2023年7月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史21-鎌倉仏教 10 律宗の再興-
1、律宗の衰退
初期仏教の頃、仏教教団の構成員は、在家者の優婆塞・優婆夷、出家見習いの沙弥・沙弥尼・式又摩那、出家者の比丘・比丘尼の七衆に分けられていた。戒とは教団の構成員たちが日常生活の中で守るべき自発的な規定で、律とは団体生活をする上で守らなければならない罰則を伴う規則である。『四分律』『では在家信者には5戒が、出家見習いには 10 戒が、出家比丘には250戒、比丘尼には500戒(実際には 348 戒)が定められている。
戒(戒律)・定(禅定)・慧(学問)の三学は、仏道を修行する者が修めなければならない基本とされていたが、日本には戒律に精通しそれを遵守している戒師がいなかったため、戒が欠けた状態が続いていた。奈良時代に戒師である鑑真(688-763) が来朝したことで、東大寺・観世音寺(太宰府)・薬師寺(下野)・唐招提寺に授戒をするための戒壇が設けられ、全ての僧侶がこのいずれかの戒壇で受戒することが義務づけられた。しかし、戒律が日本に定着することはなく、唐招提寺第 3 世如宝(?-815)の頃にはすでに律の講義が無くなるなど形骸化が始まる。平安時代になると、最澄は鑑真が持ち込んだ小乗の厳格な戒律ではなく、大乗の戒経である『梵網経』に説かれている円頓戒「という出家在家共通の平易な戒律で充分であるとし、延暦寺に大乗円頓戒の戒壇が創設された。これにより、従来の戒壇でも厳格な戒律は軽視されるようになる。さらに、律令体制の崩壊に伴い官寺の社会的地位が低下したことで戒壇も権威を失っていった。
戒律が廃れた教学的な原因の一つが、末法思想である。『涅槃経』には、釈迦入滅から 500年は教行果が保たれる正法であり、その後の 1000 年は教行が保たれるものの果が得られない像法になると説かれている。さらに『大悲経』には像法の後の 10000 年は、教のみが残り行果がない末法となるとしている。末法になると天災地変がしきりに起こり、人々は邪見を抱き、盛んに煩悩を起こして闘諍を事とし、僧侶も破戒を恥じることが無くなり、ついには滅法に至るという。平安後期の永承7年(1052)が釈迦入滅後 1500年の末法に入る年とされたことから、この世での修行をあきらめ、来世での成仏を願う平安浄土教が広がることになる。平安末期には戒律に関する作法さえも廃頹し、唐招提寺には一人の僧もいなくなってしまった。鎌倉時代に無住一円(1227-1312)の記した『沙石集』には「時うつり儀々すたれて、中古よりは只、名挈り受戒と云て諸国より上り集り戒壇を走り廻りたる計りにて、大小の戒相も不知、犯制の行儀も不弁」と書かれている。
1、出家した女性が妊娠していないことを確認する為に設けられた比丘になる前の段階。2、部派仏教の一つ法蔵部の戒律書。鑑真が伝えた律宗はこの『四分律』に依拠する。3、不殺生・不邪婬・不偸盗・不妄語・不飲酒。4、五戒に加えて離高広大牀戒(大きな家に住まない),離華鬘等戒(身を飾らない),離歌舞等戒,離金宝物戒,離非食時戒(食事時以外に物を食べない)の五つ。5、『梵網経』が説く大乗菩薩戒で、十重禁戒と四十八軽戒を指す。
2、戒律再興の動き
この様な状況で、戒律の復興に取り組んだのが興福寺の実範(?-1144)であった。実範は、興福寺で法相教学を、醍醐寺と高野山で真言密教を、比叡山横川で天台教学を学んだ後、中川寺成身院を開いて真言密教・天台・法相兼学の道場とした。さらに、唐招提寺に残っていた寺男から『四分律』などの戒律を学んだ。これを知った興福寺の欣西らの懇請を受けて戒律復興に乗り出し、天永4年(1113)頃『受菩薩戒法』を、保安3年(1122)には『東大寺戒壇院受戒式』を作成した。真言僧としても、実範の『病中修行記』を素材として覚鑁 (1095-1143)が『一期大要秘密集』を残すほどの碩学であった。晩年は浄土教に傾倒し、山城国光明寺に移りここで死去している。
実範の戒律は弟子の蔵俊、さらにその弟子の覚憲、そしてその弟子の解脫房貞慶(1155-1213)へと法相宗の中で受け継がれていった。貞慶は『解脱上人戒律興行願書』を著し戒律の正統性を主張している。貞慶には多くの門弟があったが、戒律を継承したのは知足房戒如と慈心房覚真(1167-1243) 7であった。覚真は興福寺に戒律専門道場として常喜院を建て、維持するために所領まで寄贈している。これを喜んだ貞慶は俊才 20 名を選びここで律学の研究にあたらせた。戒如の弟子からは円晴・有厳・覚盛・叡尊などの英才が傑出した。

