2024年3月 徳法寺仏教入門講座

日本仏教史23-鎌倉仏教12 朝廷権威の凋落と幕府の崩壊-

りょうとうてつりつ

1、両統迭立

両統迭立とは、二つの家系から交互に世襲君主を即位させることで、日本では、平安期に二度、鎌倉期に一度起きている。 最初の両統迭立桓武天皇(737-806)の後に起きている。桓武天皇には少なくとも二十六人の后妃¹との間に二十五人以上の子供おとむろがいた。この中で、皇后藤原乙牟漏(760-790)2を母とする安殿親王(774-824)とかみのももかわ神野親王(786-842)、藤原百川(732-779)おおともたびこ3の長女である夫人藤原旅子(759-788)を母とする大伴親王(786-840)が天皇候補として有力であった。桓武天皇の死去により、へいぜい三人の中で年長であった安殿親王が平城天皇として即位し神野親王が皇太弟となる。大同たかおか4年(809)、平城天皇は病の為に子の高岳親王(799-865)を皇太子に立てることを条件に三年足らずで退位すると、神野親王が嵯峨天皇として即位する。翌年、平城京に移り住んでいた平城太上天皇は、平城京にし自分も天皇に戻ろうとした(薬子の変 810)が失敗した。これにより高岳親王も皇太子を廃され4、代わり異母弟の大伴親王が皇太弟となる。弘仁 14 年じゅんな(823)嵯峨天皇が退位し、大伴親王が淳和天皇として即位すると、皇太子には嵯峨上皇の子正くすこまさ良親王(810-850)が立てられた。さらに、天長10年(833)に正良親王が仁明天皇として即位らつねさだにんみょうすると、今度は淳和上皇の子恒貞親王 (825-884)が皇太子に立てられた。これが嵯峨流と淳和

¹、奈良時代の大宝律令では、天皇の后妃は皇后・妃二人・夫人三人・嬪四人とされていたが、にょうごにょじゅ桓武天皇には皇后・妃・夫人四人、安御(嬪)六人、宮人十二人、女嬬多数がいた。 ²、父藤原良継(716-777)は藤原式家の祖である藤原宇合(694-737)の次男。式家は平安初期には皇室に準じる待遇を受けたが、嵯峨朝以降徐々に北家に圧倒されていった。 ³、桓武天皇擁立の功労者で藤原宇合の八男。 ⁴、この後、仏門に入ったが平城太上天皇の称号は残されている。高丘親王は出家し後に空海の弟子となり天竺を目指して入唐するが、羅越国(マレー半島の南端にあったと推定されている)あぼで死去したと伝えられている。異母兄の阿保親王(792-842)は在原行平(818-893)・業平(825-880)の父。

