の女房」は、江戸時代に書かれた浄土宗の記録では松虫鈴虫となっているが、後鳥羽院から寵愛を受けていた者であると思われることから、一時期、承久の乱の原因ともなったとされる白拍子の亀菊ではないかとされた。しかし、近年は「仁和寺の御室の御母」は「道助入道親王の母」であり後鳥羽院の寵愛を受けていた坊門局(西御方)であるとされている。坊門局坊門信清の娘で、後鳥羽院の母方の従兄弟である。また、将軍源実朝の妻と、専修念仏者であった藤原伊時の妻の姉でもある。後に隠岐流罪となった後鳥羽院に随行し最後をみとっている。この事件は世間の注目を集めたようで『皇帝紀抄』に「近日件の門弟等世間に充満す。事を念仏に寄せて、貴賤幷びに人妻、然るべき人々の女に密通す。制法に拘はらず、日新の間、上人等を搦め取る。或は羅を斬られ、或はその身を禁ぜらる」とあり『明月記』には「左中将伊時朝臣の妻、出家して尼となると云々。是れ近代の念仏宗法師原の所為か。天下の淫女が競いて尼形を仮り、狂僧に扈従するは巳に流例たるのみ」と記されている。

24、鎌倉中期の歴史書。編者は未詳。25、藤原定家の治承4年(1180)から嘉禎元年(1235)までの56年間にわたる克明な日記。

この件に激怒した上皇は翌年正月に専修念仏を禁止する方針を固めた。これをうけて興福寺は2月に専修念仏を厳しく処分するよう朝廷に再度要請したが、九条兼実は使いを派遣して後鳥羽上皇に寛大な処置を求めている。この時の法座に参加していたと思われる4人が死罪となったが、当時、正式な手続きでは死刑がなかったことから、後鳥羽院による私刑であると考えられている。法然以下6人が流罪に処せられているが、これは太政官符として発せられた正規のものであった。この官符は現存していないが、様々な資料から次のように推測されている。

1,専修念仏の禁止。この建永の法難以降も、建保7年(1219)、貞応3年(1224)、嘉禄3年(1227)、天福2年(1234)、延応2年(1240)、徳治3年(1308)と専修念仏の取り締まりが繰り返されている。このなかで「先符に従って専修念仏を禁圧せよ」とあることから、この項目があったことは予測される。2,「専修」「念仏宗」の語の使用禁止。これも繰り返し出されている禁止令に「これまで何度も禁じてきたのに、なお専修の語を使用している」「何度も禁じたのに、いまだに念仏宗を別立しようとしている」とあることから推測される。3,一般信徒の処罰規定。「先符に従って、専修念仏の者を捕まえ、その住宅を破却し追放せよ」とある。当時は死刑が存在しなかったため、これは殺人犯と同じ刑罰であった。鎌倉幕府も、朝廷の太政官符に従い、同様の禁止令を出している。4,法然流罪。これは、法然が弟子の監督責任を問われたものではなく、慈円『愚管抄』専修念仏を「順魔」の教えと指摘しているように、法然の教えそのものが流罪に相当するとされたものである。後に嘉禄の法難『選択本願念仏集』が日本初の発禁処分となったのもこのためである。

親鸞は『教行信証』に「興福寺の学徒が承元元年(1207)年2月上旬に後鳥羽院に奏達して、法然とその弟子が死罪流罪に処された」と述べていることから、興福寺が法然以下問題のある弟子たちの名前をリストアップして朝廷に提出したと思われる。興福寺は専修念仏諸行往生を否定していることを厳しく非難していることから、ここに親鸞・行空・幸西・証空淨聞澄西好覚が挙げられていたと思われる。一方、信空・源智は法然の側近であったが、穏健派であったため指名されなかったのだろう。これを受けて、法然土佐、親鸞は越後、淨聞は備後、澄西は伯耆、好覚は伊豆、行空は佐渡に流罪、幸西・証空慈円預かり処分となった。

