2025年3月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史27-足利仏教4 東山文化-
1、応仁・文明の乱による社会の変化
応仁・文明の乱は、鎌倉時代末期から起こっていた秩序の崩壊を加速させ、価値観を大きく変化させることになった。
畿内の一部の農村で形成されていた惣村(そうそん)が全国に広がるようになる。惣村とは、地域の中に入り混じっていた荘園領主の土地を、領主同士が交換するなどして、一つの地域を同じ領主の土地にまとめることで、年貢の取り立てをしやすくしたものである。惣村ごとに年貢を集めることが、結果、その地域の自治に繋がることになった。惣村には名主(みょうしゅ)・百姓・名子(なご)・下人(げにん)という階層があり、名主は領主から名田(みょうでん)を預かり年貢を納める、惣村の指導的な役割を担っていた。貨幣経済の発展と換金作物の普及により、下人から名子、名子から百姓、百姓から名主へと階層を上がる者が増え、複数の名主たちによる寄合によって惣村を運営していった。惣村同士が協力することで、経済的に豊かな惣村が増えることになった。幕府は明から大量の美術品を輸入するために、輸出用に大量生産させた数打(束刀)といわれる安価な刀を作ることを奨励していたが、農民たちの間にもこの刀が広まり、惣村が武装するようになった。
京都では、多くの寺院や公家・武家の屋敷が戦渦により焼失した跡に商人や職人が移り住み、新しい町ができていった。町衆と呼ばれる彼らは、公家や武家、農民とは異なる新たな階層を作り上げた。上層の町衆は、素襖(すおう)と袴を礼服として着用したが、これは中・下級の武家の礼服と同じであることから身分の垣根が低くなっていった。町衆の女房は、本来下着であった小袖を重ね着し、打掛を羽織り、暑い季節には打掛を腰脚部に巻いて街を歩いた。様々なデザインの小袖や打掛が出回り、女房達は着飾ることを楽しむようになる。足利時代末期には、打掛を外して小袖が表着となり、これが着物となっていく。
風呂に入る習慣も広がり間に広がっていった。当時の風呂は蒸し風呂で、上がった後で湯女に頭を洗ってもらった。風呂屋の中には、湯女が売春を行う店も現れてくる。
このように、公家や武家の間にしかなかった贅沢が庶民の間にも広がり、多くの人が文化的な生活を楽しむようになる。
2、東山文化
東山文化とは足利義政(1436-1490)が文安6年(1449)に征夷大将軍となってから死去までの約半世紀の間に起こった文化を指す。義政が将軍職に就いていた間、嘉吉3年(1443)には南朝の残党による禁闕の変が、翌文安元年(1444)には京の酒屋・土蔵衆による一揆が、長禄年間には暴風雨と旱魃と洪水が相次ぎ悪疫までもが流行したことで未曾有の大飢饉に見舞われるなど、社会は混乱を極めていた。後花園天皇はこの時の京都の様子を「残民争い採る首陽の蕨、処々炉を閉じ竹扉を鎖す。詩興吟は酸なり春二月、満城の紅緑誰の為にか肥ゆる(残民争採首陽薇処々閉序鎖竹扉詩興吟酸春二月満城紅緑為誰肥)」という詩にして義政に送っている。京都では盗みが横行し、全国の守護大名は勢力争いを繰り返していた。このような状況の中で起こったのが応仁・文明の乱である。
応仁・文明の乱の最中に生まれたのが東山文化であった。将軍でありながら、有力守護に実権を握られていた義政は、飢饉と疫病により人口の3分の2が餓死したといわれる寛正3年(1462)、母日野重子(1411-1463)のために高倉御所(三条坊門殿)の普請を始めている。庭師の河原善阿弥(1386?-1482?)に西芳寺庭園を模して作らせ、座敷には小栗宗湛(おぐり そうたん)の障子絵を描かせた贅を尽くしたものでった。
