2022年8、9月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史17-鎌倉仏教6 親鸞大乗菩薩道-

1、親鸞誕生から比叡山まで

親鸞(1173-1263)は個人的な記録をほとんど残していないうえに、当時の資料に親鸞についての記述が極めて少ないことから、明治時代には架空の人物ではないかと疑われた。大正 10 年(1921)に、娘・覚信尼〈1224-1283〉に妻・恵信尼(1182-1268)が送った10 通の『恵信尼文書』(恵信尼消息)が西本願寺の宝物庫から発見されたことで、ようやく親鸞の実在が証明された程である。しかし、その生涯は今でも不明な点が多く、消息以外の資料としては、内容の一部が史実と合致していない『尊卑分脈』や『日野一流系図』『などの系図と『親鸞聖人御因縁』や『ロ伝鈔』『御伝鈔』『親鸞上人絵伝』など宗門内で編成された伝記によるしかない。

鏡御影(西本願寺)

親鸞が生まれた年は、親鸞自筆の典籍などに書かれている年齢から逆算して、承安3年(1173)と思われる。誕生の月日は1月、2月、4月、10月などの説があるが、いずれも江戸時代に書かれた伝記が根拠となっている。親鸞藤原氏の末裔である日野氏の出身であるが直系ではなく、さらに祖父の経尹が個人的な問題を起こしてしまったようで、系図に「放埓の人」と書かれている。父は皇太后宮大進日野有範という官僚で、母は江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』に源義家の孫娘「貴光女」もしくは「吉光女」ともあるが、いずれも信頼できる記録ではない。親鸞の幼名は松若磨・松若丸・十八公麿など、俗名も忠安と伝わっているが、いずれも疑わしい。

これに対して伯父たちの記録は残っている。範綱は生涯後白河院に仕え後白河院が亡くなった後には出家しており、宗業は後白河院の皇子以仁王の学問の師となり晩年には従三位まで昇進するなど、親鸞の父とは異なり表舞台で活躍している。

治承4年(1180)、以仁王の挙兵を契機に「治承・寿永の乱」が起こり、平氏政権が揺らぎ始める。翌養和元年(1181)には洛中だけでも 42,300 人が餓死したと『方丈記』に書かれている「養和の飢饉」が発生する。この年、9歳の親鸞は伯父日野範綱に伴われ青蓮院に入り、後の天台座主慈円(1155-1225,慈鎮和尚)のもとで得度し「範宴」と称したとされるが、これも定かではない。

1、南北朝時代から室町時代初期に洞院公定(1340-1399)が編纂した系図集。

2、蓮如(1415-1499)の十男実悟(1492-1584)によって書かれた系図。

3、親鸞・真仏・源海の伝から成る高田専修寺系荒木門徒の親鸞絵伝。

4、いずれも親鸞の曾孫・覚如(1270 - 1351)の著作。

5、『御伝鈔』・『親鸞聖人正明傳』による。『尊卑分脈』『本願寺系圖』では「皇太后宮権大進」。大進は、大夫、亮に次ぐ3番目の役職で、従六位相当とされる。従五位下以上と六位の蔵人は昇殿を許された殿上人、従三位以上と参議は公卿と呼んだが、これより低い身分であった。

時期は不明であるが、父も出家し三室戸寺に隠棲している。また、親鸞の3人か4人の弟も全員出家していることから、親鸞の出家も父が何かしらの問題を起こしたためと考えられる。

尋有は青蓮院門徒として、後に比叡山東堂で善法院の院主、常行堂検校となり僧綱も少僧都にまで出世している。親鸞は晩年、尋有の所有する三条富小路の坊舎善法房に住み、ここで死去している。兼有は天台宗寺門派の聖護院で出家し、有意は比叡山で出家している。一部の記録にある行兼は聖護院で出家し兄兼有の弟子となっている。

