2024年7月 徳法寺仏教入門講

日本仏教史25-足利仏教2 応仁の乱の誘引-

1、技術革新と商業の発達

この時代、鎌倉時代にもたらされた二毛作が普及し、畿内では米・麦に加えソバも生産する三毛作も行われるようになる。これを可にしたのは、肥料として従来の刈敷・草木灰に加え、下肥や厩肥が広く使われるようになったこと、稲だけでも早稲・中稲・晩稲と各地の環境に合わせた品種が使い分けられるようになったこと、味は落ちるものの日照りや虫害に強い外来種「大唐米(赤米)」が庶民の食用米として普及したこと、鉄製の鍬・鋤・鎌や農耕用の牛馬が手に入りやすくなったことが挙げられる。食料の生産量が十分になったことで、カラムシ、真綿、木綿(木棉)、エゴマなどの原料作物や、桑・楮・漆のような商品作物も多く作れるようになり、簾、蓆、油、素麺などが商品として流通するようになった。水産業でも海底に大きな網を沈める「地引網」や帯状の網を魚の通路に張る「刺網」が行われるようになったため、漁業権という概念が発生した。製塩業では従来の「揚浜法」に加え、潮の満ち引きを利用して海水を引き入れる「古式入浜法」も行われるようになり生産量が増えている。「犬鋸」という二人引きの大のこぎ

カラムシ

14 世紀にイギリスのジョン・マンデヴィルが描いた木綿の想像図

1、人間の糞尿を腐熟させ、肥料としたもの。

2、南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古くから植物繊維をとるために栽培されていた。現在、本州では、福島県会津地方の昭和村が唯一の産地であり、国の重要無形文化財に指定されている新潟県の小千谷縮・越後上布の原料とされている。沖縄県の宮古島では、栽培から宮古上布の織布までの行程が一貫して行われている。また、こどもの文化として、葉を服にくっつける遊びや、片手に葉を乗せて強く叩き、破裂音とともに葉を破く遊びがある。

3、絹の一種で蚕の繭を煮た物を引き伸ばして綿にした物。

4、摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿。紀元前6千年頃からメキシコで、6世紀紀元前5千年紀頃にはインド亜大陸で栽培が始まっている。日本へは延暦18年(799) 三河国に漂着した崑崙人によってもたらされ栽培が開始されたがうまくいかなかった。この後、や朝鮮からの輸入品しかなっかったことから高級品であった。日本で本格的に栽培されるのは織豊時代になってから。当初は三河の特産品であったが、江戸時代になると大阪付近で生産が盛んになった。木綿問屋も形成され、綿を染める染料の藍や綿花栽培に欠かせない肥料となる干鰯や練粕製造などの関連産業も盛んとなった。治期と戦後に生産量世界一となったが、現在国内生産は0%。世界で生産されている木綿の 89.9%はメキシコ原産種である。

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連雀商人

振売

大原女

桂女

りが普及したことで製材技術が高まり、林業も発達していった。畿内を中心に登場した手工業者は、寺社などを本所とする同業組合の「」を結び、幕府などにも税を納めたことで、その地域の流通から販売までを独占した。は全国に広がり、地域の特徴を活かした和紙・陶器・酒・織物などの特産品が生まれた。特に備前国の長船や美濃国の関などで大量に生産された刀剣は国内だけではなく日貿易の輸出品にもなった。鎌倉時代には月3回開かれる「三斎市」が主流であったが、足利時代になると月6回開かれる「六斎市」が広がっていった。都市部では、屋内に商品を並べる「見世棚」を構えた常設の商店も増えていった。商人たちもを結成し、朝廷と結びついた商人は「供御人」寺社を本所とした商人は「神人」と呼ばれた。いずれも販売独占権や関銭(関所の通行税)の免除などの特権を持っていた。京都の米場や淀の魚市のように特定の商品を扱う市も登場した。連雀商人や振売『などの行商人も増加した。京都の大原女や桂女など女性の行商人も多かった。