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流の両統迭立である。しかし、承和7年(840)に淳和上皇が死去し、承和9年(842)に嵯峨上皇が危篤に陥ると、公家たちは嵯峨派と淳和派に分裂し政権争い(承和の変) 5が起こる。これにより恒貞親王は廃位となり。皇統は嵯峨の子孫に一本化されることになった。 のりひら次に両統迭立が起こったのは村上天皇(926-967)が死去した後である。皇太子であった憲平親王(950-1011)が冷泉天皇として即位したが、精神的な疾患があったために、安和2年(969)、もろさだれいぜいもりひら子の師貞親王(968-1008)が成人するまでの“中継ぎ”の天皇(一代主)として弟の守平親王(959-991)が円融天皇として即位した。永観 2年(984)、円融天皇が退位すると師貞親王は花山天皇に即位したが、一代主であったはずの円融天皇の子懐仁親王(980-1011)が皇太子に立てざんやすひとおきさだられた。花山天皇には皇子がいなかったことから、次の皇太子には花山天皇の弟居貞親王(976-1017)がなることになった。ここに冷泉流と円融流による両統迭立の状況が出現した。この後、藤原道長(966-1028)が権力を握ると、居貞親王が即位した三条天皇を最後に、両統迭立は円融の子孫に一本化されることとなる。なお、後一条天皇(1008-1036)から後朱雀天皇(1009-1045)、後冷泉天皇(1025-1068)から後三条天皇(1034-1073)と、その後も兄弟間の皇位継承が行われたが、いずれも兄に皇子が生まれなかったことによって両統迭立は回避されている。 日本で最期の両統迭立が起こったのが鎌倉後期であひさひとつねひとる。後嵯峨天皇(1220-1272) は寛元 4年(1246)に四歳であった久仁親王(1243-1304)を後深草天皇として即位させると院政を始めた。そして、正元元年(1259)に十七歳になった後深草天皇を退位させると、十一歳の同母弟恒仁親王(1249-1305)を亀山天皇として即位させている。この後深草上皇・亀山天皇の並立状態の時に院政を敷いていた後嵯峨上皇のことを「治天の君」と呼ぶようになる。治天は事実上の朝廷君主としての権限を持っていた。文永5年(1268)、後嵯峨上皇は、後深草天皇の子熙仁親王(1265-1317、四歳)ではなく亀山天皇の子世仁親王(1267-1324、二歳)を皇太子とすることで、亀山天皇の子孫に皇統を伝える意図を示した。しかし、文永 9 年(1272)、正式な後継者を指名せず、次の天皇は鎌倉ひろひと幕府の意向に従って決めるようにという遺志を示して後嵯峨上皇が死去してしまう。後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ自身が天皇になることを望んだため、裁定は遺言通り幕府に持ち込まれた。幕府は、後深草と亀山の母大宮院(1225-1292、西園寺姑子)に後嵯峨上皇の真意を確認した結きっし

⁵、謀反の疑いで恒貞親王に仕えていた公家たちが大量に処分された。これにより大伴氏・橘氏 は力をそがれ藤原氏一強となる。代わって道康親王(827-858,文徳天皇)を皇太子とした藤原良房(804-872)は人臣最初の摂政・太政大臣となっている。、 ⁶、出家し恒寂入道親王となり大覚寺の初祖となっている。

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果、亀山天皇がそのまま在位することになった。文永11年(1274)、世仁を後宇多天皇に即位させると亀山上皇が治天となった。不満を募らせていた後深草上皇に対して、幕府は熙仁親王を皇太子とし、後深草上皇が次の治天となることを保証した。これは、北条得宗家と朝廷の交渉をもうしつぎさねかね仲介する立場にある関東申次西園寺実兼(1249-1322)が後深草父子に肩入れしたためでであるといわれている。これにより、後深草天皇系と亀山天皇系の両系が治天と天皇の資格を有することとなった。

2、徳政の施行から両統迭立の成立

弘安9年(1286)、亀山上皇は院評定を徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)と雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)に分割して朝廷の訴訟処理機構の整備を進めるとともに、公家社会のマナーに関する「弘安礼節」を制定するなど朝廷の求心力回復に努め た(弘安徳政)。正応 6 年(1293)、伏見天皇は後嵯峨上皇が再建した荘園の調査機関である記録所を徳政推進のため、さらに充実させている(永仁徳政)。ここでいう徳政とは、朝廷の信頼を回復させるために行なった現実的な政策の事である。世論の支持を得ることによって、亀山上皇と伏見天皇は天皇継承争いで優位に立とうとしたのである。 しもつきしかし、弘安8年(1285)、亀山上皇と親しかった鎌倉幕府の安達泰盛平頼綱らによるクーデター(霜月騒動)により殺害されてると、弘安 10 年(1287)、幕府は治天・天皇の交替を要求し、熙仁親王が伏見天皇に即位し後深草上皇が治天となった。正応 2年(1289)には伏見の子胤仁親王(1288-1336、2歳)が皇太子に立てられ、さらに同年後深草の子久明親王(1276-1328)が鎌倉幕府第八代征夷大将軍10として幕府に迎えられたことで、後深草上皇の系統が優位に立つことになる。正応3年(1290)、後深草上皇が出家(48歳)すると伏見天皇が治天を兼務した。治天となった伏見天皇は、亀山上皇が行った訴訟処理機構をさらに拡充し、家柄にとらわれない人材登用も積極的に取り入れ民心の掌握に努めた。永仁 6年(1298)、伏見天皇が譲位し、胤仁親王(10歳)が後伏見天皇に即位すると、次の皇太子の人選をめぐって亀山上皇らの巻き返しが起こ