恵信尼文書に「殿の比叡の山に、堂僧つとめておわしましけるが」とあることから、親鸞は、慈円が検校を勤める比叡山横川の首楞厳院の常行堂で、堂僧として20年に渡り不断念仏の修行をしたと思われる。。

日野氏系図(日野をもとに作成)

この間、建久3年(1192)には鎌倉の源頼朝征夷大将軍に任じられ、天皇と藤原氏による京都を中心とした時代が大きく変化し始めることになる。

2、六角堂参籠から法然の下へ

建仁元年(1201)、親鸞は29歳で比叡山を下山すると、聖徳太子建立とされる六角堂百日参籠を行っている。この時のことを『恵信尼文書』は次のように伝えている。

山を出でて、六角堂に百日籠らせ給て、後世を祈らせ給けるに、九十五日のあか月、聖徳太子の示現に預からせ給て候ければ、やがてそのあか月出でさせ給て、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと訪ねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又六角堂に百日籠らせ給て候けるように、又百か日、降るにも照るにも、如何なる大事にも参りてありしに、ただ後世の事は善き人にも悪しきにも、同じように生死出づべき道をば、ただ一筋に仰せられ候しを、受け給わり定めて候しかば、上人の渡らせ給わんところには、人はいかに申せ、たとい悪道に渡らせ給べしと申とも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思まいらする身なればと、ようように人の申候し時も仰せ候しなり。

6、ちなみに道元は二年、日蓮も十年前後。

ここで、六角堂参籠に関するところは間接過去助動詞の「けり」が、法然入門に関する記述には直接過去助動詞「き」が使われているので、恵信尼親鸞が法然の下を訪れたのを知っていたことになる。

95 日目の暁の夢中に救世菩薩の化身である聖徳太子が示現して結んだという文を、恵信尼は消息に同封したと書いているが残っていない。これにはいくつかの説があるが、現在最も有力視されているのが「女犯偈」といわれる次の文である。

六角堂(頂法寺)

行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽

この原文とされるのが『覚禅鈔』「の「如意輪の文」である

本尊、王の玉女に変ずるの事。又いわく、もし邪見の心を発して、淫欲熾盛にして世に堕落すべきに、如意輪、我れ王の玉女となりて、その人の親しき妻妾となり、共に愛を生じ、一期の生の間、荘厳するに福貴をもってす。無辺の善事を造らしめ、西方極楽浄土に仏道を成ぜしめん、こを生ずることなかれ。

この両文にある「玉女」については、慈円の『慈鎮和尚夢想記』にも書かれている。

建仁3年(1203)6月二十二日暁の夢に云わく、国王の御宝物、神璽宝験剣の神璽は玉女也。此の玉女は妻后の躰也。王、自性清浄の玉女躰に入り、交合せしめ給えば、能所共罪無きか。

このことから「玉女」とは神仏の生まれ変わりであり、妻として娶っても罪にならない女性として広く受け止められていたことが分かる。

恵信尼によると、夢告を受けて後、親鸞は夜明けとともに東山吉水にあった法然の草庵を訪ねたとされる。入門を許された親鸞は、法然より綽空の法諱を与えられる。入門して3年後、元久元年(1204)11月7日に法然が提出した『七箇条制誡』では、190人の門弟連署の86番目に8日付で「僧綽空」と署名していることから、高弟とは言えない立場であったと分かる。ところが元久2年(1205)4月14日には『選択本願念仏集』の書写と、法然の肖像画の制作を許されている。『教行信証』には、同年閏7月29日「又依夢告、改綽空字、同日、以御筆令書名之字畢」と記述があることから、この時に名を親鸞と改めたことが分かる。

