1、一遍の誕生

一遍房智真(1239-1289)が書いた書籍は残っておらず、伝記としては正安元年(1299)に弟子で実弟でもある聖戒(1261-1323)によって編纂された『一遍聖絵』12巻(『聖絵』と略記)と、嘉元2年(1304)から徳治2年(1307)の間に遊行二祖他阿真教(1237-1319)の弟子宗俊によって編纂された『一遍上人絵詞伝』10巻(前4巻は一遍伝、後6巻は真教伝、『絵詞伝』と略記)が伝わっている。他に真教が熊野権現に納入したという『奉納縁起記』10巻があったが紛失している。

一遍は伊予河野通広の次男として生まれた。河野氏は瀬戸内河野水軍の総元締で、大三島神社の祭祀を司る越智氏の分家でもある。祖父の通信は得宗家初代当主北条時政の娘を妻とするほどの権勢をふるっていたが、承久の変後鳥羽院側についたことから奥州に流されたため、父通広の代には家勢は衰えていた。10歳の時、母が死去すると地元の継教寺で出家し隨縁と名乗っている。建長4年(1252)、証空の弟子で父の兄弟弟子である太宰府の聖達に弟子入りすると、同じ西山系浄土宗の僧である肥前清水寺の華台から浄土教の基礎を学んだ。この際に名を智真と改めている。2年後に聖達のもとに戻ると修行を続けていたが、弘長3年(1263)、父が死去したため伊予に戻り還俗して妻子をもうけている。

ところが、文永8年(1271)に再び出家した。この理由を『絵詞伝』は、一遍の兄が死去したことにより親類の中で相続をめぐる争いが起こり、一遍自身も殺されかけたためであるとしている。『絵詞伝』には抜刀した4人に襲われた袈裟衣をつけた一遍が、奪い取った刀を手にしている姿が描かれている。この難を逃れた一遍は、出家した弟の聖戒と共に聖達のもとに身を寄せるが、ほどなくして信濃善光寺に行き半年間参籠する。この時、善導の「二河白道図」を見て感動し模写している。伊予に帰国すると窪寺の閑室に籠り模写してきた絵を掛けて三年間念仏三昧の日々を送っている。窪寺は、愛媛県松山市窪野町北谷の窪にあった寺で、この辺りは、奈良時代から石鎚山を中心とした修験道が盛んな地域であるた。この時一遍は「十一不二の頌」といわれる次の様な偈文を書いている。

1、現在は大山祇神社。祭神は天照大神の兄神大山積大神。源氏・平氏はじめ多くの武将が武具を奉納し武運長久を祈ったことから、国宝・国重要文化財指定の武具類の約8割がこの神社に伝わっている。

十劫正覚衆生界一念往生弥陀国十一不二証無生国界平等坐大会

一遍はこの偈を「己心領解の法門」としている。これは証空西山浄土教が説く、南無阿弥陀仏の名号の中に、阿弥陀と衆生・浄土と娑婆・当得往生と即便往生・臨終と平生とが一つとなっているという、密教的な「阿字観」の世界観を継承したものである。

更に文永10年(1273)には「観音影現の霊地、仙人錬行の古跡」と言われた菅生の岩屋寺に参籠し修験道を修している。ここは三十三の峰の頂上それぞれに社が建つ山林修行の場である。一遍は峯に開いた無数の洞穴の一つに籠ると、聖戒が運ぶ水だけを飲み秋から冬にかけて修行に打ち込んだという。この真言密教に基づく修行により「十一不二の頌」を体証した一遍は「舎宅田園をなげすて、恩愛眷属をはなれて、堂舎をば法界の三宝に施与」して「捨聖」となった。

文永11年(1274)、一遍は超一・超二・念仏房という三人の女たちを連れて遊行の旅に出る。大坂四天王寺を訪れた時、十重禁戒を守ることを誓い一遍と名乗ると、初めて10人程に、念仏札を配るという賦算を行っている。高野山奥之院には空海作とされる「六字名号の印板」が「五濁常持没の本尊」として伝わっていた。高野聖はこれを紙に刷った念仏札を全国で配っていたが、一遍はこれを真似たと思われる。この念仏札は現世利益の呪符であり、極楽浄土への往生を約束する手形でもあった。

