2023年10月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史22-鎌倉仏教11 宗祖とならなかった高僧と神道の成立-

1、俊乗房重源勧進聖

治承4年(1180)平重衡(1157-1185)¹によって南都諸寺院が焼き討ちされた。この様子を『源平盛衰記』は「三論法相残なく煙りと成こそ悲しけれ」と述べ『平家物語』は「日本我朝においてはかかる法滅はまだなし」と記している。また、九条兼実は『玉葉』に「七大寺已下悉く灰燼に変ずるの条、世のため民のための仏法王法滅尽しおわるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず、筆端に記すべきに非ず」と書いていることから、当時は仏法と王法は一体と考えられており、仏法が衰退すると王法も滅亡に向かうと思われていたことがわかる。王法の滅亡を防ぐためにも、焼き討ちの翌年治承 5 年(1181)には、特に壊滅的な打撃を蒙った東大寺の復元が始まった。この任にあたる「造東大寺大勧進職」に補せられたのが俊乗房重源(1121-1206)である。

重源は紀季重を父とする紀氏の生まれである。13 歳の時、醍醐寺円明院で出家し、真言密教を学ぶ。その後、大原問答を通して源空の教えに感動し「南無阿弥陀仏」と号している。建仁3年(1203)に自らの足跡を記録した『南無阿弥陀仏作善集』を書いているが、これによると、各地の寺院や神社で仏像造立、造寺造塔、寺社修造を行い、また多くの法要や講を開くなど布教活動に努め、自らも全国の山林を回り修行していたことが分かる。又、温室(風呂)の設置、道路や港湾の整備、架橋などの社会事業も行っている。これらの事業を行いながら、安元 2 年(1176) までに3度も宋に渡っている。これらの実績が評価され、61歳で「造東大寺大勧進職」に補せられることになる。東大寺再建費用を捻出するために「一車輪」6両を作ると、詔書の写し、勧進帳、造立する大仏と諸菩薩・四天王の絵像 6 幅を、それぞれの車に分けて乗せ弟子の聖に引かせ、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の 7 道に派遣し、諸国を勧進して回わらせた。後白河院九条兼実源頼朝などの有力者からの援助も取り付けると、文治元年(1185)、6年の歳月を費やして金銅の東大寺大仏を完成させ開眼法要を行っている。

る。さらに、建久6年(1195)には大仏堂の完成供養を、建仁3年(1203)には大仏を守護する全ての仏の供養を行っている。この功績により重源は大和尚の称号を贈られた。現在も東大寺では毎年春の修二会(お水取り)で行われる過去帳読踊において、重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と読み上げられている。多くの弟子を抱えていたが、特定の教団に所属することなく、また新たな教義を建てることもなかったため、宗祖となることはなかった。重源の死後、東大寺の復興は交流があった栄西が東大寺大勧進職となり引き継がれている。

