2022年6、7月徳法寺仏教入門講座
日本仏教史16-鎌倉仏教5 法然の弟子と浄土宗-
1、法然死去から嘉禄の法難へ
法然(1133-1212) 生存中は一般に公開されていなかった『選択本願念仏集』であるが、一部僧侶の間では知られていたようで、天台僧の公胤(1145-1216)'はこれを批判する『浄土決疑鈔』(散逸)を著している。しかし、比叡山や興福寺が公然と法然教団を非難する中で、法然を擁護する僧侶も少なくなかった。法然が死去した後、大谷坊近くには墓が作られ、坊には法然の肖像が安置され弟子たちが集っていた。ところが、法然が死去した建暦2年(1212)の9月、法然の信徒であった平基親(1151 - ?)によって『選択本願念仏集』が開板されると、念仏宗に対する非難が一気に広がった。
この年の11月に明恵房高弁(1173-1232)が『堆邪輪』を著し「称名一行は劣根一類のために授くるところ也。汝、何ぞ天下の諸人を以て、皆下劣の根機となすや。無礼の至り、承計すべからず」と批判した。これに対して同じ年に朝日山信寂房(?-1244)が『慧命義』で「彼れは菩薩の解行を明かす、此れは凡夫の往生を述ぶ。難行・易行その心異に、自力他力その旨別なり」と反論したため、翌建保元年(1213) 更に『堆邪輪荘厳記』で三種の過失を挙げてさらに批判している。これに天台僧中道寺覚性(不詳)は『扶選択論』7巻と『護源報恩論』を著して答えている。また、元仁二年(1225)に天台僧定照(不詳)も『弾選択』を著して法然を批判したが、隆寛がこれに反論した『顕選択』に「汝が僻破のあたらざる事、たとえば暗天の飛礫のごとし」と書き嘲笑したことからこの論争は感情的なものとなった。延暦寺の衆徒は、町で専修念仏者を見かけると黒衣を破り笠を壊すなど過激化してったことから、天台座主は沈静化をはかるため、朝廷に隆寛、幸西、空阿弥陀仏(1155-1228)、証空の流罪と、法然の墓を破壊して法然の遺骸を鴨川に流すように訴えた。この情報を得た証空は、2年前に死去
1、明王院僧正。園城寺長吏四十四・四十七世、法勝寺別当。後白河法皇・後鳥羽上皇の両院の仏事に加わった他、鎌倉幕府の公請をもたびたび受けている。しかし、法然と疑問を応答した後、法然の教えに帰依し、後に法然の七七日法要の導師を務めている。。2、諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士。大師号は、五百年遠忌の正徳元年(1711)以降、50年ごとに天皇より加諡され、現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師となっている。3、これ以降、命日である正月25日には知恩講が営まれるようになる。4、摂取不捨の名義を謬解している・念仏を以て本願と名づけて『観経』の説不説を謬解している・十声十念の義を謬解している、の3つ。5、いずれも現存していないが、道光の『新扶選択報恩集』から「自力と他力、成仏と往生の差別を知らず、二門混乱の邪難」であると批判していると考えられる。
した慈円の臨終時に善知識をつとめたことなどを記した弁明書を朝廷に提出している。嘉禄3年(1227)6月、延暦寺は改めて専修念仏の禁止を朝廷に求めるとともに、東山大谷の法然廟破却を祇園社の犬神人にこれを命じた。これは六波羅探題の御家人内藤盛政(不詳)が止めたが、危機感をおぼえた信空や覚阿弥陀仏ら門弟たちは墓から法然の遺骸を掘り起こすと、蓮生(1178-1259、宇都宮頼綱)・信生(1174-1248、塩谷朝業、宇都宮頼綱の弟)・法阿弥陀仏(1155 - 1228、東胤頼)・道弁(1169 -?、渋谷七郎)などの元武家の弟子と六波羅探題の武士団ら1000名の護衛と共に、東山の法然廟所から湛空の嵯峨二尊院まで移送した。この大規模な護衛によりかえって延暦寺側に所在地が知られたため、今度は証空が中心とり広隆寺来迎院(現、西光寺)の円空(不詳)のもとに一旦安置した後、翌安貞2年(1228)正月25日の17回忌に洛西粟生野光明寺の幸阿弥陀仏(1173-1238)のもとに移され、信空・証空・覚阿弥陀仏(不詳)・円空ら門弟が見守る中荼毘に付している(現在の西山浄土宗本山念仏三昧院明光寺)。しかし、幸阿弥陀仏が九州に下向している間に、湛空の門弟たちは遺骨を奪い二尊院に雁塔を立て納骨している。この後、遺骨は念仏三昧院光明寺や知恩院などに分骨された。7月には法然没後畿内で指導的な立場にあった隆寛・空阿弥陀仏・幸西がそれぞれ陸奥(後に対島)・薩摩(途中で死去)・壱岐に配流に処せられた。