四天王寺をあとにした一遍は高野山にのぼっている。『拾遺往生伝』4に「汝極楽に往生せんと欲せば、高野山に住すべし」と書かれてるように、当時は極楽浄土と高野山が同一視されていた。ここから証誠殿の本地が阿弥陀仏とされていた熊野本宮に向かうが、途中出会った律僧に念仏札を渡そうとすると、信心がないのに受け取ると妄語になると断られてしま。しかし一遍は「信心おこらずとも、うけ給へ」と念仏札を押し付けその場を立ち去った。これまで縁のある人に起信・称名・賦算を経て念仏を勧めてきた一遍は、信心のないものに念仏札を押し付けたことに悩みながら熊野本宮に参籠した。すると、夢の中に山伏姿の熊野権現があらわれ「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生

2、密教経典が説く瞑想法。覚鑁の著作により鎌倉時代から始まった。

3、『梵網経』に説かれている菩薩が守らなければならな不殺・不盗・不淫・不妄語・不酣酒・不說四眾過(男女の出家者と在家者の過失を咎めない事)・不自讃毀他(自分のことを誇らず他人をけなさない)・不慳惜加毀(教えや財物を他に渡すことを惜しんではならない)・不瞋心不受悔(怒りの心によって他人の謝意を受け入れないことを禁ず)・不謗三宝の十戒。

4、平安後期の往生伝。3巻。三善為康著。大江匡房の『続本朝往生伝』から漏れた往生者95名の略伝を記したことからこの名がある。悪人往生者も多く記されている。

5、速玉宮の本地は薬師仏、那智宮の本地は千手観音とされている。

すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、淨不浄をきらわず、その札をくばるべし」と告げたという。

本宮から新宮まで船で熊野川を下ったところで、一遍は同行してきた超一・超二に別れを告げ、伊予聖戒あてに念仏札の形木を持たせ賦算するように指示している。念仏房を伴い参詣した新宮では「六字名号一遍法十界依正一遍体万行離念一遍証人中上々妙光華」という六十万人偈をつくっている。

那智宮から京都、西海道を経て伊予に戻ると、その後九州で遊行を行う。大隅正八幡宮(鹿児島神社)では「とことはに南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ」と神詠を感得している。この後、四国に渡るために豊後を訪れた際、大友頼泰(1222-1300)6が一遍に帰依した。この時、他阿真教が一遍最初の弟子となっている。さらにほかにも数人の同行も生まれたようで、弘安元年(1278)に豊後から伊予へ渡った時には「惣じて同行七八人相具して」いたという。この後備前では、吉備津神社の宮司夫妻はじめ280余人が一挙に弟子となっている。一遍と共に遊行に出る者もいたが、多くの者は在家衆として仕事を続けながら念仏札生活を送ることになった。これにより、道時衆と俗時衆、さらに檀家にあたる結縁衆が生まれた。この時から同行とよばれいた一遍の弟子たちは時衆と名乗るようになった。また、多くの僧尼たちが行事への参加する当番を、結番方式で決めた「一期不断念仏結番」の制度が制定されている。

備前からは山陽道を通り、弘安2年(1279)に京都の五条烏丸東にあった因幡堂に入り半年ほど京都に滞在した。

その後、善光寺を経て、承久の乱で宮方についた叔父河野通末の流刑地であった伴野で御霊をまつる別時念仏を修している。この際、空也上人が始めたと伝えられている霊を慰めるための踊念仏を行ったという。この時念仏房が調声をつとめている。これ以降、一遍の弟子たち時衆によって「踊念仏」が踊られるようになる。

6、御家人として京都や鎌倉で活動していたが、元寇に備えて鎮西東方の奉行に任命され、豊後国で九州の軍政を担当した。文永の役と弘安の役で元軍を破っている。

7、因幡堂の薬師如来は善光寺の阿弥陀如来、嵯峨清凉寺の釈迦如来とともに三国伝来の三如来の一つとされていた。

この後、奥州を経て武蔵に入ると、鎌倉に向かったがこれを拒まれたため、相模国滝口にあった浜の地蔵堂(現在の藤沢市片瀬)に踊り小屋を建て100日余り滞在している。ここでは数百人が踊り狂ったという。