七箇条制誡

7、勧修寺なので学んだ覚禅(1143 - ?)が集大成した東密系の密教事相集。

8、この時、法然は69歳。3年前に『選択本願念仏集』を執筆している。

3、親鸞の妻と子供たち

親鸞は妻帯したことで知られているが、当時、僧侶の妻帯は珍しいことではなかった。法然の弟子であった隆寛(1148-1228)も妻帯し、実子である聖増が慈円の弟子になっている。さらに比叡山の僧として法然に師事していた聖覚(1167-1235)の父澄憲(1126-1203)は、権大僧都にまで出世した天台僧であったが、聖覚以外にも多くの子供を残している。さらに、鳥羽天皇(1103-1156)の娘で二条天皇(1143-1165)の中宮であり後白河天皇(1127-1192)の異母妹でもあった高松院姝子内親王(1141 - 1176)との密通により勅撰歌人の八条院高倉(1176?-1248?)が生まれている。澄憲は美しい表現の表白諷誦文と譬喩因縁譚による説経を編み出した。聖覚はこれを継承し、安居院流と呼ばれる説教と唱導を完成させている。聖覚も妻帯し、子の隆承から憲実、憲基へと子孫に引き継がれた安居院流は延暦寺門跡の院家となり、真宗の節談説法の源流となっている。

僧侶の妻帯は平安時代初期からみられていたが、鎌倉期にはこれが一般的になっていた。『沙石集』には「末代には、妻もたぬ上人、年を逐うて希にこそ聞えし。後白河の法皇(1127-1192)は、隠すは上人、せぬは仏と仰せられけるとかや。今の世には、隠す上人猶すくなく、せぬ仏いよいよ希なりけり」という言葉が残っている。隆寛聖覚親鸞と同じ比叡山の僧侶であるが、特に比叡山では妻帯は当たり前の事となっていたようである。浄土宗を創設した良忠にも複数の妻と実子がいたが問題とはなっていない。ただし、ほとんどの場合、妻の名前は分かっていない。公家や武家でも、妻の名前はほとんど残っていないが、後白河法皇が「隠すは上人」と言っているように、僧侶の間では妻がいても「隠す」ことが上品であるとされていたのである。

親鸞恵信尼以外にも妻がいたという説は古くからある。『親鸞聖人御因縁』には、九条兼実と法然の要請によって親鸞が兼実の娘・玉日と結婚したと書かれている。さらに、二人の子である範意(改印信)は、親鸞越後流罪から帰京するまで留守をしたとされるが、親鸞九条兼実では身分の差が大きすぎることや、当時の記録に二人の名がないことから、現在はこれを事実とする意見は少ない。

恵信尼像、龍谷大学所蔵

恵信尼文書』により、親鸞の日々の生活や家族関係の一部も明らかになった。親鸞恵信尼が京都で出会っていたことから、恵信尼の父が越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教であることもほぼ定説となっている。当時、高貴な罪人が配流される際には、妻を同行させるのが一般的であった。

9、澄憲の父は藤原通憲(信西)。聖覚の母の名は分かっていないが、8人の出家した兄弟がおり、聖覚は次男。

10、八条院高倉にも出家した実兄がいた。

11、門跡に次いでこれを補佐する身分。

12、鎌倉時代中期に無住道暁(1226-1312)が編纂した仮名まじり文で書かれた仏教説話集。150 話前後の説話が納められている。

4、越後流罪から関東へ

建永の法難(1207)により、親鸞は「藤井善信」と還俗改名されたうえで、越後国国府(新潟県上越市)に配流となる。この一か月ほど前に、伯父日野宗業が越後権介に任じられており、また越後には恵信尼の実家三善氏の所領もあったことから、日蓮の土佐流罪とは異なり、罪人というよりは京払いというべきものであった。この時、恵信尼と長女以外に、法然の弟子から親鸞の弟子となった性信(1187-1275)も同行したともいわれている。ただし、善鸞は同行せず、京都の寺に預けられたものと思われる。

親鸞は『教行信証』で「しかれば巳に僧にあらず、俗にあらず、是の故に「禿」の字を以て姓とす。」と述べており、これ以降「愚禿釋親鸞」と名告っている。これは、還俗によって僧侶という社会的身分は失ったが、釈迦の弟子であるという自身の立場は変えないことを誓ったものである。これ以降親鸞非僧非俗として一生を送ることになる。