これに続いて延暦寺の要請によって書かれた交名状には逮捕すべき専修念仏者として44名の名が挙げられている。10月には『選択本願念仏集』の版木を延暦寺大講堂の前で焼き捨てた。この時行われた行政処分の内容は次の通りである。1,全国に専修念仏禁止令・通達し、隆寛は陸奥・幸西は壱岐・空阿弥陀仏は薩摩に遠流。2,敬仏以下46人の僧と度繁朝臣以下22人の信徒を逮捕し京都から追放。3,鎌倉幕府も守護・地頭を通して専修念仏の禁止を諸国に通達。4,延暦寺による法然廟襲撃を追認し、それを制止した御家人の処分を幕府に求めた。5,『選択本願念仏集』を発禁とし、すでに流布しているものおよび印版は没収の上延暦寺大講堂の前で焼却。(このため、1212年に印刷された『選択本願念仏集』は現存していない。)この時、建永の法難では法然教団を擁護し法然の六七日法要を務めた比叡山の聖覚(1167-1235、蓮行房澄憲)が、今回は弾圧の先頭に立ち『選択本願念仏集』の焼却を朝廷に要求している。
2、法然の弟子たち
黒谷で叡空の弟子であった頃から共にいた信空と感西の他に、源智が常随の弟子とされている。また『選択本願念仏集』を感西と共に執筆した遵西と証空も側近と思われる。これ以外にも行空・幸西・親鸞・弁長・長西・住蓮・空阿弥陀仏・湛空など 190人以上の弟子がおり、これ以外にも延暦寺の聖覚や園城寺の公胤のように法然を師と仰ぐ他宗派の僧侶も多くいた。信徒には、公家の九条兼実、大宮実宗・藤原隆信・藤原範光・藤原知資・平基親や、御家人の熊谷直実・津戸為守・大胡実秀などが知られている。北条政子・大胡実秀妻・九条道家正室・正如房(式子内親王)にあてた消息が残っていることから、女性信徒も多くいたことが分かっている。さらに『興福寺奏状』には「洛辺近国はなお以て尋常なるも、北陸東海等の諸国に至っては、専修の僧尼が盛んにこの旨を以てす」とあり、全国に広まっていたことが分かる。後に源智が法然一周忌のために阿弥陀像の造立を計画した際には、北陸から東北の蝦夷地にまで及ぶ5万人近くもの結縁者が集まっている。法然が建久九年(1198)『選択本願念仏集』を執筆した翌月に作成した『没後遺誡文』には、法然没後に弟子たちが一所に集会・群居することや図仏・写経・浴室・檀施等の余行による法然の追善を禁止し、報恩の志がある者はただ一向に念仏を修するように勧めている「葬家追善事」と、入室の弟子として信空・感西・証空・円親・長尊・感聖・良清の7人を上げ、それぞれに対しての遺産分配を記した「不可諍論房舎・資具・衣鉢・遺物等事」が書かれている。。『選択本願念仏』を付与された弟子として『四十八巻伝』には執筆役をつとめた遵西・感西・証空の他に、常随の弟子である信空と源智、それに湛空の名が書かれている。これ以外には、隆寛、幸西、弁長、親鸞が書写を許されたとされている。また法然が円戒を伝授した弟子としては『四十八巻伝』には信空・源智、了慧の『円戒譜』には信空・湛空、珍養の『広血脈』には信空・感西・証空・源智、『顕浄土伝戒論』には信空・隆寛・弁長・聖覚・善慧・幸西が記されている。隆寛と信空の弟子であり泉涌寺俊芿にも師事した敬西房信瑞(?-1279)が「末学の異義をたたんがため」に著した『明義進行集』には「源空上人と同時に出世せる諸宗の英雄のなかに、かの化導に随て、さはやかに本宗の執心をあらためて、専無観の称名を行して、往生の望をとけたるひとおほし」と記している。「無観の称名」とは、観想をせず称名だけを行う念仏のことで、法然の念仏観を表した用語で信空の造語のようである。、この中で信瑞は法然に帰依した静遍・明遍・隆寛・空阿弥陀仏・信空・覚愉・聖覚・明禅の経歴や浄土教信仰を記している。これら有力な弟子たちの中で、真観房感西(1153-1200) は法然が叡空の弟子であった時に 19 歳で弟子入りしている。建久五年(1194)頃、遵西の父である中原師秀が七七日逆修法要を修し
6、『西方指南抄』には遺産分配の部分がない。7、『明義進行集』信空段に引用される彼の消息に「阿弥陀仏を申せは、極楽浄土へまいる事にて候なり、このほかに様ありて、観法なとをして申す事にては候はす、只口はかりにて申す事にて候なり、さてこれをは無観称名と申し候なり」とある。