2、戦乱による社会の変化

鎌倉時代初期には、公領(国衙領)や、荘園のうち天皇家・公家・寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかっが、徐々に武家の統治機構である守護地頭に属する武士が年貢の取り立てを請け負うようになっていた。観応3年(1352)、足利尊氏は一

5、酒では、柳酒(京都)・天野酒(河内)・菩提山(大和)・灘(摂津)など。和紙では、美濃紙(美濃)・杉原紙(播磨)・鳥の子紙(越前)など。織物では、西陣織(京都)・加賀絹(加賀)・絹織物(丹後)など。陶器では、美濃焼(美濃)・古瀬戸(尾張)など。他に鍬(出雲)・輪島塗(登)・釜(筑前)。鍋(河内)などがあった。

6、連雀と呼ばれる背負い運搬具に商品をくくりつけて売り歩く商人。

7、手持ちの商品の名前を呼びながら売り歩く商人。

8、薪などを頭に乗せて販売した。

9、桂川の鮎などを販売した。

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部地域の守護職に対して、戦費調達のために1年間限定で国内の荘園・公領からの年貢の半分を取り立てることができるという「半済令」10を出した。南北朝の争いが長期化すると、各地の守護職がこれの適応を申請し、それが常態化していった。さらに、応安元年(1368)、土地そのものの分割を許可する「応安の半済令」11が足利義満により出され守護による所領化が進んだ。また、鎌倉時代から守護の権限であった謀反人や殺害人の検断に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となったことで、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。荘園領主も国司が行っていた年貢の徴収を守護職に委託する「守護請」をするようになり、守護職は軍事司令官から地域領主へと変化していく。これを「守護領国制」といいう。守護は分散した所領を売却・交換して一箇所にまとめることで所領の一円化を行うようになる。これにより、南北朝合一時には全国の国衙領がほとんど消失してしまった。荘園も 2 世紀後に秀吉が行う太閤検地によって完全に無くなることになる。さらに守護は国内の武士と主従関係を結ぶことで守護大名と呼ばれるようになった。ただし、南北朝時代守護職が頻繁に交代しており、守護職のまま南北時代を乗り越えることができたのは斯波氏・細川氏・畠山氏・一色氏・今川氏・渋川氏の6氏のみであった。

この様な戦乱は、庶民の生活にも変化をもたらした。それまでは、荘園や公領で農作業に従事していればよかったのだが、自分たちの安全を守るために自然発生的に村を形成するようになったのである。この様な村を「惣村」といい、惣村がいくつか集まったものを「惣荘」「惣郷」という。ただし、自然発生的なものであったため、その性格は地域によって異なっている。近畿地方では、荘園や公領の枠を超えて複数の惣村が連合して「写郷」と呼ばれる強力な横断組織を作っていった。他方、東北・関東・九州地方では、荘園や郷を単位とした緩やかな結びつきの村を作っていったので、惣村ではなく「郷村」とも呼ばれている。

惣村の中心となったのは、鎌倉時代地頭職の武士たちが土着し在地領主となった国人や名主とよばれた上級農民であった。かれらは、村の鎮守を核にした武家や公家から自立した組織「宮」を組織して「寄合」をもった。寄合では、乙名・沙汰人・番頭などと呼ばれる指導者の選定や、農業に必要な山や野原などの共同利用地や農業用水の管理運営などを行った他、荘園領主などに納める年貢も惣村が請け負う「地下請」が広まり、個々の村民の年貢割合を惣村が決めるようになる。村ごとに「惣掟」と呼ばれる法も定められていった。また、村内で起きた事件についても違反者や犯罪者を独自に取り締まる警察権「地下検断」を持ち、罰金や追放、盗みに関しては死刑も執り行われている。団結力を持つようになった惣村は、不当な要求を行う代官・荘官などに対して「一揆(志を同じくする人々によって結ばれた集団)」を形成し、領主に百姓申状を手渡す「愁訴」や大挙して押しかける「強訴」さらに全員で耕作放棄し逃げ出す「逃散」などを行

