2024年9月 徳法寺仏教入門講座

日本仏教史26-足利仏教3 応仁・文明の乱-

1、応仁・文明の乱の起因

嘉吉元年(1441) に 6 代将軍足利義教(1394-1441) は粛正されることを恐れた赤松満祐 (1381 - 1441) 1によって暗殺された(嘉吉の乱)。この混乱を収束させたのは、管領細川持之2(1400-1442)と、足利義政によって管領の地位を奪われていた畠山持国(1398-1455)であった。嘉吉2年(1442)、細川持之が死去すると、翌年には 7 代将軍となっていた足利義教の嫡子足利義勝(1434 - 1443)も急逝してしまう。管領に再任されていた畠山持国は自邸で衆議を行い、8 才の義勝の同母弟足利義政を次期将軍に選び、文安 6 年(1449)に正式に将軍職を継承させている。実質的な最高権力者となった畠山持国は、足利義教の強権政治によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大させていった。

将軍家内では、歴代将軍の側近を務めている大館氏の出である足利義政の乳母今参局(お今、1404?-1459)が、烏丸資任(1417 - 1483)3有馬元家(?-1469)4と共に、相国寺瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』に「政は三魔(おいま、からすま、ありま)より出づ」と記されているほどの権力を持っていた。長禄3年(1459)、義政の正室・日野富子(1440-1496)が産んだ子が生まれて間もなく死去すると、反今参局勢力の守護大名や今参局と対立していた足利義政の実母日野重子(1411-1463)らは、この早世を今参局の呪詛によるものと訴えた。今参局琵琶湖の沖ノ島に流罪とされたが、配流の途中、重子らが送ったとされる刺客に襲撃され自害している。

足利義教像妙興寺蔵

日野富子像宝鏡寺蔵

1、赤松は一色・京極・山名と共に幕府侍所所司を勤める四識の一つ。

2管領となれたのは足利一門の細川・斯波・畠山に限られたことから三管領と呼ばれた。

3足利義教の五男であった義政は、母方の一族である資任の屋敷(烏丸殿)で育てられた。義政が将軍となると、資任は将軍の育ての親的存在として側近となり、強い発言力を持った。

4三魔のうち有馬については長らく持家だとされていたが、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されていないこともあり、近年では元家が三魔の1人であると言われている。

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畠山持国には男子がなかったため、弟の畠山持富(? - 1452)を養子に迎えていたが、永享 9年(1437)に義覚(後の畠山義就、1437? - 1491)が生まれたため、文安5年(1448)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。しかし、義夏の母は土用という名の桂女(遊女)で、持国の他に小笠原長将や飛騨江馬氏との間に子をもうけていたことから、持富の廃嫡に納得しない重臣が多かった。享徳 3 年(1454)、畠山の重臣で越中守護代神保氏と河内・紀伊・能登守護代遊佐氏は、宝徳4年(1452)に死去した持富の子畠山政久(弥三郎、1441? -1459)を擁立し反乱を計画したが、これが露見したことで、畠山持国と義就は足利義政の許可を得て神保国宗(畠山政久の叔父)を誅殺した。畠山持国に対抗するために山名宗全(1404-1473)の養女を正室としてた細川勝元(1430-1473)は、山名宗全と共に畠山政久を匿い支援した。強力な後ろ盾を得た畠山政久派は畠山持国の屋敷を襲撃し、畠山持国を隠居に追い込み、義就を伊賀に追放した。畠山持国の庇護を受けていた足利義政は、畠山政久を家督継承者と認める代わりに政久を匿った細川勝元の被官の処刑を命じた。これに山名宗全が不服を申し立てたため、足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により、宗全が但馬国に隠居することで決着する。足利義政山名宗全細川勝元を牽制したことで、逃れていた畠山義就は軍勢を立て直し上洛すると政久を京から追いやり、再び畠山義就が家督継承者となる。

畠山持国の隠居を契機に、足利義政は、足利義満足利義教のような将軍親政を目指す。三管領四職に対抗するために重用したのが側近の伊勢貞親(1417 - 1473)5と臨済僧季瓊真蘂(1401-1469)である。側近に権力を与えることで、守護大名の家督相続に介入し、親将軍派の勢力を拡大させようとした。

山名宗全像 『本朝百将伝』

細川勝元像龍安寺蔵

享徳4年(1455)、畠山持国が死去すると畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は領国内の政久派勢力を一掃するため、義政の上意と称して弾圧を行った。さらに勝元の所領である山城国木津を攻撃したため、細川勝元畠山政久を擁立し義就の追い落としを狙った。そこで畠山義就