2、解脱房貞慶法相宗

解脫房貞慶(1155-1213)の祖父は、保元の乱(1156)で権力を得たものの平治の乱。(1159)で自害に追い込まれた信西(藤原通憲、1106-1160)であり、歌人として知られる父藤原貞憲(1123-1159)9も、この平治の乱で死去している10。父を失ったため、叔父覚憲(1131-1213)を頼り興福寺に入ると 11 歳で剃髪し、東大寺で受戒した。覚憲のもとで法相・律を修学すると、寿永元年(1182)、維摩会の研学竪義となり4年後には講師になっている11。この頃、聖として民衆布教に努めていた法然(1133-1212)は、父の弟の遊蓮房円照(1139-1177)の友人であり、同じく弟の安居院澄憲(1126-1203)の子である聖覚(1167-1235)の師であったことから交流があったようである。文治 2 年(1186)に大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席したとも言われている。官僧としての地位を固め、九条兼実から「末代の智徳」と将来を嘱望されていたが、建久3年(1192)、官僧としての出世を捨て笠置寺に隠遁してしまう。その原因を『元享釈書』は宮中で行われた法会で貧しい衣服を嘲笑されたことによるとしているが、この説の信憑性は低い。養和元年(1182)頃、病弱であることを自覚した貞慶は幽遁の志を抱いて春日の冥助を仰ぎ、笠置寺に『大般若経』(600巻)を書写奉納することを発願している。11年の歳月をかけ書写し終わったのが建久3年(1192)であった。『玉葉』は貞慶蟄居の理由を春日大明神の夢告と伝えこれが、これが春日大明神の夢告の内容であると考えられる。『笠置寺縁起』には貞慶が春日の本地を釈迦と考えていたことが書かれている。また、法然を通して、聖というあり方に僧侶の本来の姿を見たとも考えられる。貞慶は笠置寺を修復すると、境内に般若台や十三重塔の建立を行っているが、重源は銅鐘と宋版大般若経を、後鳥羽院が伊賀国重次名田を笠置寺に寄付していることから、隠遁後も広く慕われていたことが分かる。貞慶が蟄居した笠置山は弥勒仏が彫られた巨大な弥勒石がある弥勒信仰の山であった。ここで貞慶は『弥勒講式』を作り弥勒信仰普及に努めている。貞慶は哲学的な法相宗の僧侶であるが、密教的な要素も多分に持っていた。その一つが仏舎利信仰である。日本の仏舎利信仰は、鑑真が来日した時、舎利 3000 粒をもたらし唐招提寺舎利殿に安置したことに始まっている。平安時代には空海が長安の青龍寺から舎利 80 粒と金色の舎利 1粒を、円仁も同じく青龍寺の義真から仏舎利を授けられ日本に持ち帰っている。この頃、仏舎利は釈迦の遺骨として礼拝の対象となっていっただけであった。これが鎌倉時代になると、重源が東大寺大仏に舎利を収めた時に大仏の眉間から光明が放たれたという話が広まり、仏舎利は霊験を持った釈迦そのものであるという信仰が生まれる。これを決定づけたのが貞慶の『舎利講式』である。貞慶はこの中で、阿弥陀仏とは違い釈迦こそがこの娑婆世界に現れた唯一の如来であり、釈迦は死去した後も仏舎利として存在し続け、我々に菩提心を発こさせるために今でも「千変万化」してわれわれの前に現れてくれるのだと語っている。また、貞慶は建仁元年(1201)に『観音講式』を著して観音信仰の普及にも尽力した。