文明5年(1473)、義政は、長子・義尚(よしひさ)に将軍職を譲ると、文明14年(1482)、応仁・文明の乱で焼失していた浄土寺の跡地を、隠居所である東山山荘とし、その造営に入る。応仁・文明の乱が文明9年(1477)に終結した間もなかったが、各地の守護大名に費用の負担を命じ、庶民にも段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して工事が進められた。工事開始の翌年である文明15年(1483)には、完成を待たず移り住んでいる。東山山荘には会所(かいしょ)、常御所(つねのごしょ)、釣秋亭、竜背橋(りゅうはいきょう)、泉殿(いずみどの)、西指庵、漱蘚亭(そうせんてい)、超然亭(ちょうねんてい)、観音殿(今の銀閣)、東求堂(とうぐどう)などの大規模な建物が建ち並んだというが、現存する当時の建物は観音殿と東求堂のみである。
東求堂の前の庭は、池に白蓮を植えた極楽浄土を模した浄土庭園であったが、これは阿弥衆の影響であったと思われる。ただし現存する当時の建物は観音殿と東求堂のみである。
観音殿が完成したのは義政没年の前年であったため、銀を塗る計画は実現しなかったとされる。延徳2年(1490)、死去した義政の菩提を弔うため、東山山荘は相国寺の末寺として義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年には「慈照寺」に改められた。なお、造営がすべて完了したのは義政の死去後である。
義政はもっぱら東求堂に籠っていたため、ここが東山文化の拠点となった。東山文化の担い手の中心となったのが、将軍に近侍していた同朋衆といわれた僧侶たちである。特に阿弥衆と呼ばれる時衆の僧侶が多かった。鎌倉末期頃から、戦に時衆僧が伴い死者の供養や治療などを行うようになっていたが、次第に諸芸の奉仕や雑役も務めるようになっていた。出家した者は身分を失うことから、卑賤の生まれであっても高貴な身分の者に仕えることができたのである。元々、医療や芸妓に通じたものは賤民階級に多かったが、この階層の救済にあたった一遍の影響で、その多くの者が時衆となっていた。
中でも木々や石の配置に特異な才を発揮した善阿弥は、病床に着いた時に義政から懇ろな見舞いがなされているほどの寵愛を受けていた。『唐物の善悪、上中下の品の目利きをする奉行』(『条々聞書』)である唐物奉行となったのが、能・芸・相の三阿弥である。彼らは単に目利きをするだけではなく、絵画や道具の保存に必要な技能も持ち合わせていたため道具管理などの身の回りの諸雑事の世話も行った。さらに、それら唐物道具を用いた茶礼を確立するようになる。
同朋衆以外でも、寛正2年(1461)、応仁・文明の乱で鴨川に8万人以上の死屍が横たわった時に、義政は願阿弥を勧進聖に起用し、洛中から集めた浄財で施粥を行い遺骸の埋葬を行わせるなど、阿弥衆とつながりが深かったことが分かっている。
3、猿楽から能へ
猿楽は、義満の時代に観阿弥・世阿弥親子によって芸術の域に達したが、足利義教は幽玄の美を求めた世阿弥を佐渡流罪としてしまう。代わって華麗さを強調した世阿弥の甥である音阿弥が重用された。義教の死去後も義政の庇護を受け音阿弥の猿楽能は武家社会に浸透していった。世阿弥の幽玄な芸風を継承したのは女婿の金春禅竹(こんぱる ちくぜん。1405-1470?)はであった。金春禅竹は、それまで民衆の演劇であった能を洗練し、貴族文化的なものに変革させている。
一方で、庶民の娯楽としては、やはり時衆であると言われる出雲阿国などにより歌舞伎が生まれることになる。
4、茶道