10、元々は年貢の半分を免除する令を指していたが、これ以降、守護が軍費・兵糧を現地調達するために、荘園・公領の年貢の半分を守護に預け置くことを認めるという内容になる。

11、寺社本所領事、応安大法ともいう。天皇・院・摂関家の所領及び寺社を本所とし一元的に支配している土地(一円知行地)に対する半済は撤廃し年貢の完納を命じる一方、それ以外の荘園などは守護などの武家が事実上の押領を行うこととなった。これにより、本所は年貢を受け取ることは出来なくなるため、天皇の勅許という形を取ることで本所による抵抗を封じ込めた。

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うようになる。惣村の指導者層からは守護大名や国人の家臣となり侍となるものも現れ始める。この様な侍を「地侍」という。庶民が武装し始めたことで、一揆も大規模な反乱へとなっていった。一揆には大きく2つに分けられている。

一つは債務放棄を求める「徳政一揆」である。応永27年(1420)と翌応永28年には、異常気象によって大飢饉が勃発し、正長元年(1428)にも飢饉や疫病が発生していた。さらに足利義持(1386 - 1428)から足利義教(1394 - 1441)への代替わりや称光天皇(1401-1428)の死去により35年続いた応永から正長への改元は、米などの農産物の物価上昇によって借金返済に苦慮していた庶民に徳政令を期待させたのである。正長元年(1428)8月、近江で起こった日本初の徳政一揆は 9 月には京都醍醐に飛び火するが幕府の鎮

正長の徳政一揆(石山寺縁起絵巻)

圧によって一旦収まった。しかし、11 月、北野社を本所とする麹と争っていた延暦寺を本所とする近江の馬借たちが、麹による麹製造の独占を止めさせるために北野社を襲おうとしたが幕府軍によって阻止されてしまう。そこで、延暦寺を本所としていた酒屋や土倉を襲い債務を破棄させようとしたのである。これが成功したため、馬借が中心となった徳政一揆が大和・河内・播磨国などで起こり、さらには伊賀・伊勢・若狭国にも広がった(正長の徳政一揆)。これを興福寺の僧尋尊は『大乗院日記目録』に「一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と書いている。幕府から徳政令は出されなかったが、土倉・酒屋が持っていた借金の証文が破棄されたために、私徳政12が行われたことになった。また、大和では、国内のほぼ全域を荘園化し幕府から実質的な同国の守護とみなされていた興福寺が徳政令を認めたために、公式な拘束力をもったものとして施行されている。

もう一つの一揆は、政治に対する不満を直訴する「国一揆」である。地侍を被官化することで強力な軍事力を持つようになった国人が他の国人と連携して守護に対して軍事的に反抗するものである。正長2年(1429)、播磨国の守護赤松氏の家臣たちの国外追放を求めた日本初の国一揆である「播磨の国一揆」が起こっている。一揆軍は荘園の代官に攻撃を加え、守護の軍兵をはじめ国中の侍をことごとく追い落としたが、播磨の守護代浦上氏らによって鎮圧されている。これ以降、しばしば全国で国一揆が起きている。戦国時代になると、守護大名の支配が衰微した地域では、国人は城持ちの独立領主として存在し、やがて大部分の国人は戦国大名の家臣団に組み込まれていった。その一方、守護大名を凌ぐ勢力を持った三好氏や毛利氏、尼子氏、長宗我部氏、龍造寺氏、田村氏のように戦国大名となった国人も現れてくる。

12、朝廷・幕府などの公権力が出す徳政令に依拠せずに、土一揆などが実力あるいは相手方との交渉によって実施する徳政令と同様の法的効果を持った規定のこと。また、地頭などの徳政令を出す権限のない公権力によって出された徳政令もこれに含まれる。