ここから尾張・美濃を通り、近江

の逢坂の関近くにあった関寺(世喜寺、大津市関寺町)に入ったが、園城寺から念仏禁止の申し入れがあったため、関寺のほとりの小堂に宿をとった。ここで堂守の好意で踊念仏賦算による七日間の行法を行ったところ、耳づてに多くの人が集まってきた。この時、延暦寺東塔桜木の兵部堅者重豪が一遍をたずねて来て「踊りて念仏申さるる事けしからず」と詰問した。これに一遍が「はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる」と答えたところ、重豪はさらに「心こまのりしづめたるものならばさのみはかくやをどりはぬべき」と問いかけた。すると一遍は「ともはねよかくてもをどれこころごまみだのみのりときくとうれしき」と返したという。

関寺から京都の四条京極の釈迦堂に入ったのが弘安7年(1284)であった。一遍のもとに念仏札をもらいに来た人達で「貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」という状態になったという。さらに七条市跡に市屋道場をつくり48日の間、踊念仏を行っている。

この後、山陰から中国地方をまわり摂津の四天王寺から磯長廟、大和大麻寺、石清水八幡宮、再度四天王寺に参籠すると熊野に参籠し万歳峯に名号塔を建てている。

ここから、一遍が尊敬していた、教信沙弥の寺である播磨印南野信教寺と、性空の書写山を訪れている。

さらに、備後、安芸を経て伊予・讃岐・阿波・淡路と遊行を続けるが、次第に体調を崩していった。

8、東塔は延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域。

9、僧侶の実力を検定するために諸宗諸大寺で行われた論議問答である竪義の席上、提出された論題に対して道理や証明を立て解答する僧。

死期の近いことをさとった一遍は、明石に渡ると教信を偲んで印南野で臨終を迎えようとした。しかし教化を頼まれたため兵庫の観音堂に入る。そこには多くの参詣者が持っており、踊り屋も設けられていた。

ここで法談を続けたが、衰弱した一遍は、以前から「我が化導は一期ばかりぞ」と述べていたことから、所持していた経典類を書写山の寺僧に渡すと、それ以外の書籍を含めた一切の所持品を自ら焼き捨てている。葬儀は行わず遺骸は獣に施すように遺言すると正応2年(1189)51歳で死去した。この時、多くの弟子たちが一遍を慕って海に身を投じている。一遍が15年間の遊行で念仏札を渡した結縁者は25万人を超えたという。

現在、神戸真光寺の本堂南方の墓碑中に、築塀で囲まれた一遍の廟所があり、巨大な五輪塔が建っているが、これは一遍の七回忌に建てられたものとされている。

2、一遍の念仏

一遍の言葉を記録した法語集には『播州法語集』10『一遍念仏法語』11『一遍上人法門抜書』12があるが、いずれも『聖絵』『絵詞伝』に全くおさめられていない法語ばかりであることから、聖戒や真教とは別系統の時衆によって書かれたものであると考えられる。徳川時代には『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』や残された手紙などを基に編集された『一遍上人語録』が作られ、そこから一遍の思想をうかがい知ることができる。

一遍は「捨聖」といわれるが、これは私物を持たないというだけではない。

念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に最もかない侯え。『一遍上人語録』

さらに親鸞が重視した信心や自力他力、善悪についても独自の理解を示している。

決定往生の信たたずとて人毎になげくは、いわれなき事なり。凡夫の心には決定なし。決定は名号なり。しかれば、決定往生の信たたずとも、口に任せて称名せば往生すべきなり。所以に、往生は心品によらず、名号によりて往生するなり。(中略)我心を打ち捨て一向に名号によりて