この頃、治承4年(1180)に平重衡によって焼失した東大寺は、俊乗房重源(1121-1206)の大勧進により金堂大仏殿と回廊が、明菴栄西(1141-1215)によって中門が、栄西の弟子退耕行勇(1163-1241)によって講堂が再建されていた。さらに、東大寺にいた明恵の弟子西迎房蓮実の勧めにより戒壇院が再建され、興福寺の良詮を戒和上として迎えて戒壇復活に備えていた。
3、俊芿と曇照—北京律(真言宗泉涌寺派)一
南都の興福寺を中心に戒律の復興が模索されている時、京都では俊(1166-1227) と曇照によって宋から新たな戒律がもたらされた。
俊芿は肥後国飽田郡で私生児として生まれ、4歳で託摩郡の池辺寺の別当珍暁に預けられると、18歳で剃髪し、筑紫観音寺で授戒した。各地で天台・真言を学ぶが、戒律こそ仏教の基礎であると考え、正治元年(1199) 2 人の弟子と共に入宋している。建暦元年(1211)、戒律に関
6、奈良県奈良市中ノ川に実範が創立した寺院。山林を合わせて数ヘクタールにも及ぶ寺域を有し、成身院(本寺)を中心として、室町時代末期には、弥勒院、清浄院、地蔵院、瓦坊、東北院、仏眼院、十輪院、薬師院、三蔵院の九院一坊により構成されていたが、その後衰退し、明治維新のころまでにはほとんど破壊されてしまった。7、前参議藤原長房。勧修寺流の家に生まれ九条家の家司を務め参議にまでなったが、解脱房貞慶の戒を受けて出家した。神護寺の明恵とも親しかった。海住山寺2世となっている。
する書籍 327 巻を携えて帰国すると、栄西は博多まで迎えに行き建仁寺に住させている。翌年には崇福寺に移ったが、建保6年(1218)、宇都宮信房(1156-1234) に仙遊寺を寄進されると、泉涌寺と改めている。
俊芿が伝えた律は鑑真の伝えた律と同じ道宣(596-667)を祖とする『四分律』による南山律宗であったが、興福寺を中心に復興してきた律宗が真言と融合したものであるのに対して、天台と結びついた律であったことから、興福寺の南都律に対して北京律といわれている。ただし経典は同じであることから、南都律と対立することはなく、貞慶とも面談している。その高潔な性格から、後鳥羽院・順徳院・後高倉院・仲恭天皇などの皇族をはじめ、有力公家や鎌倉幕府重鎮から帰依を受けた。安貞元年(1227)、俊芿が 62 歳で死去した後も、弟子たちによって南都律との交流は続いた。

泉涌寺は、11歳で崩御した四条天皇が墓所を作って以降、天皇の山陵が営まれるようになり、後水尾天皇以降は皇室の香華院としての地位が確立し、現在も「御寺」と呼ばれている。月輪十二陵(四条・後水尾・明正・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桜町・後桃園天皇陵)、後月輪陵(光格・仁孝天皇陵)、後月輪東山陵(孝明天皇陵)、後月輪東山東北陵(孝明天皇陵女御、英照皇太后陵)後堀河天皇陵、泉涌寺陵(後光厳・後円融)・後小松天皇陵などがある。
曇照(1187-1259) は山城国に生まれ、三井寺に入り台密を学び、南都に遊学した後、建保2年(1214)入宋し、14 年の留学の後、俊芿が没した翌年の安貞 2年(1228)に大蔵経を携えて帰国している。京都に戒光寺を開き戒律の普及に努めるが、天福元年(1232)、再び入宋し、仁治2年(1241)帰国すると、太宰府に西琳寺、京都に東琳寺を建立し、晩年は念仏を専らとして正元元年(1259)に没している。
一時は京都を中心に隆盛を誇った北京律も、南都律のように受戒の法を確立することができなかったことから、泉涌寺6世の覚阿が忍性から教えを受けることになり、教義的に南都律に吸収される。それでも寺院としては、台・密・禅・浄四宗兼学の皇室香華院として存続してきたが、明治時代になると皇室からの保護が無くなり財政的に逼迫し衰微してしまう。また、政府の宗教政策から、明治5年(1875)に四宗兼学が廃されため、真言宗に属することとなった。、昭和 27年(1952)に真言宗泉涌寺派として独立。宗派に所属する寺院数は62 カ寺である。
4、覚盛一南都律・律宗一
学律房覚盛(1194-1249)は興福寺で出家し、建暦2年(1212)からは常喜院に住して戒如から戒律を学び、明恵からは華厳を学んでいる。嘉禎2年(1236)、覚盛は尊性房円晴・長忍房有厳・思円房叡尊を誘い東大寺法華堂の観音菩薩の前で自誓受戒を行った。受戒とは戒壇で戒律護持を誓う儀礼のことで、律宗では『四分律』に説かれている 250 もの戒律護持を 10 人(三師