これにより各地の観音霊場は「遠近歩を運び貴賤市を成す、立錐の隙なく車轅を廻すことを得ず」といわれるほどの盛況を呈したという。現在も各地に霊場巡りとして観音信仰が残っている。これら多くの功績を残した貞慶であるが、現在最も貞慶の名を知らしめしているのは、元久 2 年(1205)に法然専修念仏を批判し、その停止を求めた『興福寺奏状』である。この中で法然専修念仏を厳しく批判した貞慶であるが『観心為清浄円明事』に「予は深く西方を信ずる」と書いていることから、阿弥陀仏を信仰していたことが分かっている。貞慶は唯識を中心とした法相宗の僧侶であるが、念仏は唯識観を得る上での重視な行であった。ただし、貞慶にとっては、釈迦・弥勒・薬師・観音・地蔵などの諸仏諸菩薩は全て尊い存在であり、釈迦の垂迹と考えていた春日明神はじめ諸仏の垂迹である日本の神々も信仰の対象であった。そのような貞慶には、念仏以外をすべて否定した法然の念仏理解を許すことができなったのである。ただしこれは専修念仏を否定しているわけではない。『発心講式』には「予が如き者は未だ専修の行を得ず。また広学の望みもなし。蒙々緩々として生涯、将に暮れなんとす」と「専修の行」を行えない自らの身を嘆いている。阿弥陀信仰に力を入れなかった理由を『観世音菩薩感応抄』で「ここをもって臨終の時、弥陀降臨し聖衆囲繞すとも、感得はなはだ難し。観音一身の沙門の形相は、彼に対して易し。滅罪生善の利益、彼は大にして此は小なれど、敬って諍うべからず。もとより仏子の自の分を量り、浅近の望みを係けるが故なり。(中略)まさに知るべし。分を超えるのことは修して望むべからず」と、自分のような支障の多い者では阿弥陀仏の極楽往生は難しが、たとえ功徳は小さくても阿弥陀仏の極楽浄土の補処といわれる観音の浄土補陀洛ならば、往生できるといっている。また「敬んで、十方法界の一切三宝、日本国中の大小の神祇等に申して言さく」で始まる『愚迷発心集』の中で、貞慶は「夫れ無始流転の意向、此に死して彼に生ずるの間、或る時は鎮へに三途八難の悪趣に堕して、苦患に礙へられて、既に発心の謀を失ひ、或る時はたまたま人中天上の善果を感ずれども、顛倒迷謬して未だ解脱の種を植えず」といい、われわれは「地獄に処すること園観に遊ぶがごとし。余の悪道に在ること己が舎宅のごとし」と述べている。さらに、たとえ発心し仏法に出会えたとしても、世界は「空」であると教えられても、常住なものとしか捉えることができない「愚かな」「常没の凡夫」でしかないと、法然や親鸞が自らを愚者としたように、貞慶も自らを愚者としてとらえていたことがわかる。しかし釈迦も最初は「常没の凡夫」であったが、そのような凡夫が自らの愚かさを自覚することで「発心」が生じ、如来となったというのが貞慶の理解である。つまり貞慶の愚は、法然や親鸞の愚とは異なり克服できるものであった。貞慶は承元2年(1208)、後鳥羽院より仏舎利2粒を賜ると、観音霊場である瓶原の海住山寺に安置しここに移り住んでいる。後鳥羽院の御祈願寺となったこの海住寺で、貞慶は建保3年(1213)に59 歳で死去している。生涯多くの著作を残し、哲学的な唯識弥勒信仰仏舎利信仰・観音信仰・密教・神道などとの融合をはかり、法相宗の大衆化に努めた。多くの弟子を残したが、宗祖となることはなかった。墓は、持聖院(旧惣持寺、奈良県生駒郡三郷町)・笠置寺(京都府相楽郡笠置町)・海住山寺(京都府木津川市)でそれぞれ伝承される。

