日本仏教史18-鎌倉仏教7 親鸞の死去とその後の教団-

1、親鸞の死去

建長7年(1255)、親鸞は五条西洞院の自宅が火災にあい、押小路南万里小路東にあった弟尋有の善法院に身を寄せた。この時、京都には末娘覚信尼(1224-1283)とその子覚恵(1239頃-1307)と光玉尼はいたが、妻恵信尼がいたかは諸説ある。

弘長2年(1262)11月28日、90歳となっていた親鸞はそのまま善法院で死去した。臨終には尋有や覚信尼、三男の益方入道、道性ら門弟が立ち会った。荼毘の地は、親鸞の曾孫覚如『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ「稲田の草庵」に納められ、残りの遺骨は鳥部野北辺の「大谷」に納められた。

『恵信尼文書』には、親鸞の死を告げた覚信尼からの手紙への返信がある。その最後に「御りんずはいかにもわたらせ給へ うたがひ思まいらさぬ」とあることから、親鸞の死に際が良くなかったことが分かる。このことを心配した覚信尼に、82歳の恵信尼は心配いらないことを二つの理由を挙げて告げている。

一つが、親鸞六角堂参籠から法然への入門の話である。ここで親鸞が六角堂で見た夢が「女犯偈」であれば、親鸞往生聖徳太子(観音菩薩)によって保障されているということになる。二つ目は恵信尼が見たという夢の話で、夢の中で法然勢至菩薩親鸞観音菩薩であること告げられたというものである。

これは親鸞の教えとは大きく異なっているこのことかから、少なくとも覚信尼親鸞の教えを理解していなかったことが分かる。

1、入滅の地には3説がある。「善法坊」の場所を本願寺派が西の万里小路としているのに対して、大谷派は「親鸞ヶ原」と呼ばれた地に建立されていた法泉寺の跡地としている。もう一つは、光円寺(京都市下京区)で死去した後に善法院へ御遺体を移したという説である。

2、荼毘の場所を、本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)としているのに対して、大谷派は、延仁寺(京都市東山区今熊野)としている。

2、死去後の弟子たちの動向

関東の門弟たちは、毎月法然の命日である25日に道場に集まり念仏していたが、親鸞の死後はこれに代わり、命日の28日か逮夜の27日に「報恩講」と呼ばれる念仏会が営まれるようになる。

鎌倉幕府に提出された親鸞門流の名簿である『親鸞聖人門侶交名』に名前のある 47 人を国ごとに分けると次のようになる。

常陸国(茨城県) 入西、乗念、順信、慶西、善性、実念、安養、入信、念信、乗信、唯信、慈善、善明、唯円、善念、頼重、法善、明法、証信、教念

・下総国(千葉県) 性信、信楽、常念、西願

・下野国(栃木県) 真仏顕智、慶信、信願、覚真、尼法師

・武蔵国(東京都・埼玉県他) 西念

・陸奥国(福島・宮城。岩手他) 如信、無為子、是信、本願、唯信、唯仏、覚円

・越後国(新潟県) 覚善

・遠江国(静岡県) 専信

・京都 尊蓮、宗綱、尋有、蓮位、賢阿、善善、浄信

これとは別に、親鸞の関東時代における 24 人の高弟を「二十四輩」いうが、第八番の証性、第十四番の定信がこれに入っていないことから、これ以外にも弟子がいたと考えられる。これらの高弟達は、それぞれが門徒と呼ばれる念仏集団を率いていた。

この中で最も大きな勢力となったのは高田門徒であった。真仏(1209-1258)は親鸞より先に死去したが、その後も顕智(1226-1310)を中心として勢力は拡大し、下野国の高田から、常陸国・下総国・奥州・武蔵・遠江国・三河国の各地にまで及んでいった。高田門徒からは、覚円の安積門徒、源海(1164-1253)の荒木門徒、了海の阿佐布門徒、了源(1295-1336)の仏光寺門徒、円善の和田門徒(三河門徒)、如導の大町門徒(讚門徒・三門徒)などが生まれている。顕智の遺蹟は後