10、金沢文庫所蔵鎌倉末期から南北朝時代の筆写。73条の法語。

11、高野山金剛三宝院所蔵寛正6年(1465)1巻。102条の法語。

12、『念仏法語』とほぼ同じ。

往生すと心得れば、やがて決定の心はおこるなり。是を決定の信たつというなり。『播州法語集』

名号は、信ずるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す。自力我執の心をもて、兎角もてあつかふべからず。極楽は無我の土なるが故に、我執をもては往生せず。名号をもて往生すべきなり。『一遍上人語録』

自力他力を絶し、機法を絶するところを、南無阿弥陀仏といえり。『播州法語集』

名号は善悪の二機を摂する真実の法なり。『一遍上人語録』

また法然門下の各門流で問題となっていた平生往生臨終往生についても次のように述べている。

ただ今の念仏の外に、臨終の念仏なし。臨終即平生なり。前念は平生となり、後念は臨終となるなり。(中略)只今念仏申されぬ者が臨終にはえ申さぬなり。遠く臨終の沙汰をせずして、能々恒に念仏申すべきなり。『一遍上人語録』

生きながら死して、静かに来迎を待つべしと言ふ。万事にいろはず、一切を捨離して孤独独一なるを、死するとはいふなり。生ぜじとひとりなり、死するも独なり。されば人と共に住するも独なり、そひはつべき人なき故なり。又わがなくして念仏申すが死するにてあるなり。『一遍上人語録』

この念仏に対する独自の理解に立って、法然親鸞を意識したかのような言葉も残している。

念仏の機に三品あり、上根は妻子を帯し家に在りながら、著せずして往生す。中根は妻子を棄つると雖も、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。下根は万事を捨棄して往生す。我等は下根の者なれば、一切を捨てずば定めて臨終に諸事に著して往生し損ずべきなりと思ふ故に、かくの如く行ずるなり。よくよく心に思量すべし」と。ここにある人問ひて曰く、「大経の三輩は、上輩を捨家捨欲と説けり、今の御義には相違せり、如何」。答へてのたまはく「一切の仏法は心品を沙汰す、外相をいはず。心品の捨家捨欲して無著なることを上輩と説けり。『法語集』

更に日蓮を意識して次のようにも述べている。

又た云う、或る人問ていわく「諸行は往生すべきやいなや。亦た法華と名号といずれが勝れて候」と云う。上人答て云う「諸行も往生せばせよ、せずばせず。又た名号は法華におとらばおとれ、まさらばまされ。(中略)法華を出世の本懐というも経文なり。又た釈迦五濁悪世に出世成道するは、この難信の法を説かんが為なりというも経文なり。機に随て益あらば、いずれも皆、勝法なり、本懐なり。益なければ、いずれも劣法なり。(中略)念仏の外には物もしらぬ法滅百歳の機になりて、一向に念仏すべし。これ無道心の尋なり。『一遍上人語録』

これは名号念仏と自己を一体化し絶対化した次の念仏理解に基づいている。

南無とは十方衆生の機、阿弥陀とは法なり、仏とは覚なり。六字をしばらく機・法・覚の三字に開して、終に三重が一体となるなり。然らば、名号の外に能帰の衆生もなく、所帰の法もなく、能覚の人もなきなり。是れ則ち、自力他力を絶し、機法を絶する所を、南無阿弥陀仏といえり。『一遍上人語録』

念仏が念仏を申す。『一遍上人語録』

ただ南無阿弥陀仏が往生するなり。『一遍上人語録』

名号が名号を聞くなり。『一遍上人語録』

一遍が法燈国師心地覚心という禅僧に「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりにして」と詠ったところ、これでは声を聞いている我が残っているといわれ「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と読み直したという話も伝わっている。この様に一遍の念仏は、救われる自我も救う阿弥陀仏もなく、ただ南無阿弥陀仏があるだけであるという徹底した他力往生のかたちをとっていることから、法然親鸞と続いた日本浄土教の集大成とも言われている。しかし、一方で知識帰命・持戒といった聖道門的要素を混在させ、民間信仰からの呪術的・習俗的要素も併せ持つものでもあった。