3、明恵坊高弁華厳宗

明恵坊高弁(1173-1232)は、平重国と紀伊国の豪族湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。治承4年(1180)、9歳で両親を失うと、翌年、高雄山神護寺にいた母方の叔父上覚房行慈を頼り入寺した。上覚は荒法師としてしられる文覚12の高弟で、文覚の死後神護寺を継いだ僧侶である。ここで、上覚から『倶舎頌』を、仁和寺の恵鏡房尊実から空海の著作を、仁和寺華厳院の景雅から『華厳五教章』を、賢如房尊印から『悉曇字記』を学んだ。文治 4年(1188)に出家し東大寺で具足戒を受けると成弁と名乗る。受戒後、尊勝院聖詮から『倶舎論』を学ぶと、18 歳で『十八道』や『遺教経』等を修め、19歳では興然から金胎両部の法および護摩の法などを受けている。東大寺尊勝院(華厳宗の本拠)に籠り華厳教学を研究し、建久4年(1193)には東大寺公請13となっている。当時最先端の仏教であった禅も栄西から学ぶなど、将来を嘱望されたが、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒むと、神護寺や東大寺の現状に疑問を感じ、23歳で紀伊国有田郡白上峯に遁世してしまう。早くに父母と死別した明恵は、釈迦を父として仰ぎ、自らを「如来滅後遺法御愛子」と称した。また、高山寺にある仏眼仏母尊図像にある明恵自筆の賛から、仏眼仏母尊を母として慕っていたことが分かる。仏眼仏母尊は胎蔵界曼荼羅に描かれている一尊で、大日如来の所変とされるが、菩薩や明王とも解釈されるなど明確には規定されてはいない。これを明恵は釈迦の母である摩耶夫人と受け止めていた。約3年にわたって故郷の白上峯に籠居した際、自身の憍慢を誡め純粋に仏道修行に励むことを誓い仏眼仏母尊の前で右の耳を切り落としている。明恵がこのとき詠んだ和歌が「山寺は法師くさくてゐたからず心清くば くそふく(便所のこと)にても」である。建久9年(1198)、痢病のため文覚の勧めで神護寺に戻ると、栂尾の復興を託され『探玄記』(華厳の教学)を講じている。しかし、その年の秋には 10 余名の弟子とともにふたたび白上に戻ると、さらに奥地の筏立に移っている。約8年間、この筏立を中心に紀伊国内を転々としなから修行と学問の生活を送った。ここで書いた『大方広仏華厳経中唯心観行式』には釈迦在世に後れ生まれた事を嘆きつつ、華厳の法門を知り得たことを喜びこの教えを体得したいという思いが書かれている。建仁 2年(1202) 釈迦の遺蹟巡拝を計画し、詳細な日程が書かれた『大唐天竺里程記』まで作るが、病にかかり実現しなかった。元久元年(1205) 再び渡天の計画を立てたが、叔父湯浅宗光の妻が春日明神の神託を受けたことで中止となった。この神託に従って春日社へ参拝に向かう途中、笠置寺の貞慶を訪ねている。建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山すると、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげんだ。この地には貞観年間(859-877)より「度賀尾寺」という古寺があったが荒廃しいたため、明恵はこれを改修したのである。高山寺の寺号は、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」という句によったといわれている。インドに対する思いの強さは栂尾高山寺に明恵が建立した練若台・石水院・花宮殿・羅婆坊などの菴室、縄床樹・定心石・遺跡窟・楞伽山などの施設の名称が、いずれも釈迦の遺蹟にちなんだものであることに表れている。建暦2年(1212)、法然の『選択本願念仏集』を批判した『摧邪輪』を著しており、翌年には『摧邪輪荘厳記』を著してそれを補足している。法然を批判する一方で、明恵は練若台の草庵に三宝札名号の本尊を掛けている。これは法然の念仏宗が用いた名号本尊を模したもので、中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」右に「万相荘厳金剛界心大勇猛憧智慧蔵心」左には「如那羅延固懂心如来生海不可尽心」と書き、上部には三宝の梵字を書いたものである。この本尊に対し、三時に三度ずつ一日九拝の礼拝をおこなうように定め、礼拝の度に三宝札本尊の名号を唱え「生々世々値遇頂載 生々世々皆悉具足」と称し、4つの菩提心を具足して三宝に値遇せんことを祈った。この三宝札の文言は「南無三宝菩提心現当二世所願円満」や「南無三宝後生たすけさせ給え」と唱えても同じであるとしている。明恵は、40年におよぶ観行での夢想を記録した『夢記』が有名であるが、これ以外にも著作は 70 余巻におよんでいる。華厳と密教との統一・融合をはかった明恵の仏教は、近年、華厳密教とも称されるが、宗派として独立することはなかった。