した際、先の六会は法然が導師をしたが、結願は感西が勤めている。『選択本願念仏集』述作の際にも、遵西に代わって執筆を命ぜられている。『没後遺誡文』では吉水中房と、高畠の地を付属されている。後に法然常随の弟子となる勢観房源智の指導役ともなっていた。しかし48歳で法然より先に死去してしまった。安楽房遵西(? - 1207)は『選択本願念仏集』を執筆したほどの俊才で、住蓮(?-1207)とともに六時礼讃に曲節をつけ信徒と共に合唱することで専修念仏を普及させた。その結果、比叡山や興福寺からの弾圧の対象となってしまう。建永の法難の際には法本房行空(?-?)ととともに非難の的となり、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに処刑されてしまった。行空は処刑こそ逃れたものの、法然から破門されたうえで土佐流罪となり、その後の消息は分かっていない。正嘉元年(1257) に愚勧住信(1210-?)が著した『私聚百因縁集』や、応長元年(1311)に東大寺の凝然(1240-1321)が著した『浄土法門源流章』には、法然の死後に門流をなした「源空大徳の親承面受の弟子」として証空(西山義・小坂義・弘願義)・隆寛(多念義・長楽寺流)・幸西(一念義)・長西(九品寺義・諸行本願義)・弁長(鎮西儀)が紹介されている。正元元年(1259)に日蓮が著した『一代五時図』にはこの 5 人に加えて行空の名が書かれているが、これは鎌倉にいた日蓮の思い違いと思われる。これが、永和元年(1375) 成立の尭恵の『吉水法流記』と同四年に西山流深草派の静見が編纂した『法水分流記』になると、この5人に信空(白川門徒)・湛空(嵯峨門徒)・源智(紫野門徒)・親鸞(大谷門徒、一向宗)の4人が加わり、いわゆる「五義四門徒」という言葉が生まれる。この様な状況を、親鸞は建長4年(1252、80歳)の消息で「法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なむどとおもひたる人々も、このよにはみなやうやうに法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり」と嘆いている。
3、分流していった弟子たち
1、法蓮房信空(1146-1228、弟子の期間56年)
信空は12歳で叡空の弟子となっている。この時25歳の法然とは兄弟弟子の関係にあった。叡空の死後は法然を師とし円頓戒を相承している。『没後遺誡文』では、入室の者七人の筆頭として「多年入室の弟子」と呼ばれ、黒谷本坊、白川本坊、坂下薗、洛中の地一所、本尊や聖教を付属する旨を記されている。元久元年(1204)の『七箇条制誡』は信空の筆によるもので、法然の次に署名している。法然没後には法然の中陰法要を中心的に行い四七日の導師をつとめた。比叡山の黒谷本坊(現・青龍寺)・白川本坊(現・金戒光明寺)などの坊舎と本尊阿弥陀仏を継承した。
法然から相承された円頓戒は、権律師玄朝や湛空、慈胤などに相伝している。安貞2年(1228)に83才で寂した。信空のもとに集まった者たちは白川門徒と呼ばれ、弟子には『明義進行集』を著して信空・隆寛・明遍などの事蹟を伝えた信瑞(? - 1279)がいるが、信空自身の著述は現存していない。後に白川門徒は京都に進出してきた鎮西流に吸収されることになるが、この時同時に吸収された浄土宗大本山の金戒光明寺では、信空は法然に続く二世とされている。
2、正信房湛空(1176-1253、弟子の期間数年)
左大臣徳大寺実能の孫で父は法眼円実。比叡山で六六世天台座主実全に師事した後法然に帰依し、信空に指導を受け、後に円頓戒を相承されている。土御門天皇に授戒をし、その遺骨を嵯峨の二尊院の塔に納めたとされる。『七箇条制誡』には署名がないが、建永の法難では法然の配流に随従したとされている。法然死去の後は後嵯峨二尊院に住して念仏を勧めた。嘉禄の法難(1227)によって転々とした法然の遺骨を、天福元年(1233)西山粟生野の幸阿弥陀仏の庵から奪い二尊院に宝塔を造り安置して、その後も供養を続けた。門流は嵯峨門徒と呼ばれる。寛元二年(1244)69歳のとき、法然の三十三回忌に合わせ、それまでの法然の伝記をまとめて『本朝祖師伝記絵詞』(『四巻伝』)を制作している。また後鳥羽院の中宮修明門院重子の帰依を受け、空海が唐から投げたところ高野山に落ちたという飛行三鈷を賜ったが、晩年高野山に返納したともいわれる。建長五年に78歳で死去。嵯峨門徒も後に鎮西流に吸収された。
2、勢観房源智(1183-1238、弟子の期間18年)