6、流罪後の法然と死去

法然流罪の地は九条兼実の知行国である土佐であった。『歎異抄』によれば、還俗名は藤井元彦となっているが、これは罪人が藤原や源といった貴姓を名のることが許されなかったためである。既に75歳になっていた法然は、土佐に行くことなく、讃岐国那珂郡にあった九条家の荘園小松庄に留め置かれ、代わりに代官として弟子の随蓮土佐に流されている。この年の4月、九

26、親鸞は藤井善信と改名されている。

条兼実は「法然のことを歎きながら」(『愚管抄』)亡くなっている。同じ年の11月に後鳥羽院が京都白川に最勝四天王院を創建したことの恩赦として、12月に太政官符が出され土佐流罪が赦免となった。これにより讃岐での生活は10か月ほどで終わることになる。ただし「但しよろしく畿のほかに居住して、洛中に往還する事なかるべし」と、京都居住と洛中への往還は認められなかったため、法然は摂津「神戸」(神戸)に逗留した後、箕面にある九条兼実の異母弟尊忠法印ゆかりの勝尾寺に移っている。ここで4年近くを過ごした後、1211年11月17日、後鳥羽院は流罪になっていた6人と慈円に預けられていた2人を赦免している。法然は同月20日に京都に帰るが、吉水房が荒廃していたため慈円が用意した大谷坊(現在の知恩院勢至堂)に入っている。

法然建暦2年(1212)正月2日に体調を崩し食事がとれなくなる。弟子の信空が「寺院を一つも建立されていないので、入滅されたなら、どこを上人ゆかりの遺跡とすればよいでしょうか」と聞いたところ「一つに決めれば、私の教えが広く行き渡らない。私は生涯念仏を広めてきた。だから念仏をとなえているところがあれば、身分の上下を問わず、それが粗末な漁師小屋であっても、すべて私の遺跡と考えなさい」と言ったという。正月23日、常随の弟子源智からの教えの眼目を書き残してほしいとの依頼に応えて『一枚起請文』を書いている。その二日後、正月25日に80歳で死去し、廟所は現在の知恩院法然上人御廟の場所に建てられた。

『愚管抄』には「法然はあまり方人(味方)なくて、ゆるされて終に大谷と云う東山にて入滅してけり。それも往生往生と云なして、人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし。臨終行儀も増賀上人などのようにいわるる事もなし」と、法然危篤の報に多くの者が奇瑞を求めて来集したが、何も起こらなかったと記している。

これに対して『法然上人伝記』の「御臨終日記」や『西方指南抄』の「法然聖人臨終の行儀」では、正月2日、様態は悪化したが3,4年前から衰えていた耳や目がかえって良くなり、眠っている時も念仏を称えるようになったという。3日には自分はかつて天竺でお釈迦様の弟子として頭陀を行じていたことがあり、極楽浄土から日本に来たと告げたという。11日には、阿弥陀仏が観音勢至の菩薩と共に迎えに来られているのに弟子たちには見えないというので、弟子たちにさらに念仏を申すよう勧めている。さらにその後、弟子たちが3尺の阿弥陀仏像を法然の病床に据え立てると、法然は空中を指して仏像の他にも仏がおいでになっていると言い、実は十年余り前から、いつも極楽浄土や仏・菩薩が見えていたが誰にも言わなかったのだと語った。さらに弟子たちが臨終用の仏像の手に五色の糸をかけて法然に握らせようとしたところ、法然はそのような儀式は必要ないと言って手に取らなかった。20日の午前10時頃、法然の住房の上に紫雲がたなびき、その中に円形の雲が浮かび、それが五色に輝きまるで絵像の仏の後光のようであったという。この日の午後2時頃に、法然が盛んに西の方を見やったので訳を尋ねると阿弥陀仏が見えるのだという。25日午後0時頃、それまで称えていた念仏の声が次第にかすかになったので、円仁以来相承の九条袈裟を掛けて頭北面西釈迦の行儀を取らせたところ「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と称え、眠るように命終したという。