5、伊勢氏は足利氏の譜代で、将軍家の財政を管理する政所の執事を世襲していた。

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は、長禄2年(1458)に山名宗全が赦免されると接近していった。長禄3年(1459)、畠山政久も赦免され上洛したがまもなく死去したため、代わって弟の畠山政長(1442 - 1493)が細川勝元と政久派の家臣団に擁立されることになる。寛正元年(1460)、勝手に上意と称したことを理由に、足利義政畠山政長の家督を認め畠山義就を追放した。細川勝元らに義就討伐を命じたが、義就は河內嶽山城に籠もって徹底抗戦し(嶽山城の戦い)寛正4年(1463)まで攻撃を耐え抜き、落城後も紀伊国、次いで吉野へ逃れている。

畠山義就像『続英雄百人一首』

一方、関東では、享徳3年(1455)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏(1438?-1497)を討伐するため、長禄元年(1457)、足利義政は、異母兄の足利政知(1435-1491)を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は鎌倉へ下向できず、長禄2年(1458)、伊豆国堀越に留まった(後の堀越公方)。足利義政斯波義敏(1435-1508)を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治(?-1459)との間で内乱を起こしたため更迭し、息子の斯波義寛(松王丸、1457 - 1513)を斯波氏当主に替えた。さらに寛正2年(1461)、足利義政は斯波氏の家督を善寛から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉 (1445 -?)に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。

畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏、小笠原氏、六角氏でもお家騒動が起こっている。足利義政側近はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫しなかったため守護家分裂の火種となる。この一貫性のない対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。

寛正4年(1463)、義政の母日野重子が没すると大赦が行われ、畠山義就斯波義敏ら多数の者が赦免された。但馬国に隠居を強いられていた山名宗全は、赦免された畠山義就や家督を奪われた斯波義廉に接近し、伊予国や安芸国で細川勝元と対立していた西国の守護大名大內政弘(1446-1495)とも提携することで反勢力の中核となっていった。

子供がいなかった足利義政は寛正5年(1464)、異母弟の義尋を還俗させ足利義視(1439 - 1491)とすると、細川勝元を後見人、日野富子の妹日野良子を妻としている。ところが、寛正 6年(1465)、義政と富子との間に足利義尚(後に義熙と改名、1465 - 1489)が誕生したため、義視は義尚までの中継ぎとして扱われることになる。義尚の後見人は伊勢貞親であったため、これと敵対していた山名宗全は、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られることから、細川・山名の両氏は友好関係であったことが分かっている。従来、勝元と宗全の対立が応仁の乱の原因

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とされていたのは『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるが、これは後の捜索であるという見解が主流となっている。

2、文正の政変

文正元年(1466)、足利義政は側近の伊勢貞親季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家の家督を斯波義廉から取り上げ、越前・尾張・遠江守護職と共に斯波義敏に与えている。斯波義廉がこれに抵抗したため討伐を命じたが、細川勝元は敵対していた大内政弘を幕府が赦免したことに不満を持ちこれを拒否、山名宗全は婚姻関係にあった斯波義廉に加勢することを表明した。幕府と細川・山名両氏が対立する中、両氏が領国から軍勢を呼び寄せたことで京都は緊張状態に入った。さらに、吉野にいた畠山義就が軍勢を率いて上洛する動きまで見せていた。窮地に追い込まれた側近衆は、義政に細川・山名と提携していた足利義視に謀反の罪を着せて誅殺することを訴えた。義政は一旦これを認めたが、義視は勝元と宗全に助けを求め無実を訴えた。翌日、山名・細川をはじめとする諸大名の抗議により、足利義政伊勢貞親に切腹を命じたが、貞親は逃亡し、季瓊真蘂斯波義敏、赤松政則(1455-1496)6ら側近たちも失脚して都を追われた。結果、斯波家の家督は斯波義廉に戻され、側近を失った足利義政の影響力は著しく低下することになった。

同年暮、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った。翌文正2年(1467)1月、足利義政は政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた。これに対して細川勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、細川勝元の夫人(宗全の娘)が事前に山名宗全に情報を漏らしたため、畠山義就山名宗全斯波義廉と共に先手を打って室町第を占拠しこれを防いだ。そこで畠山政長は自邸に火を放つと上御霊神社に陣を敷き抗戦の構えを見せた。これに対して畠山義就は、将軍と天皇・上皇と共に

「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)