平清盛の孫である平師盛の子とされる。平家滅亡後「平孫狩り」が横行したため、慈円のもとで出家得度したが、政変により九条兼実が失脚した際、慈円も天台座主の座を追われることとなったため、建久6年(1195年)、13歳で法然(当時63歳)の弟子となった。以来、源智は正治2年(1200)に感西が寂するまで感西のもとで学び、以後は感西に代わり常随の弟子となっている。源智は弟子の中でも若年であり、おとなしい性格であったようで、法然から授与された金字の「南無阿弥陀仏」の六字名号を熊谷直実に奪われたことがある。これを返すように直実に書いた法然の書簡が清凉寺に残っている。臨終の 2 日前に授けられた法然自筆の『一枚起請文』を首に懸け秘蔵していたが、源智に帰依した河合法眼の所望に応じ授与したことで『一枚起請
8、『源空、証空自筆消息』、重要文化財。
文』は世間に流布することになる。その他に、法然から、円頓戒の道具、本尊10、大谷の坊舎、聖教などを譲られた。法然没後の嘉禄の法難により大谷の坊舎は荒廃したが、文暦元年(1234)に四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜り、大谷の坊舎を「知恩院」として再興した。現在も知恩院は、法然を初代、源智を二世としている。『四十八巻伝』は、嘉禎3年(1237)に、法然教団の将来を鎮西流の弁長に託する書状を書いたと伝えている。暦仁元年(1238)、法然が住んでいた賀茂の河原屋の旧跡である功徳院で56歳で死去した。この功徳院が後に移転して百万遍知恩寺となる。知恩院と同様に、ここでも源智は二世となっている。弟子に知恩寺三世蓮寂房信慧・浄信・宿蓮らがおり、この門流を紫野門徒という。源智の著述として残っているのは『選択本願念仏集』に対する批判や疑問に答えた『選択要決』や、源智が書き記されたといわれるものを、醍醐寺座主義演が江戸時代初期に書写させたとされる『法然上人伝記』(醍醐本) 11がある。昭和49年(1974)に、文化財集中地区特別調査の対象となった滋賀県信楽町の秋葉山十輪院玉桂寺(真言宗)を、文化庁美術工芸課と滋賀県教育委員会が調べた際に発見された阿弥陀如来像の中から2枚の文章が見つかった。一つは、この像が法然の死亡した建暦2年(1212)に、師の法然の恩徳に報いるために、源智が中心となって造立されたことが記された「阿弥陀仏造立願文」であり、もう一つは近畿・中国・東海・北陸・東北・蝦夷の、身分の上下を問わずに、4万6千名分記載された「結縁交名帳」である。これは当時源智が有力な法然の後継者として広く認知されていたことを示している。この阿弥陀仏像は、昭和56年(1981)に重要文化財に指定され、平成22年(2010)に、法然の800年大遠忌を記念して、玉桂寺から浄土宗へと譲渡された。
9、金戒光明寺が源智に与えられたとされるものを所蔵している。10、南禅寺畔の西福寺の本尊として伝わっている。11、大正6年(1917年)に醍醐寺三宝院から発見された。原本は法然没後30年、源智没後4年の仁治3年(1242年)頃、源智の弟子が遺品の整理中に発見したという。悪人正機説の「善人尚以往生況悪人乎」の法語が法然の「口伝」として書かれている。
4、善慧房証空(1177 -1247、弟子の期間21年)
村上源氏の加賀権守源親季の長男として生まれ、9歳のとき、同族の内大臣久我通親の猶子になったと伝えられている。このことから、道元の義兄もしくは義叔父にあたる。このため、曹洞宗と浄土宗西山派は共に宗門の紋として、村上源氏の総本家の家紋である「久我竜胆」を用いている。14 歳で出家するとそのまま法然の弟子となる。『選択本願念仏集』撰述の際には、23歳の若さで用文との照らし合わせを行う勘文をつとめた。翌年には、法然に代わって九条兼実に『選択本願念仏集』を講じている。元久元年(1204)の『七箇条起請文』では四番目に署名している。法然から円頓菩薩戒を相伝したとも伝わっている。建永の法難では配流を逃れて慈円預かりとなり、吉水にあった法然の住房から東山小坂に移った。このころより天台僧で『七箇条起請文』にも署名している磯長永福寺の願蓮について天台学を学び、、慈円などから台密も学んでいる。建暦2年(1212年) 法然の死去に遭い、慈円から譲られた西山善峰寺北尾の往生院(三鈷寺)に移り住んだ。これにより、証空の門流は小坂義とも西山義とも呼ばれるようになる。法然死去後4年、建保3年(1215)より嘉禄の法難の直前、嘉禄3年(1227)にいたる12年の間、往生院を本拠地として京洛内外三十数か所で連日『観無量寿経疏』を始めとする善導の著述の講説を行い、その記録は『観門要義鈔』として残っている。嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難に際しても、比叡山からの指名を逃れている。