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次の大規模な一揆は、足利義勝(1434 - 1443)が7代将軍につく前年嘉吉元年(1441)に数万といわれる一揆勢が京都を包囲占領した「嘉吉の徳政一揆」である。8月に近江の馬借が蜂起すると、9月には東寺・北野社を占拠し、丹波口・西八条を封鎖すると清水寺も占拠した。一揆軍は京都と外部との連絡を断った上で、酒屋、土倉、寺院を襲撃している。幕府は、農民に限定した徳政令を発布することで事態を収拾しようとしたが、一揆軍は公家や武家も含む一国平均の徳政令を要求した。さらに、一揆鎮圧を命じた管領・細川持之(幼少であった足利義勝の後見人)が土倉から賄賂一千貫を貰っていたことが分かると守護大名は出兵を拒否してしまう。結局、細川持之は一揆軍の要求を受け入れ、差し押さえられてから20年未満の質物の返還など、山城一国平均での徳政令を発布(嘉吉の徳政令)している。この後、毎年のように徳政一揆が起きるが、質物を返却してしまうと質物の員数を基準に賦課していた土倉からの納入が停止してしまったため、幕府は徳政令を発布しなくなる。しかし一揆によって土倉からの質物が奪われれば納入が停止することには変りはなかったため、債務額の10分の1を幕府に納入することを条件に徳政を認めることにした。ところがこれを納入する者がほとんどいなかったため、康正元年(1455)、債権額・債務額の5分の1銭を幕府に納入すれば債権の確認または債務の破棄を認めた「分一徳政令」が出される。

3、足利義満と北山第

足利義満によって南北朝の戦乱が収まると守護職が世襲化されるようになり、守護自身は京都に滞在して幕政に関わるようになる。代わって「守護代」が領国を治めるようになった。ただし、守護代による統治は安定したものではなく、国人たちが分割統治しており、国人たちは国人一揆を形成し守護代と対峙していた。

応安元年(1368)、11 歳で3代将軍となった足利義満(1358 -1408)は、永和4年(1378)、花の御所(室町殿) 13に入る

と、右近衛大将から左大臣となり、公家としても実権を握る。斯波・細川・畠山を三管領家、山名・一色・赤松・京極を侍所の四家として、公家のような家格を武家にも取り入れ、足利を武家の頂点の家柄として位置付けた。将軍直轄軍の奉公衆や将軍直属の侍所により軍事力を増強させた

上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」。(京都アスニー収蔵)

13、室町家の花亭と今出川家の菊亭を併せた、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西1町・南北2町の場所。京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。

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義満は、徳3年(1392)に「南北朝の合一」を成し遂げ、徳2年(1391)には、全国の6分の 1 の守護職を持っていたことから「六分の一衆」とよばれた山名氏を「徳の乱」により、守護職を但馬国・因幡国・伯耆国のみに削減した。応永元年(1394)、9歳の息子・義持を将軍職にすると室町第も譲り出家する。将軍職を辞し後も太政大臣として実権を握っていた義満は、応永4年〈1397〉鎌倉時代に朝廷と幕府の間を取り持った西園寺公経(1171 - 1244)が造営した山荘北山第14を西園寺家から強引に譲り受けると、上皇の御所様式で造営を始めている。諸守護職に出させた総額米百万石を超える巨費を投じて工事を進め、完成後に後小松天皇を迎え政治の中枢としている。第内には、居館である寝殿をはじめ、護摩堂・懺法堂、天鏡閣・七重塔と、鏡湖池のほとりに全体に漆を塗り金箔をはった三層の楼閣法水院(金閣)を建てた。これは阿弥陀三尊を祀り池に蓮を植えて極楽浄土の景観をうつした阿弥陀堂を基層とし、その上に潮音洞という観音殿、最上階に究竟頂という禅宗様建築を積み上げたものである。

義満は、山名氏に代わって力を付けていた大内義弘(1356 - 1400)を、応永5年(1398)の「応永の乱」で平定し確実に権力基盤を固めていったが、義持の異母弟・足利義嗣(1394 - 1418)を還俗させ後継者のように扱い始めた直後の応永15年 に急死している。すると、足利義持は北山第に住んでいた義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らが北山第に入った。しかし、翌年応永16年(1409)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移っている。応永23年(1416)、七重大塔が落雷で再度焼失すると、義持は北山第にではな