3、親鸞の教義からの変化

親鸞が京都に移った後、関東では浄土宗の良忠や日蓮などが新たに布教を行い始めている。このことは各門徒にも少なからぬ動揺をもたらし、各門徒から送られた多くの質問状に親鸞が答えているが、更に『歎異抄』にあるように直接京都まで尋ねていった者たちまで現れた。この混乱の中で起きたのが、親鸞を生き仏とする動きである。それを示すのが親鸞生存中に真仏が記したとされる「三夢記」である。これは親鸞聖人が聖徳太子によって選ばれた特別な人物であることを、親鸞が見た3つの夢告によって示したものであるが、親鸞自身によるそのような記録はない。

最初の夢告は、建久2年(1191)、親鸞19歳の時に、磯長にある聖徳太子廟で受けたというもので『親鸞聖人正明伝』4によれば、親鸞聖人が法隆寺で 70日間「因明(インド論理学)」を学んだ後、河内国磯長の聖徳太子のご廟へ参詣した際の夢告であるという。それは次の様なものである。

我三尊化塵沙界日域大乗相応地諦聴諦聽我教令汝命根応十余歳命終速入清浄土善信善信真菩薩

この夢告が事実であるとは思えないが、かつて聖徳太子廟の立石に彫り付けてにあったという七言二十句の「廟窟偈」の内、8句を抜き出し読み仮名を付けた親鸞作とされる「三骨一廟文」が金沢の専光寺に残っている。それは次の様なものである。

我身救世観世音(わがしんはよをたすけるかんぜおんなりや)定慧契女大勢至(てやおんなはだいせいしなり)生育我身大悲母(わがしんをしょういくせるだいひのはは)西方教主弥陀尊(せいほうけうしゅみだそんなり)為渡末世諸眾生(まつせのもろもろのしゅじょうをわたらさんがために)父母所生血肉身(ふぼしょしょうくえちにくしんを)遺留勝地此廟窟(しょうちたるびょうくつにのこしとどめて)三骨一廟三尊位(さんこつをびょうにするはさんそんのくらいなり)

多くの聖徳太子に関する和讃を残していることからも、親鸞聖徳太子に対して特別な思いがあったことは間違いない。しかし、親鸞が残したとされる偈文は、聖徳太子が観世音菩薩であり、衆生を救うためにこの地に生まれたというものであり、真仏の偈文のように親鸞聖徳太子から選ばれたというものではない。

次の夢告は、正治2年(1200)、親鸞28歳の時に、無動寺大乗院で受けたという夢告である。『親鸞聖人正明伝』によると、磯長で「汝命根応十余歳命終速入清浄土」と夢告を受けてから、10年が経とうとしているのに「速入清浄土」という確証を得られていなかった親鸞は、延暦寺東塔の無動寺大乗院に21日間の参籠をしたという。すると、結願の前夜、如意輪観音(聖徳太子)が現れ次のように告げたという。

善哉善哉汝願将満足 善哉善哉我願亦満足

そして最後の夢告が、前回触れた「女犯偈」である。これは、六角堂での 100 日間の参籠の 95 日目の寅の刻(午前4時)に、救世観音(聖徳太子)が白蓮の花に端座して示現して告げたという次の偈である。

行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽

これら一連の夢告は、親鸞聖徳太子の強い関係性を示すもので、当時すでに神格化されたいた聖徳太子と同列に親鸞を並べようという意図がうかがわれる。

高田門徒から出た源海の荒木門徒は、伝絵を用いての布教を行ったことで知られている。この中の「親鸞聖人御因縁」という物語は、鎌倉時代後期に作られた「親鸞因縁」「真仏因縁」と南北朝時代に作られた「源海因縁」によって構成されている。

親鸞因縁」は親鸞の結婚についての記述が書かれたものである。これは親鸞法然の超人性を織り交ぜながら、親鸞九条兼実の娘玉日姫が結婚に至るまでの物語を、美しい和歌を織り交ぜながら語っているもので、妻を娶ることが往生の妨げにならないことを示している。歴史的な事実ではないが、門徒衆に在家での往生を保障しながら、法然親鸞の神格性を示す教材となっている。

真仏因縁」は横曽根の農夫であった平太郎の物語である。親鸞の弟子であった平太郎は、領主佐竹の熊野参詣に人夫として徴用されると、南無阿弥陀仏といって山を登り、沈没船から引き揚げ