承元5年(1211)3月3日、明信(栗澤信蓮房)が誕生している。同年11月17日に、岡崎中納言範光を通して勅免の宣旨が順徳天皇より下った。同月には法然にも入洛の許可が下りている。しかし、生れたばかりの子供を連れて冬の越後から帰京することは困難であった。翌建暦2年(1212)1月25日、法然が80歳で死去したこともあり、親鸞は帰京することなく、さらに3年間、越後での生活を続けている。これは越後での生活が安定したものであったことをあらわしている。親鸞面受とされる 48人の弟子の名前が記録されている『親鸞上人門侶交名牒』に、越後の弟子は覚善一人だけしかいない。これは流罪であったという事だけではなく、親鸞自身が布教に積極的ではなかったためであると思われる。

小島草庵跡

建保2年(1214)、親鸞は、家族や門弟たちと共に信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て常陸国に向かう。『恵信尼文書』では「常陸の下妻と申候ところに、幸井の郷と申ところに候しとき」とあり、この近くの小島に3年住んでいた。この後、笠間郡稲田郷に移る。親鸞は寺院を構えることなく、これら草庵を拠点として、約20年間、東国で布教活動を行っている。

西念寺(稲田草庵跡)

関東での親鸞は、下総国西北部・横曽根門徒の指導者であった性信、下野国東南部・高田門徒の指導者であった真仏(1209-1258)、常陸国東南部・鹿島門徒の指導者であった順信(?-1250)など多くの弟子に恵まれた。後に「関東二十四輩」と呼ばれる 24 人の高弟たちが、常陸や下野などで寺院(二十四輩寺院、現在は 43 か寺)を建立していることから、少なくとも数千人の門弟がいたと考えられる。寺院を建立していった高弟達はすべて法名を名乗っており、読み書きができる武家や神官出身の社会的地位を持った者たちであった。これ以外にも「大部の中太郎」のように90余名の門弟を率いた在家の弟子もいたことが分かっている。

52歳の時、法然の13回忌に合わせて『教行信証』初稿本を書いているが、関東での親鸞の具体的な生活の様子や布教内容は分かっていない。ただ『恵信尼文書』には、寛喜3年(1231)4月、風邪発熱した際に病中大経を読誦して、深く反省したという記述がある。

「臥して四日と申あか月、苦しきに、「転(今は)さてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ。たわごとにや申事か」と申せば、「たわごとにてもなし、臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、暇もなし。たまたま目を塞げば、経の文字の一時(一字)も残らず、きららかにつぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思かえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思なして後は、経読むことは止りぬ。さて、臥して四日と申あか月、転(今は)さてあらんとは申也。『三部経』げにげにしく千部読まんと候し事は、信蓮房の四の歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申所にて読み始めて、四五日ばかりありて、思かえして、読ませ給わで、常陸へばおわしまして候しなり。信蓮房は未の年の三月三日の昼生まれて候しかば、ことしは五三やらんとぞおぼえ候」

これは、親鸞が病を癒すという現世利益のために読経しようとした自分自身の弱さを恵信尼に語ったものである。法然は病気治癒のために授戒を行っていたが、親鸞はこれを仏教の救いではないと明確に理解していたことが分かる。同時にそれでも現世利益に走ってしまう自分自身の弱さを正直に語る強さも持ったのである。