く、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた。その後、北山第は義満の妻・北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419) に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。そして、応永27年(1420)、北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。この北山殿が現在の金閣寺となる。

4、五山文学北山文化

鎌倉末期に日本に導入されたのが、五山・十刹・諸山制度である。もとは南宋の寧宗がインドの5精舎 10 塔所(天竺五精舎)の故事に倣って、径山・霊隠・天童・浄慈・育王の5寺を「五山」として保

鹿苑寺(金閣寺)

天龍寺

14 『増鏡』に林泉の美で名高く、天皇・上皇・女院らが度々遊覧に赴いていたと書かれている。

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護を与えたのが由来とされている。鎌倉時代の正安元年(1299年)に、執権北条貞時が浄智寺を「五山」とするように命じたのが日本で最初と思われる。その後、鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺と京都の建仁寺の4ヶ寺が「五山」に数えられている。後醍醐天皇は建武の新政の際に「五山」を制定している。南禅寺と大徳寺の両寺が五山の筆頭とされ、東福寺と建仁寺が含まれていたが残りの1ヶ寺は分かっていない。暦応4年(1341)、五山の決定を一任された足利尊氏は院宣を出して、自らが建立した天竜寺を五山に加え、第一位に南禅寺(京都)・建長寺(鎌倉)、第二位に天竜寺(京都)・円覚寺(鎌倉)、第三位に寿福寺(鎌倉)・第四位に建仁寺(京都)・第五位に東福寺(京都)・准五山(次席)に浄智寺(鎌倉)を選定した。これ以後、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍が持つことが慣例となる。その後、延文3年(1358年)に2代将軍足利義詮がこれを改訂して浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京都からは万寿寺を加えて計 4寺として京都鎌倉からそれぞれ 5 寺ずつが五山に選ばれた。3代将軍足利義満の時代には、管領細川頼之の要望により臨川寺を五山に加えるが頼之が失脚すると外された。義満が足利将軍家の菩提寺として相国寺を建立すると、至徳3年(1386)に、南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とする代わりに相国寺を「五山」に入れ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割した。両五山はこの格式で固定し現在に至っている。「十刹」に関しては、建武の新政の段階で南禅寺、浄妙寺、豊後国の万寿寺が指定されていたことがらかになっているが、その後は寺院や順位などが変動した。至徳3年(1386)の五山制度の改革にあわせて十刹制度も改革され、「京都十刹」と「関東十刹」が定められた。だが、地方の寺院からの要望が強く、応元年(1490)には 46 ヶ寺、更に後には60ヶ寺まで増加することになった。

吉山明兆蝦蟇仙人図

相国寺

足利幕府は臨済宗との結びつきが深かったことから、臨済宗京都五山の主流となる。義満は臨済僧を幕府の外交・文化顧問と氏し、幕府に隣接した広大壮麗な相国寺を建立し、天龍寺

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と共に五山の第一・第二となっていった。臨済宗は四書中心と形而上学的学風とを特色とした宋学(朱子学)と共に広がり、南北朝末期に義堂周信(1325-1388)らにより普及した。また、中国臨済宗儒教仏教道教は根本の理が一つであるとしていたことで、禅僧の岐陽方秀や大椿周享らも宋学の普及に貢献している。ここから五山文学が生まれることになる。

の詩人を感嘆させるほどの漢詩を作った義堂周信との太祖がその詩才にほれこんだという絶海中津(1334-1405)を双璧とし、四六駢儷文に長じた太白真玄(1357年-1415)「詩は西胤」と評された西胤俊承(1358-1422)の他、惟肖得巌(1360-1437)や心田清幡(1447-1375)などの詩僧が排出されている。彼らは宗教性よりも花鳥風月を好んだことで、杜甫や李白などの詩文が日本でも広く知られるようになる。また、大陸で流行していた水墨画鎌倉末期から禅と共に伝えられ、日本でも可翁・良全・黙庵・龍湫周沢(1308-1388)・玉畹梵芳・鉄舟徳済らが生まれた。南北朝末期から北山時代になると、専門の画僧が生まれた。「溪陰小築図」や東福寺蔵の「五百羅漢図」「蝦蟇仙人図」を描いた吉山明兆(1352-1431)や退蔵院蔵の「瓢鮎図」や、藤田美術館の「柴門新月図」を描いた相国寺派の如拙が知られている。一方で『融通念仏縁起絵巻』の筆者の一