念仏宗に対する弾圧が続く中、天台宗と天台密教を学び法然の念仏との融合をはかった証空の教えは比叡山からも受け入れられ、畿内で勢力を拡大させていく。証空の著した『観経疏大意』に、その教えを端的に表した一文がある。先ず念仏宗と者、諸経を会して『観経』に入るるなり。諸善を開して念仏に摂す。定散相分たること八万四千也。能く念仏の一行を詮す。弘誓多門にして四十八、専ら念仏の一願を標す。諸善を能詮と号し念仏を所詮と名く。此の分別之智を以て観解と名く。十六観門是れ也。此の観門之智を発して弘願念仏三昧に帰する是なり。能詮・所詮は猶を分別之義也。観門・弘願は開会之釈也。観門の解を発し弘願に帰する人の心には、実には一切の善根は皆正行と云うべき也。自力修行の人の心には一切の善根は皆雑行と云う事は一宗の大事也。ここにある「能詮」とは、弘願に帰した上での定散諸門は弘願を照らし出すはたらきをする
ということで「所詮」とは、観門によって第十八願の念仏が照らし出されるということである。つまり、念仏の教えに帰した上での諸行は、念仏を照らし出す働きをするということになる。法然が否定した諸行を重視したことにより、証空の教えは比叡山だけではなく公家階級にも広く受け入れられた。この教義を西山西谷派の行観は「師の法然房は諸行の頭を切る。弟子の善慧房は諸行を生け捕りにする」と表現している。『明月記』によれば、九条道家、西園寺公経、野宮公継、持明院家能、徳大寺実基、宜秋門院、藤原定家などの上流階級と交わっている。また、証空の念仏理解が法然の来迎思想とは異なり、親鸞と同じく現世志向であったことも「生きて身をはちすの上にやどさずば念仏まうす 甲斐やなかからん」という詠歌から見て取れる。往生についても、法然が臨終往生であったのに対し、証空は平生の即便往生と臨終の当得往生の二種往生説を説いた。さらに、寛喜元年(1229) に奈良當麻寺に参詣して『当麻曼荼羅』を拝観した際に、曼荼羅が観無量寿経疏を図画化していると理解し、これ以降曼荼羅を教義に取り入れるようになる。宝治元年(1247) 白河遣迎院において71歳で死去した。門弟たちは遺身を西山三鈷寺に葬り、塔をたてて華台廟と称した。証空が建立した主な寺院には、西山往生院を始め、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院などがある。残した著作は『観門要義鈔』41巻、『観経疏他筆鈔』14巻、『観経疏大意』1巻、『観門義草案』2巻、『三部経論義記』1巻他、多数に及ぶ。証空の門弟は非常に多く、とくに仁和寺西谷の光明寺、洛東禅林寺に住した浄音(1201-1271、法興、西谷流)、深草の真宗院に住した円空(1211-1284、立信、深草流)、阿弥陀院を開き安養寺を興した証入(?-1245、観鏡、東山流)、嵯峨二尊院内の浄金剛院に住した証慧(1195-1264、道観、嵯峨流)の四人は、それぞれ流派を開いたため西山四流といわれ、これに淨音の弟子了音 (不詳)の六角義と、三鈷寺の玄観の弟子示導(1286-1346)の本山義を加えて西山六流と呼ぶ。このほか、常随40年といわれ蓮生(宇都宮実信房)は聞書(『積学房鈔』2巻)を残している。薩生房全報(不詳)は、幸西より一念義を習った後証空の弟子となり、後に鎌倉で独自の三昧義を弘めた。九州筑前の大宰府で西山流を広めた聖達(不詳)の門下からは、時宗の開祖である一遍(1239-1289)が出ている。
現在残っている流派は、西谷義の西山浄土宗(念仏三昧院光明寺)と浄土宗西山禅林寺派(禅林寺永観堂)が、深草義の浄土宗西山深草派(誓願寺)の三流派となっている。
5、長楽寺隆寛(1148-1227、弟子の期間8年)
少納言藤原資隆の三男。比叡山では法然の師でもある伯父の皇円から天台教学を学んでいる。また、皇円の法兄範源や天台座主慈円にも師事した。慈円の和歌を集めた『拾玉集』にも名が出ており『尊卑分脈』12には隆寛の実子聖増が慈円の弟子になったことも伝えている。元久2年(1205年)には、権律師に任ぜられた。法然への入門時期は不明だが、元久元年(1204)57歳の時、法然から『選択本願念仏集』を授けられているが、この年の『七箇条起請文』には署名がないことから、この時期は天台僧としての立場であったことがわかる。『明義進行集』によれば、浄土を願生して『仏説阿弥陀経』を日に 48 巻読誦していたが、法然の言葉によってこれを中止し、三万五千遍の念仏に変えたという。法然没後の中陰法要では五七日の導師を務めている。東山長楽寺を拠点としたので一門は長楽寺流と呼ばれた。平生の念仏を重んじ、毎日八万四千遍の念仏を修したと伝えられている。