3、一遍の弟子たち

一遍以降の時衆僧は阿号を用いている。これは、阿弥陀仏号の略で名前の前か後ろに阿弥陀仏の略として「阿」をつけるものである。東大寺の重源(1121~1206)が南無阿弥陀仏と自ら名乗ったことに始るとされ、法然門下の一部で弁阿弥陀、空阿弥陀などと使われ、それが省略されて弁阿、空阿などと称されるようになった。一遍は、男性には阿弥の法名を、女性は「一房」号ないし「仏房」号を付けている。しかし、一遍自身が阿号を用いなかった理由は分からない。

一遍が用い時衆に所持することを許したものに十二道具があった。引入(飯や汁を入れる食器)・箸筒・阿弥衣(網衣、時衆固有の法衣で、繊維で編んだ最下層民が使っていた粗末な衣。)・帷(法衣の下に着る生絹や麻布で仕立てた裏のない夏衣)・袈裟・羊币(手拭きに用いる長い布)・帯・紙衣(紙に渋を塗った防寒の法衣)・念珠・衣・足駄・頭巾であり、これ以外には傘も携帯していた。これらを十二光箱の中に入れ持ち歩いていた。

一遍には「一千余人の弟葉」といわれる長老が所々にいたようである。が、中でも有力な弟子は弟の聖戒と一番弟子の真教であった。

聖戒は一遍が死去した後京都に入っている。一遍没後10年の忌日に『一遍上人聖絵』12巻を編纂しているが、この時の支援者が関白九条忠教(1248-1332、法号は円阿)である。『絵詞伝』が伝統仏教教団を意識して描かれているのに対して『聖絵』には武家公家が多く描かれて

いる事からも、聖戒がこの階級と懇意であったことがわかる。

真教は一遍が死去した後、何人かの時衆と共に後を追うべく丹生山の極楽浄土寺(高泉寺、現在は廃寺)に入り断食行を行っている。そこへ淡河の領主であった北条時俊(?-1334)が訪れ念仏札を求めてきた。真教は死去した一遍から念仏札を配る許可を得ていないと断ったが、念仏に縁を結ぶことを望んでいる者がいるのであれば配るべきであると言われたという。真教は同行していた時衆の勧めをうけて自死をやめ、一遍の後を継いで賦算を行うようになる。後に時俊の子宗俊は神戸真光寺本『一遍上人絵詞伝』の発願主となっている。真教については『絵詞伝』巻五以下にその記録がある。賦算を行う知識となった真教は越前の国府武生や加賀に遊行に出るが、平泉寺から迫害を受け越中から越後へ逃れ、ここから信州・甲斐・上野・下野と遊行した。正安2年(1300)には、上野で後に京都四条道場金蓮寺を建て四条派の祖となる浄阿真観が弟子入りしている。その後も各地を遊行した後、嘉元2年(1304)遊行を量阿智得に譲り、当麻道場金光院無量光寺(神奈川県相模原市南区当麻)に独住した。

一遍が地方の拠点となる道場(寺院)を建立しなかったため、広く民衆に受容されはしたものの、一時的なものにしかならなかった。後に他阿同然が伊賀国で遊行を行ったときに一村時衆となった村が、何年か後に一村法華宗になったこともあったという13。そこで真教は各地の道場に聖を常駐させるようになる。また、一遍は堂や塔婆なども必要としないとしていたが、先徳の廟塔を建てることにより報恩の念を育てることも大切だとしてこれを勧めている。『七条文書』に「既道場百所許に及候」とあるように、全国各地に100か所におよぶ一遍の像を祀る堂舎が真教によって建てられた。これらの道場は、次の7つの機能を備えていた。

  • 仏道修行の場
  • 戦に敗れた武士や、謀反人とされた者の避難所
  • 極楽往生を願う者の死に場所
  • 処刑や自害の場
  • 芸能の場
  • 葬送儀礼の場
  • 療病者・貧窮者・乞食者の為の場

現在時宗所属寺院は400ヵ寺あるが、このうち真教を開山・改宗とする寺院は新潟県・福井県・山梨県・栃木県・群馬県・埼玉県・神奈川県・静岡県に計130ヵ寺に及ぶ。真教が西日本の拠点道場として京都七条に建立した七条道場金光寺は、高弟の有阿弥陀仏(後の他阿呑海)を派遣し発展していったが、明治39年(1906)に東山長楽寺