6嘉吉の乱により、赤松氏は断絶、所領は山名氏が摂取した。赤松家の旧臣は浪人となり重臣には討伐の対象とされた者もあった。主家再興を悲願としていた旧臣の一人、上月満吉は康正2年(1456)、吉野に入ると、後南朝に奪われた神璽奪還のための情報収集を行った。これは「御屋形様(政則)」と「勅諚」「上意」との約束であったという(『上月文書』)。一年に及ぶ調査の末、所在を突き止めた上月は、長禄元年(1457)赤松家旧臣らと共に奥吉野に入り、南朝後胤とされる一の宮と二の宮を殺害し神璽を奪還した。長禄2年(1458)神璽は京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められることになった(長禄の変)。幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に赤松家を再興することで山名氏を牽制する狙いがあったとされている。実際、赤松家再興と所領の付与に細川勝元が積極的に関与していることも確認されている(『蔭涼軒日録』)。赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられたが、代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されている。文正の政変により政則も失脚したが、勝元の支援を受けることで政界に復帰している。

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室町第に立て籠ったが、畠山政長細川勝元・京極持清(細川勝元の叔父、1407 - 1470)の兵と共にこれを御所巻にした。争いを収めようとした足利義政は、これは畠山氏の私闘であるから他の勢力が関与することを禁じた。しかし、山名宗全後花園上皇から畠山政長討伐の院宣を取り付けていたためこれに取り合わず、山名政豊(宗全の孫、1441-1499?)·斯波義廉·朝倉孝景(斯波氏宿老、1428 - 1481)らと共に義就に加勢し御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦上御霊神社の戦い)。細川勝元や京極持清は参戦できなかったため、戦いは夕刻には決着し、政長は社に火をかけて自害を装い逃走し勝元邸に匿われた。これにより、細川勝元は賊軍となる。

義政が諸大名に調停を行ったことで一旦は戦闘が収まったが、後に引けなくなった細川勝元は軍勢催促状などを自派の大名や国人に送り、全国から兵を京都へ集結させていった。3月5日改元され応仁元年(1467)となると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪し始め、宇治や淀など各地の橋を焼き戦闘の準備を進めた。これに対して山名宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が 16 万、西軍が 11 万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢(若狭・丹後守護、1420 - - 1471)に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏、さらに親子関係のこじれから山名宗全の次男山名是豊(備後・安芸・山城守護)、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直(丹後国・伊勢半国守)・土岐成頼(美濃国守護、1442-1497)・大内政弘であった。

3、応仁・文明の乱

応仁元年(1467年)5月、東軍の赤松政則が山名分国の播磨国へ、武田信賢・細川 成之(1434-1511)らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵入、美濃土岐氏一門の世保政康も一色氏の伊勢国へ攻撃を始めた。京都でも東軍の成身院光宣(興福寺衆徒、1390 - 1470)が正実坊を、武田信賢が実相院を占拠し、細川成之の軍と合流して室町第の隣にあった一色邸を焼き払った。細川勝元は戦火から保護するという名目

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で室町第に立て籠ったが、畠山政長細川勝元・京極持清(細川勝元の叔父、1407 - 1470)の兵と共にこれを御所巻にした。争いを収めようとした足利義政は、これは畠山氏の私闘であるから他の勢力が関与することを禁じた。しかし、山名宗全後花園上皇から畠山政長討伐の院宣を取り付けていたためこれに取り合わず、山名政豊(宗全の孫、1441-1499?)·斯波義廉·朝倉孝景(斯波氏宿老、1428 - 1481)らと共に義就に加勢し御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦上御霊神社の戦い)。細川勝元や京極持清は参戦できなかったため、戦いは夕刻には決着し、政長は社に火をかけて自害を装い逃走し勝元邸に匿われた。これにより、細川勝元は賊軍となる。

洛北の合戦

将軍義政は両軍に和睦を命じ乱の収束を図ったが、勝元の要請を断り切れず、東軍の総大将に足利義視が推戴され将軍旗(牙旗)が下され、山名宗全に対しての「治罰の綸旨」(朝敵討伐の命令書)が出されたことで、戦乱は拡大していった。東軍は将軍義政の降伏勧告を受けて自邸に引きこもった斯波義廉邸を攻撃したため京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼(近江国守護、? - 1520)・土岐成頼は一旦降伏の意向を示したが、朝倉孝景の首級を条件とされたため断念した(上京の戦い)。