られた何体もの遺体を埋葬したりしながら熊野への道中を進んだという。熊野本宮に着いた佐竹は、熊野の神々が「平太郎はまことの仏だ」と告げる夢を見た。そこで佐竹は自分の乗ってきた輿に平太郎を乗せ京都に入ると、平太郎亀山天皇から上人号を与えららた。親鸞聖人のもとに帰った平太郎真仏と号し共に常陸に下ったというものである。

源海因縁」は駿河守隆光と花寿の子花若と、月寿の子月若という同じ年の息子の物語である。息子二人は9歳で稚児になったが、4年後に花寿が病死したため、花若は継母の月寿から古着しか送ってもらえなくなり、部屋に引きこもってしまう。同宿の僧が花若を励まそうと願いを聞くと、花若は継母を苦しめるために月若を殺してほしいと頼んだ。そこで僧は花若のために夜着を持ってきた月若を殺害したが、翌朝見つかったのは花若の遺体であった。遺体には師・父・弟・同宿の僧に宛てた辞世の四首が残されており、これを読んだ月若は兄の苦しみを思って自害してしまう。父の隆光は遁世するが、兄弟が夢に現れ、自分たちは観音・勢至であり、あなたを浄土の迎え取るために子となったと告げ、常陸国真仏聖人は阿弥陀仏の生まれ変わりであるから、弟子となり、共に衆生を済度するように告げたという。そこで隆光は真仏の弟子となり、源海となったという。

このうち『親鸞聖人御因縁』を用いたのは寂信系諸集団である。

了海は『他力信心聞書』を著し、阿弥陀如来の生まれ変わりである僧侶の教えを信じれば、即座に極楽往生が約束されるという教義を打ち立てた。弟子の鎌倉最宝寺の明光(了円)は、これを発展させ、師弟関係を系譜の形にした『名帳』と、肖像画による『一流相承系図(絵系図)』を用いるようになる。

この『名帳』と『一流相承系図」』を継承したのが京都仏光寺を中心に畿内で大きな力を持った了源と、備後で大きな勢力を持った慶円である。

荒木門徒は次の3つの集団にわけられる。

1. 武蔵国荒木満福寺から力石如意寺・赤津満徳寺・菅生満性寺など東海地方に展開した寂信系諸集団

2. 麻布善福寺・鎌倉最宝寺・渋谷仏光寺・溝杭仏照寺・山南光照寺など近畿から西国へと展開した了海系諸集団

3. 等々力満福寺など相模から甲斐へと展開した源誓系諸集団

4、大谷廟堂建立

親鸞の死から10年後の文永9年(1272)、覚信尼は鳥辺野にあった墓を住いの庭に移し廟堂とした。六角の御堂の中に、南無阿弥陀仏の名号をしるした墓標を立てたが、しばらくすると親鸞の坐像も安置するようになり、最後には墓標を撤去し座像だけとした。これらは関東の門弟たちによって作られたが、土地は覚信尼の家族もののであった。健治3年(1277)、覚信尼は土地を門弟に寄進する代わりに、廟堂管理者として生活の保障を取り付けた。その消息が次である。

右件の地は、尼覚信が、相伝のところなり、しかるを故親鸞上人は、覚信が父にておわします故に昔の芳ばしさによりて、上人の御墓どころに、永く永代を限て、寄進したてまつる物なり。覚信一期の後このところをあい継がん末々の人、本券をたいして、子孫たりというとも、田舎の御同行の御心ゆかずして、心にまかせて売りもし、また違乱なさん輩は、早く不幸に処せられて、罪科に行なわるべし。又親鸞上人の御弟子達の御心に叶いて候わん者をば、この御墓ところを、預けたび候てみさわくらせられ候べし。末代までも、御墓を全くせんために、寄進の条、件の如し…もしこの御廟堂預かりて候わんずる尼が末の物どもも、この地を売りもし、七にもおきて候とん、ゆめ用いられ候わで、この文を文書として、田舎の御同行たちの御計らいにて、抑えて公家武家へ訴訟をいたして、御墓の地になさるべし、

覚信尼は、「廟堂」・「影像」・「敷地」の三点を門徒共有にする意図を表明したのである。それは、廟堂を子孫たちによって維持していくことで、生活の糧を確保する事と同時に、子孫に違乱を起こさせない