⁷、臨済僧無関普門(大明国師)に帰依し南禅寺を勅願し、また、真言律宗叡尊 にも深く帰依するなど、新興仏教を保護した。 ⁸、書札礼・院中礼・路頭礼に分かれる。書札礼は近世に至るまで公家社会で重んじられた。 ⁹、弘安8年(1285)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。九代執権北条貞時の外戚で有力御家人 であった安達泰盛が進めた改革・弘安徳政に反対していた平頼綱らが、安達泰盛とその一族郎党 を滅ぼした。騒動はさらに関東九州を中心に広がり、幕府を二分する大規模な内乱となった。 ¹⁰、二十二首が『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など八つの勅撰集に入集してい る。延慶元年(1308)貞時によって将軍職を廃されると、に送還されて出家した。

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り、後宇多天皇の子邦治親王(1285-1308)が指名された。正安3年(1301)、幕府は治天・天皇の交替を要求し、邦治親王が後二条天皇、後宇多上皇が治天となった。両統迭立が鎌倉幕府の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。 両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は後深草上皇の系統から出すことなっていたが、十三歳の後伏見にはまとみひとだ皇子がいなかったため、伏見上皇の子富仁親王(1297-1348、五歳)を後伏見の猶子とすることで皇太子としている。一方の亀山上皇の系統では、後二条天皇の子である邦良親王(1300-1326)11が次の皇太子に決まっていたにも関わらず、亀山上皇が自分の子である恒明親王(1303-1351) 12を邦良に代えて皇太子にするこあきくによしつねとを後宇多上皇と伏見上皇に約束させたことでて、さらなる皇統分裂の種を蒔くこととなった。 嘉元2年(1304)に後深草が六十二歳で死去、翌嘉元3年(1305)には亀山が五十七歳で死去したことで、両統迭立は第二世代に入った。それに先立つ正安4年(1302年)、伏見上皇は2年前に死去した室町院13より相続した持明院を新たな御所とし、後宇多上皇は徳治 3 年(1308)に大覚寺を再興して自らの御所としたことで、それぞれの系統は「持明院統」「大覚寺統」と呼ばれ ることになる。 徳治3年(1308)に後二条(二十四歳)が急死したため、十二歳の富仁親王が花園天皇として即位し伏見上皇が治天となる。この時、後宇多上皇は皇太子として亀山上皇と約束していた恒明親王でも孫邦良親王(九歳)でもなく自分の子である尊治親王(1288-1339、二十一歳)を選んだため問題がさらに複雑なものになる。 たかはる正和5年(1316)、倒幕の噂を立てられた治天伏見上皇が幕府に告文を提出して潔白を訴える一方、大覚寺統は治天と天皇の交替を求めてきた。対応に苦しんだ幕府は、文保元年(1317)、次回の皇位継承については両統の協議により決定し、特使の派遣はやめるように指示した。これを受けて行われた協議で、後宇多は次の皇太子に邦良親王を立てることを求めたが、伏見上皇は後伏見の子量仁親王(1313-1364,5歳)を立てることを求めたため決裂した。しかし、この年、伏見上皇が 53 歳で死去したことで後伏見上皇は後宇多上皇の要求に逆らえなくなり、翌文保2年かずひと(1318)には尊治親王が後醍醐天皇として即位し、邦良親王(十九歳)が皇太子となった。これ