宋では、一つの遊戯として茶がよく用いられた。蔡襄(さいじょう)の『茶録』には、茶を点てて茶碗に水の跡が先に付いた方が負けで長く水の跡が付かないのを勝ちとしたという遊戯が書かれている。この他に、茶の良し悪しを争う茶比べや、茶の味と香りを競う闘茶、茶を点てた時の湯の色の白さを競う白茶などがあった。日本では、鎌倉時代最末期に後醍醐天皇の無礼講で闘茶が行われた記録がある。光厳天皇も廷臣たちと「飲茶勝負」を行ったことが記されている。闘茶に金品などの賭け事が絡んできたことから『建武式目』には茶寄合(闘茶)禁止令が出されているほどである。しかし、禁止されて以降も足利時代初期の頃まで闘茶は盛んに行われていた。当初は本茶と非茶を二者択一で選択する単純なものであったが、宇治の茶の質が向上して栂尾茶と並んで本茶として扱われるようになると次第に複雑化していった。その最たるものが四種十服茶である。これは、種茶と呼ばれる3種類と客茶と呼ばれる1種類の計4種類を用いるもので、まず種茶を点てた3つに「一ノ茶」「二ノ茶」「三ノ茶」と命名して、参加者にそれぞれ試飲させて味と香りを確認させる。次に種茶3種類からそれぞれ3つの袋、試飲に出さなかった客茶1種類から1つの袋の合計10袋の茶袋を作り、そこから点てた10服分の茶を順不同に参加者に提供してこれを飲ませる。参加者は10服の茶が最初に試飲した「一ノ茶」「二ノ茶」「三ノ茶」のうちのどれと同じものか、はたまた客茶であるかを回答し、その正解が最も多いものが勝者となるというものである。これ以外にも闘茶の方法として「二種四服茶」「四季茶」「釣茶」「六色茶」「系図茶」「源氏茶」などがあった。
庶民の間でも茶は日常の嗜好品となっていった。足利時代末期の京都を描いた「洛中洛外図」や「七十一番職人歌合」には、路上でお茶を飲ませている行商人や小屋台で茶を入れる茶店が描かれているが、いずれも立ち飲みであった。このお茶は抹茶で、その場で茶を点てて一服を一銭で売っていたことから「一服一銭」と言われていた。茶自体に含まれているカフェインに軽い興奮作用があるということと、平安時代に書かれた医学書に、茶は延命長寿の薬であると書かれていたことから、現代でいう健康ドリンク的な扱いであったと思われる。庶民向けの茶筅(ちゃせん)を竹に付け、腰にヒョウタンを下げた鉢たたきと言われる行商人の絵も残っている。彼らは金鉢や瓢箪をたたいて空也流の念仏者で、自ら茶筅を作って売り歩いていた。
最初に記録があるのは、享徳4年(1455)、祇園社の犀鉾神人が自宅前の川の上に「茶屋」を設営したというものであるが、文明12年(1480)には西院地蔵の周辺に茶屋が十軒、二十軒と軒を連ねていたというから、寺社の参詣人を目当てに中に入って茶を飲む「茶屋」が急速に広まっていった。この中には「茶屋」の給仕に遊女を置く店も現れ始める。徳川時代になると「茶屋街」は「遊郭」と同意語になっていく。
この時代、抹茶以外にも煎茶も売られてたが、これは笠をかぶって覆面をした煎じ物売りが、漢方薬と共に茶を煎じて売っていたもので、より薬としての色合いが濃いものであった、
このような庶民の嗜好品としての茶に対して、東求堂の北東に位置する四畳半の茶室同仁斎で能阿弥(1397-1471)や相阿弥(?-1525)によって行われた書院茶礼は美学を追求するものであった。この書院造りの部屋に禅宗寺院の特徴である床の間を配置し、床には唐絵を掛け、同じく唐物の天目茶碗や茶入れ、水差しなどの茶の道具類を飾った。それらを賞翫しつつ礼式に則って茶をいただくというものである。これが美を味わうための作法という、日本独自の文化となる。これによって、闘茶は享楽的な娯楽・賭博であると見なされるようになり衰退していった。それでも、闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続けていった。また侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直され、茶道の一部として取り入れられている。群馬県中之条町には「白久保のお茶講」として闘茶の習俗が残っており、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