七証という 3 人の戒和尚・羯磨師・教授師という戒師と 7 人の証明師)の戒律に精通した僧侶の前で誓い、具足戒を得ることが原則である。これに対して、戒師がいない場合などの特別な場合に、仏・菩薩から直接受戒する方法を自誓授戒という。覚盛は、破戒が一般化しおり三師七証の資格がある者はいないとの認識から『瑜伽論』などの所説によって自誓授戒の方法を探し出し、実行する仲間を募ったのである。自誓授戒に際しては、受戒の前に好相(精進潔斎して得られた良い夢)を得る必要があり、覚盛・円晴・有厳の 3 人は1度目で、叡尊は2度目でこれを得ることができたという。菩薩戒には摂善法戒(善をなすことに関する戒)・摂衆生戒(衆生救済に関する戒)・摂律儀戒(止悪に関する戒)の三種を通じてうける通受と、摂律儀戒のみを受ける別受がある。東大寺などの国立戒壇で行われていたのが別受であったのに対して、彼らが選んだのはより厳格な通受であった。この授戒の様子は、叡尊の自叙伝である『金剛仏子叡尊感身学正記』や、西大寺所蔵の叡尊像の胎内納入文書の一つである『自誓授戒記』に詳しく書かれている。この授戒には多くの非難が起こったが、生駒竹林寺の信願上人良遍(1194-1252)⁹や宇治木幡観音院の真空(1204-1268) 10など援護する者も少なくなかった。
自誓授戒を行ってからは、興福寺松院に住して戒律の宣揚に努めた。暦仁元年(1238)、西大寺叡尊に招かれて四分律の布薩開設にあたって羯磨師となり、さらに四条天皇をはじめ后妃や公卿に菩薩戒11を授けている。寛元元年(1243)には唐招提寺に入寺し再建したことから、鑑真の再来とうたわれ、現在も唐招提寺を本山とする律宗中興の祖とされている。寛元3年(1245) に家原寺で、建長元年(1249)に法華寺で授戒を行い、実範の夢であった戒律復興を実現している。

覚盛の下で出家した比丘尼に中宮寺信如がいる。非常に優秀でありながら女性と関係を持ったことで魔道に落ちたと非難された貞慶の弟子璋円の娘として生まれた。孤児となった後、正式な僧侶となることを望んだが、当時すでに比丘尼になる道はなかった。しかし、覚盛ら律僧が比丘尼を復活させようとしていることを知り、覚盛のもとを訪れ出家を申し出た。ただ、比丘尼を導く先達の比丘尼がいなかったため、実現は難しかった。その時、覚盛の同法の比丘の教円がにわかに形を転じて女体となり、比丘尼となった。この比丘尼を先達として信如は比丘尼となることができたという。
8、行基の墓所がある寺。、明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、平成9年(1997)に再興された。9、興福寺で法相教学を学び、法印・権大僧都に任じられた。覚盛から戒を受け生駒竹林寺の住持となり東大寺知足院を復興している。10、東大寺東南院で三論を、醍醐寺では真言を研鑽した。さらに覚盛から戒を受け、円爾弁円からは禅を学んでいる。京都大通寺(遍照心院)の開山。11、大乗の菩薩行を志す人の受ける戒で、『梵網経』や『瑜伽論』などの経論によって戒の数には差があるが、在家の者が受ける戒でであるから十重禁のように戒の数は少ない。
この話から、天台宗や浄土教が「変成男子」を女人成仏の根拠としていたのに対して、覚盛や叡尊は「転男成女」という考え方をとったとされている。当時、金堂と宝塔が残るのみで荒れ果てていた中宮寺を再興させようとしていた叡尊の甥である日浄房惣持(1233-1312) 12は、尼寺であった中宮寺13に信如を住持とするように叡尊に頼んだという。信如が住持となった後、文永 11 年(1274)に天寿国曼荼羅繍帳が法隆寺の蔵から発見された。信如は、破損していた天寿国曼荼羅繍帳を京都に運ぶと寄付を募り模本を作成して天寿国新曼荼羅供養を行っている。これにより中宮寺は復興することができたが、信如の死後、二度に渡る火災により再び衰退してしまうことになる。江戸時代に門跡寺院となり、法隆寺に隣接する現在の場所に移った。

また、覚盛の弟子の円照(- 1277)は、後嵯峨天皇に菩薩戒を授けるなどの実績を重ね、東大寺戒壇院で戒律の復興に尽力したことから、東大寺戒壇院中興の祖とされている。唐招提寺を中心 に覚盛の律は広まり禅と一体化し禅律と呼ばれるが、足利時代には禅に押され衰退した。江戸時代に復興するが、泉涌寺同様に明治時代に唐招提寺以外は真言宗に組み入れられる。、明治33年(1900)に唐招提寺を本山として律宗として独立。宗派に所属する寺院数は39カ寺である。
5、叡尊一真言律宗—