¹¹、叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく死去した。 ¹²、幕府は大覚寺統の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には同意しなかった。 きし¹³、暉子内親王(1228-1300)。後堀河天皇(1212-1234)の第一皇女。生涯独身であったのに 女院となった唯一の内親王。祖母北白河院(1173-1238)や、伯母の式乾門院(1197-1251)と 安嘉門院(1209-1283)から膨大な荘園を継承した。この荘園の権利を亀山上皇と伏見上皇がそ れぞれ主張し紛争が続いた。正安4年(1302)に幕府は亀山法皇に五十三ヶ所、伏見上皇に七十 五ヶ所の荘園を分ける裁許をしたが、この後も互いに異議を主張続けている。

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両統迭立が破られたように見えるが、後宇多上皇は後醍醐天皇を邦良親王までの“中継ぎ”とした考えていなかったようで、次の皇太子には量仁親王を立てることを後伏見上皇に約束している。このことを持明院統も了解していたことが、後醍醐天皇を「一代主」と表現していることからも分かる。治天となった後宇多上皇は体調を崩したことで、元亨元年(1321)に治天を後醍醐天皇に譲ると、元亨 4年(1324)には五十八歳で死去している。ここで、両統迭立は第三世代を迎える。 両統迭立の影響は芸能面にも見られる。平安時代、笛が天皇必須の孝養とされてきたが、後鳥羽天皇が琵琶を愛好して以降、琵琶が天皇の教養とされてきたため後深草上皇も琵琶を習得していたが、亀山は旧来の笛を重んじたため、持明院統の天皇は琵琶を、大覚寺統の天皇は笛を必須の楽器とするようになった。それでも、後深草・亀山の存命中は亀山が朗詠や蹴鞠を後伏見に伝授したり、管弦の会で両統の天皇や院が共演して演奏したりする交流の機会もあったが、両院の没後はそのような機会も減少していった。

3、鎌倉幕府の弱体化

永仁5年(1297)、朝廷と並行して鎌倉幕府でも徳政が施行される。これは徳政令としては日本で最初とされ、関東御徳政、関東御事書法とも呼ばれている。ただし、九代執権・北条貞時(1284-1301)によって発令されたこの徳政は、朝廷のものとは目的も内容も全く違うものであった。この徳政令の正確な条文はわかっていないが、教王護国寺(東寺)に伝わる『東寺百合文書』14から、次の様な内容であったことが推測されている。 ひゃくごう(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。 (2)今後、御家人所領の売買及び質入れを禁止し、既に売却・質流れした所領は元の領主に返却される。ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は対象とはならない。 (3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。 当時、恩賞の伴わない元寇戦役や国内治安維持のための派兵に伴う経費負担に耐えられず、多くの御家人が所領を売却し失っていったことが社会問題化していた。この徳政令は、御家人所領の質入れや売買を禁止するとともに、これまでに失った所領を無償で取り戻すことができるというものである。この法令により所領を取り戻したのは御家人に止まらず、庶民も自身の売却地を取り戻している。永仁6年(1298)には(1)と(2)の所領の売買と質入れに関しては廃止され

¹⁴、東寺の宝蔵に伝わった文書群で国宝に指定されている。江戸時代に入るまでは、革袋や様々 な箱に入れられて保管されていたが、貞享2年(1685) に加賀藩藩主前田綱紀が書写を行った際 に謝礼として、目録を作成し桐箱百合(実際には九十三)を製作・収納して東寺に返還した。

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たが、(2)の所領の返還は再確認されており、所領の取り戻しはこれ以降にも多く見られる。この政策は、幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めることを目的にしたものであったが、御家人の凋落は戦費の負担だけが原因ではなかった。 鎌倉幕府の草創期には戦乱が続いたことで御家人に所領が再分配されていたが、得宗専制が完成して政治的に安定すると国内での戦乱がなくなり御家人が所領を得る機会が無くなってしまった。御家人は分割相続が基本であったため中小御家人は零細化してしまい、惣領・庶子への分割相続から惣領のみへの単独相続へと移行せざるを得なくなった。これにより、庶子である御家人は生活基盤を持つことができなくなったのであ る。 加えて、平清盛によって推奨された宋銭15が急速に浸透していった。鎌倉時代初期には、多くの地域で物々交換が一般的であったが、大型の貿易船宋や朝鮮、琉球、蝦夷との商取引が激増し貿易船により日本各地に物資が送られるようになると、全国で貨幣による取引が行われるようになる。たとえば、宋銭が出土している遺跡としては、山口市大内で61万枚、函館市志海苔で40万枚、新潟県湯沢町石白で27万枚、長野県中野町田麦で15万枚、宝塚市堂坂で10万枚が知られている。