13、『三十一代上人京畿御修行記』

14に合併されている。

また、一遍が作ったとされる次の『時衆制誡』も真教の手によるものと思われる。

  • 専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ。
  • 専ら仏法僧を念じて、感応の力を忘るることなかれ。
  • 専ら称名行を修して、余の雑行を勤むることなかれ。
  • 専ら所愛の法を信じて、他人の法を破ることなかれ。
  • 専ら平等心を起して、差別の思ひをなすことなかれ。
  • 専ら慈悲心を発して、他人の愁ひを忘るることなかれ。
  • 専ら柔和の面を備へて、瞋恚の相を現はすことなかれ。
  • 専ら卑下の観に住して、驕慢心を発すことなかれ。
  • 専ら不浄の源を観じて、愛執の心を起すことなかれ。
  • 専ら無常の理を観じて、貪欲の心を発すことなかれ。
  • 専ら自身の過を制して、他人の非を誇ることなかれ。
  • 専ら化他の門に遊んで、自利の行を怠ることなかれ。
  • 専ら三悪道を恐れて、恣に罪業を犯すことなかれ。
  • 専ら安養楽を願って、三途の苦しみを忘るることなかれ。
  • 専ら往生想に住して、称名の行を怠ることなかれ。
  • 専ら西方を持念して、心を九域に分つことなかれ。
  • 専ら菩提の行を修して、遊戯の友に交はることなかれ。
  • 専ら知識の教へを守り、恣に我意に任することなかれ。

我が遺弟等、末代に至るまで、すべからくこの旨を守るべし。努力めて三業の行体を怠ることなかれ。南無阿弥陀仏一遍

時宗では一遍を宗祖、実質的な時宗教団創設者である他阿真教を二祖と呼んでいる。真教の阿号は以後の遊行上人の阿号となっている。

真教のあとの他阿は、三祖量阿智得(1261-1320)、四祖有阿吞海(1265-1327)、五祖師阿安国(1279-1337)、六祖与阿一鎮(1277-1355)へと継承されていく。七祖他阿となった宿阿託何(1285-1354)は『器朴論』『仏心解』『他阿弥陀仏同行同心大網註』など多くの著作を残し教学を大成させた。

4、一遍に対する社会の反応

一遍の踊念仏は、空也の鉢叩き念仏15や六斎念仏16に、原初的なカガヒウタガキ17などの民

14、遊行派寺院。最澄の創建とされる。法然の弟子隆寛がここで多念義を唱えた。国阿の時時衆に改宗した。広大な境内を所有していたが、徳川吉宗により1万坪を没収され東本願寺に寄進された。これにより衰退し、浄土宗西山派に改宗するが、明治2年(1870)に時衆遊行派に改めている。明治4年(1871)政府に境内地を没収され円山公園の一部とされた。

俗信仰的な輪おどりを取り込んだものである。このことから、一遍の踊念仏に対しては批判的な記述が多い。藤原有房は『野守鏡』(1295))で

直心浄土なりという文につきて、よろずいつはりすべからずとて、はだかになれども、見苦しき所をもかくさず、偏に狂人のごとくにして、にくしと思ふ人をば、はばかる所なく放言して、これをゆかしく、たふとき正直のいたりなりとて、貴賎こぞりあつまりし事、さかりなる市にもこえたり。

一返といひし僧、念仏義をあやまりて、踊躍歓喜といふはをどるべき心なりとて、頭をふり足をあげてをどるをもて、念仏の行義としつ。

と非難し『天狗草紙』(1293~1299)18にも

念仏する時は頭をふり肩をゆりておどる事、野馬のごとし。さわがしき事、山猿にことならず、男女の根をかくす事なく、食物をつかみくひ、不当をこのむありさま、併畜生道の果因とみる。