叡尊(1201-1291)は、建仁元年(1201)大和国添上郡箕田郷(現在の奈良県大和遺郡山市白土町)に生まれた。興福寺の学僧慶玄を父として生まれたが、7 歳で母を亡くし巫女の養子となっている。その義母も 11 歳の時死去したため、義母の妹である巫女の家に移るが、そのまま醍醐寺に入り叡賢に師事した。健保5年(1217)、醍醐寺恵操を師とし出家し、東大寺で受戒すると密教を学び始める。24歳で高野山にのぼると 28 歳で阿闍梨となったが、密教僧としての在り方に疑問を抱くようになった。空海の遺誡にある「仏道は戒にあらざればいずくんぞ到らん」という言葉に出会い戒律に関心を持った時、東大寺戒禅院(後の知足院)の尊円の勧進により、西大寺宝塔院(東塔)に6人の持斎僧を置くことになったと知り、これに加わるために嘉禎元年(1235) 西大寺に移る。ここで戒如から戒律を学び始めた翌年、嘉禎2年(1236)に興福寺常喜院で覚盛と出会い共に自誓授戒をしている。

12、西大寺にいた叔父叡尊の弟子になった後、西琳寺の長老となって再興させた。建長3年(1251)に『四分律注比丘尼戒本』を撰集、康元元年(1256)には『転女成仏経』を開版するなど、特に尼僧の教化に尽力した。13、聖徳太子が母穴穂部間人皇女のために創建したとされる尼寺。
自誓授戒を行って以降は、常喜院を拠点に大和の法華寺・長谷寺・額安寺、和泉の家原寺、河内の西琳寺・道明寺などで説戒受戒を行っている。この時叡尊は、戒法を授ける大衆に対して『梵網経』にある「汝是当成仏我是已成仏」を基に「私はいよいよ大切な戒の条項を誦じますから、心をこめてよく聞きよくこの言葉を信じなさい。あなたたちはこれから成仏できる仏であり、私はすでに成仏した仏です。このことを先ず深く信じなさい。これを信ずれば、この戒法は既にあなたに具わっているといえましょう。あなたたちが、この仏戒を授かり受け終わったなら、あなたは、そのまま諸仏と同じ位に入れるのです。そしてその境地は、悟りを実現した諸仏と同じであって、それこそ尊い仏弟子といえるのです」と告げている。
石清水八幡宮領薪庄と興福寺領大往庄との間に用水に関する争いがおこり、これに鎌倉幕府が介入してきた。大和国の多くを興福寺が所有していたことから幕府は守護・地頭を置くことができていなかったが、これをきっかけにして興福寺領を押収して、初めて大和国に守護・地頭を任命したのである。これにより常喜院での活動ができなくなった叡尊は、尊円の勧めにより海竜王寺に移ることになる。

海竜王寺はかつて藤原不比等の邸宅内にあった古刹であるが、平安時代に衰微し、鎌倉時代になって貞慶が復興させた寺である。俊芿の弟子定舜(?-1244)が律書を講義したことから泉涌寺系の北京律が実践されていた。叡尊はここで玄忍・教玄・願西・厳貞・賢真に授戒するなど弟子の養成を始めている。しかし叡尊の活動を妨害する者もいたため、暦仁元年(1238) 西大寺に戻ることになる。西大寺は称徳天皇が天平宝字 8年(764)に藤原仲麻呂の乱14に勝利することを願って金銅四天王像の造立を発願したことに始まる。建造当初は、興福寺をも凌ぐ広大な土地に、四王堂・薬師金堂・弥勒金堂・十一面堂・東西両塔などが立ち並ぶ壮大な寺院であったが、称徳天皇の死後は急速に衰微し、叡尊が入った時は、四王堂・食堂・宝塔院が残るだけで、寺領荘園もほぼ無い状態であった。当時、西大寺は興福寺末寺であったことから、興福寺僧が別当をつとめ、四天堂を拠点とする官僧を統括していたため、叡尊は宝塔院を中心に弟子たちと活動し始めたが、弘安元年(1278)には別当乗範が運営権を叡尊に寄付している。叡尊は覚盛を羯磨師として『四分律』の戒律に照らして自己の行為を反省し合う四分布薩と『梵網経』に説かれている菩薩の守るべき戒に照らしての梵網布薩を行っている。仁治元年(1240)には忍性が入門し、寛元 2年(1244)には覚盛も興福寺を出て唐招提寺に入り戒律復

14、孝謙太上天皇(称徳天皇)・道鏡と対立した藤原仲麻呂が政権を奪取しようとして失敗した事件。
興運動を開始する。寛元 3年(1245) に行基誕生の地である和泉国家原寺清凉院の住持職となると、これ以降、行基ゆかりの寺院の復興にも力を入れ始める。また、法華尼寺を復興させるなど、覚盛と共に、長らく途絶えていた沙弥尼・比丘尼を復活させている。これらの実績により、後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・後伏見の5天皇の戒師となるなど、宮中から大きな信頼を得るようになっていった。しかし、授戒の戒師は受戒後 10 年以上経った者しかできないとされていたのに、叡尊は覚盛と共に、たとえ 10 年に満たずとも利他のために授戒すべきだとして、受戒後9年目で授戒を行ったことから、南都の官僧たちから非難を受けることになる。