5、本願寺建立

ようにすることも考えての事であったと思われる。これにより横曽根門徒顕智鹿島門徒の順性は廟堂の創立維持に尽力し、唯善との相続問題でも共に解決を図ることとなった。

弘安6年(1283) )死を覚悟した覚信尼は門弟に「ただ一向田舎の人々をこそ、頼みまいらせ候えば、尼が候いしに変わらず御覧じ放たれず候えかしとおぼえて候」と、廟堂の管理を覚恵に任せるのでよろしく頼むと懇願している。しかし、この土地は元々覚信尼が2番目の夫小野宮禅念から引き継いだものであり、覚恵は先の夫日野広綱の子であったことから、禅念の子である次男唯善(1266 - 1317)との間に相続争いが起こる。正安4年(1302)後宇多院の院宣により、土地は門弟のものであるとされたが、徳治元年(1306)唯善によって覚恵は廟堂を追われ、翌年覚恵の妻の実家である二条衣服寺付近で死去している。覚恵の子覚如(1270-1351)は延慶2年(1309)青蓮院の採決によって廟堂を取り戻したが、親鸞の遺骨と影像は唯善とともに鎌倉に移された。

『慕帰絵詞』によると、覚如は8歳もしくは9歳で多念義長楽寺流の澄海のもとで『倶舎論』を学び、13歳で「山門の碩徳」といわれた宗澄のもとに入室したという。ことろが、あまりに美しかったために、翌年、園城寺の浄珍に誘拐され稚児にされてしまった。これに横恋慕した興福寺一乗院門主信昭は僧兵を動員して浄珍から覚如をうばおうとしたが、浄珍も軍を集めて迎え撃とうとした。これに驚いた覚恵覚如を出来るだけ早く出家させることを条件に、覚如を信昭の稚児としたという。このことを『慕帰絵詞』には「あえなく十四歳より侍りつる僧正房にも、好きをくれたてまつりぬ」と語っている。

17歳の時、興福寺一乗院で出家得度し、東大寺で受戒した。弘安 10年(1287)、親鸞の祥月忌のために上洛した如信から親鸞の教えを学び、正応元年(1288)には、上洛した『歎異抄』の著者である河和田の唯円からも学んだとされるが、この 2 人が親鸞の教えに精通していたとは考えにくい。実際には、西山義の彰空や一念義の勝縁から浄土教を学んでいることから、覚如の念仏理解は一念義や西山義の影響を強く受けることになった。

廟堂を取り戻した覚如は、覚恵から留守職の譲り状を受けていたものの、関東の門弟たちは血縁者による相続争いの再発を恐れて、覚如留守職就任を認めなかった。そこで覚如は門弟たちに次の様な 12個条の懇望状を出している。