西芳寺庭園

吉山明兆 瓢鮎図

如拙柴門新月図

人である土佐行広らによって、大和絵も復活し多くの絵巻物も描かれるようになっていった。

庭園も、平安時代からの優雅な大和絵風の公家様庭園が主流であったが、夢窓疎石(1275-1351)により西芳寺天龍寺庭園のような水墨画的な禅宗庭園も作られている。

足利義満の死後、義持は北山弟を破却したものの、公家文化に申楽や禅文化を取り入れた文化は継承した。この2代に渡る室町時代時代全盛期の文化を北山文化という。

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また、商工業の発展にともなって、春屋妙葩(1312-1388)らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えた。宋学の影響を受けた、日本最大の叙事詩『太平記』15も生み出されている。

当時、伝統芸としては、平安時代から伝わる田楽申楽(猿楽)があった。

平安時代に書かれた『栄花物語』16には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれていることから、字の通り田植えの時に行われた農耕踊りであったことが分かる。これが、永長元年(1096)の「永長の大田楽」では京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたとあることから、大衆芸と形を変えていった。平安後期になると田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれ、寺社の保護のもとに(田楽)を形成するようになった。鎌倉時代には、田楽に演劇的な要素が加わった田楽となり、執権北条高時が耽溺したと『太平記』に書かれていることからも、上流階級の間に広がっていったが、大和猿楽の興隆とともに衰えていった。

一方の申楽(猿楽)は、唐から伝わった散楽(俗楽)が訛ったのであると考えられている。散楽とは正楽(舞楽・雅楽)ではない舞踊という意味である。正倉院宝物の「墨絵弾弓」に描かれた「散楽図」には、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸が含まれていることから、日本でも同じ意味で使われていたことが分かる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設け保護を図ったが、桓武天皇によって廃止された。このため散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになり、他の芸と融合していった。散楽の中で物真似などの滑稽芸を中心に発展していったので申楽(猿楽)と言われるようになるが、当初は散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸を行っていた。鎌倉時代には現行の翁に相当する芸態の翁申楽が出現した。翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、を組織して公演を催す集団も各地に現れた。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「申楽」となり、公家や

申楽(多賀神社)

15、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までを書く軍記物語。全40巻。

16、平安時代の歴史物語。宇多天皇 887年即位から堀河天皇までの15代約200年間の時代を扱う。完本は40巻からなるが、30巻の異本もある。

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武家の庇護をも得つつ、や狂言に発展していったと言われている。申楽田楽それぞれにと狂言があったが、足利義満申楽に傾倒し、阿弥衆である観阿弥清次(1333-1384)・世阿弥元清(1363-1443) 17親子の後援者となったことで、猿

名張市役所にある観阿弥の像。

楽が優勢となっていった。これが後にとなる。

観阿弥は大和申楽18の一つ結崎の太夫であった。「遊学の道は一切物まねなり」と語っていることから伝統的な申楽を演じていたことが分かる。また「衆人愛敬をもて一建立の寿福とせり」(『花伝書(風姿花伝)』)と、その地域の伝説や説話を重んじ、その中から演目を作り出していった。これに対して、世阿弥は近江申楽田楽の特色である歌舞重視の芸風をとりいれ、せりふを歌謡化し、所作を舞踊化して、写実的表現を抑制して幽思微情のただよう表現を主とするように改めた。「諸道諸事において、幽玄なるをもて上果とせり。殊更、当芸において、幽玄の風体第一とせり。…何の物まねにしなを変へてなりとも、幽玄をば離るべからず」と「幽玄」を重視しているが、ここで言う幽玄とは「ただ美しく柔和なる体、幽玄の本体なり」「幽玄みやびたるふし、かかりは女体の用風より出ず」「人においては女御、更衣又は遊女、好色、美男、草木には花のたぐひ、かやうの数々は、その形、幽玄のものなり」という意味である。一方で「しほれ」の美を高く評価し、はなやかな美しさを否定的に超越した「無文の」を至高のものとしている。表現を極度に抑えた象徴的な表現様式と、簡素枯淡・寡黙寂静の美、無一物の美。将軍家の楽頭として、畿内一円の申楽の棟梁となった。これが「わびさびの世界」へと繋がる。