寛元3年(1245)以降、叡尊は弟子たちを籤によって各地に派遣させるなどして勢力を全国に拡大させていく。この籤により関東に下向した忍性は、鎌倉の極楽寺を拠点に鎌倉幕府の要人を信徒にしていった。忍性から叡尊の事を聞いた北条実時は、見阿弥陀仏を使者として、一切経と金沢称名寺の寄進状とともに叡尊に鎌倉への下向を要請してきた。叡尊は寄進と下向を辞退したが、これに感激した実時は、一切経を西大寺に届けている。この一切経は、定舜が宋から持ち帰った七千巻の一切経2蔵のうちの1蔵で、残りの1蔵は称名寺に安置されている。翌弘長 2年(1262)実朝は再び見阿弥陀仏を使者として送り、北条時頼が受戒を希望していることを伝えた。これを受けて、62 歳であった叡尊は半年にわたる関東下向を行う。忍性のいた釈迦堂を滞在場所として、実時や時頼はじめ多くの癩病患者にまで授戒を行っている。更に、新善光寺別当であった道教はじめ多くの念仏僧が一斉に入信している。この成果により、忍性の誓願によって永仁6年(1298) には叡尊の流れを汲む律宗系寺院34か寺を将軍家祈祷寺となる。これ以降、律僧らは幕府の官僧化していくことになる。
6、叡尊律宗の特殊性
文永元年(1264)、叡尊は光明真言会を創始している。光明真言は大日如来の真言で、すべての罪障を消滅させるとされ、この真言で加持した土砂を死者や墓にまけば、後世で菩提がえられ るという。叡尊が称徳天皇の忌日に七昼夜にわたって亡者の追善、生者の現世利益のために光明真言を読誦したことに始まり、叡尊教団の年中行事の中で最大のものとなった。この会に参加できるのは、1反(300坪)程度の土地を寄付するなどの貢献者で、その年に死去した人の過去帳が読み上げられると成仏が保証された。また、信徒の葬儀を積極的に行い、光明真言を唱えることで成仏を保証した。これにより叡尊の教団は多くの支持を集めた。
また、叡尊は文永 5 年(1268)の蒙古来襲の際、四天王寺で異国来襲の難を払う祈祷を行っている。さらに、弘安4年(1281)の蒙古来襲の際には石清水八幡宮に奈良・京都の律僧 560余人とともに 7 日7夜の祈祷を行い「東風をもって、兵船を本国に吹き送り、乗る人を損なわずして、乗るところの船を焼失せしめたまえ」と祈ったところ満願の日に神託を得たので、南北2京の僧衆にその宣託を告げた。実際に台風が蒙古の船を壊滅させたため、叡尊の神通力による神風と信じられ、上下を問わず多くの人々が彼を「思円仏」と崇めるようになった。
叡尊は 3 度にわたり伊勢神宮参拝を行っている。伊勢神宮は僧侶の参拝を拒否していたが、蒙古襲来の退散祈祷に絡み、内宮祠官荒木田氏の勧誘により実現したものである。これにより、
叡尊は伊勢弘正寺などの律寺を建立し、天照大神と大日如来を同一視する両部神道の理論化を行っている。また、宇佐八幡宮・石清水八幡・大三輪神社などは、叡尊教団末寺が神宮寺である。
弘安7年(1284) 四天王寺別当に任命する院宣が出された。これは叡尊教団には諸寺・橋・道路などの修造を担う職能民と寄付を集める勧進聖を擁していたことによる。正応 3 年(1290)叡尊は痢病にかかり 90歳の生涯を閉じるが、その事蹟は他に類を見ないものであった。弟子の鏡慧が師の没後にまとめたところによると、叡尊が処々に開いた講席は 10721 座、その間の道俗の受戒者は 96848名にものぼる。また『西大寺勅諡行実年譜』によると、新寺建立 100 余力所、修造寺院 590 余カ所とある。著述も戒律についてのものを中心に84種に及んでいる。
7、忍性
叡尊には優れた門弟が多く、極楽寺の良観房忍性(1217-1303)、般若寺の慈道房信空(1231-1316)、泉福寺の戒印房源秀、桂宮寺の中観房徴瑜、海龍寺の長禅房幸尊、三邨寺の蓮順房頼玄、喜光寺の覚証房性海、教興寺の如縁房阿一、西琳寺の日浄房惣持、願成寺の円真房栄真、浄福寺の道信房慈照、霊山寺の宗賢房成真など他寺の住持となったものも少なくない。叡尊の跡を継いで西大寺住持となったのは信空であったが、最も活躍したのは忍性である。