1. 毎日御影堂のお勤めは闕怠しません。

2. 財主尼覚信の建治・弘安の寄進状に背きません。

3. 御門弟中から、たとい御留守役を任命されたといえども、もし、御門弟の御意志に相背く場合は、ただちに影堂敷地内から追い出されても一言の文句も申しません。

4. 御門弟たちは、忝くも院宣・庁裁・本所の御成敗の文書をたまわっている上は、自分がた

とい留守役についても、御門弟たちにたいして文句をいいません。

5. 今後においては、本所の御成敗の旨にまかせて、御門弟等の後指図に背きません。

6. 自分個人の借金で、御門弟に迷惑をかけません。

7. 親鸞聖人の御門弟たちは、たとえ田夫野人であっても、祖師親鸞の遺誡にまかせて、これを軽蔑したり、過言するようなことは決していたしません。

8. たとえ影堂の留守役を任命されたからといって、決して我儘勝手なことは致しません。

9. 御門弟の方々から御状を賜った時は、この御状を将来の亀鏡にして、文句を御門弟中にいうようなことは致しません。

10.影堂敷地内に好色・傾城のものなどを引きいれたり、酒宴をもよおすようなことはいたしません。自分はもちろん、他の者にも禁止致します。

11. 御門弟の許可なしに、しばしば諸国に出向いたり、あるいは勧進と称して、あるいは不諧と号して員数を定めて、御門弟をたぶらかすようなことは致しません。

12. 諸国の御門弟にたいして、自分に忠節を尽くせなどということは申しません。

覚如は、この制約を破った場合、自分を廟堂から追い出し、朝廷・幕府に訴えて、遠流に処すしてもかまわないことを条件に、ようやく留守職を認められた。

唯善との差別化を図りたい覚如は、善鸞の子である如信を親鸞の正統継承者とし、自分がその弟子となることで、血縁だけではなく教えの上からも自分が親鸞の正統な後継者であることを示そうとした。さらに、門弟たちに対しての服従関係を解消するために、廟堂の寺院化をはかり、応長2年(1312)、安積門徒の法智の勧めで廟堂に「専修寺」の額を掲げるが「専修」という言葉が比叡山によって禁止されていたため、この額は法智が持ち帰っている。元亨元年(1321)に鎌倉幕府に提出した愁申状には「本願寺親鸞上人門弟等謹言上」と書かれていることから、この間には「本願寺」を名乗ったことが分かる。このことは、覚如が単なる廟堂の留守職ではなく、門弟の許可を必要としない本願寺住職でもあることを主張したものであるが、これには門弟からの反発が大きかったようである。覚如の子存覚(1290-1373)の『存覚一期記』正和3年(1314)の条に、この年は上京して廟堂に参詣する人がいなかったため、覚如は年越しの費用にも困っていたが、安積門徒の法智が5疋の灯明料を持ってきてくれたので、何とか年を越せたと書かれている。

さらに、元亨4年(1324)、覚如は妙香院の下知状を得て、廟堂の土地は門弟のものであるが、留守職の相続に関しては門弟の承認が不要であるとした。これを不服として門弟たちは青蓮院に訴えたため、門弟たちからの支援はなくなってしまった。

中期には青蓮院の傘下に入り現在は廃寺となっている。

この状況を打破するために覚如が制作したのが『口伝鈔』『改邪鈔』という正統性を主張した教義書と『伝絵』『御絵伝』『御伝鈔』という物語である。

元弘元年(元徳3年・1331)、覚如は『口伝抄』し、「三代伝持の血脈」を表明し、法灯継承を主張した。これは、法脈として法然親鸞—如信—覚如、血統として親鸞覚信尼覚恵覚如と継承されているというもので、設立した本願寺の開祖を親鸞、二世を如信とし、自らは三世と位置づけている。翌正慶元年(1332)には、如信の三十三回忌のために、陸奥国の大網に赴き、有力な東国門徒 20人余りに、正統な宗義の相伝者・法灯の継承者である事を認めさせ署名させている。建武 3年(1336)には、足利尊氏による戦乱を避け、存覚の居住する近江瓜生津に疎開したが、戦火により本願寺が全焼している。建武4年(1337)に帰洛しすると、西山久遠寺に居住し『改邪鈔』を撰述した。ここで、京都で勢力を拡大させていた仏光寺を批判するとともに、関東の門弟たちが知らない親鸞の物語を示すことで、法然親鸞一如信と三代に渡って教えを伝持している本願寺に参詣しない門弟をも批判している。

これら教義書と並行して、物語として本願寺の正統性を主張したのが『伝絵』『御絵伝』『御伝鈔』である。

現在覚如による「伝絵」は5本現存しており、すべて重文の指定を受けている。この中でも決定本とされるのが『本願寺聖人伝絵』康永本(東本願寺本)であり上下本末4巻15段の構成となっている。

上巻本は、親鸞誕生から出家、叡山修行までを描いた第一段出家学道、法然の門下に入った第二段吉水入室、聖徳太子の夢告を得た第三段六角夢想、親鸞の死後に弟子の蓮位が見た第四段夢告蓮位夢想である。

上巻末は、法然から選択本願念仏集を受けた第五段選択付属、法然門下で信心と念仏のどちらが重要であるかを論議した第六段信行両座(信不退、行不退)、信心に浅深があるのかを議論した第七段信心争論(「源信が信心も、善信房が信心も、更にかわるべからず」)、弟子の入西が親鸞の絵像を書かせた際に体0験した第八段入西観察(入西が親鸞の像を描かせ、夢告を受ける。親鸞=善光寺本尊=弥陀如来)である。