4、その他の高僧たち

明遍(1142-1224)は信西の子で、平治の乱の後、東大寺で出家し東南院(三論と真言の本拠)で三論を学ぶが、後に高野山蓮華谷に蓮華三昧院を建て念仏三昧の生涯をおくった。『法然上人行状絵図』では法然の弟子とされているが、その念仏は密教的要素の強いものであった。蓮華谷聖の祖とされ、明遍の念仏は後に高野聖として高野山の主流をなすようになる。信願房良遍(蓮阿、1194-1249)は興福寺勝願院の学僧であったが、覚盛から受戒すると生駒の竹林寺に隠棲した。法相を根幹としながら律や念仏、禅をも行じ、諸宗の統合をしようという諸宗円融の思想を持っていた。著作も貞慶に劣らない数にのぼり、理論はさらに深化したものとなっている。宗性(1201-1292)は、華厳の第一人者で、尊勝院の僧侶であった。華厳以外にも因明・倶舎・法相にも明るく千巻を超える著述をなした碩学として知られている。実相房円照(1221-1277)は、鎌倉時代中期の律宗の僧侶である。叡尊・円爾・良忠・覚盛・良遍・宗性などに師事して仏教教学を学び、三論・法相・天台・真言密教・禅など 8 宗を学んた。律学のほか、三論・倶舎・成実・法相・浄土等の宗に通暁していた。建長3年(1251)東大寺戒壇院の院主に任じられ、正嘉2年(1258)造東大寺大勧進に就任し、堂塔の復興に尽力し戒壇院の中興開山となった。文永6年(1269)には後嵯峨上皇に戒師として戒を授けている。弟子には凝然・真照など 100 人もの門弟がいたというがいる。天台も学び、南都と天台の融和を図った。示観房凝然(1240-1321)は、伊予国高橋郡の生まれで越智氏の出自とされる。建長 7年(1255) に比叡山で山門菩薩戒を受け、正嘉元年(1257) 東大寺で別受戒を受けた。さらに正元元年(1259)に実相房円照を戒師として通授戒を受けている。円照を常従の師としながら、律学を唐招提寺の円律房証玄(1220-1292)から、天台や真言を東大寺真言院の中道房聖守(1215-1291) から、華厳を宗性から学んでいる。また、20 代で、法然門下の九品寺長西(1284-1266)から善導の『観無量寿経疏』を、木幡の廻心上人真空(1204-1268)から真言を、俊芿の孫弟子浄因(1217-1271)から律学を学び、さらに孔子・老子の思想まで学んでいる。これらの知識をもとに 29 歳で書いたのが『八宗綱要』である。この書は今に至るまで各宗の基本テキストとなっている。南都焼討後の復興戒壇院第二代長老や唐招提寺長老の他、18の寺を管理していたという。51 歳の時、叡尊が 90 歳で死去した際には、その功績を顕彰するため『興正菩薩略行状』を撰述している。82歳で死去するまで、華厳と律を中心に 125 部 1200 巻余といわれ膨大な量の著作を残している。