これにより、身分が低く土地を所有していない者の中にも、商いにより財を成した「有徳人」とよばれる富裕層や、土倉という金融業者が現れてきた。それまで世襲で決められてきた身分という価値観が、貨幣価値という明確な価値により揺るがされていったのである。これに危機感を持った朝廷は銭貨の流通を禁止し、幕府も一部の地域での銅銭の使用を禁止したが効果はなく、全国各地に市場ができ、年貢も銭で荘園領主に送るようになっていった(代銭納)。このような社会的変化は徳政令では止めることは出来ないものであった。

¹⁵、宋代に鋳造された貨幣である銅銭。歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造した ため、宋元通宝・太平通宝・淳化元宝・至道元宝・咸平元宝・景徳元宝・祥符元宝・皇宋通宝・ 元豊通宝など数十種類がある。ほぼ全アジアで流通していた。

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また、両統迭立の定着により公家たちはどちらか一方の皇統派閥に属するようになり、それぞれの皇統も自分の派閥に属する公家たちを優先的に登用するようになっていった。このため、皇統が変わる度に朝廷内の高官・要職が一斉に入れ換えられ、前の系統の時に下された訴訟の判決が覆されるという混乱が生じてきた。当時は現代のような統一された法律は整備されておらず、地域・階級・職業ごとに異なる法を持っていた。このため、朝廷に持ち込まれた訴えの判決基準も明確なものはなかった。一族間の提訴で敗訴した側は討伐の対象となることさえあったが、これに対して敗訴した側は武力で抵抗した。この判決が皇統が変わると覆され、勝訴側が今度は討伐される側になったのである。この時、実際に討伐を行うのは武力を持っていた幕府の六波羅探題であったことから、訴訟当事者たちの怒りが六波羅探題や幕府に向けられることになった。また、訴訟当事者の中に御家人がいても六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することはしなかったため、御家人も幕府への不信を募らせる結果となった。

4、悪党の台頭

元々武士とは、荘園領主から現地での管理を下請けしていた在地領主の呼称であったが、荘園管理という枠を超えて支配地域を拡大させていった武士の勢力があらわれた。彼ら武装集団は今までの秩序を崩壊させる存在とみなされたことて「悪党」と称されるようになった。 荘園支配を崩壊させていった「悪党」の他にも、蝦夷や、海賊的活動を行う海民、諸国を旅する芸能民、遊行僧などの支配体系の外部にいる人々も「悪党」と呼ばれた。 網野善彦氏は、これらの「悪党」が13 世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説いた。彼ら漂泊的な「悪党」の中から、各地を往来しながら年貢物資などの交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積した「有徳人」が生まれてきた。 弘安年間(1278-1288)になると、支配体系外部の者のみを「悪党」と呼ぶ状況に変化が生じてくる。一部の在地領主たちは荘園領主に反抗して土地の支配権を既成事実化していったが、これに対抗するために荘園領主は在地領主に対して支配強化に乗り出した。このため、荘園領主と在地領主との間で所領扮装頻発することになる。これにより、荘園領主と対立した在地領主も「悪党」と呼ばれるようになったのである。また、所領を失った御家人や単独相続により相続できなかった御家人(無足御家人)の一部が、領主の統治を妨害し始めたことから「悪党」と呼ばれるようになる。これ以降、御家人にも「悪党」という言葉が適応されるようになった。 13 世紀後半以降「悪党」が畿内・東北・九州などで活発に活動し始めたことで支配体系が流動化してきたため、幕府は悪党鎮圧への具体的な取り組み始めた。まず荘園領主が朝廷へ訴えを起こし、朝廷の召喚に被告人(=悪党)が応じない場合は、違勅があったとして朝廷から幕府へ検断を命じる。これを受けた幕府は御家人二人を使節に任じた(両使)。両使は荘園へ入り調査する権