『散善義問答』では、ひとたび発心したからには往生のときまで決して退転してはいけない、弥陀の本願によって救われるのは平生ではなく息をひきとる臨終の際に一念を称えた時であり、そのときまで絶えることなく念仏を称え続けなければならないと説いている。一念業成に対して多念業成を、平生業成に対して臨終業成を主張し、平生の念仏は臨終業成の予備的行業とした。ただし『一念多念分別事』では、一念多念に拘ることを否定し、一念多念不離相即を説いており、親鸞はこれを門弟に書写している。曇鸞を重視したことも親鸞に影響を与えている。また『極楽浄土宗義』では、第18願を報土往生の機とし、第19願は発菩提心・修諸功徳の人が縁に遇いて三心を発して後に来迎を蒙って往生を得ることを、第20 願は念仏と余行と兼ね修して信心決定せざる人が忽ちに縁に遇いて三心を発して他力に依ることから結果として往生を遂げることを説いているとしている。ここでいう三心とは『仏説観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心であり『仏説無量寿経』第18 願の至心・信楽・欲生の三心に結びつくものである。また「明らかに知んぬ、胎生と云い、九品と云い、是れ即ち譬喩を借りて疑心の者を誡勧するなり。別に其の他に地ありて実に彼に生ずるにはあらざるのみ」「実には彼の地に到り巳(ぬ)れば、須臾の間に無明の惑を断じ、刹那の程に無生忍を得。斯れ即ち実には辺地なきが故なり」と辺地を方便として否定している。
12、南北朝時代から室町時代初期に洞院公定と子孫によって編纂された日本の初期の系図集。
嘉永2年に、定照の『弾選択』を『顕選択』にて論破したことをきっかけに起きた嘉禄の法難では専修念仏を広めた中心人物として陸奥国配流を言い渡された。しかし、護送に当たった毛利季光(西阿弥陀仏)が帰依したことから、弟子の実成房が代わりに会津流罪となり、隆寛は季光の領地である相模国飯山(現在の神奈川県厚木市)に止まったが、病によりこの年80歳でこの地で没した。隆寛の墓は現在、飯山の光福寺にあり、山門前には「浄土宗多念義派本山」と刻まれた石柱が立てられている。弟子の智慶が長楽寺を、願行が理智光寺・安養院を鎌倉に開くなど、主に関東を中心に教えがひろがったが、京都の長楽寺でも敬日が教えを繋いだ。
6、成覚房幸西(1163-1247、弟子の期間9年)
俗姓は物部氏とも平清盛の次男資盛の遺児とも言われるがはっきりとはしていない。延暦寺西塔南谷の僧であったが、弟子でもあった我が子を亡くしたことから『選択本願念仏集』の書かれた建久9年(1198)に法然門下となった。元久元年(1204)の「七箇条起請文」では15番目に署名をしていることから、わずか数年で主要な弟子となっていたことが分かる。『興福寺奏状』にも名が挙げられていることから、法然門下でも目立った動きをしていたらしい。建永の法難では土佐流罪となったが『歎異抄』によれば慈円の預かりで流罪は免れたとされていることから、かなり地位の高い公家の出身であったと思われる。法然存命中から一念義を主張していた。『玄義分抄』では、次のように口で称えずとも心で仏を念ずれば良いとしている。先づ聖道をすてて浄土を行ぜしめ、次に衆行を捨てて念仏を行ぜしむと也、…定善を捨てて散善を行ぜしめ諸行を捨てて称仏を行ぜしめ、多称を捨てて一称を行ぜしめ、諸仏を捨てて弥陀を行ぜしむる…口称を捨てて心称を行ぜしむる事…。また、化土を報土とは別の方便的なものともしている。化土の機 三輩・九品の衆生または新発意の為に界内同居の化土を仮立して、欣慕修行せしめ積善増高ならしめんと欲す。幸西の一念義は、凡夫の信心が仏智の一念に合致すれば往生は定まるので、数万遍もの念仏を称える必要はないというものであり、幸西が著した『京師和尚類聚伝』の一部である「烏龍山師並屠児宝蔵伝」が親鸞に書写されていることから、親鸞に大きな影響を与えている13一方、他の法然門下からは批判され、法然から一念義が停止されたともいわれている。
13、弁長は親鸞が法然の弟子ではなく幸西の弟子であると言っている。
嘉禄の法難では、枝重と改名して壱岐島に流罪となったが、壱岐には弟子を遣わし、幸西自身は讃岐に留め置かれたとも、または下総であったとも、伊予国とも言われる。さらに赦免後は、下総国栗原で念仏を布教したとも、法然門下を追放された後、越前で還俗し織田大明神の神職の婿になったとも伝えられている。これが事実ならば織田信長の先祖ということになる。幸西の門流は、京都、越後、肥後、阿波を中心に展開したが、室町時代には法統が絶えてしまった。同派からは、入宋し浄土教典籍の開版に尽力した明信や入真、後に証空の弟子となった薩生などがいた。