時衆と思われる者たちを非難中傷している。

一方で、一遍が当時一般に浸透していた本地垂迹説をふまえて念仏を説いたことと、名号札だけで救われるという教えが、戦場で戦死する可能性がある武士に受け入れられ、時衆となる武士が急増した。このことから、鎌倉時代末期には、戦陣に同行し戦死した者に念仏を唱えて菩提を弔う「従軍時衆」が登場し、時衆は武士にとって欠かせない存在でとなっていく。『楠木合戦注文』によると、鎌倉幕府楠木正成軍を河内千早城に攻めた時には、200人もの時衆が伴っていたという。

他の宗派にも踊念仏は広がっていった。融通念仏宗の来迎寺の良尊は踊念仏によって中興の祖とされ、親鸞門流の如道を先達とする越前大町門徒も踊躍念仏を行うようになるなど、死者供養のための踊念仏時衆の枠を超えて全国に広がっていった。

5、時宗十二派

徳川幕府は全寺院に本末制度を導入した際、それまでの念仏勧進聖の寺院をすべて清浄光寺を総本山とする「時宗」の管轄下に編成した。この時まとめられた時宗各派を「時宗十二派」という。しかしこの時点で存在したのは、遊行派(274寺)、一向派(天童派と併せて98寺)、

15、鉢や瓢箪を手にして叩きながら、念仏や、平易な日本語によって仏やお経などを讃える和讃を唱え、あるいは歌いながら、念仏踊を行って金銭を乞う。徳川時代には大道芸となった。

16、古く六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)に行われた念仏であるとされる。現在も、全国各地で、主に盂蘭盆や送葬の際に行われている。

17、男女が集い歌舞する自由恋愛の行事。

18、鎌倉時代、永仁4年(1296)に完成した絵巻物。京都・奈良の大寺の僧侶達を、鼻の長い「天狗」に例えて、その驕慢さを風刺・非難している。

霊山派(55寺)、四条派(52寺)、当麻派(42寺)、御影堂派(22寺)、国阿派(8寺)、解意派(7寺)、市屋派(2寺)だけで、六条派と奥谷派は消滅していたが、十二光仏に数を合せて12にしと思われる。また一向衆は一遍とは別の浄土宗系統であることから、昭和18年(1943)に、一向俊聖を派祖とする一向派と天童派が浄土宗に転属した。また、昭和22年(1947)には時宗に属した全ての寺院が、本末制度を解体したことによって各派の名称はなくなり、昭和27年(1952)、全寺院が宗教法人「時宗」に包括されている。

  • 遊行派時宗の主流派。二祖真教が開いた当麻道場(現、当麻山無量光寺)に入れなかった四祖呑海が、新たな拠点として創設した藤沢道場清浄光寺が本寺。
  • 当麻派四祖呑海と対立した当麻道場住持内阿真光が開祖。当麻山無量光寺を本寺とする。
  • 四条派京都限定で念仏札賦算他阿真教から許された浄阿真観が開祖。四条道場金蓮寺が本寺。真観が後伏見上皇の后藤原寧子にお産の呪符を渡したところ霊験があったことから、女院の帰依を受け、宮中や武家からの支持を得た。京都を中心に勢力を拡大し、遊行派と並ぶほどであった。しかし江戸末期以後、次第に衰退し、売りされた旧寺域は現在繁華街の新京極となっている。昭和3年(1928)に寺地を洛北鷹ヶ峯に移した。
  • 六条派一遍の異母弟である聖戒が開祖。六条道場河原院紫苔山歓喜光寺が本寺。歓喜光寺は源融(822-895)19の河原院あとに建立されたことから六条河原院紫苔山歓喜光寺という。鎮守社は天満宮であった。応仁の乱により、寺は高辻烏丸に移転したが、豊臣秀吉により四条京極へと移転した。この時鎮守社もそのまま移転したがそれが錦天満宮である。明治40年(1907)に東山に移転した際、錦天満宮はそのまま残った。昭和50年(1975)駐車場建設の為、現在の山科区に移転した。国宝の『一遍聖絵』は、自らの系統が他阿真教遊行派に対して一遍の正統的継承者であることを示そうとして、聖戒が編ませたものと言われているが、江戸時代に遊行派へ組み入れられたためか、現在は清浄光寺の所有になっている。
  • 市屋派空也(903-972)が承平7年(937)に左京東市(現在の西本願寺付近)に市屋道場金光寺を建立したという。この寺の住持であった唐橋法印が一遍に帰依し作阿と号した。市屋派は、この作阿を祖とし市屋道場金光寺を本寺としている。中世に市姫大明神を祀ったことから、市姫金光寺とも称された。天正19年(1591)、西本願寺の寺地移転に伴い、豊臣秀吉によって現在の下京区本塩竈町に移されたが、今でも市比売米神社と隣り合っている。
  • 御影堂派後嵯峨天皇の皇子竹の御所が一遍の弟子となり王阿と号した。京都五条新善光寺の住持として後嵯峨天皇の宸影を安置したため御影堂派を名乗った。第二次大戦中の強制疎開で滋賀県伊香郡木之本町(現長浜市木之本町)浄信寺(木之本地蔵院)が兼務し、現在は長浜市西上坂町に移転した。