大和の淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)は律宗によって広まった入浴の後で茶を喫する庶民の娯楽であったが、奈良称名寺の僧・村田珠光(じゅこう。1422?-1502))は、これに東山山荘の書院茶礼を取り入れた新しい茶道を生み出している。元々淋汗茶湯を愛好していた珠光は応仁の乱で奈良に逃れてきた能阿弥と出会い書院茶礼を学んだ。さらに、大徳寺住持であった一休宗純の下で禅を学び、不完全なものこそ美しいことを知り、書院の名器と民家風の草庵を融合した侘茶を生み出した。これが戦国時代の武野紹鴎(じょうおう。1502-1555)や千利休(1522-1591)へと繋がり「わびさび」の美学へと発展していく。
茶会で行われた蓮歌も茶礼の法式化に伴い洗練されて行き、文学として木阿弥・量阿弥などがその高い技量を示していった。
5、立花から花道へ
書院造りの床の間に飾った青磁に活ける立花を大成したのが立阿弥である。元は茶会と共に営まれた花の宴が、茶室の床の間に花を添えることになり、青磁の器に美しい花を飾るようになった。同時期の文阿弥(? - 1517)も同朋衆として仕え、感情を顕著に表現した生け花を作成した。
足利中期には、これら阿弥衆の阿弥派の外に、池坊と谷川流が生まれている。谷川流は、茶の湯名物を多く所持していた斯波家で花会の指導をしていた谷川入道の流れ汲むもので、山科家の大沢久守(1430-1498)が伝書一巻を相伝されている。池坊専慶は六角堂頂法寺執行(事務を取り仕切る僧職)であったが、その立花が評判となり広がっていった。大永年間(1521-1528)になると、池坊専応(1482-1543)によって自然の草木の出生を再現するという今の花道の理念を大成し、花道の主流となっていった。
6、水墨から新たな絵画へ
北山文化の頃は、水墨画(唐絵)は漢詩と共に書かれることが多く禅僧によって描かれていたが、在家画師の小栗宗湛が幕府の御用画師となって以降、禅宗の背景を持たない画師が認められるようになる。これが、狩野派の祖となる狩野正信(1434?-1530?)が東山山荘の造営にあたり義政に用いられる道を開くことになった。
応仁の乱以降、守護大名が京都を離れ自国に住むようになると、京都の文化は全国に広がていった。応仁・文明の乱の主役の一人であった大内氏の本拠地である周防(すおう)国の山口にも優れた禅僧たちも移り住んでいた。このような環境の中から誕生したのが雪舟(1420-1506?)である。応仁・文明の乱の始まった年に、大内氏の船で明に渡り3年の修行を経て48歳で帰国すると、大内氏の下で山水画・人物画・仏画など多くの作品を描いている。紙を20枚貼り継いだ90×170センチの大作「天橋立図」や春夏秋冬の風景を16メートルの巻物に描いた「山水長巻」代表作ともいえる「慧可断臂図」などの作品は、中国風の山水画から、雪舟風という日本独自の画風を作り出すことになった。また曾我蛇足も大徳寺真珠庵に「山水花鳥襖絵」という名作を残している。この二人とも一休宗純の周りに集まった禅の改革者であった。
応仁・文明の乱によってほとんどの禅寺が灰燼に帰したことで、戦後の復興により、水墨画の需要が大きくなった。これに応えたのが、狩野正信の子、元信(1476-1559)であった。襖絵や屏風絵から扇絵までを制作する工房を造ると、唐絵(水墨画)から大和絵までの画風を狩野派風に作り上げ、どの弟子でも描けるような画風に仕上げた。これにより、より多くの需要にこたえることができるようになった。その子永徳(1543-90)は、安土城・大阪城・聚楽第などの襖絵だけで数百枚という受注に応えている。その力強い筆で描く画風は「大画」と呼ばれている。京都や大阪・滋賀に大きな仕事が集中すると、全国から画師が畿内に集まってきた。能登出身の「松林図屏風」を描いた長谷川等伯(1539-1610)、常陸の佐竹氏出身の「蝦蟇鉄拐図」を描いた雪村((1492?-1589頃)などが知られている。