7、覚明房長西(1184-1266、弟子の期間は10年)
讃岐国西三谷に生まれた。藤原道隆6代の孫、伊予守国明朝臣の子と伝えられている。建久3年(1192) 9歳で上洛すると俗典を学んだ。建仁2年(1202)に19歳で法然の弟子となっている。この時、法然は70歳、信空は57歳、弁長は41歳、幸西は40歳、親鸞は30歳、証空は26歳、源智は 20 歳であったことから、主だった弟子の中では最も若かったことになる。法然が死去した時はまだ 30 歳にもなっていなかったことから、涌泉寺俊芿や出雲寺の往心房覚瑜、道元などから様々な教えを学び直している。これにより、法然が無視した19願・20願に諸行による往生が誓われていることを重視した、念仏以外の諸行によっても往生できるという独自の浄土経理解が生まれた。長西の流派は、九品寺を開いて講義していたことから九品寺義、または諸行を本願とする主張をしたことから諸行本願義と呼ばれた。これは、法然が説いた諸行非本願の教えに違背するものとして、法然門下内からは厳しい批判にさらされることになるが、聖道門の諸宗からは好意的に受容され、一時は鎌倉を中心にかなりの隆盛を誇っていた。弟子にも恵まれ、京都では西山深草義の顕意と教学的論争を行った証忍が、長西の故郷である讃岐西三谷では覚心が、鎌倉では浄光明寺や新善光寺で教えを広めた道教が、甲州では空寂は教えを広め、凝然も長西から講説を受けたといわれている。しかし、天台浄土教との差異がはっきりしないことから、次第に天台宗に吸収されていった。
8、聖光房弁長(弁阿、1162-1238、弟子の期間6年)
筑前国遠賀郡加賀月(香月)荘(福岡県北九州市八幡西区)に生まれる。父は香月氏の系統で古川則茂とされている。仁安3年(1168)に出家すると、安元元年(1175)観世音寺の戒壇で受戒し天台系の僧となった。寿永2年(1183)に比叡山に登り東塔南谷の観叡に入室し、後に証真に師事した。建久元年(1190)に帰郷すると油山寺の学頭となる。建久8年(1197)に明星寺の五重塔に安置する本尊建造を注文する為に上洛した際、仏像の完成を待っている間に
法然の弟子となった。本尊安置の為に帰国したが、正治元年(1199)再び上京して元久元年(1204)に帰国するまで法然に師事し『選択本願念仏集』を相伝されている。帰国後、筑後国高良山の麓にある厨寺(現・厨山聖光院安養寺)で千日の不断念仏を勤めた際に多くの奇瑞が現れたという。これにより多くの帰依者を得ることとなる。これ以降、筑前の吉祥寺・筑後の善導寺・肥後の往生院を拠点に北九州一体に伝道した。『浄土宗要集』『徹選択本願念仏集』『認知浄土論』『浄土宗名目問答』『念仏名義集』『念仏三心要集』など多くの著作を残している。『念仏名義集』の中には次のように書かれている。浄土の法門も区に替り候也。其の故は衆生の心不同にして、其の願い一に非ず。故に仏は一切衆生の其の心品相替れるを御覧じて、品品の法を説き給えり。薬師仏に志しの有りと御覧ずる衆生のためには薬師経を説き、地蔵菩薩に志しありと御覧ずる衆生のためには地蔵経を説き、…加様に衆生の志の趣に随て仏け法を説き玉う中に、今此の極楽を願う人のためには阿弥陀経を説て念仏往生の義を示し玉うと也。」「法花・真言は即身成仏の一派を立つる方にこそ余の諸法には勝れたりとは申す事にて候へ、往生極楽を説かせ給える方には勝れたりと云う事には非ず。況や又た念仏は法花にも真言にも勝れたりと云には非ず。法花・真言共に行し得ず、即身成仏にも叶わず、又生死をも出で得ず、後世の苦しみ遁れ難からん人は如何すべきと生死を離し難し、鈍根少智の者の一戒をも持たず、破戒無慚の者の、如何してか此の度び生死出べきと、方方に歎き尋ぬる処に、…善導是れを一切経の中より三部の浄土経を尋ね出し給えり。仏教には様々な人に合わせて多くの教えが説かれており、浄土の教えもその一つにすぎず、特に法華経や真言密教では救われない機根の劣る者のための教えであるというのであるが、これは法然の説とは異なっている。また、法然が選捨した世善を含む三福等の雑善を、極楽往生の大善として高く評価もしている。これにより、従来の価値観を大切にしていた支配者階級からの支持を得ることになる。安貞2年(1228)、67歳の時、往生院で『末代念仏授手印』を作成している。序には撰述の理由として次のように述べている。上人往生の後には、その義を水火に諍い、その論を蘭菊に致して、還って念仏の行を失って、空しく浄土の業を廃す。…ここに貧道齢すでに七旬に及んで、余命また幾いくばくならず。・・・