忍性は建保5年(1217)大和国に伴貞行を父として生まれると、11 歳で信貴山に学問を学びに入る。貞永元年(1232)に母の死により額安寺で得度すると、17 歳の時に東大寺で受戒した。嘉禎元年(1235)、行基誕生の地である生駒山竹林寺から行基の舎利が開掘されると、忍性は毎月参詣している。これは、当時『日本霊異記』や『今昔物語』などにより、行基を文殊菩薩の化身とする信仰が流布されており、諸国で恒例化していた貧者救済を目的とする文殊会が開かれていたが、忍性もこれに関係していたためと考えられる。

延応元年(1239)、叡尊から大乗仏教の菩薩戒(十重戒)を受けると、律僧としての出家を勧められるが、亡母の 13 回忌までに7幅の文殊菩薩画像を大和国の非人宿に安置し供養することで来世での解脱を願いたいとこれを断っている。ここでいう非人とは、癩病や身体障害などによって、社会から排除・疎外された人々で、奈良坂北山宿などの交通の要衝に非人宿と呼ばれる集団を形成していた。翌仁治元年(1240)、忍性は文殊画像を額安寺西宿に安置すると、叡尊に開眼供養を申し出て、律僧としての出家を願い出た。そこで叡尊は非人 400人に斎戒を授けると、西大寺で初めて別受戒を行い他の僧と共に忍性に具足戒を授けている。これ以降、忍性の非人救済は叡尊とその門下生の間で広く行われるようになった。
忍性は学問の面では「鈍機」であると自認していた。そこで寛元元年(1242)、宋に渡り律宗の聖教をもたらすことで他の人に役立ててもらおうと思い、共に入宋する同志を募った。これに同門の成願房覚如が応じたが、叡尊がこれを許さなかった。忍性は代わりに泉涌寺から借用した
『四分律行事鈔』で叡尊に講義を行ってもらっている。一方、覚如は一人でも宋に渡ろうとしたところ、かつて覚盛、叡尊とともに自誓受戒した有厳(1186-1275)が同行を申し出た。これには叡尊も同意せざるを得ず、弟子の隆信房定舜を随行させ入宋を許可した。寛元 2年(1244)から宝治2年(1248)まで宋に滞在し、律三大部(『四分律刪繫補闕行事鈔』『四分律比丘含注戒本疏』『四分律刪補闕随機羯磨』) 20 具などを持って帰国した。忍性は鎮西にまで迎えに行き、一足先に 18 具を西大寺に運び、定舜は3か月ほどたってから2具を持って西大寺に帰っている。後に覚如と定舜は忍性と共に関東に拠点を置き、覚如は鎌倉新清凉寺釈迦堂長老となり、定舜は常陸三村寺に住している。ただ、有厳は、帰国後比丘戒を捨てて在家の斎戒だけを保ちながら、唐招提寺に西方院という支院を建てて念仏三昧の生活を送るようになる。現在も西方院には有厳の念持仏であった快慶作の阿弥陀如来像が伝えられている。
建長4年(1252) 教化のために関東に東下すると、常陸鹿島社に法華経を献じ参籠を行い、筑波山麓の三村寺(清冷院極楽寺。現在の茨城県つくば市小田)を律院に改宗させ、10年間、ここを拠点に鎌倉との関係を深めた。この間、忍性は鹿島社に詣でる拠点となる大船津の修築や対岸の北浦鰐魚退散のための船越地蔵を祀るなど、水上交通の要衝を押さえている。このことは、西大寺系律宗が水上交通の要衝と深い関わりを持ちつつ教線を展開したことを、瀬戸内海の律宗系寺院から指摘した網野義彦氏の指摘とも一致する。また、鹿島社に詣でた際に、清涼院御手洗寺に住して十一面観音像を彫り鹿島社の神宮寺に安置するなど、鹿島社とも関わりを深めている。
忍性は弘長元年(1261)、鎌倉新清凉寺釈迦堂に拠点を移した。この年、定舜は北条実時の発願で2度目となる宋に赴き千巻の一切経をもたらしている。翌年、叡尊が鎌倉に滞在した時に、北条実時が念仏宗であった称名寺を寄進しようとしたのを断り、住所としたのがこの新清凉寺釈迦堂であった。叡尊が鎌倉に滞在中、忍性たちは鎌倉の浜悲田院(由比ヶ浜)と大仏悲田院(大仏谷)の病者・孤児に職を与え十善戒を授けている。悲田院とは、孤児や病者の救恤施設で、収容者は非人身分とされ遺体の焼却などに従事させていた。
文永4年(1267)、忍性は念仏宗であった極楽寺を寄進され住持となる。忍性は叡尊同様、密教僧でもあったので、幕府の依頼により、しばしば祈雨の祈禱を行うようになる。これらの実績により北条一族から絶大な支持を受けた忍性は、極楽寺以外にも、北条業時の創建した多宝寺の長老、源頼朝が建立した永福寺、藤原頼経の発願した五大堂、鎌倉大仏三寺別当、北条長時が創建した浄光寺の事務など、鎌倉の多くの寺の責任者を兼務することとなった。