世阿弥元清

5、くじ引き将軍義教の誕生

義満が死去した翌年、応永 16 年(1409)、4代目鎌倉公方となった足利持氏(1398 - 1439)は、叔父の足利満隆(1389? - 1417)と関東管領上杉禅秀(?-1417)の反乱軍に敗れ駿河に落ち延

17、幼少時は藤若と呼ばれた稚児で、東大寺の尊勝院に所属していたと考えられている。当時の仏教寺院の稚児は女装に近い服装や化粧をしている中性的な存在であり、また仏教僧の男色行為の対象でもあった。12歳で義満の寵童となっている。。

18、興福寺や春日大社などの神事を担っていた、外山、坂戸、円満井、結崎の4。豊臣氏・徳川氏にも重んじられ、外山は宝生、坂戸は金剛、円満井は金春、結崎は観世となり、元和年間に金剛から分かれた喜多流を加えた四一流となった。治維新後は「」の形を失ったが諸流派となって現存している。

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びている(上杉禅秀の乱)。幕府が持氏救援を決めた翌日、4 代将軍足利義持の弟・足利義嗣が京都から失踪した。義嗣は間もなく捕らえられたが、上杉禅秀の乱は、義持を討つために計画された、幕府重鎮や延暦寺興福寺を巻き込んだ大規模な反乱の一部である疑いが浮上してきた。このため、満隆と禅秀は自害に追い込まれ、義嗣も謹慎の後に義持の家臣冨樫満成に殺され、反乱計画に内通の疑いをかけられた守護大名たちも次々と処罰されていった。応永26年(1419)、李氏朝鮮が 227 隻の船に1万7285 人の兵士を率いて対馬に上陸してきた(応永の外寇)。当時、義持がからの使者を追い返すなど日関係が悪化していたためからの侵攻と誤解し、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。これは対馬守護大名宗貞盛(?- 1452)によって退けられている。また後南朝による反乱も起きており、義持は不安定な政局の中で足利将軍の中では最長の28年間将軍に在職している。

応永30年(1423)、17歳で義持から将軍職を継承し5代将軍となった足利義量(1407 - 1425)は2年後の応永 32 年(1425)、19歳で死去している。義持が闇で占ったところ、間もなく実子が生まれるという結果が出たため、次の将軍を指名しないまま、応永35年(1428)、義持が死去してしまう。そこで、醍醐寺の満済の提案により、義持の 4 人の兄弟からくじ引きで将軍が決められた。これにより、青蓮院門跡であった義円が還俗し 6 代将軍足利義教(1394 - 1441)となった。

足利時代、権力者の信頼が失墜する中で、調停を人ではなく神仏に依頼する方法が中央政府から地方自治体に至る各所で行われるようになった。将軍を闇で決めるという闔起請もそのひとつで、複数人の中から一人を選ぶときによく用いられた。足利義教の様な「当たりくじ」の外に「貧乏くじ」もあった。ある君主がかわいがってた犬がにわかに死んでしまったため、毒殺を疑った。犯人を捜したが見つからなかったので、家臣に闇を取らせ一人を切腹させたという話などがそうである。当時、この様に誰か一人に責任を取らせるということが各地で行われている。これを鬮罪人といい、生贄を選ぶ方法として広まっていた。他には、盗みなどの被疑者が犯人であるかどうか、または荘園間・村落間の紛争に正邪を付ける時によく行われた起請に湯起請がある。これは熱湯の中に手を入れて火傷の具合で正邪を神に判断させるとうものである。しかし、人為的な操作も行われたことが、東寺内での落書き審判の記録などから知られている。また窃