これに依って、肥州白河の辺ほとり、往生院の内において、二十有の衆徒を結び、四十八の日夜を限って、別時の浄業を修し、如法の念仏を勤む。この間において、徒らに称名の行を失することを悩なげき、空しく正行の勤めを廃しぬることを悲しんで・・・弟子が昔の聞ききに任せ、沙門が相伝に依って、これを録して、留めて向後きょうこうに贈る。仍って末代の疑いを決せんが為、未来の証に備えんが為に、手印を以て証と為して、筆記する所左さのごとし。特に「幸西の一念義」「証空の弘願義」「行空の寂光土義」の三人を邪義として批判している。聖護房・生極楽房・唯称・円阿・綽阿・良忠等がこの『末代念仏授手印』を付嘱された14。主な弟子には、浄土宗を興した良忠・浄土宗蓮社号の始とされる白蓮社(宗円、入宋し廬山の宗風を学んだ)・敬蓮社(入阿弥陀仏)・修阿弥陀仏・聖護房(常随の弟子)・宗円などがいいる。嘉禎4年(1238) 善導寺で77歳の生涯を終えている。浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖、弁長は2祖とされている。
9、良忠(1199-1287、然阿、弁長の弟子としての期間 2年)
石見国三隅荘で生まれる。建暦元年(1211)、13歳で出雲国鰐淵寺の月珠房信暹の門に入り、建保2年(1214) 比叡山で受戒した。貞永元年(1232) 本国に帰国し多陀寺に住した。嘉禎2年(1136)筑後国天福寺に弁長を訪ねて弟子入りし、翌年には善導寺にて『末代念仏授手印』を授かっている。以降10年ほど安芸地方で布教した後、宝治2年(1248) 上洛したが、京都は専修念仏に対する弾圧が続いていたことから信濃善光寺に向かい、さらに関東に入ると上野・下野・武蔵・常陸・上総・下総に教線を張った。特に上総・下総の千葉一族の支援を受けて勢力を拡大したが、正元元年(1259年) 外護者の椎名八郎と衝突したことから千葉一族との関係が悪化し、正元2年(1260)には数名の弟子を連れて鎌倉へ拠点を移している。当時の鎌倉は、栄西系の禅や、長西の弟子道教(不詳、道阿弥陀仏)、真言律宗の良観房忍性15(1217-1303)、日蓮などの鎌倉仏教がすでに活動しており、当初は思うように布教できなかった。大仏朝直16 (1206 - 1264)の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺(現在の光明寺)を創建してからは経済的にも安定し、忍性らとともに日蓮と論争を繰り広げるまでになる。この頃に、後に一向宗の祖となる一向俊聖(1239-1287)が弟子となっている。良忠は『浄土大意鈔』『選択伝弘決疑鈔』『三心私
14、現存しているのは、聖護房本(熊本往生院)・生極楽房本(筑後善導寺)・唯称本(佐賀大覚寺)・円阿本(博多善導寺)のみ。15、日蓮に「当世日本第一の持戒僧」といわれた。16、北条時房と足立遠元の娘の子で、執権・北条泰時の娘を妻とした。
記』『決答授手印疑問鈔』『観経疏伝通記』など多くの著作を残しているが、特に重要視されているのが、源空・弁長・良忠三代相承の正義による『選択本願念仏集』の指南書とされている『選択伝弘決疑鈔』である。この中で良忠は、長西の諸行本願説や、証空の現世還相回向釈や平生の即便往生が法然の教えとは異なることを批判している。良忠の往生観は、臨終の往生のみであり、浄土に往生する機類には、断証の機・諸行の機・念仏の機の三種があり、これらの往生に勝劣・難易があるものの、いずれにおいても往生できるという諸行往生論である。文永9年(1272) 大病を患った良忠は、比叡山で修行中であった実子の良暁を呼び寄せ、財産を与えるとともに、後妻とその子の面倒を見てほしいと依頼している。病状が回復すると良暁を比叡山に返すことなく浄土教を伝授した。建治2年(1276) 畿内の弟子に請われて上洛すると、源智の弟子百万遍知恩寺3 世信慧と東山の赤築地において談義を行い、源智の門流である紫野門徒は鎮西義に合流することになる(「赤築地の談」)。これにより、紫野門徒の拠点であった百万遍知恩寺と知恩院は鎮西義の京での有力な拠点となった。弘安9年(1286) 11年に及ぶ京都で布教を終え鎌倉に帰ると良暁に法門を伝授し、翌年89歳で死去した。良忠には多くの門下がいたが、実子の良暁(寂恵、1251-1328)の白幡派、聖真(性心)の藤田派、良弁(尊観)の名越派(以上を関東三流)、了恵(道光)の三条派、然空(礼阿)の一条派、良空(慈心)の木幡派(以上を京都三流)に分かれることになる。