5、仏教系神道の発展

奈良時代、日本の神々は仏教に救われる存在として扱われていたが、平安時代になるとインドを本地とする仏菩薩が日本に権に現れた(迹を垂れた)のが神々であるという、仏本神従本地垂迹説がつくられた。これは本門と迹門の区別を建てて実相を明らかにしようという法華経の教判に由来する天台教学から生まれた発想である。民間に仏教が浸透していくと同時にこの考え方も普及し、神についての名称・神得・鎮座の由来や儀礼・行事のいわれまでもが仏教の理論によって説明されるようになる。この神々の仏教化により、神像や神殿を持たなかった神社に神像や社殿がつくられるようになる。鎌倉時代になると本時垂迹理論はさらに発展し、真言系の両部神道と天台系の山王神道という神道として整理されるようになった。両部神道という名称は、足利時代に吉田神道によって名づけられたもので、このような流派があるわけではない。また、現在両部神道といわれるものは、大きく分けて二通りの解釈にわかれている。一つは、真言の金剛界・胎蔵界の両部理論によって神祇を説明するもので、鎌倉初期に書かれた『中臣祓訓解』が初見である。ここでは神を、絶対最高神としての「本覚神」(伊勢)と仏法により無明から本覚に帰す「始覚神」、仏法を聞知しない無明の邪神である「不覚神」にわけている(三神説)。もう一つの解釈は、仏教と神祇が習合した神道という意味であり、鎌倉後期に編纂されたもので『麗気記』や『鼻帰書』などが代表的なものである。三神説両部神道に分類される神道の中で、主なものに仁和寺門跡に伝えられた御流神道(仁和寺流)と、大和三輪明神に結びつけられた三輪神道(三輪流)の二つがある。三輪神道は、祖とされる慶円(1140-1223)が善女竜王あるいは三輪大明神に授けたとする「若凡若聖偈」とその因明、慶円三輪大明神が互いに灌頂を授けあったという「互為灌頂」を重視する神道である。「若凡若聖偈」は覚鑁の『五輪九字明秘密釈』に書かれている偈文で、印を結んで「バン」と唱えることで即身成仏を遂げることができるという偈文である。三輪山を神体とする大神神社の神宮寺である大御輪寺の僧侶によって唱えられた神道で、文保2年(1318)の奥書がある『三輪大神神縁起』が初見である。これによると、三輪明神の神託で「天金輪王光明遍照大日尊」の号が感得されたという。これを天・照・尊に約し、天は応身如来、照は報身如来、尊は法身如来を示し、それぞれ理・智・悲の三身と感じ、この三身即一の実が大日尊であり、この大日尊が三処の位によって垂迹し、天照大神三輪大明神伊勢神宮になったとする。三輪大明神の降臨は伊勢より先の神代であるから三輪山こそが神祇発祥の地であるとし、三輪山の北峯を胎蔵界、南峯を金剛界としている。これを大成したのは真言小野流の実篋である。西大寺第 3 世宣瑜の『三輪大明神縁起』には三輪大明神天照大神は一体であるとしてるが、これは三輪流神道とは一線を画したものである。これに対して真言広沢流からうまれたのが御流神道(仁和寺流)である。これは嵯峨天皇空海神道灌頂を授けたという伝承により、その神道灌頂を仁和寺が相伝されたというものである。この根拠となっている空海の『天地麗気記』は鎌倉時代末に偽作された書であることから、仁和寺流は三輪流の後に生れたことになる。御流神道とは一つの流派の名称ではなく、高野山や智積院などで様々な教義が展開しており、空海からの相承であるということ以外に明確な思想的中核があるわけではない。一方の山王神道は、平安末期に延暦寺の鎮守である日吉社の祭神山王神を、中国天台山の例に倣って日吉山王とし山王権現とあがめた神仏習合に始まっている。これが鎌倉後期から南北朝期にかけて集成されいくつかの書物となっていった。その中で最も後世に大きな影響を与えたのが天台僧義源によって鎌倉末期似編纂された『山家要略記』である。山王の文字が縦横に3劃と1劃とからなることから、天台の三諦即一、一心三観の理を示すとされる。この説の根拠とされる最澄(766-822)の『神道甚秘秘蔵』や、円珍(814-891)の『山王出世本懐』はいずれも後世の偽書であり、実際には鎌倉後期に成立した神祇理論である。しかし、地方神社に過ぎない日吉神社を基としていたことから広がることなく衰退してしまう。これを復活させたのが江戸期の天海(1536-1643) である。しかし、内容が大きく異なることから、天界の唱えた神道を三王一実神道と呼び区別している。これも明治時代の神仏分離により、神社内から僧侶が排除されたことで境内の仏像・仏具は撤去・破却されてしまった。これ以外の神祇論としては、本願寺存覚(1290-1373)が元享4年(1324)に著した『諸神本懐集』がある。この中で、存覚は仏・菩薩が衆生利益のために権りに「明神」の姿で示現した本時垂迹神である「権者神」と、人畜に祟りをなす邪神の「実者神」としている(二神説)。