劣勢となった西軍に大和国の古市胤栄(興福寺衆徒、1439 - 1505)・紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始め、更に周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘を率いて入京してきた。後花園上皇後土御門天皇が室町弟に避難する中、総大将の足利義視は出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡してしまう。西軍は内裏・上宮御所に陣を構え室町弟と細川勝元邸を取り巻いた。東軍の加勢が京に着くと東岩倉山の南禅寺山に陣を布いた。これに西軍が攻撃をかけ南禅寺上生院が炎上した(東岩倉の合戦)。さらに西軍畠山義就・朝倉孝景は相国寺に陣を構えていた武田信賢を攻め相国寺を焼き討ちにしている。相国寺は三日間も燃え続けたという(相国寺の合戦)。劣勢に立った東軍は、後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発し、正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定している。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。西軍も興福寺と東大寺に対し て領地を寄進するので味方してほしいと催促している。応仁 2 年(1468)には、稲荷社に陣を張っていた細川方の骨皮道賢が討死し稲荷社が全焼した。この後も両軍ともに京都に加勢が到着するも、膠着状態になり、戦闘は山科・鳥羽・嵯峨と郊外に移っていった。

伊勢国に滞在していた足利義視細川勝元足利義政に説得されて東軍に帰陣したが、義政は文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、義視と親しい有馬元家を殺害するなど義尚擁立に動き出した。勝元も義視に出家をすすめたため、義視は再度出奔して比叡山に登った。

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京周辺の交戦域

京周辺の交戦域を示す地図

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比叡山に逃れた義視を西軍は将軍として迎えたことで、幕府は二つに分裂する形となった。西軍の幕府を西幕府と呼ぶ。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。一方の東幕府は日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。

大内政弘によって京都近郊も西軍によって制圧されていったことで、戦場は摂津・丹波・山城へと移っていった。このため東軍は文明元年(1469)には九州の大友親繁(豊後・筑後守護、1411 - 1493)・少弐政資(1441- 1497)が大内政弘の叔父教幸(? - 1472)を擁して留守中の大内領に侵攻し、文明2年(1470) には教幸自身が反乱を起こしたが、留守居の陶弘護(周防守護代、1455-1482)に撃退されたため、大内政弘は京都から軍を引くことなく山城の大半を西軍の制圧下とした。

東西両軍の戦いは膠着状態に陥いったものの、文明 2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかしかなかった。さらに盗賊による放火が繰り返されことで京都は京としての価値が無くなってしまっていた。さらに全国に戦乱が拡大していったことで諸大名は自国内での戦闘を優先し、京都での戦に参加する意欲を失っていった。しかし、寺社、公家、武家屋敷があった上京が焼け、商工業者が居住していた下京が焼け残ったことは、その後の京都の商業勃興をもたらすことになる。

文明3年(1471)、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政から越前国守護職を斯波氏にかわって補任されることを条件に東軍側に寝返った。これが日本初の下剋上とされる。西軍の主力の移籍により、東軍は一気に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開させている。一方の西軍は古河公方との連携を図りながら、後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とし、賊軍の立場を解消しようとした(西陣南帝)。しかし、同年、東軍が古河城を陥落させたことで西軍の不利は明確になっていった。

文明4年(1472)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていたためである。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗している。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる細川政元(聡明丸、1466-1507)を擁立し剃髪し、5月には宗全も家督を嫡孫政豊(1441-1499?)に譲り隠居している。

文明5年(1473)、細川勝元山名宗全が相次いで死去しているが、東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる本願寺一揆が参戦し専修寺と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い翌年にこれを破るなど、各地では戦乱が続いていた。

文明6年(1474)には義政が義尚に将軍職を譲り小河に建設した新邸に隠居した。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、富子の兄日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行したことで、富子が実質的な最高権力者となった。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評してい

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る。山名政豊と細川政元の間に和睦が成立し、山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍畠山義就大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けた。和睦の流れに傾く中、赤松政則は和睦に反対し続 けていた。一方の西軍でも土岐成頼の重臣斎藤妙椿(1411 - 1480)も和睦に反対し、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢・越前に出兵し、西軍斯波義廉の重臣甲斐敏光と共に東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。

文明7年(1475)、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された。西幕府管領斯波義廉も守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し消息を絶っている。文明8年(1476)、足利義政西軍大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、足利義視足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答したことで和睦の流れが加速した。しかし一方で、関東管領上杉顕定の後見人の越後守護上杉房定(実父)が西軍の能登守護畠山義統とともに東軍畠山政長が領する越中を攻撃している。