嘉元元年(1303) 87 歳で死去するが『性公大徳譜』によると忍性が生涯で草創した伽藍は三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など 83 ヶ所、供養した堂は 154ヶ所、結界した寺院は 79ヶ所、建立した塔婆は20基、供養した塔婆は 25 基、書写させた一切経は14蔵、図絵した地蔵菩薩は1355 図、中国から取り寄せた律三大部は 186 組、僧尼に与えた戒本は 3360 巻、非人に与えた衣服は 33000領、架橋した橋は189所、修築した道は 71 所、掘った井戸は 33 所、築造した浴室・病屋・非人所は 5 所にのぼるとされている。しかし、叡尊・忍性没後、西大寺系律宗は衰退し、明治時代には真言宗に組み入れられる。明治28年(1995)に真言宗からの独立しし西大寺を本山に真言律宗として独立。宗派に所属する寺院数は91 カ寺である。
8、叡尊と忍性の非人救済と殺生禁断
忍性の実績としてまず挙げられるのは、福祉事業である。仁治元年(1240)額安寺西辺宿に文殊菩薩像一舗の開眼供養を行うと、私財を投じて 400 人の非人に持斉させた。これは『文殊経』に文殊菩薩が貧窮孤独の衆生となって行者の前にあらわれるので、慈しみの心を持って接すれば、文殊菩薩とまみえることができると書かれていることによる。仁治3年(1242)に師の叡尊もこれに倣い、母の墓所近い和爾宿で文殊供養を行うと、叡尊の弟子たちも北山宿で文殊供養を行っている。叡尊は、疥癩や障害を持って生まれるのは前世の因縁であるとしながら、前世で悪業をなしたものでも救うのが仏教であるとしてこの供養を積極的に勧めている。忍性は文殊供養以外にも、西大寺内に病人を治療する常施院と乞丐のための悲田院を建てている。また、歩行困難な疥癩を背負って街に送迎し乞食をさせたとか、非人に自らが着ていた衣服を与えたという話も伝わっている。
これ以降、叡尊たちは、しばしば、囚人や非人の救済を行っている。その中でも最大のもの は、文永6年(1269)に叡尊が般若寺に丈六文殊像を建立した完成に際して行われた無遮会15である。この日の参加者は、六千余人にもおよび、その内非人は二千人とも三千人ともいわれている16。非人には、米1斗・餅1枚・汁2掬い・水・柑子(蜜柑)などの食物や、檜笠1つ・筵1枚・団扇1つ・浅鍋1つ・針・糸・布・(皿) 2つ・被子(弁当箱)1合などの品物が与えられ、彼らは持斎『につとめた。非人たちは文殊菩薩としてあつかわれ、あかりを灯され音楽が奏でられる中で、千人に及ぶ僧侶によって供養された。また、建治元年(1275) に洛西の浄住寺で行われた施行では、三千三百三十五人の非人に対して銭三十文が与えられている。

文永9年(1272)、忍性は十種の大願18を立てるが、その一つが「孤独・貧乏な人、乞食、いざり、捨てられた牛馬に憐れみをかける」であった。これを実現するため、忍性は
15、道俗・貴賤を問わず平等に財法を施行する法会。16、『春日社記録』・『法隆寺別当次第』17、午後食事をしないこと。18、1力の及ぶ限り仏法僧興隆をはかる。2勤行や談義への参加に励む。3 外出時には三衣一鉢を所持する。4病気の時以外は馬・輿に乗らない。5特定の檀家からの祈祷依頼は受けない。6孤独・貧乏な人、乞食、いざり、捨てられた牛馬に憐れみをかける。7道路や橋をかけ、井戸を掘り、薬草や樹木を植える。8自分に恨みを抱き、誹謗する人をも救済する。9間食をせず、手間隙をかけた食事もとらない。10功徳はすべて他人に施す。
極楽寺を病院・癩宿・薬湯室・無常院・施薬悲田院・病宿・坂下馬病屋を具えた無料福祉施設としている。薬湯室とは、病者非人を文殊菩薩の化身として扱い、湯を沸かして僧が垢すり供養を行うところである。また、極楽寺には梶原性全(1265-1337) という医僧まで現れている。極楽寺は由比ヶ浜東部に築かれた港湾施設である和賀江島(飯島)の津の維持管理権、関米徴収権、殺生禁断取り締まり権によって、これら施設の維持管理費をまかなっていた。現在も極楽寺本堂の前には当時の遺品である大きな石の薬鉢と茶臼が残っている。
弘安 10年(1287)には北条時宗の発願により、長谷寺近くに恒常的な病屋である桑谷療病所を開き、忍性自ら病者に問診をしたという。『元享釈書』によると、20年間でこの療病所を訪れた患者は 67250 に及び、その内の 46800 人が救われたという。この療病所の維持費は、北条時宗が寄進した土佐国大忍荘からの収入によってまかなわれた。この実績により、永仁 6 年(1298) には馬病屋も併設している。
叡尊と忍性は戒律の不殺生を実現するために各地に殺生禁断を行っている。叡尊は寛元元年(1243) に清原・西方寺・西大寺・新賀の 4 カ所で殺生禁断を行ってから、各地でこれを行い、忍性も摂津多田院をはじめ、33 カ所でこれを行っている。また、叡尊が宇治川の漁師に殺生を禁じた代わりに布の晒と茶の栽培を行わせたことから宇治茶が始まっている