親鸞が関東にいる間に京都では大きな変化が起こっていた。承久3年(1221)、親鸞 49歳の時、親鸞越後流罪にした後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた(承久の乱)。上皇は義時を討伐対象としていたが、北条家はこれを鎌倉幕府全体への攻撃であるとして東国御家人たちを動員することに成功し、逆に京都に攻め上って勝利した。これにより、首謀者である後鳥羽上皇(1180-1239)は隠岐島、順徳上皇(1197-1242)は佐渡島に配流された。また、討幕計画に反対していた土御門上皇(1195or1196-1231)も自ら望んで土佐国(後に阿波国へ移される)へ、後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(1200-1255、六条宮)、頼仁親王(1201-1264、冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流となる。仲恭天皇(1218-1234、九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、後鳥羽の同母兄・行助入道親王(1179-1223、守貞親王)の子が即位した(後堀河天皇、1212-1234)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経(1171 - 1244)が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。また、幕府軍の総大将の北条泰時(1183-1242)、時房(1175-1240) らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。これ以降、武家政権は明治維新までの 600年間以上にわたり、朝廷に対して優位を維持し続けることになる。

また、親鸞55歳の嘉禄3年(1227)には嘉禄の法難が起こり、隆寛、幸西、空阿が流罪に処さる他、在家の念仏者に対しても厳しい処分が行われた。

5、帰京から慈信房義絶

鎌倉幕府が専修念仏を禁止した文暦元年(1234)頃、62歳前後で親鸞は帰京している。10歳前後の末娘・覚信尼と妻・恵信尼も同行した。この後、90歳で死去するまで京都を離れることはなかったが『親鸞上人門侶交名牒』にある帰京後の弟子は賢阿・善善・淨信の3人のみである。

寛元5年(1247) 75 歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成させている。宝治2年(1248)には『浄土和讃』と『高僧和讃』を、建長2年(1250)には『唯信鈔文意』を、建長4年(1252)には『浄土文類聚鈔』を撰述している。

建長3年(1251)に、常陸で起こった「有念無念の諍」を書状によって制止していることから、親鸞が関東を離れた後、門弟の間で様々な異義異端が取り沙汰されたことがわかる。そこで、建長5年(1253)頃、善鸞とその息子・如信(1235-1300)が東国へ派遣された。しかし善鸞は、自分の法門こそが親鸞直伝の正しい法門であり、門弟たちが日頃称えてきた念仏を捨てるように求めた。これにより、「大部の中太郎」の門徒90何人が、善鸞の弟子へと移っている。さらに善鸞は、建長7年(1255)から翌年にかけて、親鸞直伝の門弟たちを鎌倉に告訴し、関東教団を傘下に収めようとした。このことを親鸞義絶状に次のように書き残している。

善鸞坐像。厚木市飯山・弘徳寺蔵

そらごとどもをいいて、六波羅の辺、鎌倉なんどに披露せられたる事、こころうきことなり親鸞が教えにて、常陸の念仏申す人々を、損ぜよと慈信房に教えたること、鎌倉にて聞こえん事、あさましあさまし

この告訴を横曽根門徒の性信と入信が受けて立ったことを親鸞は「うれしくそうろう」とたたえ、善鸞義絶している。この時、親鸞は84歳、善鸞と共に行動していた孫の如信は22歳であった。この後如信は、陸奥国の大網(福島県石川郡古殿町)で布教を続け「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築いている。

この後も親鸞は、建長7年(1255)に『尊号真像銘文』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃』を、建長8年(1256)には『入出二門偈頌文』を、康元元年(1256)には『如来二種回向文』を、康元2年(1257)には『一念多念文意』『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を、正嘉2年(1258)には『尊号真像銘文』『正像末和讃』を続けざまに撰述している。これは関東の弟子たちの混乱が治まることがなかったためであると考えられる。この様子を知ることができる親鸞が弟子たちと交わした書簡も42通(真筆は11通)残っている。

6、親鸞の仏教観

選択本願念仏集』で法然は菩提心不要を主張した。もし菩提心の様な高い志が必要条件となると、ほとんどの者は救われないことになるからである。これに対して明恵は『堆邪輪』で、仏教とは仏になるための教えであり、仏になろうという志である菩提心を否定してしまえば仏教ではなくなると批判した。親鸞はこの明恵の批判に答えて、凡夫のように心貧しい者ものが菩提心を起こすことは出来ないが『仏説無量寿経』の本願文にある「至心・信楽・欲生」の三心を信心として如来が一切衆生に回向しており、これが清浄の菩提心として衆生の上に成就しているから、念仏は間違えなく仏教であると『教行信証』で主張している。