元々この乱は畠山政長畠山義就の家督相続争いであったが、この問題が解決しないまま両軍は和睦に向っていった。和睦により京都で孤立することを恐れた畠山義就は、文明9年(1477)、京都の陣引き払い河内国へ向かった。その後まもなく大内政弘東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の 4 か国の守護職を安堵されている。大内軍が京から撤収すると、畠山義統(能登守護、? - 1497)や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した。足利義視・足利義材(後の 10 代将軍、後に義手・義積と改名、1466-1523)親子も土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。こうして西軍は解体され、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され、11年に及ぶ京都を舞台にした大乱は、主だった将が戦死することも戦後罪に問われる守護もないまま幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」とされているものの、その後の消息は不明。

西軍が消滅した後も畠山義就は、政長の重臣遊佐長直(? - 1493)が守る若江城から摂津に攻め込んだ。管領であった畠山政長は討伐軍を差し向けたが返り討ちにあい、畠山義就は大和まで支配下に置いた。文明 14 年(1482)、細川政元と畠山政長の連合軍が畠山義就討伐の軍を起したが、畠山義就は細川政元との単独和睦に成功し、政長を打ち破り河内の支配を確立させた。文明 15年(1483)、義就は政長が守護を務めていた山城国にも侵攻し、宇治以南の南山城を占拠したため、政長はこれ以上の侵攻を食い止めるため宇治橋を落としている。将軍義尚や富子は義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された。文明 16年(1484)には政長の守護職を解き、幕府の直轄(御料国)としたが、戦乱はなおも続いた。文明 17 年(1485)、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし山城国の国人が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した。以降、国人たちは山城国一揆を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる。一方で義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年(1486)に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここにようやく完了したが、畠山の内紛はまだ決着しなかった。。

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4、応仁・文明の乱の影響

応仁の乱により、全国各地で守護家に迫る勢力を有する国人が台頭してきた。東西両軍はこれら国人を味方につけるため家格を無視した叙任を行った。西軍では大和の国人であった越智家栄(1432 - 1500?)が大和守護に、東軍では朝倉孝景が越前守護に任命されている。

それまで在京が原則であった守護大名は、自らの領国を守るため下国し守護代に任せていた領国経営を自ら行うようになった。これにより一部の守護大名は幕府の統制を離れ領主化し戦国大名となっていったが、多くの守護は守護代や家臣に権力を奪われ没落していった。この従来の家格秩序を破る風潮は下克上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。

守護在京制の崩壊により、文明18年(1486)には京都に残る守護が摂津・丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は、将軍近臣の奉公衆や奉行衆によ る運営を余儀なくされ、その影響力は畿内に限定されることになる。その一方で、幕府が西軍方に占拠されていた時に始まった、細川京兆家当主が本来管領の権限である幕府の軍事的権限の行使は存続することになる。

領主化を推進する守護や国人によって公家や寺社の荘園・国衙領支配崩壊は加速した。収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。甘露寺親長は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明 5年には顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。前関白一条教房(1423 - 1480)「のように京都を去る公家や、町広光(1444 - 1504)のように家を意図的に断絶させる公家、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる者までいた。朝廷収入も激減し、即位礼や大喪の礼などの儀式を行うことも困難となったため戦国期には献金による売官が行われるようになった。これにより、京都文化が地方に伝播することになる。

応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは、正規の武士身分ではない足軽の活躍である。足軽は平安時代から存在し『平家物語』にも登場している。「足白」「足弱」「疾速」とも呼ばれ、鎧兜を着用しない軽装で戦場に挑んでいた。主な仕事は放火や略奪などを行うことで後方を錯乱させることであり、地侍や農民などで組織された野伏の系譜を引くとされている。当然正規の部隊では なく傭兵的な存在であった。応仁の乱で兵力不足に陥った両軍は、兵站や土木作業にも従事していた足軽を戦力に加えていった。しかし、足軽は盗賊などの無法者を多く含んでいたことから、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため一条兼良『樵談治要』において「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」「ひる強盗」と非難している。東寺などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用していたが、東寺では禁止令まででている。次第に後方支援から主戦力となっていった足軽は、公家や侍にはタブーとされていた馬への攻撃や、集団戦に適した槍を主力武器としたことにより、従来とは戦闘の在り方も変わってきた。戦国時代になると、これに足軽鉄砲部隊が加わることになる。

7土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向したため、京都の文化が移入され、中村繁栄の基礎を築かれた。

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中昔京師地圖

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新撰増補京大絵図

新撰増補京大絵図

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