19、『源氏物語』の光源氏のモデルといわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。嵯峨にあった別邸栖霞観は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺、宇治の別邸跡地は平等院となった。『古今和歌集』『後撰和歌集』に各2首ずつ和歌が採録されており、小倉百人一首では河原左大臣の名で知られる。

  • 奥谷派一遍の弟といわれる仙阿は、一遍の死後一遍生誕の地伊予奥谷(松山市道後)に帰り、宝厳寺を時宗に改め奥谷派をひらいた。仙阿のあとは尼僧の珍一房が相続したが、室町時代初期には遊行派に合流している。
  • 霊山派七祖託何の弟子国阿を派祖とし、元天台宗の霊山正法寺を本寺とする。託阿は伊勢神宮で奇瑞を得て「参宮無難」という独自の呪符を賦算した。勧進聖としても活躍した託阿は、小松天皇や足利義満の援助を受け、各地で寺院を再興し隆盛を誇ったが、次第に衰え、国阿派に統一された。
  • 国阿派国阿が再興した雙林寺を本寺としていたが、雙林寺が明治初年に天台宗に復したため、霊山派と統合し、霊山正法寺を本寺とした。
  • 解意派二祖真教の弟子解阿もしくは一向俊聖の弟子、解意阿観鏡が開祖とされる。茨城県海老島如體山新善光寺が本寺。
  • 一向派一向俊聖が開祖。番場蓮華寺が本寺。江戸時代に「時宗」に統合されて以来、そのことに不満を持ち、一向派独立運動をしていたが、昭和18年(1943)に時宗から分離し浄土宗に帰属した。
  • 天童派一向俊聖の系統。天童市にある佛向寺を本寺とする。江戸時代に、番場蓮華寺と本山争いの結果、佛向寺が中本山、蓮華寺が大本山となることで一向派に統合された。

6、一向俊聖と一向衆

一向俊聖(1239-1287)も一遍同様に自筆の著作は残っておらず、信憑性形かい資料としては伝記『一向上人伝』しかない。一向衆二祖とされる礼智阿尊覚の法語『二祖礼阿上人消息』も近世中期以降に編纂されたものである可能性が高い。『一向上人伝』によると、一向は書写山円教寺で受戒し南都で学んだ後、鎌倉光明寺で実質的な浄土宗開祖である然阿良忠の門下に入ったとされる。ここで15年間修行した後、遊行へと旅立ったという。遊行に出た理由を『一向上人伝』では「此宝号に何の不足あらんやとて、浄土の宗名も棄損し、経論の義学を放却し、一処不住に行脚して、念仏を四海に勧進し給ひけるに」としている。ここにある「宝号」については「此宝号を唱ふるには、身の浄・不浄をも顧みず。仏の接・不接をも論ぜず、仏の本願に帰命し奉り、知識の教にまかせて唱ふべしと云々。」と述べている。一向の念仏は西山義の機法一体ではなく、鎮西儀の死後往生するための念仏であるが、鎮西儀と異なるのは念仏以外の行を否定している点である。この門流は一向衆と名乗ったが、一遍同様に踊念仏をおこなっていたことで時衆と同一視された。親鸞門流の中にも踊念仏を取り入れた所があったため、時衆や一向衆と混同されてい