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限が与えられた。悪党追捕のために始まったこの手続きは、朝廷に持ち込まれた寺社権門間の雑訴沙汰(所領訴訟)においても採用され、更には室町時代の使節遵行権の根源となっている。 だが、朝廷と協力して治安維持にあたるという方針の建前上、被告人が御家人でなおかつ正当な主張があったとしても「悪党」と認定されてしまうと、御家人は幕府から保護を受けることができず、御家人の幕府への信頼が揺るぐことにもつながった。 鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成(河内国)、赤松則村(播磨国)、名和長年(伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、いずれも「悪党」と呼ばれた人々であった。

5、正中の変

治天を兼務した後醍醐天皇は、これまで歴代の治天が進めてきた訴訟処理機構を整備し、有為な人材の登用を行うなど従来の治天の政策を推し進めるとともに、貨幣の普及により盛んになった流通経済に対する新たな取り組みも始めている。「洛中酒鑪役賦課令」により、それまで寺社に従属していた酒屋を朝廷の管理下に置き課税じにんくじちょうじれいしようとした。「神人公事停止令」は神社に隷属していた商工業者を天皇の管理下で「供御人」として組織し活性化させようというものである。「諸国新関停止令」は荘園領主や寺社が各地の交通の要地に次々と席所を設けて通行料を徴収していたのを止めるというものである。こしゅじぐちせんこれ以外にも「沽酒法」(米価・酒価公定令)、洛中への地口銭賦課16などを発して、朝廷権力基盤の強化を目指した。しかし、これらの政策は既得権を侵害される公家や大寺社からの抵抗にあい、さらに持明院統の公家たちだけではなく大覚寺統の公家たちも「一代主」でしかない後醍醐天皇ではなく邦良皇太子に仕えていたため協力を得られず、充分な成果を挙げることはできなかった。後醍醐天皇に仕えたのは、学問や芸能などを通じて個人的な繋がりのあった者や低い家格の家系の出身者に限られていたのである。 この様な状況の中で、元亨4年(1324)6月に後宇多が死去すると、その3か月後、日野資朝(1290-1332)と日野俊基(?-1332)が、鎌倉幕府に対して討幕を計画したとされる事件(正中の変)が起こる。この事件に関しては、従来『太平記』17を資料として後しょうちゅう

¹⁶、都・奈良などで, 土地の間口の大きさに応じて 賦課された課税。 ¹⁷、南北朝時代を中心に文保2年(1318)から・貞治6年(1368)頃までの約50年間)を書かれた「日本の歴史文学の中では最長の作品」とされる四十巻からなる軍記物語。作者と成立時期は不詳。