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基氏

尊氏

直義

義満

氏満

満兼

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義教

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義持

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政氏

将軍

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鎌倉公方

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古河公方

堀越公方

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盗犯を見つけるために住人全員の湯起請を行おうとしたため大乗院前門主のもとに止めさせるように家臣団からいらいがあり、執行寸前で中止になったという記録もある。湯起請の中には、焼けた鉄棒を握らせるというものもあった。この湯起請を広めたのは足利義教である。

永享10年(1438)、上杉禅秀の乱を制し関東で影響力を強めていた鎌倉公方足利持氏は関東管領上杉憲実(1410? - 1466?)討伐の軍を起した(永享の乱)。上杉憲実から援軍要請を受けた足利義教後花園天皇(1419-1471)から「治罰の綸旨」を受け、鎌倉府軍討伐を命じた。鎌倉府軍は破れ持氏は自害するが、永享 12 年(1440)、持氏の遺臣が鎌倉公方の復活求めて挙兵すると、持氏の遺児安王丸(1431?-1441)と春王丸(1430?-1441)も挙兵し、結城氏朝(1402 - 1441)も同調し幕府軍との合戦となった(結城合戦)。これにより安王丸・春王丸が殺害されるが、鎌倉公方復活を望む声はこの後も関東で続くことになる。同年、大和で有力守護であった一色義貫(1400 -1440) と土岐持頼(? - 1440)が義教により殺害された。足利義教は 12 年間の将軍在職中、公家武家を問わず幕府の方針に背くものは厳しく処罰し、多くの者が籠居・所領没収・配流・誅伐の処分を受けているが、これもその一つであった。翌年嘉吉元年(1441)、有力守護赤松満祐(1381-1441)・教康親子(1423-1441)は自らの邸宅で酒宴を催し、楽の最中に義教を謀殺した(嘉吉の乱)。赤松親子は幕府軍により討ち取られるが、義教によって失脚していた勢力は一斉に復権することになり、政局は一気に不安定なものとなってしまう。8歳で跡を継いだ長男の7代将軍足利義勝は赤痢により2年で病死したため、同じく8歳であった弟の足利義政(1436-1490)が8代将軍になる。義政は多くの女性との間に子供をもうけたが女性ばかりであったことから、弟の僧義尋を還俗させて義視(1439 - 1491)として後継者にしている。ところがその翌年、正室日野富子(1440-1496)との間に男の子が生まれた。

関東では、宝徳元年(1449)、持氏の息子足利成氏(1438/1434 - 1497)が鎌倉公方に、関東管領に上杉憲実の息子憲忠(1433 - 1455)が就いたが、翌宝徳2年(1450)には上杉氏の家宰(家長の補佐役)である長尾景仲(1388-1463)と太田資清 1411 - 1488)が成氏を襲撃している。享徳3年(1454)、成氏は憲忠を呼び出し殺害したが、幕府が上杉方を支援したため、これ以降30年近く戦が続くことになる(「享徳の乱」)。幕府の援軍により上杉方は鎌倉を攻め落としたため、足利成氏は下総国の古河に逃れ、以降「古河公方」と呼ばれた。義政は兄の足利政知(1435-1491)を鎌倉公方として派遣するものの、関東で支持を得られず鎌倉に入ることができず、伊豆国の堀越(現在の伊豆の国市)にとどまったため「堀越公方」とよばれた。上杉方の長尾景仲の孫景春が反乱を起こしたことで、上杉方と足利成氏が和睦し、景春の反乱が終結したことで文14年(1482) ようやく成氏と幕府の和睦が成立した。しかし、関東の諸勢力の対立は収まることなく続いたことから、近年では「享徳の乱」によって関東の戦国時代は始まった」とされている。

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