6、神祇系神道の誕生

平安時代に入ると、熊野神社・石清水八幡宮・加茂神社・白山・富士浅間・羽黒山などで、御師と呼ばれる祈禱師が活躍し始めた。御師は祈祷以外に宿屋や参拝者の誘致などもおこなったことから、平安中期には熊野詣などの霊場巡礼が盛んになる。一方、伊勢神宮は奈良時代に国家祭祀の場として、天皇以外の奉幣は禁止されていたため(私幣禁断)、一般の参拝者を相手にする御師は生まれなかった。伊勢神宮の経済基盤は律令国家により保証され、神宮の租税を負担する戸である神戸大和国伊賀国伊勢国、志摩国、尾張国、三河国、遠江国の 7 カ国に 1130 戸を数え、収穫が伊勢神宮への御饌として献上される神田は36町1反(1町は3000坪)におよんだ。また、伊勢国の度会郡・多気郡の二評は神郡として伊勢神宮に属し、租庸調などの税は伊勢神宮に収められた。神郡は寛平年間以降、飯野郡、飯高郡、安濃郡、三重郡、朝明郡、員弁郡が追加され、8郡が伊勢神宮神郡となった。神職は、内宮では荒木田氏の一族が、外宮では度会氏の一族が禰宜を、大中臣氏が祭主を務めた。しかし、平安時代に入り、徐々に律令体制が崩壊しはじめると、神領として伊勢神宮に帰属していた諸郡は、度会・荒木田・大中臣氏御厨・御園として荘園化していくようになる。これによって経済的に維持が難しくなった伊勢神宮は、11 世紀ごろから大神宮役夫工米の制度を開始している。この制度は、権門勢家や有力寺社などを問わず、各国の荘園伊勢神宮の役夫工使が在庁官人とともに入り込み、あらゆる特権を無視して課税を行う制度である。この制度により、荘園領主たちは伊勢神宮を公家以上の権威として認識するようになった。荘園に入り込んだ神宮の役夫工使(奉幣使)の中には、度会光親や度会光倫などのように、源頼朝から信任を得て鎌倉に邸宅を持つ者も現れている。これら奉幣使の口利きで御厨や御園を神宮に寄進する者が相次ぎ、全国に多くの神宮御厨が形成され、これが伊勢神宮の新たな経済基盤となった。宮に御厨・御園が寄進されると、仲介した奉幣使は口入神主として口入料が恒常的に受け取ることができた。このため奉幣使たちが精力的に活動し、全国に信者を増やしていった。奉幣使と信者は師檀関係を結び、檀家集団を組織していく。この檀家集団を檀那株・道者株と呼び、相続売買の対象となった。これら信徒を迎えるために奉幣使伊勢に宿舎を作るようになり、御師となっていく。皇祖神である天照大神に対して食物神豊受大神は南伊勢の地方神であったことから、内宮に比べると外宮は皇室からの保護は薄かったと思われる。このため外宮の方が御厨・御園獲得に積極的であった。また、外宮の祭神豊受大神は農業神とされていたために農村を地盤とする武士に受容されやすかったこともあり、外宮の方が内宮より多くの信徒を集めていった。弘安 10 年(1311)の外宮遷宮には「遠近万邦の参宮の人、幾千万なるを知らず」(『勘仲記』)とあるほどである。このことにより、内宮と外宮の関係はこじれ、永仁4年(1296)、外宮が豊受宮の名称として「豊受皇大神宮」と「皇」の字をつけたことに対して「皇」の字は内宮のみに許されていると内宮側が抗議、元弘 2年(1332)には参詣者の幣帛を外宮が独占しているとして内宮は陳情書を提出している。中世後期になると、内宮には宇治会合、外宮には山田三方という門前町が形成されたが、この両者もしばしば紛争を引き起こすようになる。奈良時代以降、全国の神社が仏教と融合していった中で、伊勢神宮は「仏」を「中子」、「僧」を「髪長」と言い換えるなど仏教用語を使わない「忌詞」の制度があるなど仏教を忌避してきたが、神宮神官の間でも仏教信仰は高まり、祭主・大中臣永頼が長徳年間に蓮台寺を建立して以降、神宮神主も積極的に氏寺や経塚を形成するようになっていった。僧侶の間でも、伊勢信仰が全国に広がったことで神宮への関心が高まり、重源・貞慶・叡尊なども神宮に参拝している。このような時代状況の中で、内外両宮を金胎両部とみなす両部神道が生まれることになった。平安末期から鎌倉中期にかけて、この両部神道の影響受けた神道五部書が成立している。『伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『豊受皇太神宮御鎮座本紀』『造伊勢二所太神宮宝基本紀』『倭姫命世紀』の五部で、建保初年81213~4)に『造伊勢二所太神宮宝基本紀』が、文永・弘安(1264~87)の頃に他の四部が成立している。この神道では、内外両宮を日輪・月輪とし、五行説に基づいて内宮を火徳、外宮を水徳としている。また、豊受大神を天地開闢の造化神である天御中主神と同体と説くことで天照大神より上位の神と説いている。これが後に伊勢神道と呼ばれる神道である。伊勢神道の中心人物は『伊勢二所太神宮神名秘書』を表した外宮祠官の度会行忠とこれを発展させた『類聚神祇本源』『神道簡要』を著した度会家行である。神道五部書には両部神道に『老子』やその注釈書からの引用や、禅の文献などもみられることから、中国から臨済禅を学んできた禅僧たちも伊勢神道の成立に協力していたと思われる。