下巻本は法然親鸞が流罪になった第一段師資遷謫(師弟配流)、親鸞が越後から関東に入り布教を始めた第二段稲田興法(越後→常陸→笠間郡稲田郷)、山伏の明法房が弟子入りした第三段山伏済度(山伏明法房済度)、関東から帰京する途中で箱根権現親鸞に帰依した第四段箱根霊告で

ある。

下巻末は弟子の平太郎が熊野権現に参詣した時受けた夢告の第五段熊野霊告、親鸞の死去を描いた第六段洛陽遷化、最後が墓を自宅に移した第七段廟堂創立である。

最初の『伝絵』覚如が26歳の時に作った『善信聖人絵』琳阿本(西本願寺)である。この『伝絵』は『親鸞聖人御因縁』の後に作られているが『親鸞聖人御因縁』にあった親鸞と玉日の結婚や王権との関係がかかれた「親鸞因縁」は用いられていない。一方で「真仏因縁」は下巻末で熊野霊告として内容を変更して用いられている。『親鸞聖人御因縁』では、平太郎が仏として書かれているが『伝絵』では神が平太郎のことを「彼は善信が訓によりて、念仏する者なり」として礼拝するにとどまっており、あくまでも親鸞だけが仏であるとしている。また、下四段では箱根権現親鸞を敬いもてなしたとして、関東の門弟たちに対して神より親鸞が上であることを強調している。

ただし、『善信聖人絵』琳阿本(西本願寺)には、74歳の時に制作した『本願寺聖人伝絵』康永本(東本願寺本)の上巻四段と八段、下巻二段が、『善信聖人絵』琳阿本(西本願寺)の2か月後に作った『善信聖人親鸞伝絵』高田本(専修寺)には上巻四段と八段がない。上四段の蓮位夢想は、蓮位の夢に聖徳太子が現れ、親鸞に向かって「敬礼大慈阿弥陀仏」という偈を唱えたことを伝え、親鸞阿弥陀如来の化現であることを示しているものであり、上八段は入西が定禅という絵師に親鸞の像を書かせようとしたところ、画師が夢の中に現れた善光寺の御本尊と親鸞聖人が同じ顔であると告げたというもので、いずれも親鸞滅後の話を後から挿入したため前後の話と繋がっていない。これはより親鸞の神格化をすすめると同時に、蓮位と入西が率いていた門徒集団を取り込むためであったと思われる。下巻二段を入れたのも関東の門弟に配慮したためである。

『伝絵』があまり制作されなかったのに対して『絵伝』は近世にはほぼすべての真宗寺院にいきわたったほどに広がっていった。現存最古の絵伝は広光照寺のもので、明光の弟子明尊を願主と記されている一幅本であり上巻4段と8段のない 13 段本となっている。愛知県妙源寺には善光寺如来、聖徳太子法然の各3幅絵伝と共に親鸞絵伝3幅が伝わっている。これらはいずれの覚如の作である。

貞和6年(観応元年、1350)、覚如存覚の義絶を赦免すると、覚如の次男の従覚の子善如が留守職を継承する旨の譲り状を記し、翌観応2年(1351)に 82歳で死去し、延仁寺に送葬された。

覚如の長男存覚(1290-1373)は幼少の折に日野親顕の猶子となり、東大寺で出家受戒し興福寺で学び、その後比叡山や真言宗寺院毘沙門谷証聞院で学んだ後、覚如のもとに帰るとともに教化にあたった。正和3年(1314)大谷廟堂留守職を継承したが、覚如と門弟の対立が表面化する中、存覚は門弟の側に立ったことから、元享2年(1322)に覚如から義絶され留守職を取り上げられた。

暦応元年(1338)に義絶を説かれたものの、康永元年(1342)再度義絶され、最後まで留守職を継承されることはなかった。しかし、本願寺七世存如(1396-1457)は「大谷本願寺親鸞聖人之御流之正理也」とし、本願寺八世蓮如(1415-1499)は「存覚は大勢至の化身なり」といっているように、後の本願寺の教義に大きな影響を残すことになる。しかし、存覚親鸞の後継者としての意識は強く持っていながら、当時の通仏教からの影響も強く、病気の治癒のための念仏や、浄土宗の来迎臨終にも傾倒していたため、本願寺は親鸞の教えからは大きく変化していくことになる。