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醍醐天皇による討幕計画の失敗とされてきたが、近年、持明院統もしくは邦良親王派が後醍醐を陥れるための冤罪事件である可能性も指摘されている。 きよりかずとしゆき事件の発端は、土岐頼員という武士が、妻の父である斎藤俊幸(『太平記』では斎藤利行)に、自分が多治見国長という武幕府の最高権力者。士から討幕計画に誘われており、その国長を討幕計画に誘ったのは後醍醐天皇側近の日野資朝であり、自分も後醍醐から討幕の命を受けたと打ち明けたことに始まる。 9月23日の北野祭の騒ぎに乗じて六波羅探題を攻略し、そこに延暦寺興福寺の衆徒が宇治・勢多を占拠して、近国の武士を集め、その指揮を日野資朝日野俊基が執るという計画だという内容であった。斎藤俊幸からの情報を受けた六波羅探題は、9 月 19 日朝、多治見国長と土岐賴有(『太平記』では土枝氏嫡流の頼貞となっているが、頼貞はこの後足利幕府のもとで美濃国守護となっている)に出頭命令を出したが、二人はこれを拒否したため合戦となり、両者は自害してい る。同日、日野資朝日野俊基は幕府の取り調べ要請に素直に応じて出頭しているが特に咎めは受けていない。間もなく後醍醐天皇は無罪となるが、日野資朝日野俊基無礼講18 という身分秩序を無視した茶会を開いたことを口実に鎌倉へ護送され取り調べが続いた。これに対して後醍醐天皇は幕府に対して真犯人を探し出せという命令文を送っている。年が明けた正中2年(1325)1月には、後醍醐天皇と皇太子邦良親王はたびたび使者を鎌倉に送っている。これを世人は「競馬」と呼んでいたと花園上皇は批判している(『花園天皇日記』)。もっとも、花園上皇が属する持明院統の後伏見上皇も、政争に勝利するために使者を走らせていた。閏1月7日の『花園天皇日 記』によると、幕府は日野資朝日野俊基の討幕計画は完全な冤罪であるが、日野資朝は佐渡国に配流するという奇妙な内容の仮決定をしたという。これに対して、当時幕府の事実上の最高権力者であった長崎円喜(高綱)が、資朝の有罪を強硬に主張したため、同年2月9日、俊基は疑わしい点もあるものの証拠不十分で無罪、資朝は「疑わしいことが全くない訳でもない」(『花園天皇日記』)という曖昧な結論が下され佐渡流刑ということになった。こうして、事件の真相は解明されないまま正中の変は幕を閉じた。 正中4年(1326)、後醍醐天皇を早期に譲位させるようたびたび幕府に請願していた皇太子邦良親王が二十七歳で死去してしまう。代わりの皇太子の座を巡って、次の皇太子に予定されていた持明院統の量仁親王のほかに、後二条が死去した際に立太子の機会を逸した恒明親王、邦良の同母弟邦省親王、後醍醐の子尊良親王らが争うことになるが、最終的には幕府の裁定で予定通り量仁親王(十四歳)が皇太子に指名された。邦良親王も幼い男子を遺していたことで、後醍醐天皇の「一代主」としての立場はより明確なものになった。

¹⁸、地位や身分の上下を取り払い楽しむという趣旨の宴会。無礼講の概念そのものは、日本では 古代からあったと考えられるが、具体的に「無礼講」という名称が用いられたのはこれが史料上 の初見である。

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6、元弘の乱と鎌倉幕府の滅亡

元徳3年4月29日(1331年6月5日)、後醍醐の側近で ある「後の三房」19の一人吉田定房が、六波羅探題へ後醍醐大たかさだ。天皇の討幕計画を密告した。鎌倉幕府は長崎高貞20らが追討使としとして派遣され取り調べが行われた。日野俊基と律僧の文観と円観が捉えられ鎌倉に送られ、日野俊基と佐渡に流罪となっていた日野資朝は死罪、文観と円観は流罪となったが、後醍醐天皇は罪に問われなかった。これで終わるかと思われたが、後醍醐天皇はその 3か月後、「元弘」へ改元すると(幕府・持明院統は認めず)都を脱出して等よしそんうんほつ良親王(1306?-1337)と尊雲法親王(1308-1335、後のもりよし護良親王)と共に笠置寺に籠ると幕府に反旗を翻した。播磨、和泉、河内で商業等に携わっていた武士の楠木正成(1294-1336)や桜山茲俊(?-1332)などもこれに呼応して挙兵したため六波羅探題だけでは手に負えず、鎌倉から大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏らがおくられた。これによ り後醍醐天皇と尊良親王は捕縛され桜山茲俊は自害して果てたが、尊雲法親王と楠正成は逃げ延びている。後醍醐天皇は退位を強制され、皇太子の量仁親王が光厳天皇として即位し、後醍醐天皇隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流罪となった。元弘 2年/元徳4年(1332)4月10日には幕府は事態の終結を公式に宣言している。ここまでを「元弘の変」と呼び「元弘の乱」に含まれる一事件であるとされている。 光厳天皇の即位とともに後伏見上皇が治天となった。皇太子には、両統迭立を守り後醍醐の冷遇のもとで十二歳になるまで元服もできず、正式な命名もされていなかった邦良親王の子を康仁親王(1320-1355) に即位させ指名された。 ところが同年末、楠木正成が河内国金剛山千早城で挙兵すると、護良親王吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。これに対し幕府は再び大軍を差し向け、河内、大和、紀伊の三方面から攻撃を仕掛け、平野将監入道と正成の弟楠木正季らが守る上赤坂城を降伏させると、吉野護良親王も打ち破ったが、護良親王高野山へ逃れている。しかし、最後の拠点となった千早城の楠木軍は90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜き陥落しなかった。幕府軍が千早城を落とせず