9、職能民を用いた社会事業
叡尊が行った土木事業として記録が残っているのは、宇治橋の改修19だけである。これは本来、律宗が土の中の虫を殺さないために、土木工事を禁じていることから積極的になりにくかったためである。これに対して、忍性が生涯の間に架けた橋は189か所、道は 71 本、井戸は 33 本にも及んでいる。これは忍性が、これらの橋や道路の通行料、井戸の使用料を福祉施設の運営費に充てていたからである。琵琶湖から京都に入る瀬田川に架かる瀬田唐橋も忍性の手によって修繕されている。これは橋を修繕管理する技術者集団を持っていたからであり、京都上立売堀川に架かる船橋と橋を管理する水落寺を譲り受けてたのもこの理由による。

鎌倉大仏については、いまだ不明な点が多い。寛元元年(1243)に木像として完成した9年後の建長4年(1252)には金銅像として作り直しが始まっているが、その理由も、完成時期も分かっていない。この金銅大仏を造立するために、名門鋳物師出身の丹治久友・鎌倉建長寺や円覚寺の大鐘を作った物部一族・房総鋳物師の祖である広階氏や大中臣氏らが河内から来ている。当時河内は叡尊が勢力を拡大させていた地域であり、忍性が大仏別当となっており、また律宗寺院がこれら鋳物師による梵鐘を持っていることから、叡尊の手引きによって金銅大仏建立が実現
19、この橋の改修を記念して作られた浮島十三重石塔が宇治川中洲にある。
した可能性が高い。このような職能民を信徒として抱えていたことで、叡尊や忍性が土木事業を行うことができた。
このことは石工についても同様である。鎌倉後期から、全国に大型の五輪塔・宝篋印塔・層塔・摩崖仏が次々と作られているが、その多くは西大寺派の教線拡大と密接につながっている。これを可能にしたのが「伊(尹)派」に代表される渡来系工人であった。俊乗房重源によって東大寺大仏再建が行われた際、4人の宋人石工が来日し、南大門北側の石造獅子2体や堂内の石の脇士・四天王をはじめ、大仏殿の造営にあたった。この時は、日本に適当な石がなかったため、宋から取り寄せている。4人のうちの一人と思われるのが伊行末である。延応2年(1240)大蔵寺(奈良県宇陀市大宇陀町)の十三重塔に「大工 大唐口明州伊行末」とある。叡尊が建長 5年(1253)大和般若寺の本堂前に高さ 12.6 花の花崗岩製大層塔を建立しているが、これが伊行末とその嫡男行吉の作である。建長6年(1254)には東大寺三月堂石灯篭に「伊権守行末」の名がある。そして、宇治市の中ノ島公園に宇治川に面して建っている、高さ 15 紅の「浮島十三重塔」の側面には1千字に及ぶ銘文が刻まれている。ここから、これは弘安 9年(1286)に叡尊が宇治橋再建を記念して建立したことと、行吉の息子と思われる猪末行の作であることがわかる。石工は石の破砕にも長けていたことから、叡尊や忍性が各地で行った土木工事でも重宝されていたと思われる。実際西大寺系寺院が多かった瀬戸内では、多くの五輪塔が残っている。
平安の頃から、寺院の温室(湯屋)で行う沐浴は、功徳を享受するためのものとして用いられてきた。忍性が極楽寺で行った垢すり供養もその一つである。これが西大寺系寺院でも行われるようになり、さらに後に有料化され銭湯の原型となっていく。奈良市旧市街には、かつて鎌倉極楽寺末の律院新浄土寺の経営する湯屋があった。現在は「風呂町」という地名が残っている。湯屋には茶屋が併設され入浴後に茶を楽しんだという。奈良にはこの他にも西大寺 2 世慈道が鎌倉時代後期に南市で元興寺の修理料を得るために営んだ銭湯があった。西大寺派はこれ以外にも奈良のいくつかの場所に銭湯を建ててその利益でさまざまな慈善活動を行っていた。この痕跡として、畿内各地に石製の湯舟が 16 点残っている。最大のもので長さ 2.45紅、幅1.5元、最小のもので長さ1.6幅 0.65んである。これも伊派の仕事と思われる。

また鎌倉幕府の指示で、琉球初の仏教寺院となる琉球極楽寺(1265 - 1274)禅鑑によって作られている。禅鑑は東大寺律層禅観と思われ、叡尊とは兄弟弟子となる。この時期の琉球建築の遺蹟からは、鎌倉時代の日本の技法が見られるので、律僧と共に様々な職能民も琉球に渡ったものと思われる。
忍性はさらに、摂津の多田院・四天王寺、鎌倉の永福寺・明王院・浄光寺などの別当をつとめ、東大寺大勧進にも補されている。これは忍性の勧進上人としての経営能力が高く評価されていたためである。事実、四天王寺では、西門の石鳥居を造立し、施薬院・悲田院を再興している。