しかし、大乗仏教の菩提心は、自分が救われることと衆生を救うことが同時に成り立つ「自利利他円満」の菩薩道を成就したものでなければならない。従来の浄土教は、自分が浄土に往生できることが主眼となっており、利他が疎かになっていた。親鸞が法然に見たのは、念仏しながら同時にすべての衆生を救っている「自利利他円満」が成就した姿であった。親鸞はこの大乗菩薩道成就の「自利利他円満」を『教行信証』で次のように述べている。

回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもって一切衆生に廻施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舍那‧方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向らしめたまふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにしたまへり。

親鸞如来からの回向に自利の往相と利他の還相という二種の相があることを述べている。これによって念仏は、一切衆生をも救う大乗菩薩道の仏教として成就したのである。

ここで問題となるのは、親鸞如来をどのようにとらえていたのかである。『尊号真像銘文』では次のように述べている。

この如来は智慧の相なり。十方微塵剎土にみちたまえるなりとしるべしとなり。

また『唯信鈔文意』では次のように述べている。

この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光如来ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい。悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。

ここで親鸞如来を「智慧」として語っている。また『教行信証』では『涅槃経』からの引用として「大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性すなわちこれ如来なり」と言い『唯信鈔文意』では「「涅槃」をば、・仏性という。仏性すなわち如来なり。」と仏性如来を同じものとして捉えている。つまり、多くの仏者が如来を神的な存在として捉えていたのに対して、親鸞はすべての人の中ではたらいている智慧であり仏性であると受け取っていたのである。

さらに親鸞は、念仏によってもたらされる利益を死後の極楽往生から、現世に置き換え「現生正定聚」とした。本来「正定聚」とは、死後極楽世界に生れた後に得る利益で、必ず仏になることを約束された衆生という意味であるが、これを親鸞は『末燈鈔』で次のように述べている。

来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。また、十悪五逆の罪人の、はじめて善知識におうて、すすめらるるときにいうことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。

教行信証』では次のように述べている。

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。・・しかれば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまう。

この様に「正定聚」を死後の浄土の利益から現世の利益に置き換えた。これを「現生正定聚」という。この利益を『教行信証』で次のようにを述べている。

かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

さらに親鸞は「現生正定聚」の利益を、仏教本来の悟りに結び付けている。これは和讃で次のように述べている事でも分かる。

弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり

ただし、その内容は、自らを凡夫であるという自覚によってもたらされるものであった。『教行信証』には、仏教に救われること自体を喜ぶことが出来ない自身を次のように述べている。

誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべし。

また和讃では、真実からは程遠い虚偽に満ちた姿を吐露している。

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

この様に「現生正定聚」の境地は従来仏教の悟りや涅槃とは異なるものであることから、親鸞は浄土を二つに分けた。一つは真実の悟りに至る「真実報土」であり、もう一つは浄土であるものの煩悩成就の状態のままで到る境地である「辺地・懈慢」「疑城胎宮」という浄土である。これらの浄土は経典には書かれてはいるのもではあるが、従来までは単なる方便として捕らえられていた。これを親鸞は誰もが到る事の出来る浄土として捉え直したのである。この浄土を親鸞は『教行信証』で次のように述べている。

謹んで化身土を顕さば、仏は『無量仏観経』の説のごとし。真身観仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、即ち、懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、即ち疑城胎宮これなり

これを親鸞は和讃で次のように述べている。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり仏智の不思議をうたがいて 自力の称名このむゆえ 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがいて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり 疑惑のつみのふかきゆえ 年歳劫数をふるととく

このように親鸞は、自身が凡夫であることに頷くことで平等と安寧を得ることができる、新たな仏教を開いたのである。