¹⁹、平安時代の白河天皇に仕えた、3人の賢臣(藤原伊房・大江匡房・藤原為房)が、「三房」と 称されたことにちなんで、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後宇多天皇後醍醐天皇の側 近として仕えた、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指す。それぞれが独自に高度な学 問的知識と政治思想の持ち主でたびたび主君に諫言を行った。吉田定房は武力蜂起に反対し鎌倉 幕府に密告したが、最後まで後醍醐を支えて生涯を終えている。 ²⁰、北条得宗家の内管領として権力を振るった長崎円喜の子。

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にいるとの報が全国に伝わると、播磨国では赤松法村(円心)が挙兵し討幕勢力を糾合しながら都へ進撃していった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は伯耆国の海賊名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆せんじょうさん国の船上山21に入ると隠岐守佐々木氏を破り、倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。幕府は船上山に向 けて足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しか し、4月27日には名越高家が赤松則村に討たれると、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻し、各地の有力領主に加勢を催促する書状を送った。六波羅探題の北条仲時、北条時益は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らと六波羅に籠城し鎌倉からの援軍を待ったが、5月7日、足利高氏は佐々木道誉、千種忠顕、赤松則村らと共に六波羅探題を攻め落とし都を制圧した。退却した北条仲時、北条時益、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らは二千人の軍と共に関東を目指したが落ち武者狩りに襲われた。北条時益は四宮河原あたりで討たれ、北条仲時も近江国の番場蓮華寺で自刃、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らも捕らえられた。これを伯耆国で知った後醍醐天皇は、元徳3年に自分が廃位された事実自体を否定し、隠岐に配流されていた間も自分はずっと天皇に在位していたことを宣言し、光厳天皇の即位と在位はなかったことにされた。光厳天皇には上皇の称号と待遇が与えられたが、これも皇太子の地位を辞退したことに対する褒賞であることとして、将来治天として政務を執る資格は与えられなかった。当然、正慶という年号もなかったことになり、元弘の乱以後の朝廷の政治的行為もすべて取り消された。皇太子の康仁親王は廃され、親王の称号も奪われた。 5月8日、新田義貞上野国生品明神で討幕の兵を挙げた。足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、新田軍は数万規模に膨れ上がったという。御家人らの離反も相次ぎ、執権北条守時(第十六代執権)や北条基時(第十三代執権)ら幕府要人が戦死・自害した市街戦ののち、生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や北条貞顕(第十五代執権)ら幕府の中枢の諸人総計八百余人は5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害し、鎌倉幕府は滅亡してしまう(東勝寺合戦)。 同じ頃、鎮西探題北条英時も、尊良親王、少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻められて 5月25日に博多で自刃し鎮西探題が攻略され、鎌倉幕府の勢力は一掃された。 6月5日、後醍醐天皇都へ凱旋し建武の新政を開始した。翌元弘4年(1334)には後醍醐の子恒良親王(12歳)が皇太子に立てられ、ここに持明院統の皇統としての地位は完全に否定され、3世代、50年以上にわたった両統迭立は終焉した。

²¹、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高 687 メートルの山。頂部は広くなだらかだが、その周囲は急 峻な斜面となっていて、特に東側斜面には溶岩が冷え固まって形成された険しい断崖が数キロに わたって連なり、「屏風岩」と呼ばれている。

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